ホーム > カウンセリングの過程(5)

カウンセリングの過程(5)

カウンセリングの過程(5)―INDEX

<テーマ97>  話を聴いてもらえること
<テーマ106> クライアントの動揺
<テーマ114> クライアントの生じる「動き」







<テーマ97> 話を聴いてもらえること 

 クライアントが面接室を訪れると、私はその人の話に耳を傾けます。私がその人の話に対してどういう聴き方をするかということは、本項では便宜上除外します。ともかく、クライアントはそこで自分の話を聴いてもらえたという体験をするものであります。

 若い頃にカウンセリングを初めて受けた時、私は私の話に耳を傾けてくれる臨床家の存在をすごく嬉しく感じました。この嬉しさというのは、当時の私がいかに孤独であったかということを表しているものと、ずっと信じていました。当時の私が孤独だったが故に、私の話に耳を傾けてもらえて嬉しかったのだという理解をしていたということであります。現在では、その理解は間違ってはいなかったけれど、不十分だったというように認識しております。孤独だった私に聴き手が現れたから嬉しかったというだけではなくて、私が話に耳を傾けてもらえるだけの価値がある人間だったということが実感できたことが嬉しかったのだと認識しているのであります。

 私たちは、カウンセリングに限らず、私たちに価値がある人の話には耳を傾けるものであります。私がその人の話に耳を傾けているということは、私がその人の価値を認めているということであります。
 例えば、政治家の先生が街頭演説をします。私の興味や関心ということもそれには関わっていることですが、もし私があの政治家の言うことは聴いていられないなどと思って素通りした場合、私は彼の価値を、少なくとも政治家としての彼の価値を認めていないということであります。あるいは、大学時代に退屈な講義を受けているとします。私は講師の話に耳を傾けておりません。むしろ「面白くないな」とか「早よ、終わらんかいな」などと思っているのであります。この時、この講師は私にとって無価値な存在なのであります。私の中で、この講師は、耳を傾けるだけの価値を有した存在ではなくなっているのであります。従って、私にとって相手を無価値にするには、私が相手の話に耳を傾けなければよい、つまり、無視してしまえばいいということであります。
 上の例は、話を聴く側、もしくは聴かない側のことでした。自分が話を聴いてもらえる、または、聴いてもらえないという場合ではいかがでしょうか。これを読んでくれているあなた自身の体験も思い出されてみればいいでしょう。私が個人的に親しくなった友人の多くは、私の話を聴いてくれる、聴いてもらえるといった人であります。私が聴き手になる友人も同じように多いのですが、ただ、お互いに喋り合う関係というのは、私の場合はですが、とてもしんどいのであります。人は自分の話を聴いてくれる人を好きになるものだと私は思います。話に耳を傾けてもらえるということは、どこか安心感を覚えますし、自分の価値や存在を認めてもらえているように感じるものではないでしょうか。そして、こういうことは日常的に体験していることではないかと思います。

 クライアントとは「話を聴いてもらえる存在」であると私は捉えております。聴くことで私は自分の存在価値とクライアントの存在価値をも認めようと心がけます。聴いてもらえることで、クライアントも自身の価値を体験できると信じております。
 しかし、いくら私がそう信じているからと言って、すべてのクライアントがそのように体験するとは限らないのであります。「話を聴くだけで、あなたは何もしなかったじゃないか」とか「結局、それで何が変わるのですか」とおっしゃるクライアントに何人も出会いました。私の聴き方にも問題があることは認めるとしても、彼らは自分の内側にまで目が行き届いていないのだろうと察します。自分の価値を体験することよりも、外側の事柄に目を奪われ過ぎているのだと思います。カウンセリングを始めてから、ずいぶん経って、このような体験をされるという方も少なくありませんでした。また、そのような体験をしていたとしても、必ずしも、クライアントがそれを表明するとも限らないのであり、その点に関して不明だという方もたくさんいらっしゃいます。

