ホーム > カウンセリングの過程(6)

カウンセリングの過程(6)

カウンセリングの過程(6)―INDEX

<テーマ120> 「動き」の拒否
<テーマ139> 自我親和性から自我異質性へ(1)
<テーマ148> 自我親和性から自我異質性へ(2)




<テーマ120> 「動き」の拒否

(120―1)「動き」を「悪化」と捉えてしまう
 カウンセリングを受けて、クライアントの内面に「動き」が生じれば、それは次の過程に進むきっかけとなるものです。でも、一部のクライアントはこの「動き」を拒否するのです。本項では、「動き」を拒否するという点について述べていくことにします。
「動き」というものは、前項で示したように、クライアントから見て望ましい「動き」もあれば望ましくない「動き」もあります。望ましくないものとしてそれが体験された時、クライアントはそれを拒否するのです。その際の一つのパターンは、その「動き」を悪化のサインだと見てしまうということなのです。
 確かに、「動き」というものは、たとえそれが望ましい「動き」であったとしても、当人にとっては苦痛となる場合もあります。最初のカウンセリング経験で、私がやたらとその臨床家の先生のことで心を奪われた時、それは望ましいことである反面、日常生活のその他のことが手に着かなくなるという困った事態を招いたのです。もし、その後者の一面だけを捉えるとすれば、私のこの「動き」は、私にとっては悪化を意味しており、望ましくないものです。私はそこで、悪化したからという理由で、もしくはこれ以上苦悩したくないという理由で、カウンセリングを止めることもできたのです。一応、私にはその自由がありました。でも、揺さぶられながらも、一方では、この先自分がどうなっていくのか見てみたいという気持ちもあったので、私は続けることにしたのです。結果的に、続けてよかったとは思っています。
 私は三人の臨床家にお世話になった経験があり、それだけ長く続けている間には、望ましくない「動き」を体験したこともあります。「望ましくない」場合、ともかく無性にイライラするのです。私の場合、腹が立って仕方がないという形でその「動き」を体験したのです。この体験はこのカウンセラーとは縁を切ろうかとまで思わせるほど激しいものでした。しかしながら、怒りを感じているのは私であり、私の内側において怒りの炎が渦巻いているわけですので、恐らく、その臨床家の問題ではないのだろうと私は捉えることにしたのです。そこで、怒りを感じながらも継続してみることにしたのです。いつかそれ以後のプロセスを具体的に述べることができたらと思いますが、私の場合、そういう苦しい時期をも経験しましたが、それでも結果的には続けて良かったのです。
どの臨床家との面接であれ、私が「望ましくない動き」を経験した場合、少なくともそれを経験している真っただ中に於いては、それは非常に苦しいものでした。それでも続けて良かったと思えるのは、その経験の中にある重要な体験が含まれていたことが、後になって見えてきたからなのです。そこで私は得るものがあったのです。それが期待できていたので、私は苦しくなることがあっても続けることができたのかもしれません。

(120―2)クライアントは「動き」をどこかで体験する
 さて、論を進める前に、この点を押さえておきたいのです。面接を受けて、クライアントが「望ましくない動き」を体験したとします。その人はそれを「悪化した」と評価します。それでカウンセリングは良くないと短絡的に結論づけたりするのです。しかし、私から見れば、それは正しくないことなのです。
 クライアントはしばしば行き詰っており、人生においても内面においても膠着状態を体験しているという状態でカウンセリングに訪れます。そういう人に「動き」が生じるとしたら、それは望ましいことです。一部のクライアントはカウンセリングを受けて「悪化した」と評価したりするのですが、考えようによっては、その人がカウンセリングを受けなくても、その後の人生において、何か特殊な体験をした時に、同じような「動き」を体験する可能性は十分あり得ることなのです。従って、この場合、カウンセリングのせいで悪くなったと述べることは、正しくないのです。カウンセリング以外の他の体験でもその人が「悪く」なる可能性があるからです。
大抵の場合、「悪化」とみなされるものは、その人の内面にある何かが表に現れてきたのです。カウンセリングがそのきっかけになったとしても、カウンセリング以外の体験でそれが表に出てくることが起こり得るのです。実際、そういうことが起きてからカウンセリングを受けに来るという人も多いのです。

