<12-7H>「自称AC」者として生きること(4)

<12-7H>「自称AC」者として生きること(4)

(「狂信的AC」者)
「自称AC」者たちもエスカレートしていくといささか「狂信的」な様相を呈するように私は思います。この人たちにあっては、親を変えることは使命であり、もはや願望などではなくなっているかのようであります。四六時中、親を変える試みをし、親を変えていくための計画を練っているかのような状態で過ごしているのです。
 ここまで来ると、「自称AC」たちは自らカウンセリングを受けることはないのです。自分が完全に正しく、且つ、自分にはそれを遂行するだけの力があると信じているからです。私にはそのように思われるのです。その代わり、子供のことで手を焼いている親が私を訪れることがあります。
 自分を変えて欲しいと自分から頼んだわけでもないのに、子供から強制的に変えさせられようとするのですから、親もたまったものではありません。
 ある母親はこれをどう考えていいか分からないと嘆いていました。何が問題なのか、どういう種類の問題なのかが彼女自身分からなくなっていたようでした。そこで私が「親子関係の問題というよりも、マインドコントロールされた宗教信者の問題のようですか」と尋ねてみたところ、母親は本当にそういう感じであると納得されたのでした。
 別の母親は「狂信的」な「自称AC」の言動を見て、「まるで宗教のようだ」と話されましたし、さらに別の母親は「子供が変な宗教に凝り始めたのではないだろうか」と心配を表明されました。また、かつて事件を起こした某宗教団体の話を聞いたのか思い出したのか、「ウチの子供も同じだ」と嘆いた母親もおられました。
 本当に「狂信的」になると、マインドコントロールの問題と近くなっていくという印象が私にはあります。以前、「お前のところは宗教か」といった問い合わせを何件か受けたことがありましたが、そういう問い合わせをした人たちは、もしかすると、「狂信的」な「自称AC」者の周囲の人だったのかもしれません。

(空虚)
 しかしながら、「自称AC」者がそこまでエスカレートするとすれば、彼に何が起きているのでしょうか。確かに、AC理論はかつては救いとなっていたかもしれませんし、その救いにいつまでもすがりつきたいと彼らは思うのかもしれません。
「狂信的AC」者は、まず、私のところには訪れず、直接このタイプの人にお会いしたことはないので、あくまでも母親の報告から推測するしかありません。
 私の印象では、「狂信的」になると、自分のすべてがACで支配されてしまうようであります。自分の中にかつて在ったものがすべてACに入れ替わったかのような印象を私は受けています。彼はもはや空虚であります。そこをすべてACの観念で満たさなければならなくなるのでしょう。主体性は損なわれ、AC論に彼は従うしかなくなるのでしょう。

(宗教問題との類似性)
「自称AC」があまりに「狂信的」になると、ほとんど宗教のような観を呈するように私は感じています。宗教では神仏が信仰され、悪魔が退けられるといった構図が見られますが、AC論が信仰され、「悪い親」が排斥される構図と似ていると私には感じられます。
 この「狂信的AC」者は、「親殺し」に行き着いてしまうかもしれません。おそらく、それは「宗教殺人」と似てくるだろうと私は思います。
 ここに至るともはやACの問題ではないのです。それこそマインドコントロールの問題に匹敵していくと私は思います。
 従って、彼に必要なのは親の愛ではなく、「目を覚ませ」ということになるのです。私はそう思います。

(際限のなさ)
 なぜそのようにエスカレートしていくかを考えていくと、そもそもの初めから「際限のなさ」という問題が「自称AC」問題には含まれているように私は思います。
 際限がないというのは、ある意味で幼児的なのです。どこまでも要求してきて、どこまでも与えられることを望んでしまうのです。自分にも他者にも限界があり、限度があるということが認められないのではないかと私は思います。
 もし、親が完璧な親であっても、子供は人生で失敗をしてしまう危険性を有しています。どの人にもそういう危険性があるのです。私にもそれがあるのです。今でこそこうして仕事をしているけど、これがいつまでも続くわけではないのです。人生は無条件で安全なものではないのです。立派な親に育てられたはずの子供であっても、人生を台無しにしてしまうこともあるのです。
 成功するということに関しても、限度があるのです。どれほど大きな成功であろうと、それは常に限られたものになるのです。私がカウンセラーとして成功している(とは自分では思っていないのですが)としても、それは単に私がカウンセラーとしてやっていけているということを意味しているに過ぎないのです。それ以上のものではないのです。
 限度のない成功というものは、誰も達成できないし、誰もそれを与えることも保証することもできないのです。
 親の愛にも限界があり、親が許容できることにも限度があるのです。親の限界以上のものを求めて、親から断られてしまうのは当たり前のことであります。その親が「毒親」だからではないのです。成人年齢に達している彼らを、赤ちゃんのように抱っこすることは、親たちには無理なのです。
 彼らはそういう無制限なものを自他に求めてしまうところがあるように私は感じるのです。ある意味ではこれも「特別意識」の表れとみなすこともできるかもしれません。しかし、人間と人間の世界には限界があり、制限があるのが自然なことであり、それが現実であります。もし、彼らがその現実を無視して無制限の世界に生きるとすれば、それだけ彼は非現実的になると私は思います。言い換えると、非現実なことを達成しようとすればするほど、ますます彼は現実から離れていくということであり、彼らが「狂信的」なまでにエスカレートする一因がそこにあると私は思います。

(性格傾向が先にある)
 しかしながら、誤解を招かないように注意する必要があります。AC理論を信奉していくうちにエスカレートするというケースばかりでもないように思われるからです。個々の「自称AC」者のパーソナリティの相違をこれまで度外視してきたのですが、エスカレートさせてしまう性格傾向の方が先にその人にあるのです。
 暴力の問題にしても、彼らの中には「自称AC」者になる以前から暴力の問題を起こしていた人も見られるので、AC理論を信奉していくうちに暴力問題が生まれるようになったとは言い切れないわけであります。
 いずれにしても、エスカレートしていく中で、AC理論が一つの武器として活用されてしまうのです。理論そのものが悪くなくても、彼らの性格傾向に拍車をかけてしまう要素がこの理論にはあるのかもしれないと私は思うのです。
 最後に、「狂信的」というのは不適切な言葉であるかもしれません。幾人かの母親からは、子供が何かに憑かれたように見えると伺ったことがあります。つまり、平素の子供らしくなく、豹変したかのように暴力問題を起こし、親に説教するということなのです。中にはそういう状態の子供が怖いと怯える母親もおられました。彼らのその姿を私は直接に見たわけではないのですが、そういう話を聞くと、私の中で「狂信的な信者」のイメージが浮かび上がってくるのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)