<1-5A>いくつかの言葉に関して

<1-5A>いくつかの言葉に関して

 私のこのサイトは大部分が文章で埋められることになるでしょう。私はこのサイトを「テキスト」にするつもりはありませんし、論文のようなものに仕上げるつもりもありません。できるだけ日常的な言い回しで書くようにしたいと思いますし、何よりも、私が経験したこと、見聞したことを書くようにしたいと思います。また、できる限り誤解を招かないような表現を心掛けたいとも思います。
 しかし、日常的な表現で書く、あるいはあなたに語って聞かせるように書くと言っても、いくつかの約束事とかルールといったものがあるのは事実で、本節では、いくつかの約束事とルールを押さえておこうと思います。読む必要がないと思われる方は、次節へ進んでもらってけっこうであります。

 まず、言葉に関するルールを押さえておきます。
 相談に来られる方のことは「クライアント」で統一します。人によっては、「患者」という言葉を使うでしょうし、「顧客」といった言葉を使用されている専門家もおられます。ヘルパー(援助者)に対してヘルピー(被援助者)と呼ぶ人もあります。 
 臨床家がこの人たちのことをどう呼ぶかということは、その臨床家の姿勢を示す指標となると私は考えています。
 来談者を「患者」と呼ぶことは、その臨床家が医療的観点を強く持っておられることを示しているように思われますし、「顧客」と呼ぶ人はビジネスや商取引の関係を志向しているように思われます。
 「クライアント」は、一つの役割関係を示す中立的な言葉であるように私には思われます。「依頼した人」というポジションを示しているだけなのです。従って、私に面接を依頼してきた人は、それがどのような人であれ「クライアント」と呼ばれるのです。

 クライアントの依頼を受ける側、面接を行う側のことは「カウンセラー」で統一します。これは面接する主体を示す言葉であります。
 別の言葉で「臨床家」を使うことも私にはありますが、これはカウンセラーを含め、臨床に携わる人全般を指しています。医師やスタッフ、研究者など、幅広い人たちを総称する時に使用しています。

 クライアントとカウンセラーとが会うことを「カウンセリング」もしくは「面接」と表記します。もともと「カウンセリング」には面接の意味が含まれていたのでしたが、近年では面接に基づかないカウンセリングも行われており、そういう活動に対して普通にカウンセリングという語が用いられているため、対面しているということを強調したい場合には「面接」という語を充てることにします。

 以前は使用しなかったけれど、この版ではIPという語を使用するかもしれません。IP(Identified Person)とは、家族療法で用いられる用語で、「問題を抱えているとみなされている人」を意味します。
 子供の問題で母親が相談に来たという例では、母親がクライアントであり、子供がIPということになります。IPは一人の場合もあれば、複数のこともありますし、カウンセリングの経過の中でIPが変わることもあります。例えば、初期の頃は子供のことが中心となっていたけど、後期では夫のことに焦点が移行したという例では、IPは子供から夫へ変わったわけです。

 以前から誤解されたり曖昧だといってよく指摘された言葉が「対象」という言葉です。私はこの言葉を頻繁に使う傾向があるようです。
 これの反対語が「自己」なのです。自己は内側の部分、対象は外側の何かを指しているわけです。ややこしくなるのは「自己」が対象となる場合があるためだと思います。
 少しだけ説明します。私たちの意識とか心(感情、思考、観念、意志など)というものは、それ単独で存在しているわけではありません。常にそれの向かう対象があります。つまり、意識は常に「○○についての意識」という形で存在するのであり、感情などについても「○○に対する感情(思考、意志)」という形で顕現化します。この「○○」の部分が「対象」ということであります。(補足1)
 この「対象」は、今この瞬間に私が関与していることであれば、人であれ物であれ、動物であれ植物であれ、現実のことであれ架空のことであれ、現在のことであれ未来や過去のことであれ、あらゆることが「対象」となり得ます。
 複雑になるのは、「対象」というものが多重構造を有しているという点にあると思います。例えば、「○○についての考え」という場合、「○○」の部分が思考の対象となっています。これは単純に理解できます。しかし、私たちは思考そのものを対象とすることもできます。つまり「○○についての考えについて考える」ということが可能なのです。この場合「○○についての考え」ということが思考の対象ということになります。これはいくらでも重ねることができます。「○○についての考えについて考えたことを考える」と言うと、「○○についての考えについて考えたこと」が思考の対象となるわけです。
 また、これに関しては反対の意見を持たれる方もおられると思うのですが、意識は同時に二つ以上の対象を志向するかという問題があります。私は、それはあり得ないという見解を採っています。授業を受けながらこっそりゲームで遊ぶ子供は、同時に二つのことをしているのではないのです。授業とゲームと、意識は瞬時に両者の間を往復し続けているのだと私は考えています。同時に二つ以上のことができるという人のやっていることを見ると、やっていることは本当はどちらかの一つなのです。瞬時に入れ替わり続けているだけなのだと思うのです。
 このことは次のような場面で問題になります。子供が母親をつかまえて、母親が過去にどれだけ自分にひどいことをしたかを訴えているという場面があるとします。この時、この子の意識が志向している対象は何になるでしょうか。現在の母親でしょうか、それとも過去の母親でしょうか。この子は現在の母親に向かって言っているつもりだと主張するかもしれません。でも、私の考えでは、この子の意識が志向しているのは過去の母親であるように思われるのです。もしくは、過去の母親と現在の母親と、意識が瞬間的に流動しているのだと思われるのです。
 問題となる状況では、当人の意識や心が何を対象にしているのかが非常に不明確である場合が多いように思います。このような場面について考察する際に、「対象」という概念がとても有効であることも確かであるように私には実感されています。
 長々と述べましたが、「対象」とは今この瞬間において自我が関与しているところのものであるというように理解していただければ、それで十分であります。


(補足1)この考えはブレンターノ心理学の基礎にあり、それから発展したフッサール現象学でも継承されているものです。彼らはしばしば「意識は対象を志向する」といった表現をします。


(文責:寺戸順司)