<12-7G>「自称AC」者として生きること(3)

<12-7G>「自称AC」者として生きること(3)

(行き着くところに行き着く前に)
 子供が親を変えようと試みているなら、「良い親」との経験をこの子供は有しています。この「良い親」は過去に経験した親であり、現実の親でもあり、そして、この子供の中で理想化されている親であります。この理想化された親との関係を人は心的に経験するのですが、「自称AC」者は、この心的関係を現実化しようと試みているのです。もし、それが現実のものとなった暁には、理想化された自分が達成されるという幻想を抱いているのだと私は思います。理想的な親に育てられた理想の自分が実現するということですが、これは合一幻想であると私には思われるのです。
 しかしながら、理想化された親イメージは内在化され、後の経験などによって、制限や修正を受けていき、現実的な理想とか目標となっていくことが望ましいのです。親を変える試みはこのプロセスからむしろ遠ざかっていくものであると私は考えています。
 次のように言えば理解してもらえるでしょうか。「悪い親」を「良い親」に変えるということは、「悪い親」を破壊して「良い親」を復元させるということです。「悪い親」の破壊は、心の中で行われなければならないのです。彼らはこれを心の中で収めることができないのだと思います。そして、これを現実の世界で実現させようとすると、やがて、行き着くところは「親殺し」なのです。私はそう思います。
 「親殺し」というのはいささか極端ではありますが、究極的にはそこに行き着くのだと思います。「自称AC」の人たちは、私の経験した範囲では、まだそこまで至らないで済んでいるのです。
 行き着くところまで行き着いてしまう前に、親を変えるという試みを放棄する方が安全であると私は考えています。だから、「自称AC」の人たちに私はそれを提案するのです。大抵の場合、「自称AC」の人たちは従わないのですが、それでも私は彼らに親を変える試みを放棄するように伝え続けるのです。

(暴力の問題~暴れることと攻撃すること)
「自称AC」が最終的に「親殺し」に行き着くというのは話が飛躍しすぎたかもしれません。そこに至るまでには段階とか程度があると思いますが、常にそこに行き着く可能性を秘めているということは押さえておきたいと思います。
 彼らは時に激しい行動化をします。暴れたり、喚いたりといったことをしてしまうのです。
 比較的程度の軽い段階では、それは単に暴れるというものであり、親を攻撃する意図がそれほど大きくないものです。家の中や外で暴れたり、夜中に大声で喚いたりするけれども、親に危害を加えるつもりはないのです。ただ、そうすることによって親が操作されてしまうのです。それをすると親が動くとか、親が従順になるということを子供はどこかで学んでいるのかもしれません。
 しかし、単に暴れるだけといっても、投げたものがうっかり親に当たるといったアクシデントは起こりえることであり、実際に怪我を負ってしまう親もあるのです。万一、打ち所が悪ければ、それで重傷を負うことだってありえるのです。警察沙汰になったケースも私は見聞しておりますが、下手をすると犯罪者になるのです。
 程度の「軽い」ものは、単に暴れ、それによって親を動かすという意味合いがあるのに比較してみると、程度の「重い」ものは明らかに親を攻撃するのです。
 親を「攻撃」するというのは、要するに、親が自分の思うように変わらなかったり、自分が望んでいるように親が理解していないということに関して、子供が現実に力を行使するということです。時には親と子の間で壮絶なバトルが展開することもあるのです。
 親を「攻撃」する場合においても、確かに、親に危害を加える意図は子供にはなかったかもしれません。しかし、やはり親が怪我を負ってしまうといった例もあり、一歩間違えれば「親殺し」が現実化してしまう危険性があるように私は思うのです。
 総称して「暴力の問題」としておきますが、ここには「暴れる」だけのパターンと親を「攻撃する」パターンとがあるということでした。「暴れる」ことも「攻撃する」ことも、そこにはさまざまな形態があるのですが、それはいずれ取り上げることにして、「暴力問題」に関してもう一つの軸を提示しようと思います。

(暴力の問題~一過性と慢性)
 こういう暴力の問題が生じるのは、子供の中に「悪い」観念や感情が芽生え、それが心を満たしてしまうからであります。何か「悪い」観念とか感情に支配されてしまっているのです。そのため、そういう時の子供は、通常の彼の姿からは想像ができないことも多いように思います。
 こうした「悪い」何かが暴力によって「解消」されるか否かは私には疑問でありますが、一回暴力問題を発生させると、そこで当分の間は治まるという例もよく耳にします。これを「一過性」の暴力問題としておくことにします。
 一方、暴力問題を発生させた後も解消されず、後々まで引きずってしまい、延々と親を攻撃したり、暴れたりしてしまうというケースもあります。これを「慢性」の暴力問題としておくことにします。
 私の個人的な印象では「暴れる」タイプは「一過性」で終わることが多く、直接的に親を「攻撃する」タイプは「慢性」の経過を取るように思われるのです。
 なぜ、そのようになるかと言いますと、親を「攻撃する」タイプにおいては、親が子供を抑止しきれないという背景があると考えられるからです。つまり、子供自身も抑制できないのに、親もまた子供の抑制に失敗してしまうという状況があると考えられるわけです。そのため、子供の中でそれが十分に抑制されず、くすぶり続けることになるのかもしれません。
 こうした「暴力問題」ないしは暴力として現れる行動化の問題とは、子供の中で抑えきれない感情や観念に対する子供の無力から生まれることが多いと私は思うのです。それを抑制することを親に手伝ってもらおうとしていると考えることもできるのです。親がそれに成功しない場合は、子供の中でそれが残り続け、子供はそれに対して無力のままであり続けるのだと私は思います。

 以上、本項では「自称AC」者たちの行動化、特に暴力を伴う形の行動化を取り上げてきました。もちろん、「自称AC」者がすべてこうした行動化を起こすわけではありません。いささか極端なケースに限られる現象であるかもしれません。行動化の問題は後々取り上げられることになるでしょう。
 その前に、私はさらに「極端」なケースを取り上げることにします。と言うのは、最終的にどこに行き着くのかを知るということも、一つの問題を考える際には、重要であると思うからです。こうした行動化を頻繁に示すケースがさらに発展していく場合、私はそれを「狂信的」タイプと呼びたくなるような状態に彼らは陥るのです。「狂信的」なタイプに至るケースがどれほどあるか私は知りません。それほど数は多くないのかもしれません。それでも、このタイプのことを次項で取り上げることにします。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)