<1-3>見ること・読むこと

<1-3>見ること・読むこと

(文章ばかりのサイト)
 このサイトの初版でも、以前の旧サイトでも、あるいはマイベストプロ大阪のページでも、私のサイトはすべて文章で埋められました。私が活字中毒なのも関係しているのかもしれませんが、文章を綴るのが好きなのです。
 この第2版では、もしかすると動画をいくつか入れるかもしれませんし、あまり上手ではありませんが、図なんかも書いて提示しようとも考えています。
 私のサイトはよく業者さんから批判されることが多いのです。もっと写真とかイラストとか、そういう視覚に訴えるものを入れるべきだと、彼らはそう言うのです。そういうことを考えたこともありますし、やってみたこともありましたが、どうも気に入らないので私はそれを止めました。

(読むことは自我関与度の高い行為である)
 私はある経験をして知ったことがあります。私の個人的な経験なので、あなたも同じように経験されるとは限らないのですが、少なくとも、私はこの経験から学んだことがあります。
 それは、ある金融会社のCMでした。何度もテレビCMで見たことがあるので、私もそのCMを知ってはいました。ある時、電車の車内広告で同じものを見ました。私はそれがテレビで何度も見たものだということはわかりました。しかし、その広告の文面を読んで、初めてそれがどんな金融商品のCMであったかを知ったのでした。
 つまり、視覚からの情報は速やかに入ってくるかもしれないけれど、中身まではきちんと伝わらないかもしれないということです。逆に、文章は、速やかに入ってきにくいかもしれませんが、ちゃんと読めば中身が理解できるものだということです。
 もう少し言えば、視覚として見たものは、速やかに入ってくるけど、出ていくのも早いという感じがします。先週見たテレビはよく覚えていないけど、先週読んだ本のことはよく覚えているといった体験を私はします。
 この違いは何かと言うと、自我関与度の違いであるように私は思います。見るということは、注察する場合であっても、自我関与度が低くなることがあるように思われるのです。一方、読むということは、対象である文章に積極的にかかわることでもあるので、自我関与度の高い行為であると言えそうです。

(クライアントの利益と不利益)
 業者さんからは、私のそのような考え方では閲覧者が減るだろうし、お客さんも減っていくだろうと言われるのですが、はっきり言います、そういう人なら来てほしくありません。
 つまり、自分の受けるカウンセラーについて、そのカウンセラーの書いたものを読んでみようという意志のない人は、実際に来談されてもうまくいかないのです。
 先ほど、読むことは自我関与度の高い行為だと私は言いました。それは現実のカウンセリングでも同じことなのです。サイトの時点で自我関与度の低い人は、現実のカウンセリング場面でも自我関与してこないでしょう。現実にそのように見受けられる人もおられるのです。
 また、読んでくれた方々は、実際のカウンセリングでも速やかにカウンセリング関係に入っていかれるという印象を私は持っています。ある程度、その人の中でイメージが形成されていたり、何らかの知識をすでに持っておられるからでしょう。こういうイメージや知識がまったくないという場合、その人がカウンセリングに入っていくまでに時間がかかるものです。
 私は以前、あるクリニックで働いた経験があります。クライアントたちは何も知らない無知の状態で来談されます。クライアントは、カウンセリングの場に来てみて、その時になって初めて「私はここで何をやったらいいですか」などと臨床家に尋ねるという始末です。当時は今のようなインターネットがなかったので、そうなるのも仕方がないことではありましたが、それでも、事前に何も知らないということは、クライアントにとって不利益になると私は考えています。
 私がサイトで文章ばかりを綴るのは、一つにはクライアントのそうした不利益を減らしたいと願うからでもあります。
 あくまで私の個人的な見解ですが、見栄えのいいサイトには要注意です。業者さんからいくつか見本として見せていただいたのですが、綺麗にデザインされ、作りこまれていて、とても見栄えはいいのですが、そのサイトは何一つ閲覧者に与えていないうえ、何一つ語っていなかったのです。

(伝えることの難しさ)
 しかし、読む方もたいへんだろうとは思うのです。だからすべてを読む必要はないし、興味のあるところから目を通されて構わないのです。できることなら、そこから他のテーマの部分も読んでいただければ幸いに思います。
 これはあなたには関係のないことではありますが、実は、書く方もけっこうたいへんなのです。正確に伝えようとすれば、それだけ多くの言葉を重ねなければならないのです。
 例えば、空を見上げると、今日は晴天であることが分かり、それを伝えるとします。そこで、「今日は青空が広がっている」と言ったとします。
 それで済めば問題はないのです。しかし、ある人は「でも、あそこに一つ雲が浮かんでいるではないか」と言うのです。確かに雲が一つ浮かんでいます。その雲を無視するのかというわけです。そこで私は「雲が一つ浮かんでいるけれど、今日は青空が広がっている」というように言わなければならなくなります。
 それでも、これではまだ不十分なのです。私にはそれが青空に見えているのですが、他の人にも私と同じように見えているとは限らないからです。そこで、これは私にはそう見えているということを追加しなければなりません。「雲が一つ浮かんではいるが、今日は全体として青空が広がっているように私には見える」となります。
 これで批判のない文章となったでしょうか。これはあくまで私の個人的な体験であり見解であります。ほかの人には違ったふうに見えるかもしれません。そこで、これは私の個人的な体験ですという一文を付け加えなければなりません。場合によっては、次のような文章になるでしょう。「あなたには違ったふうに見えても構わないことではありますが、今日は雲が一つ浮かんでいるものの、全体として青空が広がっているように私には見えるのです」と。
 しかし、これはまだ十分ではないのです。ここから一つの結論を述べなければならないからです。「今日は青空が広がっている」と言えば、この結論はすでにそこに含まれているのですが、はっきりと明言しなければ伝わらないのです。さらに、この結論も「私の結論」として述べなければなりません。
 従って、「あなたには違ったふうに見えても構わないことではありますが、今日は雲が一つ浮かんでいるものの、全体として青空が広がっているように私には見えるので、本日は快晴と理解してよいように私には思われます」としなければならなくなるのです。
 これでもまだ十分とは言えないところがあるのですが、取り敢えずはこれでオーケーということにするわけです。これ以上に冗長になりすぎると、読む方が却って混乱するからであります。

(不可視の対象を記述するという一面)
 上記のような事情もあるとは言え、確かに私の文章にはある種の「伝わりにくさ」があると自分でも思います。それは記述の対象が形のあるもの、実体のあるものではないからでもあります。取り出して、一緒に見ることができるものなら、説明はもっと簡単です。でも、個人の内的経験とか、あるいは心や精神、関係などといった事柄は不可視のものであります。
 伝わりにくさ、分かりにくさというのは、私の文章の拙さにも一因があるとは思うのですが、述べている事柄が目に見えないものであるだけに、どうしてもそうならざるを得ない部分があるということもご理解していただければ幸いに思います。

(文責:寺戸順司)