<10-3-5>感情的正当性の優位(5)~治療への影響(1)

<10-3-5>感情的正当性の優位(5)~治療への影響(1)

 感情的正当性の優位さとはどのような概念であるか、それを理解するために様々な場面で見られるその傾向を取り上げてみました。基本的には何かを決定したり、行動を選択したりするときの判断の基準がその人の個人的な感情体験だけに基づいているということであり、その判断の正当性がもっぱらその人の個人的感情体験にあるということであります。
 次に、その傾向が治療場面、カウンセリング場面において、どのような形で現れるかを見ていくことにします。もっとも典型的な場面は治療が「中断」してしまう場面であります。そのことをこれから考察していくことにしたいのですが、尚、感情的正当性の優位にも程度があり、ここでは理解を容易にするために敢えて極端な例を挙げることになると思います。

(治療の中断)
 治療の終結は、臨床家とクライアントとの双方の合意の上で決定されることが望ましいのでありますが、なかなかその理想通りに行かないこともあります。何をもって「治療の中断」とするかということですが、ここでは双方の合意の基づく終結以外はすべて中断と見做しておくことにしています。
 中断そのものは常に生じ得ることであります。不可抗力的なものも中にはあります。クライアントが転勤等で引っ越すのでその先生の治療を続けられなくなったということもよくあることです。また、クライアントが大病を患ってしまい、その治療のためにこちらを一時的に中断しなければならないということもあります。その臨床家の先生がお亡くなりになって続けることができなくなったという例も私は見聞しています。
 中断というものは起こり得るものであります。そのすべてが悪いわけでもありませんし、すべてが失敗ケースであるというわけでもありません。上記のような不可抗力的な中断も起こり得るのであります。

(不快感情の切り離し)
 本章で取り上げるのは、そういうものとはもう少し性質が異なっていて、その中断の理由がハッキリしないといったケースであります。私のクライアントでも以前どこかの治療機関でお世話になっていたという人もたくさんおられるのですが、どこに通っていたとか、どういう先生だったかといったことは覚えていても、なぜ中断したのかを問うと答えられないという人がおられるのです。私はこれは不思議な現象であると思っています。
 それでも、中断の理由を後から思い出したという人も少なからずおられます。その一方で、最後までそこは思い出されることなく終わる場合もあります。思い出したという人たちの話を伺うと、人それぞれの状況の違いもあるのですが、基本的にはそこで不快な感情体験をしているという理由があるように思います。不快なこと、不愉快な何かを経験されて、それが治療から離れる契機になっているようであります。
「ようであります」という表記をするのは、結局のところ、それが正確には分からないからであります。一人の人が治療を中止するにはさまざまな事情や理由があると思うからです。何か一つの理由で中断しているとは限らないと思うので、若干の保留の意味を込めて「ようであります」と記述している次第であります。
 簡潔に言えば、「イヤなことがあったから、もう行かない」という選択をされたということであります。この選択ないし決断はもっぱらこの人の感情体験に基づいているように思われるので、感情的正当性の優位の表われと見做しているわけであります。
 上述した人たちは、前の治療機関での不快感情体験を忘れていたということになるのです。一部の人はそのことを思い出すことができ、その他の人たちは最後まで思い出すことができないようであります。これは、その不快感情体験がどれだけ積極的に意識から切り離されているかの違いであるように私には思われるのであります。

(すべてを無に帰す)
 中断することだけでなく、一度中断したらそれまでの治療的成果が無に帰しているような人もおられるのです。要するに、以前の治療経験が何も残っていないという感じの人たちであります。これも感情によって無化されているのではないかという気がしてきます。治療で不快な思いをした、悪い治療を受けた、だからそこで経験したこともすべて悪いことであり、その悪いことは(そのまま保持していると不快であり悪いことになるので)自分から放逐しなければならない、そのような過程が心の中で進展しているのではないかと私は思います。
 だから、そのような人は治療を中断したことを後悔するということもないようであります。あの時、もう少し治療を続けていればよかったとか、あの治療者と別れるのではなかったとか、そのような後悔が生じることもなく、彼らは次の治療者を求めるようであります。後悔のような悪い感情体験は排斥したいだろうし、そのような感情を体験するとなおさらその中断が正当であったように思われるのかもしれません。しかし、自分自身を後悔できるほど自己が成熟していない場合もあるように思います。

(時間稼ぎ)
 感情的正当性が優位の傾向がある人の中には転職を繰り返す人もあると述べましたが、ここで述べていることは、治療でもそれと同じようなことが起きる場合があるということです。
 私たちは何かを続けていくと、いわばスランプに陥ることがあります。壁にぶつかるような場面が必ずあると思います。好きで始めたことでもそのような場面を経験します。そこでどうするかと言いますと、一旦立ち止まって仕切り直しをしたり、態勢を立て直したりしたり、もう一度基本を振り返ったりということをするわけですが、このような人たちは本当にスタート地点からやり直すのであります。立ち止まって(ちなみに、ここで思考が発展する)から前に進むのではなく、立ち止まることもなく最初からやり直すわけであります。
 これはどういうことであるかと言いますと、次にしんどくなるまでの時間稼ぎをやっているに等しいということになるでしょう。極端に言えば、スタート地点からしんどくなるまでの間を延々と行き来しているだけということになるのです。それ以上に前に進むことはないのです。深刻な例では、20年以上同じ所のものを繰り返しているという人もおられました。もう前に進まない方がこの人のためではないかとさえ思える人もおられるのです。
 なぜ、それ以上前に進むことがないかと言えば、不快な感情体験をしているそれが悪いことになるので、その悪いものをどうしてこれ以上続けなければならないのか、むしろ止めるのが正しいと、そのような判断をされるからであると私は考えています。

(一回の不快体験で台無しになる)
 ここで述べていることは決して誇張ではありません。長い月日をかけて関係を形成した相手であっても、不快感情体験を一回してしまうと、その関係をご破算にするのです。極端な例であるかもしれませんが、そういう人も稀ならずおられるのです。
 そして、やはり極端な例であるかもしれませんが、一度ご破算になるとそれが修正されることもないのです。あの治療者はかつては良かった人といった位置づけが与えらえないのです。最後の不快感情によって、それまでのものもすべて悪いものになってしまうのです。すごく良くしてくれたはずの人なのに、最後に不愉快な感情をその人の間で経験してしまい、それまで良くしてくれたのはウソだったなどと信じきっているというクライアントもおられました。その最後の一場面のものがすべてであり、それによってそれ以前の事柄はすべて悪に汚染されてしまうかのようであり、それはその後も修正されることがないようであります。この人たちの中では何かが変わるということがなくなるように私は感じています。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)