 カウンセリングを受ける以前に、親に相談してみたというクライアントと最近お会いしました。相談してみてどうでしたかと私が尋ねてみると、彼は「もう少し気楽に考えたらいい」と言われたということでした。私は「その助言はあなたにとってどうだったのでしょう」と尋ねてみました。彼は「言ってることは理解できるけれども」納得はしていないようでした。彼の相談に対して、親は助言を与えたのであります。
 その助言の内容がどれほど素晴らしいものであれ、あらゆる助言はそれ以上話をさせない方向に機能するものだと思います。助言を受け取った時点で、相談者はそれ以上話が続けられなくなるのであります。あなたにはそのような経験がないでしょうか。助言を受け取って、それでも話を続けようと思えば、その助言を否定するか、別の新たな問題を持ち出さなければならなくなるのではないでしょうか。私が思うには、彼が素晴らしい助言を受け取ったにしても、それと引き換えに大事な物を失ったのではないでしょうか。それはその人自身の価値に関する部分であります。
 私が彼の立場だったら、私は一方的に話を打ち切られたというように体験していたかもしれません。軽くあしらわれたというように思うかもしれません。何よりも、自分に付き合ってもらえなくて悲しい思いを体験しているだろうと思います。従って、私だったら、私の話を聴いてもらえて、尚且つ、私のその話に付き合ってもらえて、それによって得られるであろうものに目を向けるなら、私はそのような助言を求めていないということにもっと速やかに気づいていただろうと思います。

(文責:寺戸順司)






<テーマ106> クライアントの動揺

 クライアントが初回面接を受けた後、もしくは初期の数回面接を経た後、私が危惧していることが一つあります。それはクライアントの動揺ということであります。本項では、この動揺ということに関して述べていくことにします。

(106-1) ある女性クライアントの一例
 このような動揺というものがどういう現象であるかを、まずは一つの例を挙げて述べてみることにします。
 クライアントは女性でした。初回の面接において、彼女はこれまで自分が体験してきた親子関係を語られました。そして、彼女がいかに親に対しての怒りを抱えてきたかを表現されたのであります。彼女がそのように表現したことは今までに一度もなかったということでした。この面接において、初めてそれを他者に語ったということであります。
 彼女は翌週、二回目の面接の予約を取られました。しかし、数日後、彼女は怒って、その予約をキャンセルし、私のカウンセリングは受けないと断言されたのであります。何が起きたのか、私は尋ねてみたのですが、彼女は答えることを拒否されました。
 彼女が何も語ってくれなかったので、私は彼女にどういうことが起きたのかを推測するしかありません。とにかく、キャンセルした時の電話では、彼女はとても怒っているということであります。初回の面接ではそのようなことはありませんでした。むしろ、私との間では良好とさえいえる関係を築いていたのであります。そうであるならば、彼女の怒りは、初回面接を終えてから、掻き立てられたということになるのであります。
 私の仮説では、彼女は初回面接において、何らかの「動き」を体験しているということであります。何かが彼女の中で「動き」始めたということであります。その「動き」がそのような形で表面化したということであります。
 その「動き」は、彼女に激しい怒りを掻き立てています。しかし、彼女が面接で語ったことは、両親に対する積年の怒りでありました。それが彼女の抱えていた問題であったのです。そして、彼女が日常生活において「怒り」を今まで以上に体験しているとするならば、それは彼女がその問題の本質的な部分に非常に近い場所に位置しているということになるのであります。彼女は怒りを抑え、それを体験しないように生きてきたのですが、それがこのようにして体験されているということは、彼女にとっては「悪化」として体験されていたり「良くないもの」として捉えられているとしても、やはりそれは前に進んだことを意味するのであります。
 もちろん、私の側に落ち度がないとも言い切れません。もっと時間をかけて少しずつ両親に対しての感情を表現してもらった方が良かったのかもしれませんし、初回面接での私のフォローが足りなかったのかもしれません。そういった点に関しては、私も反省すべき点があるでしょう。しかし、彼女が怒りを表現し、それが受け入れられたからこそ、今まで以上に怒りを体験している、もしくは怒りを体験することに抵抗がなくなっているのだと私には思われるのであります。そして、彼女が彼女の問題を克服するためには、彼女が体験しているものをそのまま体験するという過程をどうしても経なければならないのであります。彼女はそこを避けてしまったのだと私は捉えております。私のもう一つの反省点は、彼女のキャンセルを受けるべきではなかったということであります。
 これがクライアントの動揺ということであります。面接を受けた後に、その人に何かが生じるのであります。それは面接で体験されたことによって生じているものであると私は捉えております。

