<11-1>ギャンブル依存お断り

<11-1>ギャンブル依存お断り

 ギャンブルの問題を抱えている当事者、並びに関係者の皆様へ。
 私はこの種の問題を抱えて来談される人に疲れ果て、もはやこれ以上引き受けようという気持ちにはなれません。
 彼らとの間では、私も非常に苦い経験をしてきました。恐らく、家族の方々などはもっとひどい経験をされているだろうとお察しします。根気のない私は早々に降参してしまいました。

(ギャンブル依存者とあまり出会わなかった背景)
 ギャンブルに関する問題を抱えている人たちと、過去において20数人ほどお会いした経験が私にはあります。この人たちの中には、副次的にギャンブル問題を抱えているという人も含まれています。つまり、それを主訴としているわけではないけど、背後にギャンブルの問題が潜んでいたというような例であります。いずれにしても、数としては決して多くはありません。
 これにはいくつかの理由があるのですが、一つには、私自身がギャンブルをしないので、ギャンブルというものがどういうものであるかを私は知らず、ギャンブルに耽る人の気持ちなんてとても理解できないだろうという思いから、あまり引き受けてこなかったことにもよります。
 私には、今でも、ギャンブル依存の人たちと上手くやっていけるかどうか、あまり確信が持てないでいます。その時々では、それなりに上手くやっていくこともできるのですが、私の中で、いつこの人が裏切りをするだろうか、いつ私に対してインチキやイカサマをするだろうかという、そういった気掛かりが生まれてしまい、そうした不安を常に抱えながら面接してしまうのです。詳しいことは後々記述していく予定をしております。
 従って、ギャンブル依存の問題で来談されたクライアントに対しては、一緒にやっていけるかどうかを私も十分に吟味して、慎重にクライアントを選ぶようになったのです。それもまた、ギャンブル依存者とあまり出会うことのなかった理由の一つなのです。

(本章の注意と構成)
 本章は、ギャンブル問題に関して、私の限られた経験に基づいて綴られることになります。当然、それは、限られた範囲内での、私の個人的な思想であり見解であるので、私の述べることが絶対に正しいなどとは信じないでいただきたいと思うのです。
 本節にて、少し前提のようなものを述べておきます。次節から、もし私がギャンブル問題を引き受けるとすれば、その条件を提示したいと思います。その後、ギャンブルをするということがどういうことなのか、その心理を私なりに考えてみたいと思います。最後に、ギャンブル依存の事例を提示して、この章を締めくくりたいと思います。

(生の様式との親和性)
 さて、ギャンブル問題を取り上げる際に前提となることを最初に申し上げようと思います。
 私には疑問がありました。依存症にはさまざまなものがあります。それなのに、どうしてある人はギャンブルで、別の人はアルコールなのか、さらに他の人たちはドラッグだったり買い物だったり性であったりするのはなぜだろうかという疑問であります。その人の何が依存対象を選ばせているのか、そういう問いであります。
 大雑把な表現になってしまうのですが、私はその人の生の様式と一致するもの、あるいは、その人の生におけるテーマと関連するものが、依存対象として選ばれていると考えています。
 詳しくは後々綴っていくことにしますが、要するに、ギャンブル依存にはギャンブルに一致する生の様式とか生き方が背景としてあるということです。また、その人の人生上のテーマにギャンブルが適合しているということであります。
 従って、ギャンブル依存の回復とは、その人の生の様式や生き方が変わっていくこと、その人の人生上のテーマが展開していくことに他ならないと私は考えています。

(ギャンブルだけを取り上げる権利があるだろうか)
 この部分はとても重要な観点なので、少し詳しく取り上げたいのですが、ギャンブル問題に関して、その人からギャンブルだけを取り上げても、何も変わっていないこともあるのです。それはちょうど、お酒を一滴も口にしないアルコール依存者がいる(実際、そういう人はおられるのです)のと同じなのです
 本人はギャンブルを止めさえすればそれでいいと考えていることもありますし、止めようと思えばいつでも止められると信じている人もあります。確かに過去において止めた経験がある場合には、その信念が強化されていることでしょう。でも、私の見解では、それは問題の本質を把握していないということなのです。
 また、周囲の人たち、家族や同僚たちは、本人のギャンブル問題に対して、ギャンブルだけを取り上げるという対策を採られることが多いのです。それはそれで必要な対策かもしれませんが、私の考えでは、結局、それは問題を引き延ばすだけになるのです。なぜなら、周囲の人は、一生に渡って、その人からギャンブルを取り上げ続けなければならなくなるからです。本当に周囲の人は、一生、その人の面倒を見るつもりなのでしょうか。
 ギャンブルを止めるということは、ギャンブル問題のほんの表面的な部分でしかないと、私は考えています。少なくとも、その人がギャンブルと親和のある生き方、生の様式から抜け出せない限り、ギャンブルをしなくてもギャンブル問題を抱え続けることになるのです。当然、当人がこの状態にある限り、今はギャンブルを止めていても、いずれはギャンブルに戻る可能性がとても高くなるのです。

 そもそも、人はギャンブルをする権利があります。もちろん、それが合法的なものであり、年齢も達しているということが条件ですが、成人男女にはギャンブルが許されているのです。その人に対して、ギャンブルをしてはいけないと言う権利は私にはありません。その人が有する権利は守られなければならないと考えています。
 このことはとても重要なことなのです。本人がギャンブルから足を洗いたいと望まなければ、私たちはこの人のギャンブル行為に対して口出しする権利がないのです。そして、同じように、この人が再びギャンブルを始めると言い出せば、私たちはそれを阻止できないのです。その人がギャンブルをすることは、それが違法なギャンブルでない限り、なんら法に反していないからです。
 そんな生ぬるいことを言っていられないと、周囲の人は思うかもしれません。その気持ちも私は分からないでもないのですが、しかしながら、その人から権利を奪うことは、根本の問題解決ではないと私は思いますし、周囲の人からそれをされることが彼らをギャンブルに向かわせることに一役買っていることもあるように思われるのです。

(本節のまとめ)
 本節を終えるにあたって、ギャンブル依存に関する前提をまとめておきます。
 ギャンブル依存にはギャンブルに親和的な生の様式や生き方があり、その人の人生上のテーマに適合しているということでした。従って、ギャンブル問題は、ギャンブルという行為だけの問題ではなく、その人の全体が関係しているものであり、その問題から解放されるということは、その人の全体が変わっていかなければならないということです。ギャンブルだけ取り上げるのは、表面的な解決であり、おそらく、いつかは破綻する解決であると、そのように私は考えています。
 次節から、もし、ギャンブル問題で来談されようという方々のために、私が引き受ける条件を提示したいと思います。そして、どうしてそのような条件を付けざるを得ないのかという根拠も示すことができればと考えています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)