<10-2-6>病の二相(6)

<10-2-6>病の二相(6)

(治るということの理解)
 病の経験には二つの相を区別することができ、それを「私の病」の相と「病の私」の相とここでは呼ぶことにしています。主体が経験する事柄と経験する主体の区別ということになるのですが、このような区別を設けるのはある事柄の理解を明確にするためであります。
 この二相の区別ができないという人もあるので、少しその人たちのために項を割くことにしました。そこには主体の「病との同一視」が起きているのではないかと考えられるのです。それが前項までに述べたことでした。
 この二相を理解していただくと医師とカウンセラーの違いも理解しやすくなると私は考えています。二つの相のうち、「私の病」を扱うのが医学であり、医師であります。「病の私」を扱うのが心理学であり、カウンセラーであると、私はこのように理解しています。
 一般の人の中には両者を混同される方々もいらっしゃるようです。医師に心理学を求めたり、カウンセラーに医学や薬学を求めたりする人もあるのですが、それぞれの専門分野があまり理解されていない印象を受けます。
 繰り返しますが、「病」の治癒ということが医師の領分であり、「私」の治癒ということが心理学の領域であるということであります。
 カウンセラーである私は、クライアントの「病」の部分ではなく、クライアントにとって「私」の部分が改善していくことを望んでいるものでありますが、「病」の治癒ということを完全に無視しているわけでもなく、多少ともその観点を有してはいます。というのは、心の病の場合、両者が重複しているからであります。「病」が治ることと「私」が治ることと、両方の視点が必要になるのでありますが、それでも私は「病の私」の方に取り組むことにしています。

(「治る」が分からない)
 病の二相が分からないという人たちは、これは結局、「治る」ということがどういうことであるのか本当に分かってはいないことを推測させるのです。「治る」に関しても上述の両方の視点が必要になると私は考えているのですが、その一方しか理解していないからであります。「病が治る」は理解できても、「私」が治るという観念が欠けてしまうことになるからであります。そうなると「私」はすべて「病」次第ということになるわけであり、「私がどのようになるか」が欠落してしまうのです。「治るとは私がどういう人間になることなのか」というその観点が欠落してしまうので、治るということが本当には分かっていないのであります。
 そして、ここで何が治るのかが分かっていないとすれば、ここで何を目指して努力するのかも分からなくなると私は考えています。つまり、この二相が理解できると、医師との間では何を目指しているのか、カウンセラーとの間では何が目指されているのかが理解できることになるので、医療ではこういう努力をする、カウンセリングではこれに努力をするといった方向付けも可能になるわけであります。二相が理解できないということは、こうした努力の方向付けを困難にしてしまうのではないかとも私は考えています。
 二相が理解できず、両者が混同されると、先述のように医師に心理学を求め、カウンセラーに医学を求めるということが生じるのです。「○○という薬を処方されたけれど、これは飲んで大丈夫か」なんて問い合わせを私にしてくる人もあるのですが、これはその人の混同によるものであります。そして、両者の混同が著しいほど、両方で上手く行かない可能性が高まると私は考えています。こっちではこれをして、あっちではあれをしてといった区別がないので、混沌としたまま医師の治療を求めたり、カウンセラーのカウンセリングを受けたりするためであります。相手が医師であれ、カウンセラーであれ、その専門家が提供できる以外のものまで求めてしまう人もあるのですが、これもそれぞれの分野並びに目指していることなどが混同し、その人の中で、整理されず、混沌としていることの現れであると私は考えています。
 従って、医師との間で何が治るのか、カウンセラーとの間で何が治るのか、こうした区別が理解できない場合、どちらを受けていても、何が治るのかを知らないまま受けていることになると考えられるので、そうなるとこの人は「治る」ということが分かっていないということになるわけであります。
 それでも、クライアントたちは「治る」ということのイメージを持っていることも多いのです。それはいいとしましょう。ここで何が治るのか、ここでは何が治ることが目指されているのか、それが理解できていなくて混沌としている場合、そのイメージは幻想で形成されていることが窺われます。実際のところのものが分からないのであれば、その不明瞭な部分が幻想で補われることになる可能性があるからです。これに関しては後に「治療幻想」のところで取り上げることにします。
 もしくは、何が治るかが分からないために、主観的な感情だけで評価されることもあります。つまり、気分が良くなったから治った、不愉快な経験をしたから治らなかったといった判断をされるわけであります。これに関しては次節の「感情的正当性の優位」で取り上げることになります。

(新しい自分になっていくこと)
 さて、本節では病の二相を取り上げてきました。これを理解していただけると、医師や病院では何をするのか、何を目指して努力するのかが理解でき、同じように、カウンセラーや相談機関では何をするのか、何を目指して努力するのかが理解できると私は考えています。二相を理解していると両者が混同される可能性が低下するとも思います。
 同じように両者に対する批判も減少すると私は思います。例えば、お医者さんは薬を処方するだけだと批判する人もおられるのですが、医学的にはそれが普通のことであり、正しいのであります。「私の病」に直接アプローチするから薬が処方されるのです。一方、カウンセラーは話を聞くだけだとか何もしないといった批判もなされるのですが、クライアントの主体がそこでは主眼になっているのでありますので、カウンセリングの観点からすればそれは普通のことであり、正しいことになるのであります。それぞれの批判に多少の正当性を認めるとしても、また、その批判がうまれる事情なり背景なりがその批判者にはあることを認めるとしても、この批判の生まれる背景には両者の混同が潜んでいるのかもしれないとも私は考えています。
 二相が理解できる人でも、ここまで読んできて、やはり曖昧な部分が残っていることと思います。私の記述を読んでもサッパリ分からんと思う方がいらっしゃることと思います。特に、「私の病」が治るということはイメージできるけれど、「病の私」が治るというのがよく分からないと思われている方々もいらっしゃることと思います。それはその通りでありまして、それに関する記述を私がほとんどしていないからであります。極めて大雑把な表現をすれば、「病の私」が治るとは、その「私」から違った「私」になることであります。新しい私になっていくことなのであります。それはまた別のテーマになるので、節を改めたいと思います。
 本節では病の二相を理解することで、カウンセリングで何を目指しているのか、それは医療と何が違うのか、その点を明確にできればそれで十分でした。それ以上の話は後々のテーマで取り上げられることになると思います。
 尚、本章の最初に述べたように、これは私の個人的な見解であります。カウンセラーの皆が皆がこれと同じ考えでカウンセリングをしているというわけではありません。まったく違った考え方でカウンセリングを実践しておられるカウンセラーさんもいらっしゃるので、それはそれでよろしいと思います。私がどういう観点を有して実践しているのか、そこが理解してもらえれば私としては十分であります。
 私たちは次なるテーマに移っていきたいと思います。本節のテーマ、病の二相に関して言い残したことや、それが理解してもらえるようなケースがあれば、<補遺集>に上げておきますので、興味のある方は併読していただければと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)