<11-4F>運とツキ(1)

<11-4F> 運とツキ(1)

(運とツキで語られること)
 「その日、たまたま運の悪いことに、会社が半日で終わったんですよ(会社の行事であったらしい)。それで昼過ぎに退社したのだけど、運悪く、その日たまたまお金を下ろすことになっていたんですよ。帰るには早く、手元にはお金があり、そこで運の悪いことにパチンコ屋に出くわしてしまったんですよ。それで、ついつい」
 パチンコを自ら禁じていた男性が、ついパチンコをしてしまった時のことを話しています。この人の言っていることは、要するに、パチンコをしたのは不運が重なったからだということであります。ちなみに、下ろしたお金は、彼が家に入れるお金であったということでしたが、彼は今月の生活費を家に入れることができなくなりました。そのお金はパチンコで消えたからであります。
 この人の話を聞いていると、パチンコをすることに何の葛藤をも経験していないことが容易に伺われるのです。パチンコをしたい、でも、このお金に手を付けてはいけないなどと葛藤した様子が微塵も感じられないのでした。
 彼は自分が何を感じ、どういう経験をしているのかを言葉にしないのです。すべて運とかツキで説明されてしまうのです。苦しむことの回避を、彼は運・不運という形述べているのです。
 さて、本項では、ギャンブル依存者がよく使う運とかツキという言葉について考えてみたいと思います。

(運やツキは外側のものである)
 私も日常の会話の中で、「今日は運が悪かった」とか「あの時はツイていた」といったことを言うことはあります。でも、本当のところ、運とかツキとはどういうことなのか私自身まったく分かっていないのです。
 運とかツキはその人が持っているものだと考える人たちもおられるようです。私の運もツキもすべて私の中にあるというわけです。
 しかし、どうも私にはそれがピンとこないのです。運とかツキというのは、感覚的には、私の外側に存在している何かという感じがするのです。外側から私にもたらされる何かというニュアンスでそれを体験しているように、個人的には、思うのです。
 ギャンブル依存者もこれらの言葉をよく使用するのですが、それは極めて分かりやすいものであります。要するに、勝った時には運があり、ツキがあったということです。負けた時には運に見放され、ツキがなかったということです。いずれも自分の外側にある何かであるかのように使用されています。こういう使用法を見ると、勝ち負けは、その人には関係なく、運やツキで決まるかのように思えてきます。

(信仰と責任回避)
 運やツキがどういうものなのかということは検証しないことにします。結局、分からないということになるからです。でも、どういう意味合いのものとしてそれを理解しているかということは考察できそうです。
 運やツキは自分の外側にある何か、あるいはその何かからもたらされる何かというニュアンスを認めることができます。それは私を超越している何か、超越者からもたらされる何かということであります。
 運やツキを信じるということは、その超越者を信仰しているということに等しいでしょう。そして、結果はどんなものであれ、その責任はこの超越者にあるということになるでしょう。運やツキという概念を使用すれば、自分にはこの結果の責任はないということが言えるわけであります。
 考えようによっては、運やツキは結果の回避、結果に伴う責任の回避に都合がいいものでもあります。悪い結果に終わっても、運がなかったということで片付けることができるのです。それを反省することも振り返ることもしなくて済むのです。

(幼児期経験)
 ところで、運やツキが自分に訪れるという期待、自分を超えた存在が自分に関わってくるという期待は、すべて幼児期に端を発していると私は考えます。そこに原体験があると私は考えています。
 乳児は自分からは動けないので、養育者が来てくれるのを待つしかないのです。泣き声を上げるなど、なんらかのサインを出すことはできたとしても、自分の欲求を満たしてもらえるかどうかは、自分を超えた存在者次第ということになります。
 もし、自分の望んでいる通りに養育者が来てくれて、自分の欲求を満たしてくれれば、自分には運があると(もちろん乳児はこのようには表現しないでしょうが)感じることでしょう。期待通りにいかなかったら、乳児は不運だったとか、ツイてないという感覚を経験することでしょう。
 運やツキがどういうものであるかは説明できなくても、感覚的に理解できているのは、私たちにその経験があるからでしょう。乳児期の経験があるので、運やツキが指している事柄を感覚的に理解できるのだと私は思います。
 以上のように考えていくと、運やツキを当てにする行為は乳児期の経験を再体験することに等しいと仮定することができます。かつて親とか養育者であったものが、運やツキに変わっているだけであると看做すことが可能であります。 
 もし、ギャンブルは乳児期の再現であると仮定すれば、これはつまり、退行を意味していることになります。そして、ギャンブルが退行的な営みであるとすれば、通常の神経症理論の多くがこの問題に適用することが可能になってきます。
 あまり詳しく述べるスペースもないので、簡単に述べますと、退行とは精神的に以前の段階に戻ることであります。これは心の健康な働きでもあり、且つ、あらゆる心の病に現れる働きでもあります。健康な退行は、適度に以前の状態を体験し、現在に速やかに戻れるのです。そして、この退行は前に進むための一時的退却であるのです。病的な退行は、過度であること、例えば人生の最初期まで退行してしまうといった極端さがあること、並びに、その退行から抜け出すことが著しく困難になっていることなどを挙げることができます。
 上記のような視点に立つと、健康なギャンブル遊戯者と不健康なギャンブル依存症者の違いが理解できます。それは退行の種類が異なるということになります。健康な遊戯者は適度に子供時代(次に述べるようにギャンブル遊興は子供時代の遊びの延長でもあります)を再体験できれば、それで満足し、現在の現実に戻ることができるのです。不健康な遊戯者は、子供時代を再体験するだけではなく、その時代に留まり続けるのです。敗北を否認してでも、そこに留まり続けさせることになるのではないかと、私は思います。

(ギャンブルは子供時代の延長である)
 一つだけ追記しておくと、ギャンブル遊戯の多くが子供時代の遊戯と重なると私は感じています。パチンコは、駄菓子屋や縁日にあったゲームの延長であります。マージャンや花札は子供時代に遊んだトランプ遊びと共通のものがあります。競馬や競輪にしても、レースを見ること、競走することなどの子供時代の経験を呼び覚ますのではないでしょうか。
 パチンコ台もいろいろ進化していて、現在の遊戯者の年齢層に合わせているようで、その人たちが「懐かしい」と感じるものを取り入れたりしています。その年代層の子供時代に流行ったマンガとコラボするなどはその一例であります。
 パチンコ産業が生き残るためには(私がこんなこと考えなくてもいいのですが)、今の若い人たちが「懐かしい」と感じるものを取り入れ、彼らに馴染みのある要素を取り入れていった方がいいということになるのでしょう。彼らの子供時代と結びつく要素を取り入れていった方がいいということです。
 運やツキを当てにする行為は退行的な行為であると述べました。それに加えて、ギャンブル遊戯は、それがどんなものであれ、私たちの子供時代となんらかの形でつながっているものです。この観点からも、ギャンブル遊戯は子供時代を再体験すること、退行的な意味合いがあることが考えられるのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)