<11-4M>無感情とニヒリズム(1)

<11-4M>無感情とニヒリズム(虚無主義)(1)

「 あの頃はパチンコに湯水の如くお金を費やした。金銭感覚がおかしくなっていた」
 ギャンブル(パチンコ)から離れ始めたある男性が語ります。「金銭感覚がおかしかった」という表現は幾人かのギャンブル依存者から私は聞いたことがあります。
 「どうおかしかったの?」
 ダメでもともとと思いながら、私はそう尋ねてみます。
 彼らはこれに答えられないのです。「なんとも言えない」とか、「狂ってた」とか、そういった返答しか得られないのです。
 はっきりした返答が得られないので、私は推測してみるしかないのですが、これが彼らの経験していることと一致しているかどうかは確証がありません。私の推測では、「金銭感覚がおかしかった」と彼らが言う時、それは「金銭からその価値が喪失していた」という体験のことではないでしょうか。彼らは「価値の喪失」体験を言葉にしようとしたのではなかったのかと私は思います。

 少しだけ価値ということについて、ここで必要と思われる範囲内で、私の見解を述べることにします。
 哲学で価値という時、それは物の本質と関わる概念であります。ハサミは紙を切ることができます。それはハサミの本質的な部分であるので、ハサミの価値は紙を切ることにある、と言えるわけです。万年筆の価値はそれで字が書けるというところにあるわけです。物の価値は、その物が有している本質と関連しているわけです。
 一方、物に付帯する価値だけでなく、私たちの方で物に付与する価値というものもあります。字を書くところに万年筆の価値を置く人もあれば、胸元を飾るアクセサリーとして価値を置く人もあるでしょうし、デスクの上に置くインテリア小物として価値を見出す人もあるでしょう。これらの価値は、その物に所属しているものではなく、個人の中で新たに生まれ、意味づけられた価値といえます。
 以上をまとめると、物にはその本質に関連する固有の価値があります。それとは別に私たちは任意に対象の価値を生み出すこともできるのです。価値は対象物に備わっているだけでなく、私たちの中で生まれることもあるのです。ここでは後者が重要になります。
 対象に対する価値が私たちの中から生み出されるということは、価値のある対象が変遷するという事態も招きます。私が子供の頃は、本にはさほど価値が見出せず、ラジコンカーにはもっぱら価値がありました。現在、書物は私にとって価値がある存在となり、ラジコンカーはまったく無価値な対象となっています。価値の対象が変わっているのです。おそらく人それぞれそういう経験をお持ちだろうと思います。
 私によって価値が見出されている対象は、私の趣味の領域に入ってきます。生活の中で大きな位置を占めることになります。その人が価値を見出すことのできている対象が彼の生を彩るのです。従って、価値の対象が変遷すると、その人の生活が大きく変わってくるのです。
 価値が変遷するということは、かつて価値を有していた対象からその価値が喪失していき、新たに価値を見出せる対象が生まれるということです。価値ある対象が入れ替わるわけです。この中間の段階、かつて価値のあった対象からその価値が喪失してから、新たに価値ある対象が生まれるまでの無価値状態をニヒリズムと呼びます。ニーチェの言うニヒリズムはそういう状態であると私は理解しています。古い価値は喪失しているが、でも、新しい価値がまだ生まれていないという状態であります。
 ここではもう少し広い意味でこの言葉を使用します。あらゆる対象から価値が失われている状態をニヒリズムと呼ぶことにします。新しい価値が期待されているかどうかに関わらず、すべてが無価値で虚無であると体験されている状態を指すことにします。
 さて、価値は新たな対象から見出されることもあります。価値を経験するのに、私たちは二通りの仕方があると思います。まず、価値があると信じられるものを購入したり、価値があると思われる行動をし、実際、それに価値が見出されている、こういう経験をすることがあります。これは先に価値が認識されているという経験です。一方で、買ったものに価値が生まれたり、自分の行動に後から価値が見出されることもあります。これは後から価値が生まれているわけです。最初から見出されている価値もあれば、後から生まれる価値もあるということであります。
 例えば、最初からマイカーを欲しいと思っていた人は、自動車を買う以前からそれに価値を見出していたことでしょう。一方で、それほど車を欲しいとは思わなかったけど、必要上購入したという人の中には、自動車を買ってから、その魅力にとりつかれ、日曜日になると洗車ばかりするといった人もあるでしょう。私たちは価値あるものを獲得するだけではなく、獲得してからそれに価値を見出すという経験をすることもあるのです。あるいは、価値のあるものにお金を払うだけではなく、お金を払ったものに価値が生まれるという経験をする、と言ってもいいでしょう。(繰り返しこれを言うのは、ギャンブル依存者の「治療」において、このことが重要になるからです)。
 価値について、もう一つだけ大切なことを追記しておきます。価値ある対象はなんらかの感情体験を伴うという点を押さえておきたいと思います。車に価値を置いている人は、車に乗ること、車を洗うことなどを楽しいと経験することでしょう。
 他に、価値はモノだけに限らず、人に対しても見出されるものであります。それは自分自身にも見出されるものであります。これらの場合においても、基本的に上記のところと同じ構図を持っていると私は考えています。私の価値は、私の本質に関わるものであり、それは私に付随しているだけでなく、私によっても見出されるものであります。私が私自身に価値を見出している時、私は自分自身と関わることを楽しいと経験します。私自身にいい感情経験をするのです。
 以上を踏まえて、ギャンブル依存のテーマに戻ることにします。

 ギャンブル依存者は、私がお会いした人のほとんどすべてが、自分は無趣味であると断言します。他に趣味と呼べるものが何もないということです。私はこれをニヒリズムであると考えています。そして、このニヒリズムの背景には無感情化があると思います。
 彼がニヒリズムに陥っているので、彼は自分のいかなる活動にも価値を見出すことができないのだと私は思います。
 パチンコの代わりにゲームをしたらいいのにと同僚から助言されたある男性は、その助言を実行してみました。結果、ゲームはつまらないだけであり、彼は今まで通りパチンコに精を出すというありさまでした。
 パチンコ依存者がパチンコをしなくなるということは、その代わりに他の活動をそこに持ち込まなければならなくなります。上記の例のように、もし、彼がニヒリズムに陥っていれば、彼が何をしても一緒なのです。彼にとっては、どんな活動も無意味であり、無価値になってしまうからです。

 その一方で、かなり後になってから活動に価値が生まれる例もあります。その人は休日に散歩をするということを始めたのでした。パチンコをする代わりに散歩するというのです。当初、散歩の目的はパチンコ店に近寄らないようにするというところにありました。そのため、街中を避け、山や公園を歩くようにしていました。
 彼が散歩を楽しいと思えるようになったのは、一年近く後のことでした。毎週ウォーキングをしていると、運動不足が解消され、痩せるようになり、体が軽くなったと感じられたことも影響したようでした。こうして、散歩することが楽しくなると、散歩すること自体が目的となったのでした。こうなると街中の散歩も恐れる必要はなくなったようでした。
 彼のこの活動(散歩)はパチンコの文脈から離れていきます。パチンコ店に近づかないために歩く(パチンコの文脈上にある目的)ことから、見知らぬ場所を歩くこと、景色のいい道を歩くことなど、歩くことそのものが目的となっていったわけです。彼はこの活動に価値を見出すようになっているのです。この価値が見出される以前に、彼の中で感情体験が甦っていたことが分かるのです。

 以上、ニヒリズムからの脱却が「治療」的にも重要であることを、二つの例を挙げて確認しました。続きは次項にて展開します。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)