<12-7D>人はいかにして「自称AC」になるか(4)

<12-7D>人はいかにして「自称AC」者になるか(4)

(傷ついた子供=傷ついた英雄)
 AC理論に出会い、それが救済をもたらす、それが「自称AC」者になっていく前提にあると私は考えますが、さらにもう一つの要素がこれに加わるかもしれません。本項ではそのもう一つの要素について取り上げていくのですが、これを理解するためには次のことを理解してもらわなければならないかもしれません。
 例えば、誰からも迫害されている一人物がいるとしましょう、また、絶対的権力者から迫害されている一人物がいるとしましょう。もし、本当にこれだけの迫害を受けているとするなら、その一人物は、いい意味でも悪い意味でも、相当特別で重要な存在であることを示しています。よほどの影響力があるか、特別な力を持っているかする、そういう重要な人物であるとみなすことができます。この理屈はお分かりいただけるでしょうか。
「自称AC」の人たちからも同じような物語を聞くことがあります。みんなは幸せな家庭に生まれたのに自分だけが不幸であるとか、兄弟姉妹の中で自分だけが愛されなかったとか、そういう物語であります。
 これを一言で言えば、彼らは「傷ついた子供」であるということです。そして、この「傷ついた子供」は同時に「傷ついた英雄」でもあるのです。
 ユング派の人に尋ねてみたい気もするのですが、「傷ついた英雄」元型というものがあるのかどうかと。もし、そのような元型に同一視すると、一部の「自称AC」のような人になるのではないかと私は思うのです。

(AC依存へ)
 私には、彼らが「傷ついた子供」として自分を規定し、「傷ついた英雄」として行為するように見えることがあります。自分が「傷ついた英雄」として生きているということで、彼らの低い自尊心が補填されているのかもしれません。
 また、自分が「傷ついた英雄」であることによって、彼らは自分を維持できるのかもしれません。自己の不確かなアイデンティティをこれが補足してくれているので、彼らはそれを捨てることができなくなるのかもしれません。この場合、ACを捨てるということは、自分自身の喪失体験となり、再び異常意識や無力感に押しつぶされると感じてしまうのかもしれません。
 このように考えると、「自称AC」とは「AC依存者」と言っても言いすぎではないような気がしてくるのです。

(「英雄」との同一視)
 ところで、彼らが英雄像と同一視しているというのは、私の考えすぎでしょうか。彼らの全員がそうとは言わないのですが、一部の人からはそうした傾向を感じ取ることが私にはあります。
 例えば、親を変えるという行為を何か崇高な仕事のように考え、必死になっている人たちをみると、まるで殉職してでも任務を遂行する刑事のようなイメージが喚起されるのです。たとえ自分の一生を費やしてでも親を変えてみせるといった意気込みの人を見ると、そういう感じに打たれてしまうのです。

(尊大さ)
 そこまでいかなくても、英雄のような特別な存在であるという感覚は、彼らの尊大さに現れるような気がしています。
 これも「自称AC」の皆が皆そうであるとは言わないのですが、彼らの言動からある種の尊大さが見え隠れするのであります。
 自分が親の犠牲者だと訴える彼らの中にもそれが見られるように私は感じることがあります。彼らの要求がましさの中に見え隠れすることもあります。他人(親とかカウンセラー)を変えようとか動かそうとすること、そういう力が自分にあると信じること、あるいはさまざまな形で示される万能感にそうした尊大さが現れることもあります。兄弟や同僚の中において、自分だけ特別扱いを求めるといったところにも尊大さを見る思いがします。

(特別感情)
 特別感ということも少し触れておきたいと思います。彼らが周囲の人から疎んじられるとすれば、その要因はこれにあると私は思うのです。自分だけ特別に親から愛されなかったとか、そういう認識が背後にあるのでしょうか、何か自分だけ特別だという感覚を持っているように私には思われるのです。
 この特別感が顕著に現れるのは、普通の注意をされた時などに彼らが示す反応であります。もし、連絡事項を忘れたとすれば、きちんと連絡するようにという注意を受けるものであります。誰もが普通に注意されることなのですが、これに彼らは深く傷つき、不快感を露にするのです。無断で休んだら無断欠勤しないようにと注意されるのはごくごく普通のことでありますが、この普通の注意が彼らには耐え難いものになるようです。
 普通と言われることも彼らは傷つくかもしれません。もし彼らが自分がどれほど親に虐げられたかという話をするのを聞いて、「そんなの普通の親子の間で普通にあることだ」などと言って御覧なさい。彼らの中にはそれで傷つき、そんなことを言う相手に激怒する人もおられるのです。

(他者から学べない)
 しかしながら、彼らのこの傾向に関して、私が残念に思うところは別の部分にあります。彼らが自分だけ特別に迫害されたなどと信じるのは彼らの自由だとしても、その感情は、結局のところ、自分が他の人たちとは違うということを強調してしまうだけなのです。ますます他者との断絶が広がり、彼らは孤立していくように私には思われるのです。
 さらに、自分だけが特別に苦しみ、特別に苦労したと信じる人は、他人の苦しみや苦悩に無関心にならざるを得ないのです。他人の経験に対して、彼らは理解できず、心を閉ざしてしまうということが起こり得るわけです。そうすると、彼らは他者から学ぶということからますます遠ざかるのです。
 もし、ある場面で、他の人たちは上手くやっているのにその人だけ上手くできないという状況があるとしましょう。上手くできないその人に向かって、「上手くやっている人を見てごらん」とか「他の人をもっと参考にしてみたら」などと私たちは提案できます。適切な提案であり助言であると私は思うのですが、彼らはこの種の提案や助言を撥ね付けるのです。他の人と「同じ」にされてしまうのが腹立たしいのかもしれません。
 結局、他者の経験が生かされず、そこから学ぶことができないので、彼らの成長が途絶えてしまうのかもしれません。そういう一面があるように私には感じられるのです。

(本項まとめ)
 本項では、「自称AC」者の一部の人たちから感じられるある傾向を、「傷ついた子供」ないしは「傷ついた英雄」元型仮説に基づいて考察してみました。これにより、自尊心やアイデンティティが補われている一方、尊大さや特別感といった態度形成が促される可能性を見てきました。さらに、こうした傾向は他者との断絶をさらに広げ、他者経験が生かされないといった望ましくない傾向を助長してしまうかもしれないことを綴ってきました。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)