(120―3)「望ましくない動き」はカウンセラーの責任ではないか
 次のように反論される方もおられるかもしれません。クライアントに「望ましくない動き」が生じたのは、カウンセラーが何か間違ったことをしたからではないかという反論です。これは半分は正しいと私は捉えております。私にもいくつもの反省点があります。反省すべき事柄がまったくなかったというような面接を私は一度も経験したことがありません。どこか不適切なことを言ったりしたりしてしまっているという感覚にいつも襲われているくらいです。しかし、「動き」そのものは遅かれ早かれクライアントは体験していくものです。前項、<テーマ114>の強迫的な儀式で不安に対処していた男性の例でもそのことは述べました。この男性の面接で「問題」だったのは、それが急激に訪れたということでした。そこで「動き」が生じていなくても、彼はいずれ自分の不安に向き合うことになっていたでしょうし、向き合うにつれて、彼は自分の不安を自分で抱えていけるようになっていったでしょう。そうなることが望ましいと私は考えておりました。だから、「動き」が生じたということ自体が「問題」だったのではないのです。その「動き」が急激に生じたということが「問題」であったのです。その点に、私の反省点があるということは充分に認識しています。

(120―4)「動き」は安全感を脅かす
 もし、クライアントが自身の内面において生じた「動き」を拒絶したいと思っているなら、私に理解できることは、その「動き」がその人の安全感を脅かしてしまっているということです。それが「望ましい動き」であっても、脅威として体験されている方もけっこうおられるものです。
私はこのように考えるのです。確かに自分の中で何かが「動き」始めるとしたら、場合によってはとても恐ろしい事態になるだろうということです。今まで動いていない所に動きが生じたとなれば尚更でありますし、その人が「動き」に対して何の予測も準備もしていなかったとしたら一層恐ろしい事態になることでしょう。こういう危険な「動き」は拒絶して、以前の段階に留まる方が、本人にはたとえ不都合なことはあるとしても、それまで維持していた安全感が取り戻せるように思えるとしても不思議ではありません。そして、自分が変わっていくことよりも、これまで拠り所にしていた安全感にしがみつきたくなるとしても、それは極めて人間的な在り方なのかもしれません。
 そこでクライアントは一つの選択を迫られることになるのです。この「動き」を受け入れるか、これまでの安全感にしがみつくかという選択であります。クライアントにとってはどちらも苦痛が伴うことです。それでもどちらかを選ばなければならないという選択に悩むのです。この選択は、クライアントがはっきり意識しているとは限りませんし、不明瞭な困惑感のように体験されていることもしばしば見られることです。そして、この選択はしばしばクライアントの「迷い」として面接場面で表立ってくるのです。
どちらをクライアントが選択するか、私にはその決定権はありません。私が願うのは、「動き」を受け入れる方を選択してくれることです。私はそちらの方が他方よりもはるかに望ましいと考えているのです。クライアントは以前の安全感にしがみつこうとしますが、それは既にその人に十分な安全感をもたらしてくれないものになっているという例がほとんどなのです。もちろん、これは私から見てということであります。私から見て、その安全感は不十分にしかもたらされないと思われていたとしても、クライアントにはそれにやはり期待をかけてしまい、それが唯一のものに見えるものです。

