<11-3A>依存症に関する見解(1)

<11-3A> 依存症に関する私の見解(1)

 依存症ということについて、ギャンブル依存を中心にして、私の見解を綴っていくことにします。なお、私が述べることはすべて、私がお会いしたクライアントたちとの経験に基づいております。ここで私が言うことは、一般化できるわけではありませんし、それが正解とも思わないで頂きたいのです。
 私はギャンブルを一切しないので、ギャンブルに耽る人の気持ちが実はよく分かっていません。そのため、ギャンブル依存のクライアントと面接すると、果たして私が適任なのかどうか自分でも疑いたくなるのです。
 でも、私にはアルコール依存の問題がありました。この経験が意外とギャンブル依存問題にも役立つということが、ギャンブル依存者と関わるうちに、分かるようになりました。それに基づいて、ギャンブル依存者のことを理解しようとしてきました。従って、私の見解のベースにあるのはアルコール依存なのです。ここはよくご銘記していただきたいところであります。本当は私はギャンブル依存の専門家ではないのです。ギャンブル依存に対して物が言える人間であるかどうかは、相変わらず不確かなのです。

(依存か嗜好か)
 ところで、依存症というのはどこから依存症と認めることができるのでしょうか。ここは実に曖昧であります。
 一応、基準というものはあります。アルコールの場合だと、一日のアルコール摂取量の基準があり、それを越して飲酒し、尚且つそれだけの量を毎日飲酒する場合、アルコール依存と認めてよいという、いわば診断基準があるのです。ギャンブル依存にもきっとそれがあるのでしょう。
 このことは、つまり、その基準を超えれば「依存症」とみなすことができ、その基準内であれば「嗜好品」とみなして良いということになります。しかし、この基準は極めて曖昧であり、いくらでも言い逃れできるように私には思われるのです。
 アルコール依存症をその摂取量で決定した場合、その範囲内であれば好きに飲んでいいということになります。しかし、正常な(と言っていいのか)飲酒者とアルコール依存症者とは、まったく違った飲酒をするものです。酒の飲み方がまったく違うのです。また、飲酒に至る経緯も両者はまったく異なるのです。飲酒量だけで判定すると、それらの差異が見落とされることになると私は考えています。
 嗜好か依存かを明確に区別すること、それも客観的な判断基準を設けることは、とても難しいことなのかもしれません。実を言えば、そういう基準が何かの役に立つとは私はまったく信じていないのです。
 それが嗜好であるか依存であるかは、当人の体験に基づかなければ判断できないことです。そして、当人の体験は当人の報告に依るものなので、虚偽の報告をされると周囲は判断を誤ることになるのです。それでも何らかの判断の手がかりになるものを当人からうかがい知ることもできるのです。
 両者、つまり嗜好と依存との違いは何かと言えば、それは主体性の程度であると私は考えています。嗜好にはまだ主体性があるものの、依存ではもはや依存対象に対して主体ではなくなっているのです。主体の放棄が依存症の主たる特徴であると私は考えています。
 これはどういうことかと言いますと、「酒を飲む私」と「酒に飲まれる私」の違いと言っていいでしょうか。私が酒を欲するのではなく、酒の方が私を欲するのです。私は酒に近寄るのではなく、酒に引き寄せられるのです。自分が酒の方に引き寄せられているので、飲酒を続けることに疲れないのです。このような経験の有無が依存症の判断になると私は考えています。
 従って、今日どれだけの酒を飲んだかではなく、今日どういう経緯で酒を飲むことになったのかということの方が判断としては重要になるわけです。飲酒後は酩酊していて詳しい話が聞けなくても、飲酒前のことなら記憶が残っていることもあり、そこに関しては当人から話を伺うことができるのです。
 ギャンブル依存でも同じであると私は考えています。正常な(いわば趣味とか余暇で)パチンコ遊戯者とギャンブル依存者とでは、パチンコの打ち方が違うでしょうし、その向き合い方とか、態度にも明確な違いが見られることでしょう(私はパチンコをしないので憶測で言っています)。飽きがきたり、疲れるといった経験もしないことでしょう。
 どれだけ負けたか、どれだけのお金を浪費したか、どれだけの頻度でギャンブルをしたか、そういったことはどうでもいいのです。週に一回だけしかやっていないから、自分はギャンブル依存ではないなどと開き直られても困るのですが、そんな基準はどうだっていいわけです。その都度、どういう感情に支配されて、どういういきさつでその人がパチンコ屋(競馬その他)に行ったのかを確認できればいいのです。それで、その人が依存症であるかどうかの判断がつくのです。
 主体性の放棄、もしくはその喪失ということが、依存症問題における一つの重要な観点となるのです。

