<1-5B>いくつかの言葉に関して~自己と自我

<1-5B>いくつかの言葉に関して~「自己」と「自我」

 もう一つ、頻繁に登場する言葉に「自己」と「自我」があります。
 これを厳密に区別する専門家もいれば、あまり明確に区別しない専門家もあるようです。どちらか一方だけを主に使用するという人もあります。例えばフロイトは「自我」を、ユングは「自己」をよく用いるなどです。
 両者を同じ概念と捉える人もあれば、違うものだと考える人もあります。自我と自己の相違に関しては、研究者によって違いが見られることもあります。
 私の個人的印象では、研究者間の相違よりも、学問分野間の相違の方が大きいと思うのです。「自己」という概念は、同じ心理学者どうしの間での差異よりも、社会学との間の差異、宗教学で使われる「自己」との差異の方が大きいということです。「自我」に関しても同じことが言えるように思います。
 従って、「自己」や「自我」という言葉に出会った時は、それを述べている人が心理学畑の人なのか、社会学専攻者か、宗教家であるかといった点に注意する必要があると思います。

 私はあまり「自我」と「自己」を明確に区別はしてきませんでした。大雑把な区別しかしていないのですが、一応、それを述べておこうと思います。
 まず、「自己」とは、私が自分を指して「私」という時の、私によって指されている「私」が「自己」であると簡単に定義しておきます。
 自己は、どちらかと言うと、静的な概念として私は捉えているのです。そして、自己は、私の身体も含めて、私の周囲にまで広がることがあります。私が所属している空間は、私にとっては、自己の一部なのです。従って、自己は「領域」に近い概念であると理解しています。自己は「私」を中心にして、その領域が広がるという概念として私は把握しています。
 人によっては、あまり自分の家にズカズカと他者に入り込まれることを好まない人もあると思います。この場合、家はこの人の自己の一部となっていると考えられるわけです。応援しているスポーツチームがバッシングされていると、あたかも自分が攻撃されたかのように傷つくという人もあるかもしれませんが、この場合、そのチームはその人の自己の一部となっているわけであります。
 このように考えると、身近な他者が自己の一部になるという現象はそれほど稀有なものではないということが頷けるのです。人間関係に関する問題では、しばしば自分と相手の領域が不明確になっている例が多いのですが、この現象自体は珍しいことでもなんでもないということになります。

 これに対して、「自我」はもっと動的な概念であります。「自我」は、いわば一つのメカニズムであるのです。従って、「自我」には動きがあり、その働きがあり、成熟があるのです。フロイトの述べる「自我」は明らかにこういう性質のものでした。
 例えば、あなたは上司に言われた一言で傷ついています。心の中は様々な感情で騒がしくなっています。あなたは好きな映画でも見て、この感情から距離を置こうとします。これらはすべて自我の働きであると私は考えています。傷つくことも、感情が動くことも、それから距離を置くことも、すべて自我の働きであると私は考えています。自我は、あなたが状況を生きるために、あなたが適応していくために、様々な働きをしているのです。
 不適応と呼ばれるものは、すべて、その状況において、その人の自我が適切に働かない状態として把握することができます。
 この見解をとると、自我とは日常の様々な場面で常に働いており、その人の適応を助けているという側面があるということになります。そして、適応するとは、別の言葉で言えば、当人を守る働きがあるということであります。
「自我の防衛機制」というように精神分析の世界では言われるものですが、外界と自分自身との折り合いをつけるために自我が働く際の、そのスタイルのことであります。自我の防衛機制にはいくつもの種類があるのですが、その人の年齢並びに成熟の度合い、過去の経験などから、その人に馴染みのある防衛機制が身についていきます。それは一部には性格傾向として現れます。
 例えば、自分にとって不都合な見解等に接した時、それを合理化して、言い訳をするという人もあると思います(私のように)。この人はこういう仕方で自己を守っているのであり、この方策が有効であったという経験をしてきているのです(私のように)。そして、こういう合理化をやたらとする人は、周囲からは「理屈っぽい人」と見られる(私のように)ことが多くなるわけです。
 自我の働きはその人の性格傾向に深く関係していると考えられるので、自我が別の働きをするようになるということは、性格の変化として顕現化することになります。私の考えでは、性格が変わるとは、自我の適応スタイルが変わることであります。

 さて、自己と自我について、あまり深みに入り込まないようにしましょう。あまり厳密に述べようとすると、とてもこの分量には収まりきらなくなるので、この辺りで切り上げましょう。
 最後に、自己と自我とはまったく別次元の現象であるので、自己がより深層にあり自我はより表面的だといった階層的な図式は、私にはまったくの間違いであるように思います。自己はあくまでも自己であり、自我はどこまでも自我なのです。両者は比較しえないものであり、階層的に順位をつけられるものではないのです。

(文責:寺戸順司)