<11-4N>無感情とニヒリズム(2)

<11-4N> 無感情とニヒリズム(虚無主義)(2)

 ニヒリズムについて、今度は感情面から考察していくことにします。
 感情の喪失が価値の喪失を生み出し、価値の喪失がニヒリズムへとつながるのです。このことは、離人症やうつ病の経験をしている人を観察しているとよく分かることです。
 そこでは、ある活動に対して、もはやその活動をする意欲が失せ、それをする意味が感じられず、それをすることの価値がなくなっているのです。
 そういう状態にある人が何かの活動をする時には、無感情に、機械的且つ儀礼的にするのです。必ずしも、能力的に不可能になっているわけではなく、その活動がもはや無意味なものとしか体験されていないのです。
 ギャンブルに限らず、依存症者には、多かれ少なかれ、ニヒリズムの傾向があると私は感じています。依存対象への依存行為は、実際には当人には無価値なものとして体験されており、彼らがそれをするのは虚無への抵抗としてであるか、もしくは儀礼的な習慣でしかないと私は考えております。
 つまり、パチンコ依存者は、パチンコをしたいと思ってやっているわけではないと私は思うわけです。本当にパチンコに価値を見出してやっているのではないということです。それはさらなる虚無を防衛するための行為であったり、習慣化された行為でしかないのではないかと私は思う次第であります。

 しかし、反論もあると思います。無感情がニヒリズムを生み出すとしても、パチンコ依存者はパチンコをすることで何らかの感情体験をしているではないかと。
 その反論は正しいと思います。確かに、現実にパチンコ依存者からその経験を聞いてみないと何とも言えないことではあります。
 ただ、そこにはわずかばかりの感情体験にしがみついている人たちがいるかもしれません。日常生活で活き活きとした感情を体験できず、わずかの領域において、わずかばかりの感情体験を求めているのかもしれません。そのわずかのものにしがみついている人たちであるようにも思われることが私にはあります。

 ところで、感情を喪失するということが、どれほど苦しい経験となるかという点にも注目しておきましょう。
 感情は私たちの生を彩る体験であります。私の生は感情とともに形成されていると言ってもいいと私は思います。人の生を生たらしめているのは、その人の感情なのです。感情体験をするということは、生きているということと同義なのです。
 感情が鈍麻したり麻痺したりする人たちは、もはや自分が生きているという実感を経験しなくなるのです。一人の生命のある人間として生きているのではなく、機械のようになってしまった自分を生きているのです。物質のような存在になってしまうことなのです。時間が来て、時間が過ぎる、その間を決められた行為だけを機械的にこなすといった生活になるのです。一切の感情体験、喜怒哀楽の体験がまったく生じないためです。
 こんな生き方は耐え難いものです。しばしば、感情鈍麻している人が激しい爆発を見せることがあります。まるで堰きとめられていた生命感情が一気に噴出すかの如くであります。無感情や虚無主義の反動なのでしょう。
 無感情で虚無になってしまうよりも、怒りの感情でも経験できる方がまだ救いとなるのでしょう。感情がすべてなくなるよりも、負の感情でも残されている方がましであるからです。それに、怒りの感情は、喜びの感情よりも根源的で、はるかに経験する機会が多いのです。あるいは、他の感情体験をしないので、怒りが過剰に体験されてしまうこともあるかもしれません。要するに、自分が生きているということ、さらにそれを実感することを、喜びを通じて成し遂げられないのであれば、怒りで成し遂げなければならなくなるということであります。この怒りが、自分が生きていること、人間であることの証となってしまうのです。
 なぜ怒りを取り上げているのかと言いますと、ギャンブル依存者には怒りっぽい人が多いと思うからです。もちろん、みんながみんな怒りっぽいというわけではありません。一部の人だけであるかもしれません。常にイライラしていたり、不機嫌であったりする上に、一旦くすぶり始めるとそれが長時間持続してしまうという人を何人か見かけたように思います。
 この怒りは、ギャンブルに負けてしまう体験、うまくいかない自分自身を見てしまう体験、自分の思うとおりに物事が進まないという体験に伴って生じるようであります。時に、こういう体験に人一倍敏感になってしまっている人もあるようであります。そういう場面でしか生を実感できないでいるとすれば、彼は繰り返しこの場面を求めるようになるかもしれません。

 治療的な観点から振り返っておきます。ギャンブル依存者に他の趣味を持たせるということは、方法としては正しいのでしょうけれど、その人がニヒリズムに陥っている限り、この方法は成功しないことでしょう。他のどんなことをしても、「楽しい」とか「いいなあ」という感情を経験しなくなっているためであります。
 上述の方法が間違えている点は、ギャンブル依存者が趣味でギャンブルをしているとみなしているところにあります。私がここで述べた見解では、彼らにとってギャンブルは趣味ではないのです。生を実感できる唯一の領域なのです。
 自分が生きているという感じがしない、あるいは自分はどうでもいいといった刹那的な感覚は、彼から価値が喪失されているからであると私は考えています。感情が喪失するので、対象の価値、ひいては自分自身の価値さえもが喪失するのです。
 従って、彼らの治療は感情体験の回復というところに求められるのです。それが目指される必要があると私は考えています。彼らの生活から喜びが生まれ、その喜びの感情を発見し、体験することができること、以後も続けてその喜びの体験を生み出すことができることなのであります。
 しかし、注意すべき点もあります。それが真の喜びであるのか、偽造された喜びであるのかは区別しなければならないのです。ここではあまり詳述しませんが、一時的、刹那的な快は、必ずしも喜びの感情と一致するわけではないのです。喜びの中には快体験が含まれるとは思いますが、快体験のすべてが喜びとなるわけではないのです。
 単純な例えを挙げれば、苦難を回避することは快であります。苦難を乗り越えることは喜びを生み出すのです。前者は、苦難を回避することで快を得ることができたとしても、再びその苦難に襲われることになるかもしれません。つまり、不安は絶えず、一時的な快は絶えず生まれる不安で帳消しにされてしまうでしょう。後者は、それを乗り切ることで前途が開ける気持ちが生まれるかもしれません。そこには達成感や充実感が伴っていることでしょう。
 喜びは常に快楽から生まれるとは限らないわけです。むしろ、喜びは達成感や充実感、充足感、あるいは効力感などから生まれるものであると私は考えています。感情はすべて生命感とつながっています。その意味では、怒りも悲しみもどちらも生命感とつながっているのですが、喜びの感情は生や自己の発展を鼓舞するものであると私はみなしています。本項では「感情の喪失」と一括しましたが、本当は「喜びの喪失」としてもよかったと思っています。
 ギャンブル依存に話を戻しますと、ギャンブル依存者は、私のお会いした限りでは、喜びをまったく経験しない生を送っているのです。苦労して目標を成し遂げたり、困難にめげずに根気よく何かを続けたといった経験が、彼の人生では極端に少なかったりするのです。困難にぶつかると投げ出してしまったり(もちろん、そう見えるだけなのかもしれません)、あるいは、継続することの意味や喜びを容易に喪失してしまうのではないか(こちらの方がより真実であると考えています)と、私は思うのです。そして、これはやはりニヒリズムの問題なのです。

 一度に多くのことを詰め込みすぎたのか、本項は散漫な内容になってしまったかもしれません。要点は、ギャンブル依存者たちを見ていると、感情的に活き活きしておらず、生活から喜びの経験が消失してしまっているように私には見えるということです。そして、この無感情がニヒリズムと手を携えているということでありました。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)