<11-3H>ギャンブル依存の治療論(3)

<11-3H>ギャンブル依存の治療論(3)

 ギャンブル依存の治療論を締めくくるに当たって、もう一つ付け加えておくことがあります。私が見てきた限りでは、このために彼らの「治療」が上手く行かないように思われるのです。
 そして、これから述べることは「ギャンブル依存の心理と生」で取り上げるものなのです。重複することになるかもしれませんが、少し先取りして綴ることにします。
 何が彼らの「治療」を難しくしているのかということですが、それは彼らの両極端さであります。極端から極端へと行ったり来たりする傾向であります。それはギャンブルの性質に含まれているものでもあり、彼らの性格や生き方にも現れるものであると私は考えています。
 彼らは勝つ時はボロ勝ちするのです。昨日ボロ勝ちした人が今日はボロ負けしているのです。頂点から急転直下するのです。「治療」も、波に乗る時はとことん波に乗るのですが、些細なことで一気に崩れるということが生じるのです。
 こんなふうに激しく揺れ動くということは、その人の不安定さを示しているものだと思います。ほどほどのところで落ち着くということがあまりないという印象を私は受けています。
「治療」を開始する時、ギャンブル依存者は「治療」への動機づけが高くなっており、意欲的になっていたりします。だから「ギャンブルを止めてみる」という指示に従うことができるのです。もちろん、できないという人もいますし、一日で挫折してしまうという人もありますが、時には、動機付けや意欲の高さだけでこの「禁ギャンブル」が数ヶ月も続く人もいます。
 しかし、数ヶ月も続くと安心してしまうのか、油断してしまうのか、ちょっとだけギャンブルに手を出してしまうのです。そのまま一気に以前の状態に戻られるのです。
 仮に3日「禁ギャンブル」が続いたとしましょう。4日目でギャンブルをしてしまいます。5日目は3日目の続きから始めたらいいのですが、そのようにはならず、すべてを投げ出してしまい、3日以前へと戻るということです。すべてを元の木阿弥にしてしまうのです。もしくは1日目から再スタートして、苦しい場面に遭遇するまでの時間稼ぎをしたりするのです。

 この両極端さは「成功」と「失敗」にも現れるのです。少しでも失敗すれば、それは完敗になってしまうのです。
 「成功」している状態を維持していくのは確かに難しいことでしょう。失敗してしまうことも多々あるでしょう。しかし、問題はそこではないのです。彼らが理解できないのは、「失敗の中に成功を生み出す」という経験であります。
 例えば、パチンコを止めていた依存者がいるとしましょう。この人はついに耐え切れず、パチンコをしてしまいます。彼はここですべてが失敗したと信じるのです。しかし、まだ勝負がついたわけではないのです。一旦始めたパチンコをいかに速やかに中止するかという勝負だってあるのです。パチンコをしたことは失敗だったが、「3分でパチンコ台から離れること」には成功することだってあるでしょう。この理屈が分からないという人も、私がお会いした人たちの中では、少なくなかったように思います。
 メインの目標に失敗したとしても、そこからより下位の成功を作り出すことはいくらでもできるものです。「パチンコをしない」という大きな目標に挫折したとしても、それより小さな目標はいくらでも達成できる機会があったことでしょう。私がお会いした人たちに関して言うと、彼らはこの下位の成功や目標に意味が無いと考えているのではなく、そういうものがあるということをまったく知らないようであります。

 さらに話を進めましょう。「パチンコをしない目標だった、でも、ちょっとやってしまった、それじゃあすべてが失敗したわけだ、もうどうにでもなれ」ということであれば、この人はあまりに短絡的すぎるわけであります。
 この短絡性は(これが不安定さ、両極端を往復することと深く関係しているのですが)彼らが改善しなければならない部分であるのです。お金が無い、借金すればいいという発想は短絡的であり、勝って返せばいいという発想もこの短絡性から生まれるものであると私は思います。

 ついでに言うと、「ギャンブル依存お断り」のところで、もし「治療」を受けるなら3年は継続する計画を立てることという条件を出しているのは、この短絡性に対処するためでもあります。計画を立てるということは、つまり、短絡性を抑えるということでもあるからです。
 順調に進んでいる時はいいのです。でも、少しでも石ころにけつまずくと、そこで「ああ、こんなところでつまずいた。じゃあ、もう前に進むこともできないな、止めた、止めた」とでも思うのか、「治療」からも自助グループからも彼らは速やかに撤退してしまうのです。そして、これまでの苦労もあっさりと水泡に帰させ、何事もなかったかのように以前の状態に戻られるのです。そういうところが彼らにはあるように思われるのです。
 わずかの失敗、小さな傷つき、少しばかりの停滞でさえ、彼らにとっては、治療から退却させるほどの要因となってしまうのです。
 あまり、こういうふうに言い切ってしまうと言葉が過ぎるところがあるかもしれませんが、私が受けている印象を率直に述べています。私にはそういうふうに彼らが見えてしまうのです。

 さて、短絡性を改善するためには、自分がどこでどのように短絡的に動いているかを知っていかなければなりませんが、当人にはそれを理解することが難しいのです。と言うのは、そのように短絡的に思考し、結論づけ、行動することは、彼にとって自然なことになっているからです。違和感なくそれをしているので、気づかれないのです。
 従って、それの改善には、自分にとって自然になっている傾向が、不自然なものに見えていく必要があるわけです。自我親和的だったものが自我異質的なものに変わっていかなければならないということです。自分にとって馴染みのあることは見過ごされてしまうことがあり、そういうものは当人には気づかれないからであります。
 もっとも、その人のどこで、どういう形で、どういう状態にある時に、短絡的になられるかは、第三者でもなかなか気づかないかもしれません。私もすぐには気づかないこともあります。時間をかけてその人のことが理解できてくると、ある程度分かるようになっていき、多少の指摘をすることはできるのです。
 しかしながら、指摘されてすぐに理解できるとも限りません。指摘されても本人には分からないということも少なくありませんでした。その人が自分自身との接点が少なければ少ないほど(こういう人がギャンブル依存者には多いと思う)、気づくのは難しいと私は思います。

 ギャンブル依存者(だけに限らないのですが)たちは、私の受ける印象では、短絡的、衝動的に「治療」を開始し、同じように、短絡的、衝動的に「治療」から撤退するのです。彼らのこの傾向が彼らの「治療」を困難にしてしまうように私には思われるのです。「治療論」の補足として、私の思うところを明記しておきたいと思い、ここに記しました。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)