(106-2) 何が動揺をもたらすか
 上記の女性の例を見ると、彼女が両親への怒りを口に出して語ったのは初めてのことでした。彼女にとって初めて経験することであったのです。こうした経験は、少なからずその人を揺り動かすものであります。
 私たちは日々様々な出来事を体験します。その体験は自己の内面に消化されていきます。ちょうど食物が消化されるように、私たちは体験を自己の中に消化し、自分のものとしていくのであります。食物が消化される時には、私たちは気づかないのですが、私たちの体は活発に活動しているのであります。摂取された食物が消化されていくために、身体が働いているのであります。
食べ慣れないものを食べた時には、消化不良を起こすこともあります。しかし、その消化不良でさえ、それを消化していくための活動であるわけであります。外国に行って、現地の料理を食べたことがある人は、こうした経験をお持ちではないかと思います。現地の人たちはそれで消化不良を起こしたりはしていないのであります。彼らはそれを食べ慣れているからであります。
体験を自己に消化するという場合にも同じように考えてみることができます。慣れない体験や初めての体験というものは、同化していくのに時間がかかったりするものであります。その人に、いい意味であれ悪い意味であれ、動揺をもたらすものであります。動揺という言葉が相応しくなければ、内面の何かが動くと言っても構いません。そしてそれが通常のことになっていくに従って、動揺が減っていくものであります。
私が子供の頃、電車のつり革に初めて手が届いた時の衝撃を今でも覚えております。兄たちは既に大きかったので、普通にそれに手が届いているのであります。私はまだ小さかったので、それに届きませんでした。初めてそれに手が届いた時、私は自分が偉大になったように感じたのでした。それは私の心を大きく揺さぶるような体験でありました。そして何度も吊り革を掴んでは放しということを繰り返したのでした。そうして、私は自分の体験を消化しようとしていたのであります。今では、吊り革につかまっても、そのような動揺を体験することはありません。それを消化し、それに慣れてしまっているからであります。肝心な点は、その人が何か今までにない新しいことを体験した時には、その人の内面を大きく揺さぶるような動きが生じるということであります。
私は「慣れ」という言葉を用いていますが、これも正確な言葉ではありません。例えばペットを飼われている方であれば理解できるかもしれませんが、最初に飼ったペットの死は深い悲しみをもたらしたのではないでしょうか。この死別体験は大きな動揺をもたらし、なかなか消化できないものだったのではないかと思います。二番目のペットが亡くなった時も、同じような悲しみは経験することでしょう。しかし一番目のペットほど大きな動揺はもたらさなかったのではないかと思います。これは「慣れ」というよりも、一番目のペットで体験したことが下地として残っているからであると言っていいかと思います。その体験が消化され、下地としてその人の中で同化されていることで、いわば準備や耐性ができいていると言うこともできるかもしれませんが、いずれにしろ、最初の体験ほどには大きく揺さぶられることは少ないことでしょう。

