<11-4I>賭けることができない(2)

<11-4I>ギャンブル者は賭けない(2)~悩むことの回避

 失礼な言い方とは思いますが、ギャンブル依存者は「治癒」が向こうからやってきてくれるものと期待しているという印象を私は受けています。それは、パチンコで「当たり」が来るのを期待して待つことと大差のないことであると私は思います。この「望ましいものが向こうから自動的にやってきてくれる」という期待に関しては後ほど取り上げることになるでしょう。
 しかし、「治癒」というのは、こちらから獲得していかなければならないものでもあります。ただ待機していればいいというわけでもないのです。それは苦しみを回避したいという気持ちの現われに過ぎないと私は考えています。

 ギャンブル依存者がギャンブルをしなくなるとは、その人が次のような場面を経験することであります。今、あなたには時間があり、パチンコをするだけの経済的余裕もあります。あなたはパチンコをしたいという渇望に襲われています。今、パチンコに行こうか行かないか、あなたは真剣に葛藤するのです。どちらかをあなたは決断しなければならなくなっています。つまり、どちらを選択するかを賭ける場面にあなたは直面しているのです。この苦しい場面に立たされていても、尚、あなたはパチンコをしないということに賭けなければならないのです。のたうち回ってでもその賭けをしなければならないということです。
 あなたがギャンブル依存から抜け出そうと望むなら、上記のような場面を経験することは避けられないでしょう。あなたが下す決断に関しては、私はどうすることもできません。つまり、私がその決断の肩代わりをすることもできません。その場面で、あなたは独力でパチンコをしないという決断をしなければならなくなるのです。ギャンブル依存が「治る」とはそういうことなのです。

 しかしながら、選択の余地がない状況では、彼らは「禁ギャンブル」に成功することもあります。
 ある人は大病を患い、長期間入院した経験がありました。この入院期間中、彼はパチンコのことをほとんど考えなかった上に、パチンコに対する渇望がそれほど強く生じなかったと言います。
 また、ある男性は破産してしまい、パチンコをするお金がまったくありませんでした。その後、経済的にゆとりが生まれてくるまでの数年間、彼は一度もパチンコをしなかったと言います。
 もう一人の男性においては、彼の兄と母親が彼の経済面を監督しました。つまり、彼の給料は一旦兄に預け、そこから日々の必要な経費だけを、毎日、母親を通じて彼に手渡されるという状態にありました。彼はパチンコの誘惑に襲われながらも、禁パチンコに成功していたのでした。
 これらのケースでは、当人がパチンコをするかしないかといった選択の余地がないわけであります。彼は葛藤を経験しない上に、決断する必要もないのでした。
 こういう状況では、彼はギャンブルしたくてもできないわけです。強制的に「禁ギャンブル」が課せられてしまっているのです。そして、彼らはこれに成功するのです。当然、これは「したくてもできない状況」に置かれただけであって、彼が自発的に「ギャンブル依存を克服した」わけではないのです。

 また、みずから選択の余地を取り去る人たちもあります。
 ある人は帰宅時にパチンコに寄ってしまうということなので、絶対にパチンコ店の前を通らないルートを作成して帰宅するようになりました。かなりの大回りをして帰宅するのでしたが、それはそれで効果があったと言います。
 同様のケースで、パチンコ店に自由に出入りできる状況を自分から除去するために、バイク通勤を止め、電車とバスを乗り継いで通勤するようになりました。バスの窓から流れすぎていくパチンコ店を見ると、彼は自分が助かったと感じたと話します。
 これらのケースでは、一定期間ギャンブルをしないことに成功しているので、ついつい自分はギャンブルから足を洗うことができたと錯覚してしまうことがあるようです。でも、彼はギャンブルを止めたのではなく、やりたくてもできない状況に身を置いていただけなのです。それは対象を奪われただけであって、対象を断念したり、対象から距離が生まれたり、対象に対して自分を選択したりしているのではないのです。
 従って、選択の余地が生まれると、彼らは、大概の場合、迷うことなくギャンブルに手を出すことになるのです。
 兄と母親が彼の経済監督になっていたというケースでは、この兄は、弟がギャンブルから遠ざかると、それが自然と身に付いて、弟はギャンブルを止めるだろうと考えていたようでしたが、これはこの問題の本質を把握していない人の考え方であると私は思います。

 彼らは、私の印象に過ぎませんが、「迷わなくていい場面」では極めてよく適応するのです。「迷わなくていい場面」とは、習慣、規則、禁止、命令などが働く場面であります(<11-3>節参照)。禁ギャンブルに関しても、そういう場面では彼らは上手く行くことがあるわけです。しかし、「迷わなくていい場面」から離れると、彼らは速やかにギャンブルに戻るようであります。
 これはギャンブル場面だけに限らないのです。これまでの人生においても、彼らは「迷う場面」を回避してきたエピソードがあるのです。
 例えば、ある男性は、高校時代、進路ガイダンスで大学は無理だと担任から言われると、速やかに大学進学を諦めました。その後、就職適正検査を受け、検査官から「君はこれこれこういう職種に向いている」と言われると、迷うことなく、その職種に就職したのでした。
 結婚などにおいてもそれが見られます。ある男性は見合い結婚をしたのでした。先方さんが彼を気に入り、両親も強く勧めてくれたので結婚したのでしたが、「本当は結婚なんてどうでもよかった」と彼は言います。
 他にもさまざまな場面でそういうエピソードを見ることが可能であります。ギャンブル依存者の経歴や話の中には、自分自身のことで選択し、決断したという場面が限りなく少ないという印象を私は受けています。

 迷ったり、葛藤したりというのは、苦しい経験であります。彼らはこの迷いや葛藤状況を回避するのです。もしくは速やかにその状況を終わらせ、苦しみを最小限に留めようとするのです。これは苦しい経験を回避しようとしているということであります。
 ギャンブルに手を染めるようになったことも、苦しいことの回避と関連していることが多いのです。それを抱えたり、耐えたりするよりも、彼らはそれから退却すること、回避することを求めるのです。
 従って、彼らの「治療」とは、彼らが苦しい経験をすることにあります。悩み、葛藤する状況に身を置くことができるようになることなのです。ここを彼らは間違えることもあります。
 ある男性は、それなりに進歩していったのですが、「治療を受ければ受けるほど苦しくなる」と訴えます。苦しみを経験できるようになっているのは、それだけ彼が良くなっていること、あるいは彼がそれだけ強くなっていることを示しているのです。苦しい状況に身を置くことができるようになっているからなのです。以前の彼ならその状況をさっさと手放すでしょう。パチンコをして処理するでしょう。彼がそれだけ強くなっているからこそ、その状況から逃げ出さずにいられるのです。パチンコでごまかすことを彼はしなくなっているのです。しかし、彼にはそこがどうしても理解できないようで、こんなに苦しくなるのは「治療」の方が間違っていると信じてしまったようでした。そうして、彼は耐えられないと言って、せっかくの「治療」を中断してしまったのでした。

 私の見解では、ギャンブル依存者は、自分自身に関して、迷い、葛藤を経験し、そこから決断していくことが困難であります。彼は人生も、生活も、禁ギャンブルもすべて「迷わない」領域でやっていこうとするのです。そうして、迷うこと、葛藤すること、その苦しい状況に留まること、さらには自分自身を決定していくことを、彼らは回避したがるのであります。私はそこに本質的な問題があると考えています。

(文責・寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)