<12-4>AC理論における「親」

<12-4>AC理論における「親」

 ACに関連する理論はとかく「親」というものを過剰なほど取り上げるという印象を私は受けています。AC信奉者がバイブルのように賞賛する「毒になる親」という本などがその代表例であります。
 彼らは「毒になる親」を論じるけれど、「毒になる子供」を論じないのです。そこがいかにもAC論者らしいと私は感じるのです。もし、「毒親」なる親が存在するとすれば、それは少なくとも次の2パターンを認めることができるでしょう。一つはもともと「毒親」であった親の下に生まれた子供のケースであり、もう一つは親を「毒親」にする子供のケースであります。どうも一方だけしか論じられていないように私には思われるのです。
 子供が親との間で人格形成をしていくのと同様に、親もまた子供との関係で人格を形成していくということを認めるなら、上記の2パターンが生まれるはずであると私は考えています。

 いずれにしても、AC理論においては親ということが重要な地位を占めています。
 AC理論が親を取り上げるのは、AC理論の誕生そのものに「親」ということが深く関与しているためなのでしょう。
 そもそも、ACというのは、アルコール依存症の親を持つ子供たちの研究から生まれたものであると私は伺っております。こういう親の下に育った子供は大人として十分に心的成長を果たしていないということが言われるようになったのでした。
 確かに、そういうケースもあることでしょう。でも、私は「自称AC」の人たちによって送り込まれた親たちとお会いしましたが、その親たちはアルコール中毒でもなければ、それほど重篤な問題を抱えているようでもありませんでした。
 どうやら、最初はアル中の親を持つ子供に限定されていた理論が、過剰に拡大された可能性がありそうです。

 ところで、AC理論は「毒親」などという不可解な理論を打ち出すのですが、一体、どういう親が理想なのでしょう。AC理論というものは、親とか家族を過剰に理想化している、もしくは美化しているという印象を受けています。
 どういう親がもっとも望ましいのか、望ましい親の姿とはどういうものであるか、その辺りのことをAC論者がどのように論じているのか私は知りません。しかし、「自称AC」の人たちの話を総合すると、望ましい親とは次のような姿になるのではないかと思います。
 まず、子供の要望や欲求を、子供が言葉にしなくても、察してくれて、先回りしてそれを満たしてくれる親であり、子供に関する事柄のすべての責任を負ってくれる親であり、子供が絶対に失敗しないように完全に手筈を整えてくれる親であり、子供のために自分の人生を捧げてくれるような親であり、上記のことをすべてやってくれる親が理想の親であるという感じがするのです。そして、これらの条件を少しでも満たすことのできない親は「毒親」として罵っても構わないということになるのかもしれません。
 でも、どこにそのような親が存在しているのでしょう。まるで神になれと言わんばかりの要求であります。そして、親にはそれができると信じているのでしょう。さらに、自分はそこで親を変える力を持っていると信じているのでしょう。親が神のように万能な存在に見えているとすれば、そして、自分には親をそこまで変える万能な力があると経験されているとすれば、その人は幼児期の認識から脱却していないということになります。幼児のままなのであります。このことはこの後で取り上げましょう。
 それはともかくとして、もし、「自称AC」の人たちがこんな親を期待しているのだとすれば、その期待が裏切られるのは必至であります。それでも、彼らは、親が間違っているのではなく、自分の期待の方が間違っているとはなかなか考えないものであります。
 ちなみに、もし彼らがそういう親を求めているとすれば、それは自分が「与えられる存在」の地位に留まるということを表すわけですが、それこそ「子供」の生なのです。大人になるとは、与えることのできる人間になるということでもあるのです。従って、彼らがこういう親を求め続ける限り、自分が与えられる人間に留まり続ける限り、彼らが大人になる可能性はかなり低くなると私は考えています。こういうところにも、AC理論の中に、個人をACに留めてしまう傾向が含まれているようにも感じられるのです。

 私は思うのです。乳児にとって、親は万能な存在に見えるだろうと。オムツが気持ち悪いということになれば、親がやってきて、それを快適な状態にしてくれるのです。空腹になれば、親が食物を与えてくれるのです。乳児はサインを出すだけなのです。後は、すべてが自動的に動いていくのです。乳児が物を言えたら、「親は神様みたいだ」と言うかもしれません。
 乳児にとって、親は万能であり、不可能なことなどない、そういう存在として体験されるでしょう。しかし、乳児が成長して、感情や認知が分化し、身体発育によって可動範囲が広くなり、さまざまな場面を親との間で経験するようになると、きっと、親が万能であるという信念が動揺することでしょう。
 万能だと信じていた親が必ずしも万能ではないとなれば、幼児は深く傷つくかもしれません。私たちは誰もがその段階を経験しているものと私は思います。
 やがて、子供は知っていかなければならないのです。親は万能でもなければ、神でもなく、一人の人間であることを。親には親の人生があり、感情があり、欲求があるということ、それは子供の感情や欲求とは異なるものであることを。つまり、子供は、親が一人の人間であり、しかも、自分とは違った人間であるということを本当に知っていかなければならないのです。
 この時、子供が経験するのは分離であり、激しい孤独であるかもしれません。個人として独立した存在になるとは、自分が一人であると認識する経験であります。個が確立するとは、人が孤独の経験をするということでもあると私は思うのです。
 人が一人の個人になるためには、そうした経験をしなければならないのかもしれません。個人として確立されているからこそ、私たちは他の個人と関係を築けるのです。個の確立は孤独の経験になるけれど、その孤独から抜け出る経験をしていくためには、個の確立がなされていなければならないのです。そのような逆説めいたことが人の生には起きるように私は感じています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)