(106-3) 危機としての「動き」
 その人が初めて体験するようなことを体験した場合、その人の内面が大きく動かされてしまうということは、日常において、私たちのこれまでの人生において、幾度となく見られることであります。そういう「動揺」を避けることはできないものであると私は捉えております。
 この「動揺」は、人間には避けて通れないものであると同時に、その体験を消化して自己の中に収めていく過程において不可欠のものであると私は捉えております。しかし、それはその人にとって一つの「危機」でもあります。
 その体験が、その人の根底から揺さぶるようなものであればあるほど、その人は体験を消化していくことに苦痛を感じるものであります。
 恐らく、多くの人が覚えがあると賛同してくれるかと思うのですが、初めての性体験というものは物凄い衝撃だったのではないでしょうか。これはセックスということもそうですが、男性の場合だと初めて射精した体験であるとか、女性の場合だと初めて生理を体験したという時、根底から揺さぶられるような体験をされた人もおられるのではないでしょうか。その体験によって危機的な状態にまで陥った人もあるのではないでしょうか。
 性体験や性に関する事柄で、そのような危機的状態に陥ったという経験をお持ちの方は、ご自身の体験を思い出しながら読んでいただくといいかと思います。私の場合を述べましょう。
 私の場合、初めてセックスした時は、それほどの動揺をもたらしませんでした。これは一つには知識として性行為を知っていたからだと思います。しかし、初めて精子が出てきたときは、それはもう恐ろしくて、生きた心地がしない毎日を送ったものでした。私が小学生の頃で、何しろおちんちんの先から得体の知れない白い物がどろーんと出てきた時には、たいへんな衝撃を受けました。私は自分が何か悪い病気になったのだと実感しました。それは自分がおかしくなってしまったという動揺だったのであります。当然、これは家族には言えず、私だけの秘密となったのであります。毎日が不安で仕方がありませんでした。体におかしなことが起きて、この先自分がどうなってしまうのだろうと、そういうことばかり気に病んで毎日を過ごしていたのを覚えております。後々、それが男性の体の自然な働きであり、男性はみなそれを経験するものだということを知って行くことで、私はこの不安から免れていったのであります。いずれにしても、それが理解できるまでは、私はその体験が受け入れ難く、内的に動揺し続けていたのであります。この時の動揺は、先述のつり革に手が届いた時の動揺に比べて、はるかに危機的状況を私にもたらしたのでした。
 ちなみに、この時の危機的状況に対して、私の場合、知っていくこと、知識を得ていくことが有効だったのであります。このことは洞察を深めるということと関連しますので、頭の片隅にでも留めておいていただければよろしいかと思います。

(106-4)危機の克服
 私たちが経験するこのような動揺で、恐らくもっとも大きくて衝撃的だったのは、出生の瞬間だったと私は思います。私たちはただその時のことを覚えていないだけで、この世界に送り出されるということは、相当な危機的状況をもたらしたのではないかと思うのであります。ただ、見逃してはならないのは、この危機的状況を経験しないと、私たちはこの世で生きることができなかったであろうということであります。
 何かを体験すると、その体験の内容によっては、その人に大きな動揺をもたらすものであるとするならば、そのような動揺を避けるためには、私たちは何も体験しない方が良いということになってしまうのであります。そうして生きている人たちも私は知っております。その人たちの生き方に私が干渉することはできないのですが、彼らは危機や動揺を体験しない代わりに不毛な生活、縮小された世界に生きているのであります。
 つまり、私たちが何かを体験し、新たなことを獲得し、自分の世界を広げていこうとする際には、こうした動揺をいやが上にも経験してしまうということであります。
 先に怒りを駆り立てられてカウンセリングから遠ざかった女性の例を挙げました。彼女は新たな何かを獲得し始めたその矢先に、それから手を引いてしまったのであります。そして、このような行為こそ「神経症」的なのであります。一歩踏み出したのに、また、元の位置に戻るということを彼女はしているのであります。
 従って、このような「動揺」というのは、どのようなものであれ、次への「動き」を意味するものであります。私はそのように捉えております。
 言い換えると、このような動揺は危機でもあるわけですが、その人が成長、変容していくということは、こうした危機を内面的に消化していき、克服するということと同義なのであります。

