<15-1C>緒言(3)

<15-1C> 緒言(3)

(虐待問題のわかりにくさ)
 ここでは7人のクライアントを軸にして考察していきます。比較的虐待の存在が明確になっている人たちであります。しかし、クライアントEに関しては不明点が多いのですが、その他のクライアントは明確に虐待のエピソードを語っています。
 虐待問題というものは、本人の報告に基づかなければ判明しないものであります。外部からは見えない行為なのであります。見えないだけでなく、当事者たちが必死になって隠蔽したりするために、一層、外部からは見えにくい問題になるのです。
 しばしば、虐待の存在を近所の人が気づいて、児童相談所などに報告する例もありますが、私の個人的見解では、そのような例は虐待問題の一部に過ぎないと思っています。大半の虐待は水面下で静かに行われているかもしれないのであります。
 外側からの発見が難しいが故に、当事者の報告に依らなければならなくなるのであります。本章での7人のクライアントたちはその報告をしているわけであります。
 その他の人たちに関して言えば、虐待の経験はあるけれど、それを明確に言葉にできないというような人もあります。記憶が曖昧であったり、語ることに抵抗のあるという人たちであります。被虐待者の中には、むしろこのような人の方が多いのではないかと私は思います。
 それは言葉で報告するには、あまりにも当人の自我を圧倒することもあるでしょう。つまり、自我がその体験を保持することができないので、報告しようにも報告できないといった例であります。また、その場面の記憶は、自分自身が曖昧になってしまうために、曖昧にしか記憶されていないということもあるでしょう。 
 この曖昧さは、「虐待はあったけれど、はっきり思い出せない」といった程度から、「何か虐待のようなことがあったような気がする」といった程度までさまざまでありましょう。私はその人たちの言葉を信用しないわけではないのですが、あまりに漠然とし過ぎている経験は考察することができないので、本章では対象から外しているに過ぎないのです。おそらく、そのようにしか語れない人たちの経験には、虐待か、もしくは虐待に近いような経験があると思います。
 また、虐待とか暴力を受けた経験を報告するのだけれど、どうもその報告に信憑性が感じられないといったエピソードもあります。対象クライアントの話の中にもそのようなものがあります。
 では、そのようなエピソードは虚偽のものであるかと言いますと、一概にそうとも言えないのであります。私の個人的な考えでは、もし、その記憶が催眠によって想起されたものであれば、それは限りなく信憑性が低いと私はみなしております。虚偽ではないかもしれませんが、「捏造」である可能性が高いと思います。
 もちろん、当人は虚偽のつもりもなければ、捏造する意図があるわけでもないのです。現実の何らかの体験に、その体験を直視できないので、何らかの空想が加工されてしまうのだと私は考えています。さらに、それを体験した時に、自我状態が曖昧になっていて、自分が何を経験したのか、どういうことをされたのか、当人自身にもはっきりせず、明確にできない場合、空想がその不明瞭な部分を補足してしまうこともあるのです。
 そんなこと信じられないと思う人もあるかもしれませんが、私たちはどの人も多かれ少なかれそれをしているのです。私たちの過去の記憶、生まれてから現在までの記憶は、ビデオテープに録画したようなものではなく、断片的であります。出来事を個別に記憶していることが多いのです。生起した出来事をバラバラにすることはできないので、それらをつなげていくのです。その過程で空想が入り込むのであります。もちろん、現実に基づいて結合され、整合性が生じていくのですが、不明瞭な部分や欠落した部分を、空想とか思い込みで補っていることも少なくないと私は思うのです。しかも、自分ではそういう補足や加工をした意識がないので、そういうことをしているという認識を持つことがないのであります。
 しかし、虐待エピソードに信憑性がないかからと言って、その人に虐待がなかったということの証明にはならないのであります。そこは押さえておきたいと思います。何らかの経験はあるのです。ただ、それを報告する際に空想が混入したエピソードを語ってしまうのです。
 架空の例えですが、もし、「子供の頃、虐待を受け、虐待者から腕を切り落とされたんです」と訴える人がいるとしましょう。その人の手を見ると、腕はきちんとついております。腕がまた生えるわけではないから、そうすると、腕を切り落とされたというエピソードは虚偽のものになるわけです。しかし、虚偽となるのはそのエピソードであって、そのエピソードを産むに至った経験の存在までが虚偽とは言えないのであります。この人は、子供の頃、虐待者から腕に焼け火鉢を押し付けられ、腕を切り落とされるような痛みを感じた、という話をしているのかもしれないわけです。しかし、焼け火鉢を押し付けられた記憶は曖昧であり、腕を切り落とされるような痛みたけはリアルに覚えているとすれば、彼の報告はそのような形になるかもしれません。ところが、腕を切り落とされるような痛みを経験したのが、現実に虐待の場面であったのか、それとも事故とか何か別の場面であったのかは、第三者には判別し難いのであります。
 このような報告は興味の尽きないものでありますが、本章では曖昧な報告例をするクライアントを除外しております。虐待はあったかもしれないし、なかったかもしれない、それは虐待の痛みであったかもしれないし、事故の痛みであるかもしれない、そうした曖昧さを含む例はすべて保留にしておきます。

(多角的考察)
 上記のように、虐待問題には曖昧さが伴うと私は考えていますので、虐待がある程度明確であるケースだけに限定するわけであります。それが対象となる7人のクライアントのケースということであります。
 この7人を軸にして、さまざまなテーマを取り上げる予定でおります。多角的な視点から考察していきたいと望んでいます。
 そのため、記述が重複することも少なからず生じると思います。一つの現象は多方面から考察することが可能でありますので、それをしていくとなると、どうしても内容や記述の重複が生じるのはやむを得ないことであります。読む側にしてみれば煩雑は記述となるかもしれませんが、ご了承願いたく思います。
 また、読み手が最初から順番に読んでくれるとも限らないので(公開も順番通りにはなされないと思いますので)、一つの場面が繰り返し登場するたびに、繰り返しその場面を記述することになると思います。煩雑で、反復が多く、読みにくい内容となると思うのですが、お付き合いしていただければ幸いであります。
 緒言はこれくらいにして、内容に入っていきたいと思います。続く第2節では7人のクライアントを紹介しましょう。読むのが面倒であれば第2節は飛ばしていただいても構いません。
 第3節ではサバイバーたちの問題がどこにあるのかという観点を取り上げることにします。
 第4節以下、さまざまなテーマで考察していくことになります。
 ここまでできるかどうか確信がないのですが、最後に、再び7人のクライアントに戻ることができればと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)




2019年9月6日公開