<11-4O>無感情とニヒリズム(3)

<11-4O>無感情とニヒリズム(3)

 ニヒリズムに関して、これまで記述したことも踏まえて、大雑把にまとめておくことにします。一部、「治療」に関係する記述も現れることと思います。

 最初に感情体験の喪失を私は仮定しています。これは人生上の危機や転換、あるいは生活上に発生した大問題などが背景として潜んでいることが推測されるのですが、確認できないこともあります(本人が報告しない、触れたがらないということも関係しています)。
 感情体験が喪失するとは、精神的な「死」を経験するということです。感情体験によって、私たちは出来事に色彩を与えるのです。感情体験を喪失すると、そこで経験されることは無味乾燥した出来事の羅列に過ぎなくなるのです。
 感情体験の喪失に伴って、価値が喪失されます。この価値喪失状態をニヒリズムと呼んでいます。そこでは何をやっても意味がなくなるのです。感情や感動が伴わなくなるためです。彼らが趣味や生活を楽しめないのはそのためであると私は考えています。

 以上は前項までで述べたことであります。
 もう一つ、喪失される重要なものがあります。それは希望であります。何をやっても意味がないということであれば、そこにはいかなる希望も生まれないでしょう。
 希望は将来の時間展望と関係します。「この苦しいことを耐えることによって、より望ましい生を獲得できる」といった希望は一つの時間展望と見ることができるのです。希望の喪失と時間展望の喪失はお互いにつながるわけです。時間展望が喪失すると、その人の生は刹那的、短絡的、瞬間的なものになっていくのです。
 また、希望が喪失することによって、主体性や能動性が後退することになると私は思います。達成しようという希望がないのであれば、自ら動いていく意味がなくなるのです。相対的に非主体性、受動性が昂進するでしょう。これにより、運やツキなど外的な力にすべてを委ねるということ、または、外的な出来事に振り回されることが増えていくことになります。
 こうして、彼が非主体的、受動的になればなるほど、外側のことに翻弄されて、彼は無力な自分を経験してしまうのだと思います。それは「何事も自分の力ではどうすることもできない」と経験してしまうことであり、それは自分の力を失うことに等しいのです。彼は状況に対して無力な自分を経験するのです。ギャンブルに対して無力であることもその表れではないかと私は理解しています。

 無力者が自分を主張する時、しばしばそれは暴力の形を取ります。「自分にはまだこれだけ攻撃(破壊)できる力が残っている」という形で、自分が無力ではないことを証明するわけです。
もちろん、ここまで述べてきたことには個人差があります。ギャンブル依存者の中には、暴力沙汰を起こしてしまう人もあり、彼はその暴力の意味が分からないのです。自分が無力であることに気づけないのではないかと思います。
 そうして無力な自分であればあるほど、欲求不満状況、並びにそういう状況をもたらしたとされる人に対して、常に攻撃的にならざるを得なくなるのです。彼にとっては、この攻撃は正当な行為として見えていることが多いようですが、本当はその状況に耐えることができず、処理することもできず、無力な自分をごまかしているだけなのかもしれません。
 もし、ある人が攻撃的な行為、暴力行為をやってしまったとすれば、私は「あなたはそれをすべきではなかった」と伝えるでしょう。攻撃は禁止されなければならないのです。なぜなら、攻撃はそれ以上の反撃をくらうことになり、さらに強い制裁がその人に課せられてしまうからです。彼はさらに攻撃を激化しなければならなくなり、それは彼自身を消耗させ弱体化させてしまうのです。さらに彼の立場が悪くなるという状況も生じるでしょう。結果的に彼は自分の首を絞めてしまうことになるのです。
 理想を言えば、そこで攻撃することではなく、欲求不満に耐え、それをもたらした状況や自分自身を建設的に変えていくことが望ましいと私は考えます。破壊は求められていないのです。
 攻撃や暴力は禁止されなければなりません。無力であって、尚且つ、その捌け口が禁じられるということであれば、その事態はその人に絶望をもたらすことでしょう。

 絶望に話を移す前に、無力であることのもう一つの反応、暴力とは違った反応についても触れておきましょう。自分が無力化していき、それによって倦怠感や抑うつ感がその人を支配することもあります。私のクライアントではむしろそういう経験をしている人が多く、暴力沙汰をやってしまう人は少なかったです。
 倦怠や抑うつに支配されているとは言え、彼らは自分の無力をそのまま経験しているわけでもなく、また、受け入れているわけでもないのです。どこかで無力さに反発しているのです。「自分はこんなはずではない」とか、「やがて望ましいものが自分に与えられるはずだ」などと信じているのではないかと私は思います。無力であることを受け入れられないのに、無力な自分を経験してしまうところに苦しみが存在しているのだと思います。
 無力を受け入れることは、やはり絶望するということなのだと私は考えています。絶望というと言葉が適切ではないかもしれませんが、人間が絶望することは何も悪いことではないと私は考えています。それは生の転換点ともなりえるからであります。
 私が私の生に(私自身に)絶望するということは、それまでの生(私自身)の死を認めることであります。絶望により、そこから新しい生(新しい私自身)へ踏み出すことができるのです。逆説めいてきますが、絶望は常に新たな出発点となるわけです。
 しかし、ある人が絶望して、死の方向に進むか、新生の方向に進むか、ということは私には決められないことであります。そこは一人一人の個人が選択し決断しなければならない部分であると私は思うのです。
 死の方向(自殺)を私は推奨しません。しかし、個人が自殺してしまうことを私たちは完全に防ぐこともできず、その人から自殺の手段を封じてしまうことが本当に望ましいと言えるのかどうかも、私個人としては、定かに言えないのであります。
 もし、その人が新生の方向へと踏み出すのであれば、大いに意味があることだと思います。ただ、そこでは新生の方向に価値が生まれていなくてはならず、ニヒリズムのままであると、それも難しいのではないかと思います。
 絶望まで至るかどうかは別としても、ギャンブル依存の回復には、何よりもニヒリズムからの脱却を目指さなければならないと私は考えます。感情体験を回復して生に喜びが生まれること、希望が生まれて生きがいをもてるようになること、主体性・能動性が回復すること、自分の行為・生・存在に価値が感じられるようになることが不可欠であると思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)