(106-5) クライアントはどのように「動揺」を体験するか
 何かを体験した時に、それは心の中に動揺をもたらすということを述べてきています。その体験が初めてのものであるか、その人にとって意味深いものであればあるほど、その動揺は大きくなり、時には危機的な状況をその人にもたらしてしまう可能性があるということであります。しかし、この動揺は、その体験を自己の中に消化していく過程を示すものでもあり、変化、変容へ向かう「動き」でもあるということであります。
 クライアントはカウンセリングの中で、多かれ少なかれ、このような「動き」を体験されるものであります。それが徐々に体験される人もあれば、一回目から体験される人もあり、いつ体験するかということは一概には言えないことであります。より安全な形でそれが体験されればいいとは願っておりますが、クライアントに生じることなので、私がすべてをコントロールできるわけでもないのであります。
 クライアントはこのような「動き」をどのようなものとして体験されるのでしょうか。私の経験では、とても素晴らしい何かとして体験する人と、とても最悪な何かとして体験される人というように二分することができるように思います。
 ある男性クライアントは、初めて受けたカウンセリングの後、目の前の世界がとても色鮮やかになり、とても感動的だったと述べました。彼はその体験をもう一度しようと、いろんなカウンセラーを巡っていました。恐らく、その体験を彼がカウンセリングですることはないだろうと私は思います。それはともかく、彼にとっては素晴らしい何かとして、それを体験されていたようでした。
 私のカウンセリング体験においても、こうした「動き」を体験しております。二十代の初めころ、初めてカウンセリングを受けた時、私はその後、日常生活が覚束なくなるくらいの感情の起伏を経験しました。面接の場面を、その先生を何度も心の中で反芻して過ごしたものでした。大きく揺さぶられていたのだと思います。
 これらの例を見ても分かるように、素晴らしい何かを体験していたとしても、本人にとっては苦しい部分もあるのであります。この点は抑えておくようにしたいのであります。
 一方、最悪の何かを体験される方もおられます。上記の女性クライアントはその一例であります。しかし、彼女が最悪な何かを体験していたとしても、その体験が彼女の問題の本質に迫るものであったということは注目に値することであります。私から見ると、それは望ましいことでもあったのでしたが、彼女自身は「良くないもの」として受け取っておられたのであります。
 もっとも「一般的」な言い回しは、カウンセリングを受けて、すぐに「良くなった」とか「悪くなった」というものであります。クライアントが「良くなった」にしろ「悪くなった」にしろ、そこに「動き」が生じているという点では等価であります。「良くなった」とか「悪くなった」というのは、クライアントの主観的な評価においてそう捉えられているということでありますが、私の視点からすると、しばしばその評価が正しくないということもあるのであります。もっとも愚かしい行為は、その一時点の主観的評価に基づいて、勝手にカウンセリングから離れてしまうことであります。これはせっかく生じた「動き」を台無しにするようなものなのであります。
 それと、しばしば見かけるのは、その「動き」を身体で体験しているというような例であります。内面が「動く」ので身体にもそれが影響するということは頷けない話ではありません。しかしながら、内面の「動き」を「身体が不調になった」と体験される方も少なからずおられるのであります。心身症的な人やヒステリー性格の人には特にこの傾向が見られるものと私は捉えております。そして、これもまた愚かしいことでありますが、内面が「動いて」体の不調として体験されているのに、内面の方を切り離して、身体の治療に専念してしまう人もおられるのであります。その身体不調は、カウンセリングを経験してから生じたものであるから、それはもっと「心の問題」なのであります。

