<12-8-3>敵意の問題(1)

<12-8-3>敵意の問題(1)

(敵意-もっとも大きな問題)
 本節ではAC信奉者に見られる諸問題を取り上げていますが、特にAC信奉後に問題となることを中心に述べていきます。その問題とみなすことのできるものを6つに分類したのでしたが、その筆頭に来るのが敵意の問題であります。
 この「敵意」という言葉ですが、この中には通常の意味での敵意の他に、憤怒とか憎悪とかいった感情も含めています。幾分広い意味合いを含めていることを予め申し上げておきます。
 この敵意の対象は親であります。それは母親であることもあれば父親であることもありますし、両親であることもあります。いずれにしても親に対する敵意(憤怒、憎悪なども含む)がもっとも大きな問題になると私はみなしております。
 細かな点はケースを通して確認したいと思いますので、ここでは概説をしておきます。

(敵意として結晶化)
 実はこれは私だけではないかと思っていたのでしたが、後に幾人かのAC信奉者からも同じような話を聞くことができ、もしかすると多くのAC信奉者にも該当するものではないかと今では思うようになったことがあります。。
 それは、この敵意はAC信奉前よりも信奉後により明確になるということであります。彼らがAC信奉する以前、AC理論に遭遇する以前においては、この敵意はそこまで明確ではなかったのであります。
 確かに彼らは親に困らされたといった経験をしているのですが、せいぜい親が嫌いだとか好きになれないとか、困った親だくらいな感情であったのでした。それがAC信奉後はそれらの感情が敵意として結晶化され、はっきりと敵意として意識化され、体験されるようになるのです。
 なぜ、そのように敵意となって結実するのか、それがどういうことであるのか、さらには敵意がその後どのような痕跡を彼らに残してしまうのかといった問題は後で取り上げることにしましょう。
 彼らはハッキリとした敵意を抱くようになり、それに囚われるようになります。その際に、敵意の方向によって二つの傾向が生まれることになります。

(敵意の外向・内向)
 彼らの抱える敵意は外に向かって表出される(外向)か、内に向けれられる(内向)かすることになります。
 外向される場合、大抵の場合、行動化が伴います。これは親に対するかなり直接的な攻撃や暴力の形を取ることもあります。攻撃や暴力の問題はケースを通じて考察したいと思います。
 もう少し穏やかな行動化では、親に延々と説教するとか、親への呪詛を延々とノートに書き綴るといった例もあります。これらも敵意を何らかの形で表に出しているという点で外向させていると考えることができます。
 敵意を外向させる場合、彼の言動は他責的な色彩を帯びることになります。一方で、それを内向させてしまう人は自責的な言動を示すようになります。
 内向させてしまう人たちの基本的感情は抑うつであります。しばしば自責的な観念にとらわれていることもあります。行動化する場合には自傷行為として見られることがあります。
 敵意を外に向けようと内に向けようと、それとは別に、敵意が外界に投影されることもあります。この場合、他者が敵意を持って自分に向かってくるといった形を取りますので、彼らは被害感情を体験するのです。明確にそれを証明する根拠や証拠がないのに、人がみんな自分に意地悪をするとか、責められるとかいった体験を彼らはするわけであります。他者であれ出来事であれ、彼らは被害的に解釈してしまうということがよく見られるのです。この辺りのこともケースを通して見ていくことにします。

(多くは混合である)
 しかしながら、敵意を外向させる傾向と内向させる傾向のどちらか一方であるということは稀であるように私は思います。大部分の人は両者の混合であります。ある程度までは、外向させる傾向が強いとか内向させることが多いといった違いは言えるかもしれませんが、大抵のAC信奉者は両方の傾向を有しています。
 そこにはその人のパーソナリティも関係していることと思います。例えば、アクティブに活動してきた人であるとか自己主張を強くしてきた人であれば敵意を外向させる傾向を発展させるかもしれませんし、内気な人や弱気な人であれば内向させる傾向を強く示すようになるかもしれません。それでも一人の個人に両方の傾向を認めることができることが多いと私は感じています。
 敵意から解放されていく過程においても、頻繁に外向させていた人は一時的に内向傾向を強める時期を経ることも見られます。後に述べるようにこれには根拠があります。
 また、内向させていた人がある時を境に外向させるようになることもあります。それまで自責的だったその人が他責的になり、親に対しての行動化を示すようになったという例もあるのです。
 これはその敵意をどれくらい抱えることができるのかという、その人の心的な耐性と関係するように思います。抱えることができる程度に応じて内向するのでしょう。抱えきれない程度に応じて外に向けて行動化すると考えることができます。
 従って、あまり図式的すぎる表現ではありますが、外向から内向への方向はその人の自我が敵意を抱えることができるようになってきたことを示しており、内向から外向への方向はその逆のことを示している、つまり自我の弱体化を示していると考えられるのです。先ほど、敵意から解放されていく過程で敵意を内向させる時期を経ると述べましたが、それは上記の理由であります。彼が敵意を抱えることができるほどに自我が強化されたので、外向させていたものを内向させる(内に抱える)ようになったわけであります。
 
(自我の弱化)
 さて、本項の冒頭でAC信奉後は親に対する感情が敵意となって結晶化すると述べましたが、上記の話と無縁ではないと思います。
 以前は困った親であるとか好きになれないくらいの感情しかなかったのであります。それがAC信奉後は明確な敵意が形成されるのです。この変化は何によるものなのかが疑問であります。
 私の個人的な経験においては、それは距離が取れなくなることと関係しているように思います。つまり、それ以前は親に対して否定的な感情を持っていたとしても、親とは心的な距離が保つことができていたのでした。言い換えれば、安全と思える最低限の程度に、嫌悪する対象と距離を取ることができていたのであり、それだけ自我の防衛機制が機能していたわけであります。距離が取れなくなるとは、この防衛機制の破綻を意味しているように私には思われるのです。従って、AC信奉後はそれまで機能していた防衛機制が破綻して、対象と距離が取れなくなり、また防衛機制の破綻によって対象に対する剥き出しの感情が表面化するようになるのではないかと思うのです。さらに、その剥き出しの感情を抑制ないしは抑圧することもできずに容易に外界に漏洩させてしまうのではないかと思います。
 従って、この敵意は主体の防衛機制の破綻によって生じているものであり、それだけ主体が弱体化していることを意味しているように私には思われるのであります。そして、次項において述べるのですが、彼らはこの敵意に囚われるようになる、つまり、この敵意に「操られる」ような状態に陥るのです。感情に支配されてしまうということもまた主体の弱体化を意味しているように私には思われるのであります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)