<15-3B>「根こそぎ」と「根下ろし」(2)

<15-3B> 「根こそぎ」と「根下ろし」(2)

(「根下ろし」に気づかない)
 前項で述べたように、私はサバイバーの抱える問題を二種に分けています。あるいは彼らは二段階で問題を抱えてしまうと考えています。一つは過去の「根こそぎ」にされたという経験にまつわる問題であり、もう一つは暴力のない平穏な生活に「根を下ろす」ことの失敗にまつわる問題であります。
 クライアントたちはこれを一つの問題であるとみなしていることもあります。あるいは一連の問題であるとみなしているのです。私はそれは部分的には正しい認識であるとは思うのですが、一緒くたにしてしまうと却って整理がつかなくなるように思うのです。敢えて分けてみて、それぞれを見ていく方がより整理されていくように私には感じられています。
 7人の対象クライアント全員にこの話をしたわけではないのですが、この二段階を理解してくれた人もありました。クライアントCやクライアントGは、最初は理解できなかったのですが、平穏な生活に根を下ろすことの失敗という観念を徐々に理解してくれました。これを理解してくれたことで、彼らは自分たちが何を目指せばよいのかがより明確になってきたと感じたようでありました。
 クライアントAやクライアントBには、これはまったく理解できないことであったようでした。彼女たちの言うところを要約すると、こういうことになると思います。根下ろしの失敗とは、新たな「根こそぎ」の経験によるものであって、従って問題は一つであり、「根こそぎ」の問題だけが存在している、ということになるようであります。確かに、彼女たちの言い分には正しい面を含んでいると私は思います。
 いずれにしても、サバイバーたちは現在の「根下ろし」の失敗をあまり認識していないのであります。過去の虐待問題が意識の前面に上がっていて、現在の問題というものが見えなくなっているのかもしれませんし、過去の問題がそれだけ大きな問題として再認識されているのかもしれません。そこで彼らは過去の問題に取り組みたがるのです。「根下ろしの失敗」という現在の問題を認識していないので、現在の状況に取り組めないのだと私は思うのです。

(「治療」の順序)
 これまで述べてきたような二種の問題をサバイバーたちは抱えている、取り敢えず、ここではそのように仮定しましょう。
 私が最初に考えること、あるいは取り組むことは、サバイバーの現在の「根下ろし」をサポートすることであります。この根下ろしを先に達成しなければならないと、そのように考えています。現在の「根下ろし」がある程度十分達成できてから、過去の「根こそぎ」問題に取り組むほうが良いと考えています。
 ところが、サバイバーたちは逆の手順を踏みたがるのです。いきなり過去の「根こそぎ」問題を掘り返そうとなさるのです。彼らはそれをしなければならないと感じているのかもしれませんが、私は言わばその作業に「待った」をかける立場になるのです。サバイバーたちはここで私とのズレを経験するようです。「ズレ」ならまだしも、私のこの制止を「暴力」と解釈してしまうこともあるように私は感じております。
 彼らが最優先に取り組みたいことに対して、私はそれを後回しにしようとしているわけなので、彼らからすると「分からず屋」のカウンセラーと映ることもあるでしょうし、望んでいるものをさせてくれないということで「暴力者」として映ることもあるでしょう。
 しかし、どんな問題でもそうなのですが、現在のその人が安定し、現在の自我がしっかりしてから、過去の辛い経験に向き合わなければならないのです。現在のその人がすでに不安定である状態で、さらに安定を脅かすような過去経験に向き合うことは、その人の安定をさらに奪うことになってしまう、要するにもっと不安定にさせてしまうのです。
 サバイバーたちへの「治療」とは、何よりも「根下ろし」の完遂であります。平穏で、暴力や虐待のない生活に安住できるようになることであります。そして、ここは他のカウンセラーさんたちと私と意見を異にするところであるかもしれませんが、サバイバーがそれを達成できれば、無暗に過去の虐待経験をほじくり返さなくても良いと私は考えています。向き合うことは素晴らしいことであるかもしれませんが、現在の生活がある程度成り立っていれば、無理に向き合うことはないと私は考えています。

(心的な関係)
 なぜ、根下ろしに失敗してしまうのか。それは、虐待のない平穏なはずの生活に暴力や虐待が持ち込まれてしまうからであると、私はそう考えています。詳細は後に譲るとして、ここでサバイバーたちの誤謬を一つ指摘しておかなければなりません。
 彼らは虐待者たちから逃れればそれで上手くいくというように考えてしまうのです。虐待状況から逃れたいという気持ちが生まれることは、彼らの遭遇する諸状況からすれば当然のことであるようにも私は思うのですが、それがそのまま問題解決に直結するかのように彼らは誤解してしまうのです。
 虐待者や虐待状況から物理的に距離を置くことは、確かに必要なことでありましょう。しかし、心的に距離を置くことができているかどうかは別の次元の話なのです。物理的には距離があっても、心的な関係はそのまま継続しているかもしれないのであります。
 むしろ、正確に言えば、サバイバーたちはこの心的な関係をそのままにしているのであります。そこには取り組まないのであります。もしくは、取り組めないのであります。あるいは心的な関係が不変のまま継続しているということに気づいていないのかもしれません。個人的な見解に過ぎないとは思うのですが、私はそのように考えています。
 どうして心的な関係が持続してしまうのかという点に関しては、後の記述で取り上げていくことになるかと思いますので、ここでは詳述は控えておきます。

(時間の間隔)
 さて、サバイバーたちが心的に不調をきたすのは、虐待状況から抜け出てかなり後のことであります。5年から8年ないしは10年といった時間的間隔があるのです。対象クライアントのうちDとEは年齢が若いだけあって、その時間間隔は見られないのですが、他の5名には何らかの形でそれを確認できるのであります。
 彼らは新しい生活に根を下ろし始めます。そこから生活上の変化や仕事のことなどに関して、新たな心的負荷が生まれるということもあるでしょう。子どもが生まれて親になったとか、会社で昇格して責任が大きくなったとか、さまざまな要因が新たに加わることもあるでしょう。しかし、それは副次的なものであると私は考えています。
 まず、この時間差を私は次のように考えています。最初に、虐待状況から抜け出て新しい生活を始めるまでの時間があります。新しい生活を始めて、そこに根を下ろし始めるまでの時間も必要でしょう。根を下ろしてから、そこにしっかり根付き始めるまでの時間がさらに必要となるでしょう。根付くようになってから、当人にその根付きが実感されるまでの時間がさらに必要となるでしょう。こうした経緯を経ているのだと私は考えています。虐待のない生活に根付くまでの時間がここに含まれていると考えているわけであります。
 ちょうど虐待のフラッシュバックが虐待状況から離れている時に限って生じるのと同じように、虐待の生活から本当に離脱できたと感じた時に、彼らに何かが起きるのだと私は考えています。
 それが何であるのか不明であります。何らかの出来事から虐待を思い出してしまう(生活に暴力が持ち込まれることによって)のか、自分だけ平穏に暮らしていいのかという罪悪感に襲われるのか、平和な生活を送ることが不安になるのか、生活上の諸困難から自分のアイデンティティに対しての葛藤が生まれる(私はこれが一番あり得ると考えています)のか、何かがそこで起きているようには思うのですが、何が起きているのかは分からないのです。おそらく、当人たちにも分からないのだと思います。
 そこで新たに生まれた問題によって、彼らは虐待のない生活に根付くことが妨げられるのです。私はそのように考えています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月14日公開