自分のために他人が負ければいい(2)

<11-4B> 「自分のために他人が負ければいい」(2)

 ギャンブルにおける根本思想は「自分のために他人が負ければよい」というものであると私は捉えています。ギャンブル依存者はこの思想に親和性があり、また、それに馴染むことができるのだと思います。
 この思想は、言い換えるなら、一種の「利己主義」ということになります。彼らのこの傾向、この思想に基づく言動は、ギャンブル以外の場面でも垣間見られるものであります。前項では、それをいくつかの例を挙げて述べてきました。本項では、さらに補足的にいくつか述べることにします。

 ギャンブル依存を受け入れる条件の節で、「費用は可能な限り当人が負担すること」という条件を私は挙げました。この条件を挙げた理由は「利己主義」を抑制するためであります。自分の「治療」のために、家族の誰かが負担を負うという状況を回避するためであります。つまり、自分が助かるために他人が負ければよい(苦しめばいい)という思想が実現してしまうのを回避するためでありました。
 家族が負担をした場合、彼がその思想に生きている限り、家族の負担は増え続けることになると私は思います。必ずそうなるとまでは言えないとしても、そうなる可能性が高まると私は考えています。
 家族の負担が大きくなりすぎてしまうと、家族と当人が共倒れになる事態に至りかねないのです。そういう事態を回避したいと私は思うのです。ギャンブル依存者は(私がお会いした限りでは)家族の負担の上で生活できていることが多いのです。もちろん、人それぞれ置かれている状況に違いもあり、家族の負担の上で生きているということが悪いとは言わないつもりでありますが、両者が生きていけるためにはその土台となっている家族が潰れてしまってはいけないのです。  従って、この場合では、家族の方を助けなければならないということになります。
 その観点に立てば、家族の負担は増やさない方がいいということになります。だから、当人の「治療」にかかる費用は、できるだけ当人に負担してもらった方が望ましいと私は考えるわけであります。

 次に、彼らがこの思想に馴染んでいることの証拠として、彼らの中にはそれが社会の法則であると信じているような人もあります。
 実際、あるクライアントは「世の中そんなものでしょう」と言います。つまり、「自分のために他人が負ければいい」という思想は、ギャンブルに特有な思想ではなく、社会全体に存在する思想だというわけです。
 弱肉強食の世界でも、あるいは競争場面においても、「自分のために他人が負ければいい」という思想があるではないかと彼は言います。しかし、これは本当でしょうか。表面的には似ている部分があるとしても、根底において、両者はまったく異なると私は考えています。
 この違いは、「利己主義」は他人が負けることによって自分が勝つことに対し、「弱肉強食」や「競争」は自分が向上することで他人に勝つというところにあると思います。みんなが下がることによって自分が抜きん出ることではなく、自分が辛苦して向上すること(力をつけること、能力を伸ばすこと)でみんなより抜きん出ることの違いであります。
 このように考えると、「自分のために他人が負けてくれればいい」という思想には、停滞が伴っていることが分かるのです。自分はどこにも動かなくていいのです。自分が力をつけなくても、能力を身につけなくてもいいのです。自分が何もしなくても、他人の方が負けてくれるからであります。そのように当人には期待されるわけです。当然、この思想は社会のルールでもなければ、競争の原理でもないわけです。

 彼らがその根本思想に動機づけられている時、それは「不義理」と呼べるような言動として現れることもよくあります。支払い期日を守らないこと、支払予定額を払わないことなどの場面で、つまり約束を守らないという場面で、それは端的に現れるのです。
 彼が不義理を働くが故に、周囲は巻き込まれるのです。私は「共依存」という考え方には疑問を持っています。周囲の人が彼を援助しなければならなくなるのは、周囲の人がそれに依存しているからではなく、そうせざるを得ない状況に巻き込まれてしまうからであると考えています。
 例えば、彼らが支払い不能になり、溜め込んでいる「治療」費が支払えなくなるということは、私にとっても問題になるわけです。それで、費用が支払えるように考え、こちらもそのために手を打たなければならなくなるのです。できればそういう手順は踏みたくないと私は思っています。
 ちなみに、彼らは「品定め」をするものと私は決め付けております。支払いが複数件あるのに、そのすべてを支払うだけの手持ちがないとすれば、彼らは品定めをし、優先順位をつけるのです。文句を言わなさそうなところに対しては、彼らは平気で後回しにするのです。払わなければヤバイところには最初に支払い、ツケがききそうなところに対しては平気でツケを申し込むのです。そういう場面で、私も後回しにされたものでした。踏み倒されたことも一度だけあります。そのため、彼らに対して少々キツイことも言わなければならないのです。「あのカウンセラーは厳しい、特に支払いに関してはすごく厳しい」と感じてくれないと、そういう場面で後回しにされてしまうからであります。「自分のために他人が苦しんだらいい」という思想の「他人」の地位に私は置かれたくないのです。

 彼らの「不義理」の問題はまた取り上げる機会があるでしょう。ここでは深入りしないことにします。
 ギャンブルの根本思想が「自分のために他人が負ければ(苦しめば)いい」ということであれば、ギャンブル依存者が「治癒」するとは、彼の生がこの思想に基づかなくなることでもあります。そのためには、この思想が実現しない状況というものを治療する側は作り出していかなければならないことになります。同じように、彼の周囲の人たちもこのことを知ってもらわなければならないのです。
 彼は自分が助かるために自分が苦しむ経験をしていくことになるでしょう。私も含め、周囲はそのギャンブル思想が実現しないために協力するでしょう。これはいたずらに彼を苦しめることを目標にしているのではなくて、双方が生きていけることを目標とするものであります。本人にとっては苦しいことであっても、それが望ましいことであると私は思います。彼が生きていけること、同じように、彼の周囲の人たちも彼とともに生きていけることが望ましいことであると私は考えています。一方だけ助かることも、双方とも共倒れになることも、できることなら回避したいと私は願うのです。

 さて、記述が前後しましたが、この「ギャンブル依存の心理と生」という節は、私がお会いしたギャンブル者(依存症者に限らず)との経験に基づいています。
 ギャンブル依存は一つの生き方であると私は考えています。同じように、アルコール依存の生き方もあれば、神経症的生き方、人格障害的生き方、精神病的生き方など、さまざまな生があると私は考えています。心の病とはその人の生き方であるという観点を私は有しています。
 私がこの節で述べることは、必ずしもすべてのギャンブル者に該当するとは限りません。中には一部の人にしか該当しないという記述もあることでしょう。また、当然のことながら、個人差もあります。個々の項目においては、それに大きく該当する人もあれば、少しだけ該当するという人もあるでしょう。
 その意味で、私の記述はあまり絶対視するわけにはいかないと考えています。あくまで私個人が経験したこと、その中で考えてきたことに基づいています。
 しかしながら、「自分のために他人が負けてくれればいい」という人生への態度、姿勢はギャンブル者にはかなり共通して見られると私は感じています。彼らはそういう世界に親和性があり、そういう世界に浸っている人たちであるように私には感じられています。そして、この感覚、姿勢、あるいは世界観は、ギャンブル以外の彼らの生活場面においても、随所に顔を覗かしてしまうものであると印象付けられています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)