<11-3B>依存症に関する私の見解(2)

<11-3B> 依存症に関する私の見解(2)

(対象選択~続き)
 私の飲み友達の一人はまったくパチンコをしないと言います。「一箇所にじっと座って、
 ハンドルを回すだけの遊びの何がオモロイねん」などと彼は言います。そうでしょう。彼は活動的で、仕事はバリバリこなして重役の地位まで登り詰め、夜は夜で人の集まる場所(飲み屋)に顔を出してはいろんな人と交流します。週に二日の休日のうち、一日はスポーツサークルで汗を流し、もう一日も何らかの活動をされているようです。彼の生き方において、パチンコはまったく親和性を有しないのです。
 一方、彼は人と交わるのが好きであるようで、それは酒席の場面に顔を出すなど、アルコールに親和性のある行為と言えます。彼が依存症になるとすれば、アルコールの方であり、決してギャンブル依存にはならないことでしょう。
 私もギャンブルはしません。やはりギャンブルの有する性質が私には相容れないものとして体験されているからだと思います。
 私は、上述の彼ほど社交的な人間ではありませんが、人に興味があり、いろんな事柄を考えたりするのが好きであります。そのため騒々しいところは好まず、静かで集中できるような場所を好むのです。運やツキってものが自分に訪れるなどというおめでたい期待はまったく持っておらず、むしろ、自分はそういうものとは無縁だと信じています。自分が賭け事で勝つとは信じていないのですが、これは幼少の頃の経験に基づいています(この経験は昔ブログて綴ったことがあります)。本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたりするのは好きですが、機械や数字は苦手であります(ギャンブル依存者の中には機械や数字に親しんでいる人もよく見かけたものでした)。あまりギャンブルに親和性を有する傾向が私には少ないのだと思います。
 ギャンブル依存者と非ギャンブル依存者の違いとはそれだけのことだと私は考えています。ギャンブルと親和性を持つ傾向の度合いが違うだけであり、人間的にどちらが優れているとか、そんな議論がもしなされるとすれば、それは見当違いのものであると私は考えています。
 ギャンブル依存者がギャンブルが持つ諸性質と親和性のある生き方をしているとすれば、彼がギャンブル依存から「治る」というのは、それと親和性のある生き方が改善されていくことを意味しています。本当に目指されるのはそれであり、単にパチンコを止めることとか、借金癖を治すとか、そういう問題ではないのです。この点は「治療論」のところで再度取り上げることにします。
 その人をして依存対象を選択せしめたところのものが本当に改善しない限り、その人が「依存症」から抜け出したと考えるのは、早急であり、間違っていると私は考えています。

(依存症という生き方)
 これまでのところをひっくるめて一言で言えば、「依存症とは依存症という生き方のことである」ということになるでしょうか。一つの生がそこにあるのであって、個々の対象(パチンコとか競馬とかマージャンとか)は本当は重要ではないのです。
 しかし、「依存症という生き方」がどういう生き方であるかは一概には言えないことであります。人それぞれの生があり、状況があり、歴史があるからです。これに関しては「ギャンブル依存の心理と生」で取り上げていくことにします。

(ギャンブルは悪か)
 ギャンブル依存者は自分が耽っているギャンブルを「悪」だとみなしています。こういう「悪」は排除しなければならないなどと感じています。これを読んでいるあなたもそう思われるでしょうか?
 でも、あなたは本当に悪いことをしているのでしょうか? 確かに非合法的なギャンブルに手を染めているというのでしたら問題があるでしょうけれど、私がお会いした限りでは、ギャンブル依存者は法的にも社会的に容認されているギャンブルしかやっていないのです。ギャンブルをすることはなんら法に触れるものではありません。未成年者はできないとか、そういう規定はあるとしても、ギャンブル依存者はそうした規定に反することも本当はやっていないのです。
 そう、あなたは何も違法行為をしているわけではないのです。私がこれを書いている時点でカジノ法案が通ったといったニュースが入りました。カジノにも行けばいいのです。政府は依存症対策を設けていますが、あれもおかしなもので、どうして政府が個人の活動に、それも私的な活動にそこまで制限を加えることができるのか、私には不思議でなりませんでした。それはさておき、カジノができれば、カジノに行って、大敗してくるのもいいでしょう。スッカラカンになることは、おそらく快感でしょう。所有するから悩みが増えるのであって、その観点から言えば、いっそのこと一文無しになる方がラクになるかもしれません。
 あなたは好きでギャンブルをやっているのでしょう? それはあなたにとって何らかの価値を有しているのでしょう? それをどうして止めようなどと思うのですか? 私はあなたになんらの強制もしないつもりです。あなたがギャンブルを続けたいのであれば、私はそれを制止する権限など持ち合わせていないのですから、どうぞご自由にされればいいのではありませんか? 「お前のカウンセリングを受ければ本当にパチンコを止められるのか」と問い詰めてくる人もあります(この思考ほどギャンブル者に特徴的なものはないのですが)。パチンコを止めるも止めないも、私が決定することではないし、私にその選択を一任する方がどうかしていると私には思われるのですが、いかがなものでしょうか。
 ある人がギャンブルを続けるか止めるかなんていうことは、私にはどうだっていいのです。私がギャンブル依存者とともに目指したいと願うことは、その生活、人生に少しでも価値が生まれていくことなのです。ギャンブル行為などどうだっていいわけです。無為な生活、無価値に思われている人生、どうしようもないと感じられている自分自身に対して、少しでも望ましいことを生み出し、新たな生を構築していくことに最大の価値があるのです。
 従って、ギャンブル止めることだけを目指している人に対しては、私はお役に立てないことでしょうし、そういう人にとっては、私の言葉はかなり厳しい響きを帯びることだろうと思います。
 なぜなら、ここで述べていること一つを取り上げてもそのことは明らかで、私はギャンブルは「悪」でもなんでもないと述べ、その上であなた自身やあなたの今の生が「悪」だと言っているに等しいからです。ギャンブル依存者は、まず、こうした見解を不快に思うことでしょう。
 このことは次のようにも言えるのです。「あなたは今のあなたのままでいいですよ」などとは私は言わないということです。「あなたは変わるべきだ」という強制も私はしないつもりでおります。ただ、「本当に今のままでいいのですか?」と私は問い続けるでしょう。「本当に今パチンコをやっていいのですか?」などという問いに、何らかの形であなたは晒され続けることになるでしょう。
 私はあなたに一時しのぎの安心を与えるつもりはありません。むしろ、今のあなたに対する緊張を高めていくことになるでしょう。あなたは苦しみを経験するかもしれません。このサイトを読むだけでも苦しい思いをするかもしれません。ギャンブル依存者はここで逃げ出すのが常であります。緊張に耐えられないのです。そのためその場限りの安心を求めてしまうのだと思います。しかし、ギャンブル依存者と関わっていこうとすれば、常にその種の問いを発し続けなければならないと私は考えています。と言うのは、一時しのぎの安心を得ると、もはや問題に取り組まなくなるからです。その場限りの満足に安住してしまうところが彼らにはあるように私は感じているからです。
 もし、あなたがギャンブル依存者であるとしても、私はあなたを責めるつもりはありません。しかし、あなたにとって耳が痛くなるような話をしてしまうかもしれません。それで読むのが苦しいということであれば、読むのを中止されても一向に構いません。私はあなたに何一つ強制する意志はありません。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)