<11-4H>賭けることができない(1)

<11-4H> ギャンブル依存者は賭けることができない(1)

 何人かのギャンブル依存クライアントにある問題を出したことがあります。ここで同じ問題を出してみようと思います。便宜上それぞれの段階に番号を付しますが、これは後の説明のためであります。

 ①まず、私は友達といます。お互い、特にすることもなく、話すこともなく、退屈しています。
 ②そこで友達がゲームをしようと提案します。コインを投げて、表か裏かを当てっこしようと提案します。外れた方は当たった方に1000円払うというルールで。
 ③私は迷います。そのゲームが面白いのかどうかよく分からないのですが、最悪の場合でも1000円の損失だから、やってもいいかと決めます。
 ④彼は使用するコインを出します。何度か試して、そのコインが表も裏も均等に出るということをお互いに確認します。
 ⑤私は裏が出ると予想します。彼は表が出ると予想します。
 ⑥コインを投げた結果、裏が出ました。彼はルールに従って私に1000円渡します。私はルールに従ってそれを受け取ります。
 ⑦しかし、私はこんなことで友達からお金を徴収することに後ろめたい気持ちになり、このゲームをしたことを後悔し始めています。
 さて、問題は「私の賭けがどこで行われたでしょうか?」というものです。

 すでに<11-3>節をお読みの方には答えが分かっていると思うのですが、私が賭けをしたのは③の段階です。ギャンブル依存者は⑤の段階で賭けがなされたと答えるのです。
 一方、賭けの結果、つまりその賭けの配当はと言うと、⑦が私の賭けの配当に該当します。ギャンブル依存者は⑥が賭けの配当だと答えます。
 表か裏かを予想すること、予想の外れた方が1000円を正解者に払うことというのは、このゲームのルールであります。この予想は賭けにはならないのです。どちらかを選ぶということがルールになっているからであります。また、外れた方が1000円を払うというのもルールであり、いわば、このゲームの遊興費に該当するものです。
 ゲームをしようという友達の提案に対して、私は迷います。結果、そのゲームをするという決断を私はします。この決断が賭けであるわけです。この賭けの配当は、結果的に自分の選択を後悔するというものでした。この場合、負の配当を私は受け取ったということになります。

 分かりにくいと思われた方のために別の場面を取り上げましょう。
私はギャンブルをしないと言うと、あるギャンブル依存者は「じゃあ、高校受験の時はどうでしたか?」と尋ね返してきました。どういうことかと私が尋ねたところ、彼にとって入試はギャンブルに等しいものとしてみなされているようです。入試で合格するか不合格となるかは、彼にとっては、賭けになるようです。
 もちろん、そんなところに賭けなどないのです。そこでは、単に、その高校に入学するのに必要な学力を身につけているかどうかが問われているだけなのです。私がそれに見合うだけの勉強をしていれば合格するでしょうし、勉強が足りなければ不合格となるでしょう。そこには賭けなど何もないのです。
 しかし、もし賭けの要素があるとすれば、入試以前にそれは行われているのです。私がA高校に行くか、B高校に行くかと悩み、A高校に決めた時、その時点で賭けが行われているのです。A高校の入試はそのために必要な勉強をしたかどうかだけが問われているのです。
 A高校を選ぶことがここでは賭けでした。私はB高校を選ぶこともできたのです。でもA高校に決めたのです。その配当は、その後の高校生活で経験すること、並びに高校卒業後の私の人生であります。B高校に行っていたらまた違った高校生活を送ることになり、その後の人生にも違いが生じていたでしょう。それでも私はA高校を選択し、その人生を選んだのです。そこに賭けがあるのです。A高校の入試も、A高校入学後の生活も、すべてこの賭けに付帯しているものなのです。
 賭けるとは、自分に関して行う自己決断なのです。コインのどちらの面が出るかを予想すること、入試に及第点を取るかどうか、これらは「自己に関する自己決断」を含まない領域のことなのであり、賭けが存在しない領域なのです。賭けはそれ以前に行われているのです。

 ギャンブル依存者は自分がどこで何を賭けているのか分からないのです。私はそう思います。
 休みの日になるとパチンコに行くという人がいるとしましょう。パチンコに行って負けたとしましょう。彼は賭けに負けたと感じるのです。本当の賭けは、今日、この休みの日にパチンコ店で過ごすかどうかを彼が決定する時になされているのです。そして、この賭けの配当は彼が惨めな気持ちで夜を迎えたということであります。
 しかし、彼はこの賭けに気づかないどころか、賭けの要素を限りなく排除しています。つまり、習慣化することで、それを賭けにしないのです。彼は言うのです。「つい、フラフラとパチンコ店に入ってしまった」と。彼は自己決定していないのです。つまり、賭けていないのです。
 繰り返しこの人に登場してもらうのも気が引けるのですが、「お前のところで治療を受けたら本当にパチンコを止められるのか」と問い合わせた人も、賭けることができないのです。私のところで「治療」を受けるかどうかはこの人が決断することなのです。彼はそこで賭けることが求められているのです。でも、彼は賭けを回避しているのです。決断をしないのです。代わりに保証を求めているのです。保証が得られたら受けようというわけで、これは逃避的決断をしているのです。本当に決断しないのです。賭けないのです。

 すでに述べましたように、賭けが生まれるためには、葛藤や迷いの場面に立たされるという前提があります。そこから賭けが生み出されるのです。葛藤や迷いの生じない場面では賭けが生まれないのです。
 賭けが生まれない場面、つまり迷いや葛藤が生じない場面として、習慣、規則、強制といった場面を<11-3>では取り上げました。そういう場面では、賭けが生まれないのです。どちらにしようかと迷うことはなく、どちらにすべきか、どうするべきかということが最初から決定されているからです。
 ギャンブル者は賭けないのです。賭けないということは、自分に関する自己決断をしないということなのです。自己決断をせずに生きるということは、悩みや葛藤の経験を限りなく排除することなのです。すべてを習慣、規則、強制にしてしまうことで、排除することが多いように私には感じられています。

 ギャンブル依存者は、自分は賭け事に興じていると信じているかもしれませんが、私から見ると、それは錯覚なのです。彼らの言う「賭け事」は、その遊興の有するルール内(あるいは条件内)の話なのです。競馬(が分かりやすいので)を例にすると、競馬のゲームに参加するためには、どの馬が一着になるかを予想しなければなりません。この予想をしないと、単にゲームを傍観しているだけになります。参加するためには予想しなければなりません。予想をするということは、参加の条件として、予め決められていることであります。参加の条件を満たすという観点に立てば、何番の馬を予想するかはここではまったく関係がありません。ただ、何番かを予想しなければ参加できないのであるから、予想を立てるだけなのです。
 本当の「賭け」とはそういうものではないのです。彼らは「賭け」ということを本当には知らないのです。賭けるということがないから分からないのだと私は思います。仮に「賭け」をしたとしても、自分がどこで何を「賭けた」のかを気づくことがないと私は思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)