<11-4E>敗北の否認(2)

<11-4E> 敗北の否認~敗北だけの人生

(否認し続けること=敗北の人生)
 敗北を否認し続けるので、敗北に気づかれないままなのです。こういう話は不思議に聞こえるかもしれません。ギャンブルで負けているのに、負けていることに気づかないなんてことがあるのかと疑問に思われる方もいらっしゃるかと思います。
 時折、ギャンブル者から聞くところでは、「気がついたら、これだけ負けていた」ということに気づく瞬間があるようです。それだけ負けていたことに自分で気づいていないのです。何かのきっかけでそれに初めて気づくようです。そのような時には否認が働いていると私は考えています。
 しかし、非情なもので、本人がいくら否認しても、周囲の人や世界は彼にお構いなしに動いていくものです。気づきたくないことを気づかされる、見たくないものを見せつけられてしまう場面に彼らは直面してしまうのです。そうして、気づいたときには、ギャンブルだけでなく、人生においても敗北を喫していることも珍しいことではないのです。
 それでもさらに否認し続ける人もあります。この人はさらにギャンブルにのめりこむかもしれません。敗北を無かったことにし続ける限り、彼は勝った時の快感を求め続けることになるでしょう。彼は勝った時のあの快感を取り戻そうとし続けるのですが、それは敗北し続けるということなのです。こうして彼は敗北の人生を送り続けることになるのです。

(敗北の認識)
 あまり褒められたものではありませんが、世の中には本当にパチンコで稼いでいるという人もあります。私もかつてそういう女性と知り合ったことがあります。実際に彼女がパチンコを打っているところも見学させてもらったことがあります。見ていて思ったのは、勝利には貪欲だけど、敗北にはかなりシビアであるということでした。勝つ見込みがあるとどこまでも食いつくのですが、少しでも負けるとさっさと見切りをつけるのです。現実に負けるはるか以前に、「負ける」という認識をするようです。敗北は経験したくないけど、否認はしないということのようでありました。
 非ギャンブル依存者(通常のギャンブル愛好者など)がギャンブル場面から去る契機となるのも敗北の認識であることが多いようです。「負ける」と認識すると、軍資金がまだ手元に残っていても、その場から立ち去るのです。それを「引き際が肝心だ」と表現された人もおられるのですが、それは敗北を認識している、もしくは敗北を予想しているということなのであると私は思います。
 ギャンブル依存者は、すでに「敗北」が始まっていても、あるいは敗北に片足がどっぷり浸かっていても、まだ自分は「敗北していない」と信じてしまうのでしょう。後に述べる、自分にはまだ運があるとか、ツキがめぐってくるという思考が働いているのかもしれません。こうして、彼らは敗北してもさらに続けるということになるのではないかと思います。
 自分が敗北していると分かること、負けていることに気づくこと、それができるかどうかは、ギャンブル依存者と非依存者を区別する手がかりになるかもしれません。

(努力の向かう先)
 ちなみに、ここで述べている敗北はスポーツ競技で負ける経験とはまったく異なるものです。さらに練習を積んで強くなるということがスポーツの世界では可能であっても、ギャンブルの世界では通用しないのです。そこは努力のしようがないのです。せいぜい否認の努力しかないのです。
 従って、ギャンブル者がさらなる努力をして否認し続けても、彼は敗北する自分を常に見つけてしまうことになり、その努力は報われないのです。
 努力して否認し続けることというのはおかしな表現であるように思われるかもしれません。例えば、彼らの中には、次は勝つと信じて、必勝本なんかで研究したりする人もあるのですが、そういう努力は敗北の否認に費やされているものであるように私には感じられるのです。敗北を認識して、ギャンブルの世界から足を洗うことに努力の矛先が向かうわけではないからであります。

(人生の敗北者)
 残酷な言い方かもしれませんが、ギャンブル依存者は、自分が負ける人間であること、負け続けの人生を送っていること、永遠に搾取される側に留まっていることを、どこかで、痛い思いをしてでも、気づかなければならないのです。敗北を認めなければならないのです。私はつくづくそれを実感します。
 「治療」の中でそれに気づくという人もあります。その姿を見ていると、痛々しい思いがします。強気や勝気で突き進んできたと自分では信じてきた人が、実はわずかの敗北を見ることさえ恐れている人間であったということに気づいてしまうのです。
 実際、彼らはギャンブルに負ける(失敗する)だけではないのです。仕事をすることにも負け、友情を築くことにも負け、夫婦生活を維持していくことにも負け、円満な家庭を維持することにも負け、親孝行にも負け、自分自身の生活にも負けるのです。蓋を開けてみれば多重債務者になっていて、好物のラーメンを一杯食べる自由すら制限されていたりするのです。「勝って取り返す」などという考えは幻想に過ぎず、もはや取り返せないものばかりであることに気づくのです。
 もし、自分が人生に敗北し続けることを受け入れるとすれば、その人は激しい抑うつに襲われることでしょう。たまらなく自分がイヤになるでしょう。「自分がまともな人間とは思えなくなった」とある人は言いましたが、それが経験できる人はむしろ「まとも」であると私は思います。敗北や失敗を受け入れない人は、この期に及んでも、意味の無い反発をしたりします。こんな思いをするのは「治療」が間違っているせいだと、私に八つ当たりするような人もありました。
 敗北続き、失敗だらけの人生を送っている人間であることに気づいて、そのまま廃人として生きることもできれば、自殺者の仲間入りをすることもできれば、新生の方向へ踏み出すこともできます(<11-3C>参照)。どういう選択をするかは、私が決めることではなく、当人次第なのです。

(運とツキ)
 敗北を否認するのは、そのうちどこかで運が向いてくるとか、やがてツキが巡って来るということを信じたいのでしょう。「今はたまたま負けているだけだ」ということにしたいのでしょう。自分は、運やツキに特別守られている人間であると、どこまでも信じたいのでしょう。この運とかツキという話は後に取り上げることにします。
 それを信じたい気持ちがあるのを否定するつもりはないのですが、私が否定しなくても、現実が彼のその思いを粉砕してしまうのです。運やツキというものは、当人が信じているほど都合のいいものではないようです。常に彼は運やツキに裏切られるということになるようです。運やツキが間違っているのではなく、それに対するその人の期待や信念が間違っているかもしれないのですが、その辺りのことは、当人はあまり考えないようであります。
 いずれにしても、運やツキから見放され続けたこと、敗北と失敗ばかりの生活を送ってきたこと、自分は自分が信じていたほど特別な人間ではなかったこと、そういうことに気づく場面に彼らは遭遇することでしょう。私の本音を言えば、むしろそういう場面に遭遇できた方が好ましいことであります。そこで自分自身に開眼するかどうかはその人次第であります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)