<12-7F>「自称AC」者として生きること(2)

<12-7F>「自称AC」者として生きること(2)

(「毒親」は毒親にあらず)
「自称AC」の人たちの特徴的な行為は親を変えようとする試みであります。この行為は彼らの自己救済の一環として理解される必要があると私が考えていることは前項で申し上げました。
 彼らは親を変えようとします。時に親を攻撃し、親の罪を告発するのです。ある日突然、親は罪人にされてしまうのですが、当然、驚くのは親の方です。いきなり親が「悪い」ということを子供から言われてしまうのです。
 親は驚くでしょうし、そんなことをいきなり言い始める子供を「おかしい」と思うでしょう。子供が異常意識に囚われていた頃には恐ろしかった場面も、今では何ともありません。子供はAC理論から力と後ろ盾を得ているので、「おかしい」などと言われても、「おかしいのは親の方だ」と反論することも、「おかしくしたのは誰だ」と罪を告発することもできるのです。
 彼らは自分たちの親を「毒親」として告訴するのです。親たちはある日いきなり子供から毒親とされてしまうのです。彼らはこの毒親を「薬親」に変えようと試み始めるのです。
 しかし、ここにはある種の逆説があるのです。彼らは親を変えようとしますが、この行為は「良い親」を経験していないと不可能なのです。「良い親」との経験、「良い親」の記憶が彼らにあるからこそ、現在の親を変えることで、かつての「良い親」を復元しようと試みることができるのです。この親が「良い親」でなければ、親を変えようという発想さえ彼らには生まれないのです。さらに言えば、「良い親」を彼らが経験していなければ、親をどのように変えたらいいのかさえ、彼らには分からないだろうと思います。
 私はそのように考えています。従って、彼らが「毒親」と罵る親たちは、かつては「良い親」であったのであり、決して「毒親」ではないはずなのです。

(不毛の努力)
 彼らは親を変えようとするさまざまな試みをします。私から見ても「ようやるわ」と呆れるくらいなのですが、彼らの努力はまず不毛な結果となるのです。
 その理由として、①親たちはACの理屈が分からないからです。子供のやっていることの意味さえ親たちは理解できないのです。子供はACの立場から物を言っているわけですが、親の方にAC理論の枠組みがないので、お互いの言い分や認識は自ずとすれ違うことになるのです。
 次に、②親を変えようとする子供の試みに親が従うのは、子供の生が上手く行っていないからです。親は子供の言い分に従うことで、子供の生が上手く行くことを期待していることが多いように思います。親は子供に一人前になってほしいと願っているのです。そのために少しでも役に立つことや協力できることはやっていかれるのです。子供は自己救済のつもりであっても、親はそういう目的を有していないのです。目指している部分が両者で異なるので、子供の期待との間にギャップが生まれてしまうのです。
 そして、最後にもっとも単純な理由は、③親も今さら変われないという事情です。私の経験した限りでは、この親たちは40歳代後半から60歳代前半の人たちであります。この年齢になって、新たに変われと命じられるわけなので、それは無理があるわけです。失礼な話ですが、この親たちはもう一度子育てをするだけの気力がないのです。この年齢になって一から子育てをすることは負担が大きすぎるのです。幼児期の子供を抱え、子供の反抗期をもう一度経験することに親も耐えられないのです。
 ちなみに、もし私が「自称AC」たちの親子を援助するとなれば、①を手伝い、②を達成するつもりでいます。③はどうでもいいのです。①を経由するのは、まず、親子の間でコミュニケーションが成立し、関係を回復するためであります。その目標は子供が一人前になって自分の生を生きるようになる(②)ことです。親を変える(③)ことなんてどうでもいいのです。
 しかし、「自称AC」たちにとっては③が一番重要なのです。親が変わるということが最優先課題となってしまうのです。なぜ、それがそんなに重要なことであるのかという点は次項で取り上げることにして、彼らが不毛な努力の末に何をするかを次に述べることにします。

(親を治療に送り込む)
 結局、「自称AC」たちの親を変えようとする努力は水泡に帰すことになるのです。仮に、親たちが子供の言うように変わってみようとしても、子供が親に満足していない限り、親に対する要望は後を絶たないのです。そうして親も限界を感じるのです。これ以上は変われない、これ以上は子供の言う通りにはできないという限界点に親たちが達してしまうのです。別の言い方をすれば、もう子供には付き合えないと感じ、親が子供の要求に辟易してしまうということです。
 子供の側からすると、自分の期待するところのものがどうしても得られないと感じられるのではないかと思います。そして、次の二つのパターンがここから生まれると私は考えています。
 まず、(A)子供が親にさらに圧力をかけ、何が何でも自分の期待通りにしようとする。これは時に暴力問題に発展することがあります。
 次いで、(B)自分の力では無理だと考え、専門家の力を借りようとする。つまり、これが親をカウンセリングに送り込むということになるのです。
 第9章で取り上げた親カウンセリングのケースでは、(A)の状態にある親子が含まれています。とても満たしきれない子供の要求に晒され、要望に応じられなかったら暴力を振るわれてしまうという親たちです。
 本章で問題となるの、むしろ(B)のパターンです。親を変えることが自分の力では不可能であると彼らは気づくのです。この気づきが得られることは(A)のパターンに陥る子供よりもましであるという気がしています。そして、自力では諦め、親を変えてくれるカウンセラーを探すわけです。
 私が開業した初期の頃は、こうして送り込まれる母親とよくお会いしたものでした。この経験はいずれ綴るとして、なぜか母親たちが子供(主に娘だったのですが)の書いた手紙を持ってくるのです。カウンセリングを始める前にカウンセラーにこれを読ませろということです。
 今から思うと、ああいう手紙を「自称AC」者が親に持参させるということは、私が彼らの期待に添うカウンセラーであるかどうかに彼らが確信を持てなかったのだろうと思います。このカウンセラーが自分の味方なのか敵なのかがはっきりしなくて、それで自分の味方に引き入れるための手紙だったのだと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)