<12-8-5>悲観主義(1)

<12-8-5>悲観主義(1)

(悲観主義の範疇)
 敵意への囚われはAC信奉者たちから好ましい感情体験の機会を奪うことになり、またその敵意に対して無力感を経験する機会が増えるので、彼らはしばしば悲観主義に陥るという印象を私は受けております。本項から悲観主義を取り上げることにします。
 ところで、この「悲観主義」という言葉でありますが、これは「敵意」と同様に、通常この言葉の持つ意味範囲よりも広い領域を含んでいます。
 彼らの思考にはある種の運命論と言いますか、決定論が色濃く漂っているように私には見えます。人生の最初の時期が失敗であれば、その後の長い人生もすべて無に帰してしまうというような、そういう運命論的な思考をされるのであります。それは人生早期のものがすべて決定してしまうという決定論でもあります。そこには成長の観念が欠けており、また自分を親の被造物に過ぎないと考えているかのような主体の観念も欠如しているように私には見えるのです。
 彼らにとって、事物や経験の大部分が無価値になっているようです。彼らにとって、いい意味でも悪い意味でも、価値の認められるものはわずかになっているように思われてしまうのです。他の人にとって価値のあることもすべて彼らには無価値であり、無意味であるように思うのです。この虚無主義(ニヒリズム)もまた悲観主義と悪い意味で相性が良いのであります。
 このようなニヒリズム並びに悲観主義は、彼らから将来を奪うことになると私は思います。将来に何の意味もなければ、そこに価値ある何かがあるとは信じられないといった感情を覚えるのではないでしょうか。価値や意味のあるものから、速やかに価値や意味が喪失してしまい、速やかに諦観してしまうという印象を私は彼らに対して抱いております。分かりやすく言えば、どれだけ価値のあることであっても、彼らは速やかに諦め、容易にそれを放棄してしまうところがあるということであります。
 さらに、断念を早めるだけではなく、新たな取り組みをもそれは阻んでしまうでしょう。一歩前に進むことにすら意味や価値が認められないのであれば、その場に止まる方を彼らは選ぶのではないかと私は思います。
 また、悲観主義は彼らにとって良くないこと、悲劇的なこと、不幸なことへの感受性を高めてしまうことになるかもしれません。要するに彼らにとって悪いことは気づきやすくなり、注意が向かいやすくなり、それを過剰評価したり、それに拘ったり執着してしまったりすることが起きるかもしれません。
 時には嫉妬のような感情を体験することもあります。これは、つまり、他の人はみんな上手くやっているのに自分だけができないという感情を基盤に持つものでありますが、この観念もまた悲観主義的であります。
 この悲観主義やニヒリズムがどれだけAC信奉以前から引き継がれているかは何とも言えないことであります。つまり、AC信奉以前から、彼らは悲観的であったかもしれないし、引っ込み思案であるとか、消極的であるとかいった性格傾向を有していた人もあるでしょう。疲れやすいとか注意が流されやすいとか、根気が続かないとか、そういう神経衰弱様の体験をしてきた人もあるでしょう。従来の性格傾向として持っていたものがあることは私も認めたいと思います。
 AC理論は彼らを悲観主義に陥らせるとまでは言わないまでも、彼らの悲観主義を高めてしまうように作用するという印象を私は抱いております。ただ個々人によって違いはあり、この人は以前はここま悲観主義ではなかったのではないかと思われるような人もあるのです。悲観主義的だった人はその悲観主義が強まり、そうでなかった人でさえも悲観主義的になってしまうように私には思われてしまうのです。

(悲観主義の背景)
 AC信奉者が悲観主義に陥っているとして、では、この悲観主義の背景には何があるのでしょう。
 すでに述べたように自我の弱化を挙げることができるように思います。それは彼らの主体感覚を奪っており、耐えられないことが多くなり、全体よりも細部へのこだわり(全体を取り扱えない)を増すことでしょう。
 次に時間展望の喪失ないしは拡散があると思います。これはその人のアイデンティティ感覚と関連していますが、彼らは将来を持たないのであります。仮に将来を思い描いているとしても、それは現実の彼からはかけ離れていたりするものであり、展望というよりも願望というべきものであり、空想の域を出ないものであることもあるのです。現在の現実の地盤に立って将来を展望するというのではなく、現在の地盤を失った状態で将来を思い描いているので非現実的・空想的にならざるを得ないわけです。
 将来が失われている分、過去の意味合いが大きくなってくるのでしょう。彼らは過去に縛り付けられてしまうのです。彼らの生活は過去の回想に費やされることも珍しくないのであります。もう取り返しのつかないことを取り返そうとしたり、修正しようにもできないことを修正しようとしたり、そうしたものに日夜没頭しているのであり、それは自分の力の限界を超えたものに取り組んでいるようなものであります。悲観的ならざるを得ないことでしょう。そこには自力でできることはほとんどなく、どれだけ尽力しても効力感を得ることもないでしょう。
 最後に、その理論の中に悲観主義が含まれているということを指摘しておきたいと思います。
 AC理論やその他の類似の理論は、人(子)をあたかも親の被造物のようにとらえているように私には見えるのであります。時に、あまりに機械論的に考える人もあるのですが、私には17世紀ころのデカルトの機械論的人間観と同種のものが見えてしまうのであります。
 親の子育ては子供の人格形成に影響することは確かでありますが、それと同じくらい友達関係や学校での経験も人格形成に影響するものであります。大人になってからも多くの経験を積み、多くの事柄を吸収して人格形成はなされていくものであります。従って、親は子に影響を与えはするものの、親は子供の人格を決定しないのであります。もし、このような決定論を支持している人がいるとすれば、この人はあまりにも子供をバカにし過ぎているのであります。つまり、その考えでは、子供とは親から与えられるものをただ受け取るだけの受動的存在であり、このようにすればこう育つといったように、子供は機械のように親によって作られる存在である言わんばかりであります。それは私にはナンセンスな理論であります。すでに少し述べたように、この思想には子供の主体性といった観点がまったく欠如しているのであります。個人の意思や選択、さらには変化・変容とか、成長・成熟といった観点も同じく欠如しているのであります。
 人は周囲の影響を受けながらも、自分自身で自己形成を成し遂げていく存在であると私は思いますので、一個人(親)や一場面(家庭)が子のすべてを形成してしまうかのような理論は非現実的でさえあると考えています。
 そして、ACに代表されるような思想、そのような方向付けを有する思考は、すべて悲観論に陥らざるを得ないように私には思われるのであります。この理論そのものが悲観主義なのであります。だからその理論を信奉する人もまた悲観主義になっていくのではないかと私は考えております。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)