<10-2-2>病の二相(2)~「精神病は治らない」神話

<10-2-2>病の二相(2)~「精神病は治らない」神話

(精神病は治らないという神話)
 身体的な病気であれ、精神的な病気であれ、病には二つの相があると考えることができます。それは病そのものの相と、その病を抱える私という相とであり、前者を「私の病」、後者を「病の私」とここでは称しています。
 医学は「私の病」にアプローチするものであり、「病の私」は心理学や哲学の領域であると私は捉えています。従って、ここで「治る」というのは、「病」が治ることよりもむしろ「私」が治るという点を強調しており、私がカウンセリングを通して目指したいところもそこにあります。
 私たちは病の二相をもう少し考察したいのですが、その前に「心の病(精神病)は治らない」という大した根拠もなく一般的に信じられている神話について述べたいと思います。少し本筋からは外れるかもしれませんが、「治らない人」の中にはこの神話を信じ切っている人もおられるので、ここで取り上げておくことにします。
 ピネルに始まる現代の精神医学が誕生して200年以上を経ていますが、精神医学がそれだけ継続しているということは、治る人がいるからであります。もし、それによって治る人がいないのであれば、その学問並びに医学領域は廃れているはずであります。あるいはもっと違った医学分野が誕生しているはずであります。今は精神医学史に立ち入ることはしませんが、精神医学は洋の東西をを問わずに優れた治療者を生み出し、さまざまな学派が発展させてきた医学分野であり、そこにはいつの時代にも精神病が治った人の存在があるものです。
 精神病というものは、大きく分けると、心因性、内因性、器質性の精神病に分類することができます。私が思うに、「精神病が治らない」という神話は、主に器質性の精神病のみに該当するのでしょう。それでも、私の考えは変わることなく、器質性精神病で治らないのは「私の病」の相であり、「病の私」の相は治りうると考えています。
 それはさておき、この神話は確かに一部の精神病では当てはまるかもしれません。その一部分の患者さんたちに焦点が当たるのか、それとも、その一部分の該当者を全体とみなしてしまっているのではないかと私は思うのであります。これは一般の人に精神医学的知識が普及していないといった事情もあることと思うのですが、いささか短絡的な思考に基づく神話ではないかという気もしています。
 また、医師たちの間でもその神話が根強かったと思われる事象があります。昭和30年代に精神医薬が大きく発展して、精神病が治る病気であると認識されるようになると、民間の精神病院が軒並み開設されたそうであります。それ以前は精神医学というのは少しマイナーな分野であったようです。どうも、そこには治らない病気に携わることに対する医師たちの拒否感情なんかもあったのではないかと、私は個人的にですが思うのであります。従って、昭和30年代以前には、その神話は医師たちの間でも共有され、固持されていたのかもしれないと思うのです。
 しかしながら、このことは言い換えると、この神話を信じ続ける人は昭和30年代以前の「常識」をそのまま持ち続けているということを意味しているのです。「精神病者は犯罪率が高い」とか「精神病者とは訳の分からないことをする人間である」などといった旧態依然の「常識」をいまだに持ち続けている人たちであり、どういうわけかそういう部分が刷新されないのであります。クライアントに限らず、一般の人の中にもそのような認識をされている方々もおられるように思います。
 それはさておき、精神病の一部は確かに治ることが困難であるとしても、多くの精神病は治りうるものであります。ただ、「治る」ということの意味合いが、医師たちと患者さんたちとの間では少し異なるかもしれません。そこは今は取り上げないでおきましょう。私たちは論を進めたいと思います。

(「治らない人」がこの神話を信じている理由)
 もちろんすべてがそうというわけではないのですが、「治らない人」の一部の人はこの神話を持ち出すことがあります。何か「治療的」な働きかけを私や他の臨床家がした時に、彼らは「この病気は治らないのです」ということを言い出すことが多いのです。治らないと信じていながら、病院やカウンセリングに通っているのだから、何とも矛盾したように聞こえるかもしれません。
 ある人は治療に対する抵抗としてこの神話を持ち出すこともあるでしょうし、治療者のさまざまな働きかけを無効化しようという無意識的動機から持ち出すこともあるでしょう。このような解釈はクライアントには厳しいものとして映るかもしれませんが、そのように思えるような場面もあるのです。治療的な働きかけ、あるいは治療者の言動が侵入してくるように感じられて、彼らはそれを締め出そうとするのかもしれず、その手段として、あるいはその盾としてこの神話を持ち出してくるのかもしれません。
 しばしば見受けられるのは、この神話を一つの合理化にしてしまっているような例であります。それは、自分が治らないことの言い訳であったり諦めであったりするでしょうし、治ること並びに治る自分の拒絶を表わしていることもあるかもしれません。私が治らないのではありません、精神病が治らないのですと言っていることになるので、ここには自己が無化されているように感じることも私にはあります。
 この自己の無化という例を挙げましょう。ある人は「精神病は治らないから私は治らないのです」と私に向かって言いました。この人がこの神話を持ち出す時は私と距離を置きたい時であると私は感じていましたので、私が少し踏み込み過ぎたのでしょう。大抵の場合、そこで私は引き下がるのですが、一度、少しだけ対決を試みたことがあります。私はこの人に、「精神病が治らないことが、どうしてあなたが治らないことになるのですか」と尋ねてみたのでした。この人は混乱してしまったのでした。
 要するに、「精神病は治らない」は「あなたが治らない」という意味ではないのです。この神話を持ち出す人は両者を結合させてしまうわけであります。上述の場面はこの結合の部分に焦点をあてる試みであったのです。この人が混乱してしまったのは、「病気」の方ではなく、「自己」の方が問われていることを感じ取ったためだと思います。問われている自己が彼には無いのであります。その自己は病と一体のようになっていたので、それが存在しないかのようにこの人には体験されていたのかもしれません。自分の中に無いもの(本当は有るけど無化されている)を問われたために混乱が生じたのだと私は理解しています。
 さて、「治らない人」の中には「精神病は治らない」という神話を信じていることがあるということを本項では取り上げているのですが、この神話を信じているから「治らない」というよりも、この神話を信じさせることになっている背景にあるものの方が影響が強いと私は考えています。前記のケースのように、そこには「病」と自己との同一化が起きていることが考えられるように思います。私たちは次項で病との同一化について考察していくことにします。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)