(106-6)本項の要点
 それが「良いもの」と体験されているとしても、「悪いもの」として体験されているとしても、「動き」が生じているということは、その人の変化への可能性を表しているものであります。私の考えるところでは、カウンセリングでの最初の目標は、クライアントにそのような「動き」が見られるということなのであります。もちろん、それが少しずつ「動く」ということが、より安全であり、より望ましいものであるということは言えるのです。それをどのように実現していくかは、私の取り組むべき課題でもあります。しかし、何よりも強調したいのは、このような「動揺」は起きるものであり、これが生じないとその人は何も変わらないということであります。従って、この「動揺」を恐れないようにしないといけないということであります。クライアントがそれを体験しているなら、それはカウンセリングの場で話し合う必要があるものなのであります。そして、確実に言えることは、クライアントが変化していくにつれて、その「動揺」は恐ろしいものではなくなっていくということであります。なぜなら、その「動揺」には意味があるからであり、その意味がクライアントにも理解(洞察)され、私との間で共有されていくからであり、そのようにして消化された「動揺」は、その人を苦しめなくなるからであります。消化された「動揺」は、過去の一時点に経験された事柄になっていき、その「動揺」は、その人が変容していくための基礎となっていくのであります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ114> クライアントに生じる「動き」

(114―1)「動き」は変容の第一歩である
 クライアントに生じる内面的な「動き」は、それがどのようなものであれ、クライアントが変わっていくための第一歩となると私は捉えております。この「動き」には、それが望ましい方向のものである場合もあれば、望ましくない方向のものである場合もあります。そのどちらにしても、変容への第一歩であるという価値に変わりがないものであります。
 この「動き」がいつ生じるということは、一概には言えませんし、私も予測がつかない場合もあります。初回面接の後にそのような「動き」を体験する人もあれば、数回の面接を経て体験する人もあります。比較的初期に、そういう「動き」が生じるケースは、私の経験した範囲では、展開が早く進むものであります。なかなか「動き」が生じない人ほど、長引く傾向があるように捉えております。

(114―2)「動き」とは
 では、私が述べている「動き」というものにはどういうものがあるのか、どういう現象を「動き」と称しているのかということを述べようと思うのですが、この「動き」の一覧表を作成することは容易なことではありません。そのような表にはありとあらゆる感情の言葉が並ぶことになるでしょう。それで、そのような一覧表を作るのではなく、私自身の経験や、クライアントから見聞したことを述べるに留めます。
 まず、私自身の体験から話すことにします。私は22歳頃にカウンセリングを受けた経験があります。当時の私はひどい精神症状を抱えており、おまけにアルコールに溺れるという日々を送っていました。ある理由から、私はこのような状態から抜け出さなければならないと目覚めたのであります。そして、あるクリニックを探して、そこでカウンセリングを体験したのでした。
 私が初めてカウンセリングを経験した時、家に帰ってから、やたらと面接してくれた臨床家のことに心を奪われるようになっていたのを覚えております。そこは診察票のようなものをくれたのですが、やたらとそれを引っ張り出して眺めて見たり、そこの広告を見たりと、とにかくその先生や機関のことへの関心が高まっていったのを覚えております。私がクライアントに名刺を渡すのも、こうしてサイトにダラダラと書き綴るのも、もしそういう人が私への関心が高まった時に、私に関して眺めるものがあった方がいいだろうと思うからであります。それもまたこうして書く理由の一つなのであります。
 それはともかくとして、何よりも、私の場合、一回目の面接でとてもいい体験をしたものでしたので、心の中が、いい意味で、騒がしくなっていったのを覚えております。期待が高まったり、将来が見えるような思いもしましたし、感情が高ぶって、涙もろくなったりとか、感情の起伏をやたらと体験したりしたこともありました。こうしたことは、その面接を受けていなければ生じなかっただろうと思いますので、これらの感情体験はこの面接によって私にもたらされたものであります。私が「内面の動き」と表現しているのは、そうしたものであります。私の中で何かが騒ぎはじめ、動くのであります。私の中で何かが動いているような感じを体験したので、私はそれを「動き」と表現しているのであります。