(120―5)わずかな安全感にしがみついてしまう
 理解しにくいかもしれませんので、少し説明しなければならないでしょう。人は自身の安全感や安心感を獲得するために、あるいはそれらを維持するために、その人なりのやり方を身に付けるものです。精神分析でいう「自我の防衛機制」というのがこれに該当します。この機制がうまく働いていると私たちは不安から身を守ることができるわけです。しかし、「神経症」的な人の「防衛機制」というものは、とても不十分にしか安全感をもたらさないものなのです。それが不十分であったとしても、何らかの安心感、わずかでも安全感が体験されているとすれば、どうしてもそれを固持しようとしてしまうのです。これがいわばパターン化して、「性格の鎧」と表するものに結晶していくのです。
 しかし、それが初めから不十分であったとは限らないということも述べておかなければなりません。人生の一時期において、そのやり方はその人に十分な安全をもたらしていた場合もあります。ところが、環境や生活が変わって、そのやり方では間に合わないということが生じている場合もあります。「昔はこれでうまくいった」という記憶があるので、それに縋り付いてしまうこともあるのです。そうしてかつてのやり方、それも硬直した一つのやり方に固執してしまうのです。
 それが望ましくないやり方であっても、クライアントはしばしばそれに頼ろうとしてしまうものです。だからこの部分を「動かされる」というのは、至極迷惑千万な話なのです。でも、覚えていただきたいのは、多くの場合「治療」というものはそこが変わっていくプロセスなのです。

(120―6)現状維持の生き方
 ここに「神経症」的な生き方において、なぜ変化を拒み、現状維持に徹するのかということの要因が表れてきます。それが当人にとって不都合であるにも関わらず、それが救いをもたらしている、もしくはそれに代わる手段がないというような場合、その人はそれに縋り付くしかないのです。そして不都合な部分に関しては、ただ忍耐するだけというやり方を採るのです。
 下品な喩えになりますが、裸で外を歩くよりは、下着だけで外を歩く方がましだということです。「動き」はあたかもこの下着を剥ぎ取られるかのような脅威として体験されるのでしょう。だから、それにしがみつきたくなるというのは理解できないことではないのです。
 何度も施錠したかを確認しに戻らなければならないという強迫行為を考えてみましょう。鍵がかかっているかを確認することは、その人にわずかな安心感しかもたらしていないのです。だから繰り返し確認する必要が生まれるのです。そのためにその人は人生上の大部分のものを犠牲にしているとしてもです。それが不都合をもたらしているということは当人には理解できているのです。しかし、それを止めることは、前段落の喩えで言うと、下着まで剥ぎ取られてしまうような不安を喚起させるのです。それを避けるためにも、その人はそのやり方に固執しなくてはならなくなるのです。これが「治癒」するということは、そのようなやり方で安全保障を得なくなるということです。他のより適切な手段を見出していくということでもあります。当人自身が不安を耐えられるようになっていくということも同じように重要です。いずれにしても、その人がその行為から解放され、その人自身の人生を送って行くためには、どこかでその不都合なやり方は放棄されなければならないのです。
 つまり、もし、それを変えようと思うなら、しがみついていたものを一旦手放す必要がどうしても生じてくるのです。もちろん、強調しておかなければならないことは、それを徐々に手放していくということです。そうしなければ、新しい物を身に付けることができないのです。不都合なものは望ましいものにその位置を譲って行かなければならないのです。そのプロセスにおいて、「動き」が生じているのです。

(120―7)右肩上がり幻想
「動き」を拒否したくなるのは、変化というものが右肩上がりに進行するというクライアントが抱える誤った信念にある場合もあります。
 何事も右肩上がりで上昇することを期待するというのは、一回のカウンセリングですべてが良くなるというのと同じくらい、非現実な思考なのです。幻想と言ってもいいかもしれません。そのような幻想を抱くのは、その人が不都合な部分を見るに耐えられないからだと私は捉えております。
 実際は、どのような事柄でも右肩上がりに上昇するものはないのです。上がったり下がったりを繰り返しながら、徐々に右上に上昇していくものです。ユングは螺旋状に描くという比喩でこれを表現しました。一周してスタート地点に近づくのだけれど、以前よりも一段高い位置にその人はいるということで、「治療」とはそれは繰り返すことなのです。
 そして、人により様々な体験をされるのですが、初めに大きく上昇する人もあれば、最初に下降して後で上昇する人もあります。これは私がコントロールできるものではないのです。このために、カウンセリングにおいて、それ以外の事柄に関しても同様なのですが、ある程度の時間経過に則って見ていく必要があるのです。

