<10-3-3>感情的正当性の優位(3)~様々な場面(2)

<10-3-3>感情的正当性の優位~さまざまな場面(2)

(職場不適応)
 定職に就くことができず、職に就いても短期間で退職し、職を転々としてしまうという人たちがいます。この人たちの中にも感情的正当性の優位な人を認めることができます。
 これは非常に話が簡単でして、好きな仕事は一生懸命するけど、嫌な仕事はしませんという態度を採ってしまう人たちです。それは、自分のする仕事、しない仕事、どちらも自分の感情だけで決めているということになるのではないでしょうか。
 このような人は、好きな仕事では能力を発揮しても、イヤなことはしないという態度を採るものですから、周囲からは使いにくいとか扱いにくいなどと思われたりして、評価が下がってしまったうということもあるように思います。当人はなぜ評価が下がるのかが理解できないことも多く、それで嫌気がさして退職することもあるようです。まあ、それであの会社は人を正しく評価しないなどといった不満をたらたら述べるということもあるのでしょう。
 この仕事は自分にムイていないなどと言う人もありますが、この言葉には要注意であります。その仕事が自分に向いているか向いていないかは、その仕事のことが十分理解できていないと判断できないことであると私は考えています。従って、入社して2年3年経った人が言うのならまだ頷けるのです。ところが、入社1,2か月でこれを言い出すと、ちょっと別の問題を想定せざるを得なくなってくるのであります。この場合、向いているか否かの判断は、経験に基づいているというよりも(その判断ができるほどの経験を積んでいないからであります)、主観的感情に基づいている場合が濃厚であると思うのです。
 この感情体験にもいくつかのパターンがあると思います。一つは、思い描いていたのと違ったということもあるでしょう。理想との不一致はそれだけで不愉快な感情体験でしょうから、この不一致は悪いことだとかあってはならないことだなどという評価・判断がされることもあるでしょう。もう一つは、仕事が向かなくなったのではなくて、自分の方が向かなくなったという可能性もあり得るのです。つまり、自分の方が悪くなったのでその仕事に適合できなくなっているということであり、それを仕事が自分に合っていないという風に体験されているというわけであります。自分に対する悪い感情は外界に投影されて(つまり、自分が悪くなったということは認めることは苦しいから)、職場の方が悪くなったというように体験されてしまうのでしょう。悪い感情が職場に投影されて、職場は悪い感情しか体験しない場となり、それらはすべて不快感情をもたらすから悪であり、そこから抜け出すこと(不快感情の追放)が唯一正しい結論のように思えてくるのではないかと思います。
 言うまでもなく、職場不適応のすべてが感情的正当性の優位に還元されるわけではありません。しかし、一部の人においては、感情的正当性の優位さが見られるように思われることがあるのです。

(人間関係)
 感情的正当性が優位であると、人間関係もしんどくなるだろうと私は思います。感情だけで相手と付き合うことになるからです。快感情体験をもたらしてくれる相手とは良好な関係を築くことができても、不快感情をもたらす相手に対しては絶対無理だってことになるからであります。苦手な相手とも柔軟に付き合うという方向は閉ざされていて、完全に拒絶するしかなくなるから窮屈な思いをするのではないかと察します。
 私も何度も経験していることですが、好きになれない人と組んで一緒に仕事をするという場面があります。仕事をしているとそういう場面が出てくるものです。私はそういう時は仕事と割り切ることにしています。つまり、感情抜きで仕事をしようとするわけであります。その時間だけのパートナーと思うようにして、なんとか耐えようとするでしょう。感情的には不愉快であっても、それ以外の目的とか目標のために感情を抑えるようにすることでしょう。感情的正当性が優位であると、なかなかそれが難しいのではないかと思うのです。
 さて、人間関係というとたいへん広範囲にわたるテーマなので、いくつかだけをかいつまんで述べることにします。感情的正当性が優位であるとは、快感情をもたらす相手は絶対的に正しくて、不快感情をもたらす相手は絶対的に悪いと判断するということです。相手の人柄であるとか、知識とか技能とか、経験とか、それらをトータルして判断されるのではなく、その時の感情、相手からもたらされる感情で判断されることになります。
 しばしば「生理的嫌悪感」なる意味不明の概念を持ち出す人がいます。その人から何かをされたわけでもないのに、一目見ただけでイヤだと判断する人がいて、その判断の理由を聞くと「生理的嫌悪感」のせいだなどと答えたりします。悪いことをしたわけでもないのに、「生理的嫌悪感」だけで拒否されてしまう人も可哀そうであります。かくいう私もそうして拒否される体験をする一人なのですが、それはいいとしましょう。
 「生理的嫌悪感」なるものは、本当は存在しないものであると私は考えています。その嫌悪感には理由があり、その人が嫌悪するようになった事情があるはずなのです。ただ、当人にはそこが明確化されていないだけのこと、意識化されていないだけのことであると考えています。従って、それは「無意識的嫌悪感」と呼ぶ方が正しいと思っています。どの人にも苦手なタイプの人はあるものです。私にもあります。「生理的嫌悪感」で片付けてしまうと、その嫌悪感がいつまでも明確化されることなく、言い換えれば探求されることなく終わるので、いつまでも嫌悪感を取り除くことはできなくなると私は思うのです。いつまでもそれは説明することのできない嫌悪感のまま当人の中に残り続けることになるのだろうと思う次第であります。
 しかしながら、「生理的嫌悪感」の背景とか理由とかを明確にしたとしても、それで生理的嫌悪感をもたらす相手のことが好きになれるかというと、それはまた別の話であります。その相手を好きになるかどうかはその人が決めればいいことであります。ただ、意識化できていると、少なくとも、そういう相手への対処が容易になるという感じがあります。また、生理的嫌悪感をもたらす相手と出くわさないようにしようとか、出くわしてしまうのではないかとビクビクするとか、そういうこともなくなってくるのです。私の経験ではそうでした。嫌悪感とか、自分の中に生まれるそうした不快感情だけで相手を見なくなるからであるように自分では思います。
 さて、感情的正当性が優位であると、相手がいい人であるか悪い人であるかの判断はもっぱらその人の主観的感情で決定されることになり、相手のパーソナリティとか人柄とかで判断されることがなくなってきます。明らかに悪い人間でも、いい感情体験をもたらしてくれるからいい人であり、正しい人であると判断してしまうというようなことも生じます。上手くいかない結婚をしてしまう人の中にはこういう人もおられるように思います。
 そのような場合、その人は友人など周囲の人からあの人との結婚は止めた方がいいなどと忠告されていることもけっこうあるのです。私はその周囲の人の言葉を信用します。というのは、その人たちはその相手のことを感情抜きで見ている可能性が高いからです。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)