<12-7A>人はいかにして「自称AC」者になるか(2)

<12-7A>人はいかにして「自称AC」者になるか(1)

 どの人も初めからACだったわけではなく、人生の途中でACになっていくものだと私は思います。では、一体、人はどのようにして「自称AC」になっていくのでしょうか。その経緯を、私が経験し、見聞したケースに基づいて再構成してみたいと思います。
 尚、「自称AC」者は自らカウンセリングを受けることは少なく、親を送り込むケースも多いので、直接本人から伺うことのできない経験はすべて私の方で憶測していかなければなりませんでした。従って、私の述べることがすべて「自称AC」者の体験と一致しているとは言えないということは前もってお断りしておきます。

(「自称AC」者は自分を語らない)
 さて、「自称AC」者たちの子供時代に関してはあまりよく分かりません。彼らから直接伺う機会が少ないので、その場合、親の報告に頼ることになるのですが、その報告は外的な出来事のみであります。つまり、彼らの内面的な経験は親の報告からは伺うことができないのです。
 また、彼らの中には自分の子供時代の経験を親に話し続け、訴え続けたという人もありますが、親には十分にそれが伝わっていなかったり、AC者が期待するほど親には理解できていなかったりもします。従って、親の報告がそのまま子供の経験を表明しているとは限らないという可能性もあるのです。
 さらに言えば、私は「自称AC」者の話を疑うつもりはないのですが、彼らが子供時代について話す事柄には歪曲が生じている可能性も考えられるのです。現在の感情で過去経験が歪められてしまうということが起こり得るのです。この点については後に取り上げる予定をしています。
 こうした事情があるので、大部分が私の推測していることの記述になるかもしれません。

(生きにくい子供時代)
 彼らの子供時代において、一つ重要なことは、不登校などを経験しているということです。不登校ほどはっきりとした経験ではなくても、学校に適応することが困難であったり、友達関係で何かとしんどい思いをしてきたといった経験があるようです。つまり、生きにくい経験、自分が上手くいかないといった経験を子供次代からしているようであります。
 もちろん、「自称AC」者全員がそういう経験をしているとも限りません。全員ではないけれど、私が経験した範囲では、けっこうな割合でそのような経験を子供時代にしているように思われるのです。
 一部の人たちは不登校を契機にカウンセリング等を経験している人もあります。彼らがそれをどのように体験したのかは不明です。彼らが自ら語ることが少ないためです。ただ、そういう経験をしたことがあるということを親から伺うのです。
 そして、当面はそれで何とかなったというケースもよく聞きます。ごく一部の人だけ、不登校問題をそのまま引きずってしまうのですが、その他のケースでは、取り敢えずは何とかなっているようであります。

(危機状況)
 そういう形で、あるいはどのような形であれ、「自称AC」者は子供時代をどうにか乗り切るのです。その中には、大人になって、何とか社会に出ることも可能になる人もおられるのです。
 大人になり、社会に出て、彼らはここで何らかの危機状況を経験したり、失敗や挫折の経験をしてしまうのです。それらを経験して一気に崩壊してしまうようです。ここで彼らの脆さが露呈してしまうように感じられるのです。
 危機状況にはどういうものがあるかということは既に述べました(<12-5>参照)ので割愛します。また、人によって経験した事柄も異なりますので、個々の経験を取り上げることも控えたいと思います。取りあえず、何らかの失敗・挫折経験があるという点だけを押さえておけばいいでしょう。彼らが「自称AC」になっていくきっかけとなった体験があるのです。
 はっきりと表明しようとしまいと、彼らには失敗・挫折経験があるのです。それは大きな失敗を一度してしまったといった一過性の経験である場合もあれば、小さな失意や挫折感を長期に渡って持ち続けてきたといった慢性的な経験である場合もあります。
 慢性的な経験ではきっかけとなった出来事を特定することが難しいのですが、それでも、「自称AC」者になっていく要因としての危機状況としてそれを捉えることができると私は思います。

(自己の違和化)
 危機状況に対して、彼らはそれに適切に対処できなかったのだと思います。その状況において彼らの自我が適切に機能できなかったのではないかと私は察します。彼らはこの状況に対して無力に応じることが多いように思います。
 それよりも重要なことは、彼らには「自分だけが上手くいかない」というように体験されているという点です。他の人たちは何の苦もなくやっているように見えるのに、自分だけが他の人たちのようにできないと感じるのです。どうもそのように彼らは経験してしまうようであります。
 この「自分だけが上手くいかない」といった感じは、過去の不登校の記憶などがそれに加わって、彼らの中で大きく意識されてしまうこともあるように思います。
 但し、ここで一つ注意しておきたいのは、この感じはその人自身の中にあるということです。自分の中にあって、いわば、自分の一部として体験されている感じであるということです。自分の中にある「感じ」として体験されているのです。
 自分の中におかしなものがある、上手く行かないものがある、人とは違う何かがある、これらの経験はその人がすでに「自己の異質化」に踏み出していることを示しているのですが、まだ、この段階では部分に限定されているのです。自分の中に違和感があるといった経験なので、ここでは「自己の違和化」と呼んでおきましょう。

(自己の異質化)
 自分だけが上手くいかないという経験をし、そこから「自己の違和化」と呼ぶことのできる状態が始まります。自分の中におかしな何かがあるとか、自分には他の人と違うところがあるなどといった具合に、それは自己の一部として体験されているものです。
 彼らはこれを何とかしようと考えるのです。彼らなりにその一部のものを処理していこうとするわけです。そうして、彼らはその一部分に意識を集中させてしまうことになります。
 一部分に全意識を集中させるということは、その一部分に視野が限定されることを意味します。すると、その一部分だけが視野の全体を占めるようになり、やがてはその一部分が意識のすべてを占めるということになります。その他の部分は意識や視野から締め出されてしまうということになります。
 そのようになっていくと、その一部分が自分のすべてであるかのように経験されてしまうのです。かつて一部分であったものが、自分の全体になってしまうのです。
 このような説明を読んでも訳が分からないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、ここはけっこう重要なポイントだと私は思っています。一部分が全体になってしまうのです。言い換えるなら、「私におかしなところがある」という段階から「私がおかしい」の段階へと決定的に移行してしまうのです。私はこれを「自己の異質化」と呼ぶことにしています。

(人間からの断絶)
「自己の違和化」から「自己の異質化」へと発展するわけですが、これは自分について経験することの性質が変わってしまうということを表しています。
 まず、「自分におかしなところがある」という一部分に限定されている状態では、自分は同じ人間であるが一部分だけ他の人たちと違っているという経験をしているのです。しかしながら、「自分はおかしくなった」という経験は、明らかに人間から断絶してしまっているのです。自分が他の人たちと同じ人間であるとは信じられなくなっているのです。もはや他の人たちと共通のものも、共有できるものもすべて喪失してしまっているのです。そういう経験となってしまうのです。
 従って、彼らは孤立せざるを得なくなるのです。人間からの断絶を経験してしまうのです。こうして彼らはますます人間社会から遠ざかってしまうのだと私は思います。

(本項まとめ)
 本項で重要なことは、失敗・挫折の経験~「自己の違和化」~「自己の異質化」という流れにあります。さらに「自己の異質化」~「異常意識」というプロセスがこの後に続くのですが、分量の関係で次項に譲ることにします。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)