<15-4H>虐待の理由(8)

<15-4H> 虐待の理由(8)

(被虐待者は逃げない)
 虐待問題の第三者が不思議に思うことの一つに、どうして被虐待者は虐待から逃げないのかという疑問があるように私は思うのです。危なくなったら逃げなさいと忠告する人もありますし、私も、気休めにもならないと一方では思いながら、暴力を振るわれそうになったら逃げなさいなどとサバイバーに助言することもあります。結局、こうした忠言は無意味なのであります。
 虐待が被虐待者のアイデンティティに関わっているのであれば、あるいは、それが自己確認の手段のようになっているのであれば、その場面から逃避することは自己喪失の体験をしてしまうことになります。その場面に留まることで自分が在るのであれば、その場面からの逃走は自分が無くなるに等しくなるわけであります。
 同じことは虐待者側にも該当するかもしれず、そのために虐待行為を止めることができなくなるのかもしれないのです。双方にとって必要性があるから暴力は持続し、繰り返し継続されていくことになるのです。私はそのように考えています。
 虐待から逃げることは、自己のアイデンティティの喪失につながるので、逃げるわけにはいかず、少なくとも虐待者の虐待が終了するまでその場に留まらなければならないのです。私はそう思うのですが、これはもちろん、彼らが逃げない理由の一つにすぎません。
 恐怖心のために彼らは逃げられないのだと考える人もあるようですが、それも一理あると私は思います。蛇ににらまれたカエルのように、動きが封じられるのです。クライアントBやFは、体が硬直する感じや暴力場面に縛り付けられるような感じを報告しています。それは恐怖心にも基づいていることでありましょう。
 また、ここで逃げたらその後にさらに大きな罰が待っていると予期してしまい、そこで自分が逃げない方が賢明だと思う人もあるかもしれません。自分さえ耐えればいいといった発想は、被害の拡大を食い止めようとする気持ちに動機づけられているのかもしれません。
 中には虐待場面が虐待者との対決の様相を帯びていることもあるかもしれません。虐待者が音を上げた時、被虐待者は自分が「勝った」と感じられるということもあるかもしれません。サバイバーの中には「力」を求める人もあるので、そういう理由で虐待場面で踏ん張ってしまうという人もあるかもしれません。
 あるいは、初期経験の乏しさのために逃げられないということもあるかもしれません(これに関しては<15-4補遺>で取り上げます)。
 いずれにしても、彼らは虐待場面から逃避することはないのです。理由はさまざまであれ、個人的には、そこに自らのアイデンティティが絡んでいるために逃避できないというのが一番大きな理由であると私は考えています。

(構造に留まる)
 さて、本節は虐待の理由を出発点としました。被虐待者は虐待者に虐待の理由を問うということをしているのです。そこで虐待者が答えた理由を彼らは無条件に信じているのです。この現象が私にはとても不可解に見えるのです。
 ここまで虐待は被虐待者にとってアイデンティティに関わる事柄であり、自己を体験し、自己を確認できる場面であることを考察してきました。私たちは今や、なぜ被虐待者たちが虐待者の言葉を疑うことなく盲信するかがおぼろげながらにでも推測できるのです。彼らはそれを信じなければならないのです。決して、それを疑ってはならないのです。すべては虐待者側が決定するのであり、被虐待者はその決定に従うことで自己を確立するからであります。
 被虐待者が何者であるかは虐待者が決定するのです。被虐待者のアイデンティティは虐待者が決めるのであります。虐待者の揺れ動き、変動するアイデンティティに対応し、適合していくことが被虐待者に要請されてしまうのです。そうして、その都度のアイデンティティが補完的な形で双方に与えられるのです。この構造からはみ出る行為は一切禁じられているのです。なぜなら、この構造の外に出ることは、双方のアイデンティティを脅かしてしまうからであります。私はそのように考えています。
 なぜ、あなたは私に暴力を振るうのか、被虐待者のこの質問はすでにこの構造に組み込まれているものなのです。双方のアイデンティティの確立のために必要な質問になるわけであります。だから被虐待者は、その構造において、虐待者にそれを尋ねなければならないのであります。
 それに対する虐待者側の応答もまた、この構造に組み込まれているものなのです。双方のアイデンティティの確立のために必要な応答になるわけっであります。だから、虐待者はその質問に答えなければならず、質問されなくても伝達しなければならないのであります。
 そして、この構造は壊してはならないのです。被虐待者が虐待者の言う理由に疑惑を抱くことさえ、この構造を破壊するものとして恐れられるのだと私は思うのです。
 そして、いささか極論を言えば、サバイバーたちは虐待者から離れていても、この構造の中に生きているのです。彼らは何らかの形で暴力、虐待に関わっていくことになってしまうのです。
 
(禁じられた問い)
 なぜ私に暴力をふるうのか、虐待者に対する被虐待者のこの質問は、すでに虐待の構造の中に含まれているものであると私は仮定しています。もし、この構造から出るためにはどのような質問がなされるべきなのでしょうか。そして、それは被虐待者がもっとも問いたい質問であり、同時に、彼には禁じられた質問であると私は考えています。
 その質問とは、「私は何者でしょうか」という問いではないかと私は思うのです。被虐待者が本当に問いたいのはそれではないかと思うのです。当然、この問いは虐待者をひどく苦しめることになるでしょう。それは虐待者に向けてなされてはならない質問であります。被虐待者がその疑問を持つ以前に、虐待者がアイデンティティを付与しているからであります。また、その質問は、同時に、虐待者に「あなたは何者ですか」と問う行為なのであります。これは虐待者をひどく精神的に追い詰めることになるでしょう。なぜなら、虐待者側がこれに応えられないからであります。
 クライアントBが一時期「私って、何?」としきりに問うていたのを思い出します。当時、私は彼女が自分の存在とか自我に目覚めたくらいにしか理解できていませんでした。今から思うと、彼女は虐待の構造から抜け出ようとしていたのではないかとも思うのです。
 また、クライアントDもフラッシュバックの最中にしきりにそれを言っていました。私とはなんだ、私は誰だといったことを口走るのであります。彼が自己不確実感に襲われていたのは確かでしょうけれど、それ以上に、今まで禁じられていた質問を発しているのではないかとも私は思うのです。
 私の個人的見解に過ぎないかもしれませんが、サバイバーたちが「治療」期間中にその種の問いかけをするようになるのは望ましいことであると考えています。しかし、その問いを発するということは、一時的にであれ、サバイバーは無アイデンティティの状態に身を置くことになるのです。一個の人格的存在でありながら、アイデンティティを持たないという、そのような自己を体験するのです。これは当人にはたいへん辛い経験となるのです。
 しばしば、その辛い体験をしている時に、その辛い状態に耐えられないと思うのか、暴力や虐待が彼の生活に持ち込まれるのです。言葉は悪いのですが、その辛い体験に対して、それは手っ取り早い解消法なのであります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)


2019年9月19日公開