<12-7E>「自称AC」者として生きること(1)

<12-7E>「自称AC」者として生きること(1)

(前項までのまとめ)
「自称AC」の人たちは何も特別な経験をしているとは私は思わないのです。
 まず、契機になった出来事があります。それは失敗とか挫折、彼の自我では対応できないような危機状況であったりします。
 そこで上手く行かない自分を経験し、その経験は自分の中に違和感をもたらすのです。この違和感に意識を集中させてしまい、一部分であった違和感が自己の全体として体験されてしまうのです。自分の中に違和感があるといった経験から、自分自身の「異質化」の経験をするようになるのです。
 こうして、自分はおかしくなったといった異常意識に囚われ始めるのですが、この状態を続けることも苦しいので、彼らなりにいろいろと調べたりするのです。その過程で「AC理論」と出会うのです。
 このAC理論は自分のことをすべて「説明」してくれているように感じられるのでしょう。これにより、異常意識の緩和、「悪」の転嫁、責任の回避、秘密による緊張感からの開放といった救済の体験をするのだと思います。
 こうした救済は彼に力の快復をもたらすのでしょうが、その力は成長に方向付けられるのではなく、「傷ついた英雄」との同一視によって、親を変えるために用いられたり、特別感情を維持するために用いられたりするのだと私は思います。
 前項まで、このようなプロセスを概観しました。こうして人は「自称AC」になっていくのだと私は考えています。
 本項から、「自称AC」として生きるとはどういうことなのか、さらにはその後の経緯についても取り上げることにします。

(二つの方向)
 人が「自称AC」者になると、次の二つの動きが生じると私は考えています。一つは自分の見解を支持してくれる人を求めるようになるという動きです。もう一つは問題のある「悪い」親をどうにかしようとするという動きです。この両者に関しては、さまざまな考え方が可能であると思いますが、これをすることが彼らの自己救済の試みであるという認識も有しておく方がいいと私は考えています。
 彼らは仲間を見出そうとし、一方では親を変えようとします。これらは自分自身をさらに救済する試みとして理解できるということであり、甘えや逃避といった意味合いだけではないと私は思います。

(傾向を助長するもの~自己の細分化と自己不確実感)
 さて、これから上述の二つの傾向について考察していくのですが、その前に、何がこの傾向を助長するのかを考えたいと思います。
 まず、どうして彼らは支持者を求めるのかという傾向から取り上げます。どういう経験がこの傾向を助長するのでしょう。
 彼らは親子関係ということに重点を置きます。人間の発達並びに人格形成に親との関係は確かに重要ではありますが、もっと他の要素もそれに貢献します。つまり、友達関係とか上下関係もまた人格形成に寄与するのです。家庭以外の場面、学校での経験や部活動などの課外活動の経験も同様に一人の人の人格形成に寄与しているのです。私の経験したことのすべてが私の形成に与っているのです。
 ここで何が問題となるのかと言いますと、彼らは親子関係だけを取り上げ、その他の関係、その他の経験を切り捨ててしまうのです。親との経験しか見えなくなっているのです。こうして自分の一部が取り出され、他の部分が切り捨てられるので、彼の中で一つの分裂が生じているということになります。
 自分自身が分断され、細分化されればされるほど、その人の自己感覚が不明瞭になっていくと考えられるのです。つまり、自分の中に意識の光が及ばない領域が増えれば増えるほど、自己不確実感が強まるのです。
 この自己不確実感が彼らをして仲間を求めさせるのではないかと私は推測しています。同じ見解を持つ人たちと接して、自己確認せざるを得なくなるのだと私は考えています。

(傾向を助長するもの~経験の重ね合わせの逆転)
 もう一つの傾向でありますが、これを助長するのは彼らの経験様式にあると私は思います。
 まず、私たちは現在経験していることから過去の経験を想起することがあります。その際に、「過去にもこういう経験をして、現在またこういう経験をしている」とか、「前回の時はこうだったけど、今回はこうなっている」といったように、過去経験の上に現在の経験が重ね合わされるように認識するのではないでしょうか。この時、私に見えているのは現在の経験であります。この現在の経験の向こうに過去経験が見えているという経験をするものではないでしょうか。
 彼らはこれが逆転しているという印象を私は受けます。現在の経験の上に過去経験が重ね合わされるのです。見えているのは過去の経験の方です。重ね合わせると言うよりも、掘り起こされるといった方が的確でしょうか。現在の経験の方は無視され、過去の経験が掘り出され、こちらを前景に出してしまうのです。
 もし、こうした逆転が生じているとすれば、現在の経験がよほど手に負えないか、否認したいか、そうした感情が働いているのかもしれません。
 一方で、無知な心理学者や素人が精神分析を誤って理解していることも関係しているかもしれません。精神分析を過去に遡って治療する方法だと考えている人もおられるようです。過去を変えることで現在を変えるとか、過去に影響を与えることで現在に影響を及ぼすとか、そういう治療法だと誤解しているのです。本当の精神分析は現在生じている転移を解釈し、徹底操作することで、現在の方を変えるのです。過去と現在は一続きなので、それによって過去経験が変わっていくのです。過去から現在ではなく、現在から過去へ働きかけているのです。そこを誤解すると、過去を変えること、過去に集中すること、過去の洞察を得ることが治療であると信じてしまうかもしれません。
 少し話が逸れましたが、彼らの場合、現在の経験は過去に重ね合わさるのではなく、それによって過去が掘り返されてしまうのです。彼らは過去の一時点の経験ばかりを見続けることになるのです。そこに見出すのは常に「悪い」親の姿なのだと思います。
 どうしてこういう逆転が起きるのかといいますと、それだけ現在の経験を見ることに彼らが耐えられないか、もしくは、彼らが現在に生きていないかなど、そういうことが考えられそうです。
 例えば、彼らは現在の自分を因果律で説明します。「(過去の)親のせいで自分がこうなった」といった因果で自分を述べるのです。ミンコフスキーが言うように、「因果律は現在から目をそむけようとする我々の傾向である」と私も思います。彼らは現在に目をそむけている、もしくは目を背けたいと思っているというように理解しても間違いではないと私は思います。
 彼らが現在の現実から遊離すればするほど、現在の経験は過去経験に重ねあわされることがなくなり、過去経験が掘り起こされ、その過去経験を現在の現実において対処しなければならなくなるのだと思います。これが親を変えようとする傾向を助長するのだと私は思います。もっとも、その他の要因もこれに手を貸すことになるのですが、それに関しては次項にて展開していくことにします。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)