(依存対象選択)
 依存症には依存する対象が存在します。この対象はさまざまなものがあるのですが、それによって「○○依存症」と呼ぶことができるのです。アルコール依存、ギャンブル依存をはじめ、薬物依存、買い物依存、セックス依存、活字依存(これは私のことだ)など、近年ではネット依存だのSNS依存、ネットゲーム依存なども現れているようです。ありとあらゆる事柄が依存対象になりうるようです。
 依存症者には依存する対象があるのです。さらに、その対象は特化されていたりもします。ギャンブル依存でも、その対象がもっぱら競馬の人もあればパチンコの人もあります。買い物依存も通販ばかりする人もあればウインドウショッピングしかしないといった人もあるようですし、カード決算しかしないといった人もあるようです。アルコール依存でも焼酎しか飲まないという人もあれば洋酒しか飲まないという人もあります。この点は強迫性障害などと少し異なると私は感じているのですが、依存症では対象がかなり明確に、尚且つ特定の対象が選択されているのです。
 では、どうしてある人は依存対象としてアルコールを選択し、他の人はギャンブルを選択するのでしょう。人はどのようにしてその対象を選択するのでしょう。
 その一つの説明は「機会」であります。アルコールを選択した人はアルコールに接する機会に恵まれ、ギャンブル依存はギャンブルに触れる機会が多かったということです。しかし、これは何の説明にもならないのです。接する機会がたくさんあったにもかかわらず依存症にならない人もあるからです。
 機会と依存症との間には、その人の性格や生に対する構えなどが介在しているものです。アルコールを依存対象に選んだアルコール依存症者は、アルコールに接する機会が多かっただけでなく、その人の生き方、性格、思考、価値観などがアルコールに親和的であったのです。ギャンブル依存はギャンブルに親和的な生き方や性格などを有しているのです。私はそのように考えております。
 親和性があるとは、馴染みやすいということです。あるいは自分にフィットするという感じを経験することです。アルコール依存者はアルコールが有する性質とすぐに馴染めるのであり、ギャンブル依存者はギャンブルが有している諸性質に自分を速やかに溶け込ませることができるのです。
 それならアルコールとギャンブルの両方をやっている人はどうなのかと反論されそうです。確かに両方に手を染めている人を私も何人か知っています。しかし、その場合でも、依存症と呼べるような対象はどちらか一つなのです。一人の人が同時に複数の依存症になることは、滅多にないことであると私は考えています(ただし、対象が変わるということはあります。かつてギャンブル依存であった人が今ではアルコール依存になっているなどのように)。その際においても、現在のその人にとってより親和性のある対象が依存対象として選ばれることになると私は考えています。
 自分にとって親和性のある対象は、それが自分に適合している感じを経験するので、その対象を良いもの、楽しいもの、価値あるものとして経験することになるのです。つまり、快体験をもたらしてくれるのです。この快体験がその対象をさらに魅力的にさせ、その人をその対象にのめりこませることになるのだと思います。
 先ほどは主体性という観点で依存と嗜好を区別をしましたが、快体験という観点で区別をつけることもできるでしょう。この快体験が体験されているうちは嗜好の範囲であり、もはや快体験が過去の幻想でしかなくなっている場合には依存症と考えていいとも私は考えています。

 さて、分量が多くなったので、続きは次項にて展開することにします。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)