(120―8)「動き」の検討
「動き」は生じるものです。「動き」が生じない場合、それは逆に何かがうまく行っていないということが多いのです。それはそれで取り上げたいと思います。
 カウンセリングにおいて、そういう「動き」が生じた場合、クライアントはどうするべきかを述べます。私はそれをそのままカウンセラーに伝えるべきだと考えております。もっとも良くないのは、それを伝えることなく、何も言わずにカウンセリングから去って行くことです。もし、クライアントに「動き」が生じたのであれば、それには必ず意味があるはずです。次に私たちはその意味について検討してみる必要があるのです。そこから見えることが、次の段階への導き手となることが多々あるのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ139> 自我親和性から自我異質性へ(1)

(139―1)クライアントはどのようにこの現象を語っているか
 このテーマのタイトルを読んだだけでは、それがどういう現象を指しているのか理解しづらいことだろうと思います。これはつまり、「その人にとって当たり前のことだったものが、当たり前でなくなっていく」という現象のことであります。
 説明よりも、まず、現実にクライアントがどのような言葉でこの現象を語るかを見ていきましょう。その方が分かり易いかと思います。
 ある男性は「自分はいつもこう考えていたけれど、どうもそれは違うのではないかって最近思うようになった」と述べました。
また、他の男性は「僕はこれを言われるとすごく腹が立って落ち込むのだけれど、そんなふうに腹を立てること自体がおかしなことのように感じられている」と述べました。
ある女性は、とても他罰的で攻撃的な人でしたが、彼女はいつも周囲の誰かを責めてしまうので悩んでいました。その女性がある時、「これって、わたしが間違っているのでしょうか」と疑問を呈されました。
ある「うつ病」と診断された男性は、自分がとても罪深い人間だということをこれまで切々と訴えてきたのですが、その彼がある時、「これって、本当に僕だけに責任があるのだろうか」と訴えたのでした。
 他にも多数の例を挙げることはできるのですが、これくらいにしておきましょう。肝心な点は、これらの言葉が表している意味であります。これまでその人の中に親和的に存在していた事柄が、何か異質なものに見え始めているのです。上記のクライアントたちの言葉はみなそのことを表しているのです。

(139―2)なぜ、そのようなことが起きるのか
 クライアントに限らず、人間にはこういう現象が時に生じるものなのです。カウンセリングの場面に特有の現象ではないと私は思います。
 でも、なぜ、カウンセリングの場面でこの現象が顕著に起きるのかと言いますと、クライアントは面接を重ねて、自分自身や自分の抱えているものに目を向けていくわけです。そういう作業を重ねていく中で、クライアントが自分自身を見る見方、その人の心が「問題」を捉える捉え方などに変化が生じてきているからです。その人が自分自身や外側の事柄に対して行う視点やアプローチに変化が生まれてきているからです。
 そして、自分にとってそうするのが当たり前だと思えていた事柄が、それが自分でも信じているほど当たり前のことではないのではないかという疑問が生まれるのですが、それは後に述べるように、クライアントにとって苦しい体験となる場合もあり、カウンセリングにおいては一つの山場となるとはいえ、今後のクライアントの変化の基礎となっていくのです。

