<11-4J>浪費の問題

<11-4J> 浪費の問題

 私が当時の行きつけだった飲み屋で飲んでいると、パチンコ好きの常連客が「ちょっとパチンコ行ってくる」と言い残して店を出るのです。もちろん勘定は済ませてのことです。それから30分か40分くらいすると、その常連客が戻ってきました。「今日はアカン、3000円負けた」などと彼は言うのです。
 おそらく、依存症に至らない程度のギャンブル愛好家というものは、彼のような感じではないかと思います。彼は毎日、わずかの時間、わずかの遊興費でパチンコ遊びをしているようでした。
 依存症と愛好家との違いは浪費の程度で分けることができるかもしれません。ここには時間の浪費と金銭の浪費とが含まれます。まず、時間から考察することにします。

 ギャンブル依存の人たちは、パチンコ依存の場合であれば、パチンコ店で過ごす時間が異様に長いのです。競馬依存の場合では、競馬場で過ごす時間が異様に長いように私には見えるのです。その日の軍資金をすべて費やしても尚、その場に留まることも多いようであります。
 あるパチンコ依存者は、休日になると開店から閉店までパチンコ屋で過ごすと言います。その間、ずっとパチンコを打ち続けているのかと尋ねますと、そうではないという答えが返ってきました。パチンコを打っていない時間もかなりあるらしいのです。何をしているのかというと、特に何もしていないようでありました。
 パチンコをしないのに、パチンコ店に滞在する(最近のパチンコ屋では喫茶店が併設されていたり、コミックや週刊誌が置いてあったり、休憩所が完備されていたりして、なかなか居心地がよいとのことです)のは、どういう心理なのかと私は疑問に思うのですが、その人からは詳しく聴くことができませんでした。何かの未練があるのか、結末を引き伸ばしたいのか、余韻に浸りたいのか、はっきりとは分かりませんでした。
 時間の浪費は、その他の場面でも見られるように思います。私がお会いしたギャンブル依存者の中には、さっさと済ませればいいものをグズグズと引き伸ばしてしまう人もあれば、仕事の合間を縫ってやたらと喫煙に行くという人もありました。モラトリアム(猶予期間)とか準備期間を有効に使えないという人もありました。
 それらはすべて時間の浪費というテーマに収斂することができそうであります。自分に与えられた時間を無駄遣いしてしまうのです。
 この傾向は「治療」にも現れるのです。一時間の治療時間を有効活用できず、無駄がやたらと多いという人もあり、なかなか進展しないというケースが目立つように私は感じています。
 こうした浪費はニヒリズム(これは重要なテーマであり、後に取り上げることになります)の一つであると私は考えています。与えられた時間に価値を生み出せない、価値あるものにしていくことができないということであり、あるいは、時間そのものから価値が喪失していると見ることもできるので、だからニヒリズムであると私は考えるのです。

 金銭の浪費を意識している人はけっこうおられたように思います。自分がお金を無駄遣いしていると分かっている人たちです。しかし、金銭の浪費は意識できても、時間の浪費までは意識できていないという人もおられましたので、時間の浪費よりも金銭の浪費の方がより分かりやすいように思います。
 金銭の浪費は、ギャンブル場面だけではなく、生活のさまざまな場面で顔を覗かせます。ギャンブル以外の出費がけっこう多いという人もあるようです。
 きちんと食事を取れば、それほど間食のおやつとかは必要としないだろうと私は思うのですが、やたらとそういうものにお金を費やすという人もありました。一日に1000円近くのおやつ代がかかるという人もありました。
 缶コーヒーとかジュースの類もそんなに毎日飲むことはないだろうし、飲んだとしても一日に一本か二本くらいのものではないでしょうか。そんな四本も五本も(それも毎日のように)飲むということは滅多にないことではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。
 彼らが自分のお小遣いをどのように使おうと私は口出しできないのですが、その使い方が気になったという人もあります。その人のお金の使い方が、よく言えば子供っぽく、悪く言えば躁病的なのであります。この人のギャンブル以外の浪費は症状として見なければならないと悟ったのを覚えています。
 また、金銭は「負け」の総額としての意味しかなくなっている例もよくあり、金銭が金銭の意味合いを喪失していると思われることもあります。
 さらに、金銭の浪費は、その金額ではなく、対価から見ることも可能です。つまり、10万円をパチンコに費やしても、「これなら1800円払って映画でも観てた方がましだった」ということであれば、10万円の金銭に対して、1800円以下の楽しみしか得られていないということになるので、これも浪費と考えなければならないと思います。500円でコーヒーを飲んだけど、あれなら100円の缶コーヒーでも十分だったということであれば、それもやはり金銭の浪費になっているのです。
 ギャンブル依存者は、その遊興費に比較して、はるかにわずかしか満足や楽しみを得ていないと思います。見方によっては、それは金銭の浪費をしているわけであります。

 時間と金銭の他に、ギャンブル依存者がもう一つ浪費しているものがあります。金銭の浪費に気づいている人は多く、また時間の浪費に気づいている人もあるのですが、これの浪費に気づいている人は、私がお会いした範囲では皆無でありました。
 それは能力(あるいはエネルギー)であります。能力以下の仕事しかしないというのは、能力の浪費をしているわけです。100の能力があるのに、それだけの能力を費やして10程度の仕事しかしていないということは、それだけ能力を浪費しているということになるわけです(これは「高次機能の減退」ということになるわけですが、詳しくは別の箇所に譲ることにします)。
 あるギャンブル依存男性は、かつては役職に就いていたのですが、役職を降り、今では一番下っ端で働いています。役職をこなせる能力のあったこの人が、今ではペーペーの下っ端で、上司にこき使われ、パワハラを受けて憤慨している有様であります。彼は自分の能力を浪費しているのです。私から見ると、それは能力の無駄遣いなのであります。
 ある男性は、何に対してでも全力投球することを拒否します。ほどほどにやったらええんや、くらいに考えるようです。能力はあるのに、その能力を使い切ることなく、無駄に捨てているようなものではないでしょうか。これもまた能力の浪費となると私には思われるのです。
 これは別の機会で述べる予定をしているのですが、ギャンブル依存者たちの話を伺っていると、何かに情熱を傾けて、何かを達成したとかやり遂げたという経験がとても乏しいように私には感じられています。決して、彼らにそれをする能力が欠けているわけではないのです。途中で虚無に襲われたりするのでしょうか、能力を投資することを放棄したり、能力を制限したりするようです。
 それらはすべて、能力があるのに、尚且つ、その能力を活用していい場面で、能力を捨ててしまうかのようです。「パチンコでお金をたくさんドブに捨てた」と述懐した男性は、能力も同じようにドブに捨ててきたことにはまったく気づいていませんでした。「そんなに一生懸命やったらしんどいやん」が彼の言い分でした。

 時間、金銭、能力の浪費を見てきました。彼らは自分が能力を浪費してしまっていることに気づいていないのですが、それは非常に残念なことであると、私は個人的にはそう感じています。少しでもその点に気づいてもらえればという願いもあります。
 最後に、浪費に関してはさまざまな観点から考察することが可能でありますが、私はこれをニヒリズムとして考えたいと思うのです。浪費の問題はニヒリズムの一環であるという認識をしています。
 金銭の価値が喪失すること、ないしは金銭を費やすだけの価値が対象から失われることは、やはり価値の喪失(ニヒリズム)であると思うのです。時間そのものの価値、時間をかけるだけの価値が対象から失われることも同様であります。自分の持っている能力の価値、その能力を十分に発揮するだけの価値が対象から失せることも、やはり同様に、ニヒリズムであるように私には思われるのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)