<11-4G>運とツキ(2)

<11-4G> 運とツキ(2)

 ギャンブル依存者ならびに愛好者が好んで使用する言葉である運とかツキについて考えています。私はこれの正体を知りません。運とは何か、ツキが回るとはどういうことなのか、私は何も知りません。
 正体は分からないけど、運とかツキというものは、自分の外側から自分に与えられる何かといったニュアンスが感じられるのです。それは自分を超越した存在、あるいはその超越者からもたらされる何かということになります。
 これの原体験は幼児期にあるのではないかと私は思います。幼児期に私たちはその経験をしているので、運とかツキがどういうことか分からなくても、感覚的に理解しているのではないかと思います。
 以上は前項で述べたことでした。本項ではもう少し踏み込んでみようと思います。

(超越者とのつながりの確認)
「運試し」にギャンブルをするという人もあります。「運試し」とはどういうことでしょうか。それは自分に運があるかどうかを試すということなのでしょうが、それは一体どういうことなのでしょう。
 運やツキという言葉を使用する際に、何らかの形であれ、超越者の存在を仮定しているとすれば、運を試すとは、自分がまだ超越者に守られているかどうか、超越者とのつながりが持てているかどうかを確認する、ということになるのではないでしょうか。言い換えれば、運(超越者)から自分が見放されていないかどうかの確認という意味合いを持つことになるのではないでしょうか。
 幼児期の環境に置き換えるなら、本当に親が来てくれるかどうか、それを試すために泣いてみよう、という行為に等しいのではないかと思います。(ちなみに、余談ながら、運とかツキに対するその人の態度や思考、行動は、その人の親に対するそれらと似たものになるだろうと私は個人的に信じています)
 そうして、もし自分に運があれば、自分はまだ見捨てられていないことが確認でき、安心できることでしょう。もし、運がなければ、失望することになるのでしょう。
 どちらの結果が訪れるとしても、運を試したり、期待したりする時、それは幼児の立場に身を置くことに等しいように私には思われるのです。そこでは無力な自分が経験されているように思うのです。この無力な自分に救いの手が差し伸べられるかどうか、それが運試しということであり、ギャンブル依存者はギャンブルでそれをやっているように私には思われることがあるのです。

(見捨てられ反応)
 しかしながら、皮肉なことに、自分がまだ超越者の腕の中にあるのかどうか、救いがもたらされるかどうか、そのことを確認しようと試みたとしても、ギャンブル依存者は否定的な結果を得ることになるようです。つまり、自分に運やツキはなく、それらから見放された自分を経験することになるようです。
 そのように考えると、ギャンブル依存者がギャンブルで負けるということは、通常の意味でゲームに負けるのとは違った体験、それ以上の体験をしているのかもしれません。単純にパチンコで負けたという体験以上に、もっとダメージの大きい、実存の根幹を揺るがすような、壊滅的な体験をしているのかもしれません。もっとも、現実にそうであるのかどうかは分かりません。ギャンブル依存者はそういう話をしないことも多々ある(つまり敗北の否認のため)ので、彼らがどういうことを経験しているのかは、よく分からないのです。
 しかし、一部のギャンブル依存者からは、パチンコで負けた後の惨めな気持ちを聞くことができました。パチンコで所持金をすべて失ったあとは、惨めな気持ちに教われ、ものすごく落ち込むということでした。私にはその気持ちが生じる理由がよく分かっていませんでした。
 一文無しになったとしても、それだけ遊興したのであるから、多少は満足していそうなものであるように私には思われるのです。もし、惨めな気持ちになるとすれば、一文無しなったという事実、つまり喪失の経験に基づいているのではないかと考えた時期もあります。
 現在では、むしろ、それは「見捨てられ経験」に基づく反応であると私は考えています。超越者から見放された自分を経験しているのだと思います。親から見捨てられた子供が示す反応に近いものであると考えています。

(自分自身を当てにできない状況)
 さて、運とかツキを期待する場面、あるいは神仏にすがりつきたくなる場面も、人は経験することがあると思います。私にもそういう場面があります。特に、自分の力ではどうにもできないという場面でそれを経験します。
 例えば、約束の時間にその場所に着いていなければならないという状況があるとしましょう。私はタクシーに乗ります。そこで交通渋滞に巻き込まれました。車はノロノロとしか進みません。このままでは間に合うかどうかが微妙であります。そういう時に、タクシーの中で神頼みをしている自分を経験するのです。
 自分がそれに対して、その状況において、無力であると感じられれば感じられるほど、運やツキを当てにしてしまうのかもしれません。それを当てにするということは、相対的に自分自身を当てにできなくなっているということなのだと思います。運やツキを期待すること自体は何も問題ではないと私は考えているのですが、それによって自分自身がますます当てにできなくなっていくとなると、やはりそこは問題になると思うのです。
 自分では何もできなかった乳幼児は、自分でできることが増えていくほど、親を求める頻度が減ってくるものです。あるいは、もっと適切な形で要求を出せるようになっていくものです。これは子供が発達して、身体能力や技能をより多く身に付け、対処できる状況が増えていくからでありますが、これは純粋に能力の問題であるとも言えないのです。子供が自分でできるようになるには、それだけ自分を当てにできているという前提が必要であるようです。自分でできるはずなのに、親にやってもらうということであれば、その子はそれだけ自分を当てにできていないということになるわけです。自分を当てにできないということは、それだけ無力で、非力な自分を経験しているということが考えられそうに私は思います。

(無力感の経験が発端にある)
 ギャンブル依存に話を戻しましょう。彼らは繰り返し無力感を経験するので、運やツキを確認しなければいられなくなる、そういう一面があるのではないかと私は考えています。しかし、これは悪循環を生み出すことになるようです。ツキに見放されて、見捨てられた自分を経験する、つまり、更なる無力感を経験してしまうことになるからです。無力感を経験すればするほど、運やツキを期待したくなるのでしょう。更なるギャンブルがなされることになるのだと思います。
 もっとも、人それぞれ置かれている状況も異なり、ギャンブルがエスカレートしていく背景も人それぞれであるかもしれません。その意味では、上記のことは一つのケースなり可能性でしかないかもしれません。
 しかしながら、彼らがギャンブルにのめり込むことになった初期の状況を聞くことができると(この時期をあまり覚えていないという人も少なくありませんでした)、そこに無力な自分を経験していることが伺われるのです。自力ではどうすることもできない状況において、ギャンブルに手を染め始めたという例も少なくないように私は思います。
 恐らく、当人にはたいへんな救いとなったことでしょう。無力な自分に対して、頼りになる超越者の存在が感じられるからです。この辺りは宗教の心理に通じるように私には思われるのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)