(139―3)人はそれぞれ固有のルールを持つ
 自我親和性とは、言わば、その人の自我がそれに馴染んでいるということであります。それは見方を変えれば、その人のルールのようなものになっているとも言えるのです。
 人にはそれぞれ、自分自身を見る見方、他者との接し方、世界の見え方、物事に対しての反応の仕方、思考様式、物の見え方、感情生起の有り方など、その人固有のルールがあると私は捉えています。
 クライアントと会うことの困難の一つは、その人独自のルールを理解するということであります。私の目の前の人にとって、自分や他者がどのように体験されているか、世界がどのように見えているか、それをお互いに確認し、理解しなければならないのです。そこには法則なんてものはなく、一人一人が独自のルールを獲得していて、私は一からそれを学んでいかなければならないのです。
 それでは人はなぜそういうルールを獲得していくのかという問いが生じてきます。この問いをあまり深く掘り下げると収拾がつかなくなるかと思いますので、あくまでも簡潔に述べて済ますことにします。
 何がその人のルールとなっていくかということは、一概には言えないものです。その人が自らそれを選んだ場合もあるでしょうし、そうせざるを得なかったという場合もあるでしょう。単に、それを獲得する環境が整っていたという場合もあるでしょう。
 でも、人がそういうルールを獲得するのは、それが適応に役立っていたからだということは共通して言えるのではないかと思います。生きていくために、人はそういうルールを知らず知らずのうちに獲得し、それに馴染んでしまって、それが後から形成されたものであること、獲得して身に着けたものであるということさえ忘れてしまうのです。

(139―4)プロセスはすでに始まっている
 以下、実際の事例に基づいて論を進めていきたいと思います。事例に関しては、他の項の事例同様、個人が特定できないようにいくつかのアレンジがなされているものであるということを最初に明言しておきます。
 クライアントは20代の男性でした。非常に怒りっぽい性格を何とかしたいというのが、カウンセリングを受けることになった主訴でした。
 彼の怒りっぽさというのは、こういうものです。彼が怒りを感じたら、それがどのような状況であれ、その怒りを表出しても良いというものでした。これは彼のルールとして定着していたものであります。
 彼はそれに対して反省する気もありませんでした。これもまたルールなのです。そして、怒りを発散させても尚、怒らせる周囲が悪いからだと捉えているのでした。そして、これもまた彼のルールなのです。
 彼は上記のようなことを子供の頃から繰り返してきたのでした。当然、人間関係において多くのトラブルを巻き起こしていたのでした。
 彼は自分の意志でカウンセリングを受けに来たのではなかったのです。交際している女性から、そんなに怒りっぽいのはおかしいと言われ、カウンセリングを受けてみてはどうかと彼女から勧められていたのでした。
 彼女からそう勧められて、すぐにカウンセリングを受けに来たわけではないようでした。彼によると、「なんで俺がそんなもの受けなあかんねん」と言って、彼女の要望を無視してきた期間が一年くらいあるそうです。私は彼のこの一年間にとても興味を覚えるのです。
 カウンセリングを拒否してきた人が、一年後には現実にカウンセリングを受けに来ているのです。彼の話では、カウンセリングを受けないと別れると彼女から言われたからだということでした。でも、本当に理由はそれだけなのだろうかと私は思うのです。
 ここで、クライアントの変容のプロセスは、カウンセリングを受ける前から始まっているということを述べておきたいと思います。
 クライアントが自分のルールに従って生きていくことができているなら、恐らく、その人は何も不都合なものを体験していないはずなのです。でも、多くのクライアントは自分の生活に不都合を体験しており、望ましくない感じや行き詰った感じを抱えて受けに来られるのです。これは、言わば、その人のルールがもはや今の現実に適合していないということです。クライアントはそれを多少なりとも実感しているものです。
 カウンセリングを受けに来た人の多くは、自我親和的だったルールに疑問を覚えているのです。ただ、そのことに気づいていなかったり、見えていなかったりしている場合の方が多いのです。カウンセリングの作業の中で、それが改めて見えてきたり、あるいは、そのプロセスがより発展して、そのために当人の意識に上がりやすくなったということが生じているのです。
 つまり、カウンセリングにおいて初めてそれ(自我異質化)がなされるのではなく、カウンセリングを始める以前からそれが始まっているということなのです。そして、そのことがその人にカウンセリングを受ける動機として働くということなのです。
 さて、本項のテーマである「自我親和性から自我異質性へ」ということは、とても重要なことであり、私はどうしてもクライアントやこれからカウンセリングを受けようと思う人に理解して欲しいと願うのです。できるだけ丁寧に述べないと、いくつもの誤解を生みそうにも思います。また、それだけ内容の深いテーマでもあると私は捉えています。
 従って、あまり長文になり過ぎないように、細かく項と節を分けていくつもりでいます。本項はここまでにして、以下に本項で述べたことの要点を提示しておきますので、理解の助けにしていただければと思います。

