<10-3-4>感情的正当性のの優位(4)~様々な場面(3)

<10-3-4>感情的正当性の優位~さまざまな場面(3)

(AC信奉者)
 AC(アダルトチルドレン)と自ら称する人たちのことをAC信奉者と私は呼んでいますが、この人たちの中にも感情的正当性の優位な傾向を持つ人たちがおられるのです。彼らは、まず、特徴的な行動として親を変えようという試みをすることが多いのです。AC信奉者に限定せず、また親に限らず、他人を変えようとする人たちをここでは取り上げたいと思います。
 私自身は他人を変える試みは不毛に終わることが多いと信じています。心理学者の中にはそれができると言う人もあるでしょうし、それを推奨しているような人もあるかもしれません。私自身は反対であります。特に、人を変える動機と手段に問題を感じることがあります。
 自分を変えることを学んだ人は、あくまでも私個人の印象ですが、他人を変えるよりも自分を変える方が容易であると考え、且つ、それに成功する例が多いと考えています。自己理解に馴染んでいる人は、他人を理解することよりも自分を理解することの方を選ぶでしょうし、その方が容易であると感じると私は思っています。他人を変えようという試みは、容易な方をすっ飛ばして、わざわざ困難な方を選択しているように私には見えてしますのであります。
 それはさておき、AC信奉者は親を変えようと試みます。そのような例では大抵の場合、親がカウンセリングを受けに来るのです。子供のためにカウンセリングを受けるのではなく、子供に手を焼いて相談に来るというのが実情であります。この親たちは子供に付き合わないわけではないのですが、結局のところ、どう付き合っていいのか分からなくなり、時に付き合いきれなくなってしまうようであります。最初は子供の要望に応じようとされるのですが、やがて子供に振り回されることになってしまうようであります。
 これは簡単な話でして、親が変わったか変わっていないかは子供の感情で決定されているということであります。従って、親が同じことをしても、それで子供が快感情体験をすれば親が良くなったと評価し、不快感情体験をすれば親は変わっていないとか、親は分かっていないなどと評価されることになります。だから親は振り回されることになるわけであります。この前言われたことを同じことをやったのに、この前は喜んでくれて、今回は激しく拒絶されたとなると、親たちは何がいけなかったのか分からないわけであり、子供に尋ねても明確な何かが返ってこないこともあるので、お手上げになってしまうということであります。
 AC信奉者の場合、親を変えようという試みなのですが、夫婦関係なんかでも同じことが生じることがあります。妻が夫を変えようとするとか、夫が妻を変えようとするとか、そういう場面でも上記のようなことが生じるのであります。相手が変わったかどうかはその人が個人的に決めていることであり、その際の判断の根拠がもっぱらその人の主観的な感情体験に基づいているのです。そうなると、相手の方は何を努力しようと関係がなくなるのです。その人の感情状態次第ということになるからです。
 もし、私が変えさせられる側の立場になったとしたら、まずそれには付き合わないでしょう。公平な評価など期待できないからであります。それでも、親たちは立派なもので、子供に適合しようと努力されるのです。ところが、この親たちはそれをすることでダメな親になりつつあるのです。子供に満足しか与えないという親になるからです。一部の親たちはそれが正しい親の姿だと信じ込んでしまうのですが、それはAC信奉者の努力の賜物であります。親は満足を与える存在、自分はその満足を受け取る存在、それだけの関係になってしまうので、子供もますますダメになっていくという悪循環が生まれることになるのです。
 ありがたいことに、親たちは完全ではありません。子供の望むことをやろうとしても、親たちは失敗します。子供の望む通りのことができないことがあるのです。そんな時、子供は親を激しく罵り、暴力的な振る舞いまで見せることもあるのですが、本当は親は正しいことをしているのです。どの子供も親の不完全さを知っていくのです。親が常に上手くやるわけでもないし、万能でもない、普通の一人の人間であることを子供は受け入れていくのです。満たしてくれることもあれば、満たされないこともあること、満たされなくても破局的なことは何も起きないことを子供は知っていくのです。子供の中の親イメージは現実的なものに修正されていき、それによって現実的な関係が築けるようになるものだと思います。このことは親に対してだけでなく、その他の人間関係においても言えることであると私は思います。