(139―5)本項の要点
 自我親和性から自我異質性とは、その人が馴染んできた自分のルールに疑問を覚え、それを異質なものとして体験し始めるということです。
 そのルールはその人が生きていく中で身に着けたものであり、先天的に備わったものではないのです。そのルールは、その人がこれまで生きていくことを助けてきたものなのです。
「問題」や人生の行き詰まり感、生活の不都合などは、このルールがもはや通用しなくなっていることの表れと見ることができます。従って、ルールの自我異質化はカウンセリングを受けに来る以前にクライアントに生じている場合が多いのです。
 カウンセリングの作業を通して、この異質化は促進されたり、当人に意識化されたりします。これはクライアントには苦しい体験となることもありますが、その後のクライアントの変化の基礎となるものです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ148>自我親和性から自我異質性へ(2)

(148―1)変化の前に自我異質化の過程を経る
 人にはそれぞれその物の見え方、考え方、捉え方、反応の様式など、その人独自のパターンがあります。その人にとって、そのように見える、考える、反応するといったことは、いわば馴染のある現象なのです。当人にとって馴染になっている事柄は、その人の自我にとって親和性があるという意味で、自我親和的な事柄であると表現することができます。
 それが自我親和性を有している限りにおいて、その人はそれに対して反省することもなければ、それを変えていこうという意欲や動機づけもなかなか生じないものです。それはその人にとっては、そうすることが当たり前のことであり、変えていかなければならない必然性が感じられないからです。
 それが当人にとって不都合をもたらしているとすれば、それは変えていく方が望ましいということになります。ところが、変えていく方が望ましいということが分かっている一方で、それが自我親和性を有している限り、当人にとって変えていくこともなかなか困難なことなのです。
従って、それが変化していくためには、それが自我親和的でなくなり、自我異質的になっていくという過程を経ることが不可欠なのです。変化が生じる前にそのような段階を経なくてはならないのです。自我異質的になるというのは、それが自分にとって当たり前で、尚且つ正しいと信じていたけれど、そうではないようだと自ら気づくという体験のことであります。
 日常の生活においても、私たちは自分の中の何かが自我異質化されていくという経験をすることがあります。大きな失敗をしてしまったりとか、何かに気付かされたりするような体験などを契機として、それが生じることもあります。こうしたことはとても人間的な過程、体験であるわけで、何も特殊な事柄ではないと私は考えています。
 でも、カウンセリングにおいては、しばしばそういう体験が頻繁にクライアントに見られるのです。それはクライアントが自分自身について取り組んでいく中で、自分自身や自己の問題に対して洞察と自己理解を深め、心が自分自身に対してそれまでとは違ったアプローチをとるようになるからであります。
 変化の前に、自我親和的な事柄が自我異質的になっていく必要があるということが本項の趣旨であります。そして、自我異質化はその人のその後の変化の基礎になるという考えがここには含まれています。

(148―2)クライアントが自ら異質化を始めること
 まず、ある親和性を帯びた事柄が自我異質化する時、そこには発見の驚きや恐れといった感情が伴うことが常です。後で述べるように、これはクライアントにとっては少々辛い体験となるかもしれません。その前にまず述べたいことは、これはクライアント自らが達成していかなければならないという点であります。
 例えば、あなたの身近な人で、あなたから見て間違った考え方をしているという人を思い浮かべてほしいのです。あなたはこの人に対してその考え方は間違っていると指摘するかもしれません。なぜ、あなたがそうするかと言えば、指摘してあげれば、その人が気づいて、その人自らが考え方を改めてくれるだろうという期待があなたにあるからだと思います。そして、これはしばしば、と言うよりは、全く成功しないやり方なのです。なぜなら、その人にとって、その考え方には親和性があり、馴染があり、正しいものと信じられているからです。
 ここで、その人の考え方を変えようと試みるあなたはその人からたいへんな抵抗を受けることでしょう。あなたはその人のことを「なんて分からず屋なんだ!」と思うかもしれませんし、「なんて頑固な奴だ!」と思うかもしれません。でも、人は誰でもそういうものだと私には思えるのです。親和性を帯びている事柄に対して、外側からそれが間違っていると指摘されることは、それを抱える当人にとっては反抗心を掻き立てられる事態なのです。
 親和性を帯びている事柄は、その人にとっては自然なことであり、正しいことでさえあると体験されています。そこを変えようとする働きかけはどんなものであれ、激しい抵抗に出会うものなのです。その抵抗の激しさは大抵の人の想像を超えているものなのです。そこは多くの人が理解していない部分であるように私は思うのです。
 ところで、いささか余談なのですが、認知療法や論理療法はこのプロセスをかなり積極的に推し進めていくというイメージが私にはあります。実際、アルバート・エリスの逐語録などを読んでいますと、エリスとクライアントとの間で闘争が起きているかのような場面に遭遇するのです。エリスは積極的にそこを異質化しようとしているのですが、クライアントが必死になって抵抗している姿が私には見えるのです。その抵抗を、エリスは論理的に、また強く説得するような感じで克服しようとしているように私には見えるのです。そして、このことが、最終的に認知療法や論理療法に私がついていけないと感じた点だったのです。おそらく性格的な面も関係しているのでしょうが、私はそこまで積極的にこのプロセスを推し進めることに対しては気が引けてしまうのです。
私の考えでは、クライアントが自ら、そして自然に、このプロセスに入って行くことができる方が望ましいということなのです。つまり、クライアント自ら「それが私にとって自然なことだったけれど、そうではないような気がしてくる」と徐々に気づいていく方がいいということなのです。臨床家の仕事の一つは、クライアントがその過程に踏み切る手助けをすることだと私は考えています。時間はかかるかもしれませんが、その方がお互いに安全で、いい関係を維持しながら作業が続けられるように私には思われるのです。
 そのようにクライアントの内側からそれが生じていく必要があるわけです。そして、その方が安全だと言うのは、それを外側から教えたり、説得したりしても、クライアントにとって、それは攻撃であるとか強制であるとかいうように体験されることも多く、また、それに耐えられないという人も少なくないからなのです。