 そもそも人間関係というものは、必ず自分の思う通りにいかない場面があるものです。不愉快な体験をしてしまう可能性が常にあるのです。相手が自分とは別個の人間である以上、考え方とか振舞い、認識、動機、欲求などが自分とは異なるから、衝突したりすることもあれば、葛藤することも起きるのです。感情的正当性が優位であると、それは悪いことであり、相手は正しくないことをしていることになるのでしょう。
 いずれにしても、上記のようなAC信奉者の親の例では、親が完全に成功するはずがないのであります。無駄な努力をしなければならなくなるのです。いくら努力をしても、その努力で評価されることはないのです。親が消耗しきってしまうのも当然であるような気もします。
 さて、他人を変えようとする試みが、その人(変えようとする人)の主観的感情体験だけで評価されるのであれば、相手(変えさせられる人)が何をしようと正しく評価されることはないので、相手は不毛な努力をしなければならなくなるということを述べました。
 AC信奉者ではもう一つ重要な問題があるので、そちらも簡潔に述べておきましょう。彼らは義務とか要請よりも自分の感情の方を正しいと判断し、感情の方に従うという問題点であります。
 彼らの中の、それも感情的正当性が優位な人たちの場合、義務としてしなければならない何かがあっても、感情的にしたくないということであれば、しない方を選択するということがよくあるように私は思うのです。イヤなことはしないという態度として見られるものであります。同じ作業でも、少しでも不快要素が生まれると、それを拒否するというようなこともあります。その気持ちは分からないでもないのですが、問題は、自分の感情の方が正しいと評価してしまう傾向にあります。そこで、もし、その作業をしなかったことで叱られたりすると、極端に言えば、彼らはなぜ自分が叱られるのか理解できないのです。その人の中では自分は正しいことをしていると評価されているからであります。しかし、もし、私がいまここで展開しているような説明を聞いたとして、その人が「ああ、そういうことだったのか、それは自分が間違っていた」などと少しでも分かる人には救いがあるのですが、それでも理解できない人はなかなか救いようがないものであります。
 仕事に関する個所でも述べましたが、どの人も時には自分の感情抜きで仕事をしなければならない場面があるものだと思います。学業でも子育てでも、やはりそういう場面はあると私は思います。そして、感情を交えるよりも、感情抜きでやった方が容易にできるということさえあります。感情的正当性が優位な傾向の人は、自分の感情抜きで仕事をするということが分からないかもしれませんし、そんなことは間違っているというふうに判断するかもしれません。とかく、生きにくくなることだろうと私は思います。

 さて、私たちは感情的正当性の優位とはどういうことを意味するのかを述べるために、いくつかの「問題場面」を通して見てきました。基本的には判断の基準がもっぱら主観的な感情体験に基づいているということであり、その傾向が優位であるということであります。それ自体は理解に困難はないにしても、ただ、それが表面化する場面にはさまざまなものがあり、さまざまな状況、パターンなんかもあるので、いささか複雑になってきます。つまり、環境や場面の要因に加えて、その人のパーソナリティや体験してきた事柄、身に着けた反応などがその傾向に加えられてしまうので、さまざまな現れ方をするということであります。
 また、反論もあると思います。判断の根拠が主観的感情に基づくのは理解できるとしても、どうして感情だけで判断されていると分かるのかとか、感情以外の要素も探せば見つかるのではないかといった反論・疑問も生まれることであると思います。私はそれらの疑問や反論は正しいと思います。今はその反論や疑問には答えないのですが、いずれそれらを考察する機会があると思います。私たちは考察を進めることにしたいと思います。
 感情的正当性の優位ということのニュアンスだけでも分かっていただければ今は十分ですので、次にその傾向が臨床の場面でどのような問題となるかということを考えていきたいと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)