(148―3)異質化に伴う恐れと葛藤
 自分自身「それがおかしい」というように体験されていない事柄(自我異質化されていない事柄)を変えていくことはとても困難であります。そのことは想像に難くないかと思います。もし、そのようなことが生じているとすれば、それは単に「人からそう言われたので、そのようにしているだけだ」という程度のことでしょう。それは変わったという演技をしているようなものであり、指摘した人の目が届いている間だけの変化であり、その人の内側は何も変わっていないことでしょう。
 ある事柄の自我異質化というのは、繰り返しますが「私にとってそれが当たり前のように思われていたけれど、それがどうも間違っているようだ」と気づき始めるということです。時に、それは自分の間違いを見せつけられるような体験となることもあり、恐れや恥辱感、罪悪感を伴ったりする体験となる場合もあります。実際、自分の過ちをそのまま受け入れる強さを有している人はそれほど多くないもので、この時、どうしてもそれを認めたくないという気持ちが生じることの方が自然なことだと思います。
 従って、その時にクライアントにしばしば過去の古いパターンにしがみつきたいという気持ちが生じるとしても、何も不思議なことではないのです。それがどれほどの不都合を当人にもたらしているにしても、自分の間違いを受け入れるよりも、馴染のあるパターンを維持したいという気持ちが生じてしまうのです。その方が安全に感じられるのです。
 そこで、過去に親和性のあったパターンにしがみつくために、カウンセリングのような作業を放棄してしまう人も残念ながらおられるのですが、そのようなクライアントであれ、やはりそこには葛藤があるのです。この葛藤は、恐らく、この段階に差し掛かったクライアントすべてが経験するものではないかと私は信じています。
 その葛藤とは、こういう類のものです。「私はそれが正しいと信じていたけれど、どうもそうではないということが見えてきた。でも、それを認めるということは自分の間違いを受け入れることを意味しており、それは耐えられない。だからと言って、それを維持してしまうことも問題があることが見えている。変えたいけれど、変えたくない」というような葛藤なのです。
 この葛藤において、折れそうになるクライアントをいかに支えるかという点に臨床の本質があると私は考えています。この葛藤は、第三者から見ればそれほどたいへんなことのように見えなくても、クライアントにとっては耐えられない類の強度を有しているものなのです。
 ある男性クライアントは周囲に対して敵意を剥き出しにしていましたが、その彼がある時、この敵意が正しいものではないということに気付き始めたと言及したのです。その後、数回の面接は、この気づきを支えるということに費やしました。彼は、もしそれが正しいものではないということを受け入れると、これまでの人生がすべて否定されてしまうかのように思われると語りました。つまり、それを受け入れてしまうと、「お前は今まで間違った生き方をしてきたのだ」ということを突きつけられてしまうかのように感じられるのでした。
 彼のその恐れは理解できるものです。区別しておきたいことは、彼にとって親和的であった信念が否定されるべきであって、彼個人の人格や歴史が否定されているわけではないということです。そして、彼にとって望ましくない信念が否定されているとしても、ここではより望ましい信念が肯定されているのです。ただ、それに代わる望ましい信念というものがここではまだ彼の中に芽生えていない状態なのです。私は彼にそれが芽生えるまで付き合うつもりでいましたが、彼の方がこの状態に耐えられないと言って、カウンセリングを離れて行ったのです。非常に残念で、悲しい終結でした。
 自我親和性を帯びていた事柄が異質的に体験される時、それはクライアントにとって痛みを伴う体験となり、葛藤を伴うということを述べました。しかしながら、この異質化の作業はその後のクライアントの変化の基礎と動機づけにつながることなので、臨床家としてはそこを支持しなければならないのです。
ここまでお読みになられて、疑問に思われた事柄も多々あるでしょう。どうして、多くのクライアントはそれに耐えられるのか、そんな苦痛の多い作業をどうしてわざわざ続けるのかといった疑問です。それらに関しては、私は「洞察」のテーマと「ラポールと転移」のテーマで述べていく予定をしておりますので、ここではそれに触れないでおきましょう。ただ、誤解を避けるために申し上げておきますと、こうした文章で読む限りではそれがいかにも大きな苦難を伴うかのように見えるかもしれませんが、現実の場面においては、むしろ穏やかにこういうプロセスが進行していくことの方が多いということをここで述べておきます。
 ここまで、本項において、私は自我異質化のプロセスはクライアント自ら始めていく必要があるということ、そのプロセスが開始される時にはクライアントが様々な感情や葛藤に襲われること、臨床家はその時のクライアントを支持する必要があるということを述べてきました。

(文責:寺戸順司)






本ページは以上までです。ご読了お疲れ様でした。
以降、「カウンセリングの過程(7)」ページに続きます。
引き続き、お付き合い下されば幸いに思います。