(114―3)望ましい「動き」と望ましくない「動き」
 その「動き」においては、期待が高まったり、将来への展望が開けるような思いをしたりと、望ましいこともありました。一方で、涙もろくなったり、怒りっぽくなったり、甘えたくなったりと、感情的に動揺して一定しないということも経験しています。こちらの方は少々しんどい体験でありました。これらは望ましくないもののように見えるかもしれませんが、ただそう見えるというだけで、実は望ましい「動き」の一つでもあったのだと、今ではそう見えるのであります。ただ、当時はそれでしんどい経験もしましたが、そのしんどさは必要なしんどさでもあったのだと思います。
 一応、望ましいとか望ましくないという分け方をしていますが、これはそれを体験しているクライアントの観点から見てということであります。期待が膨らんだり、将来の展望が開けるようであったり、あるいは気持ちが活動的になったりといったことは、当人には望ましい「動き」として体験されるものであります。こうした「動き」(感情体験)は、その人の安心感を増すものであります。
 一方、涙もろくなったりとか、感情の起伏が激しくなったりとか、不安を以前よりも体験してしまうとか、こういう類の「動き」はしばしば、当人には受け入れがたい体験として、つまり望ましくない「動き」として認知されるものであります。しかし、先述のように、こうした体験は、クライアントから見れば望ましくないように見えるのですが、臨床家の観点からすれば、必ずしも望ましくないとは言えないのであります。つまり、そういう形で、クライアントに「動き」が生じたということは言えるからであります。
 必要なことはクライアントの内面に「動き」が生じることであるというのが、私の考えている前提でありますので、どのような形であれ「動く」ということが肝心なのだと捉えていただければ結構であります。
 さて、当人には「望ましくない動き」と体験されているものは、大部分、後には消失するものであります。なぜ、そうなるのかと言うと、多くの場合(私の場合もそうでしたが)、「動き」のなかった所に、急にそういう「動き」が生じているのであります。今まで動いていなかったものが急に動き始めるわけであります。始動が急激であるほど、この「動き」は大きな動揺を当人にもたらすものであります。急激に動き始めたから激しく動揺するような「動き」になるわけであります。この「動き」は時間と共に、あるべき姿に落ち着いていくものであります。

(114―4)「望ましい動き」と「望ましくない動き」を体験された例
 私のクライアントにおいても、そのような「動き」を報告してくれる人がおられます。ある女性クライアントでしたが、彼女は初回面接から二回目の面接までの間に劇的なほどの「動き」を経験されました。彼女は精神科で薬を貰っていたのでしたが、初回面接の後、気持ちがものすごく安定して、それ以後、薬なしでも生活できていると報告されました。この改善が一時的なものであったとしても、彼女の中で何かが「動いて」きたから、そのような変化につながっていったのであります。彼女の場合、急激な安心感を体験していたのだと考えられるのであります。この場合、この「動き」は望ましいものとして彼女には体験されていたのでした。
 私の立場は、カウンセリングにおいて生じるクライアントの内面的な「動き」はすべて望ましいものであるというものであります。これは前節で述べた通りであります。しかし、一部のクライアントには、「悪くなった」こととして体験されてしまう人もおられます。つまり望ましくない「動き」が生じたということであります。
 望ましくない「動き」が生じた時に、しばしばクライアントが陥る思考は、「カウンセリングを受けて悪化した」というものであります。
 例えば、極めて強迫的なクライアントがいました。男性の方でした。彼は強迫的な儀式で不安を処理しているのであります。それが成功しているとすれば、彼は苦も無く強迫的な儀式を継続するでしょう。しかし、彼が「治療」を求めるということは、この儀式が彼にとって、もはや不安処理能力を喪失しているということを意味するはずであります。
 残念なことに、彼は二回ほど面接を受けて、「不安が強くなって、続ける気にはなれない」と述べ、カウンセリングから離れたのであります。確かに、彼と話し合っていると、彼の不安に触れざるを得ないのであります。急激に不安に陥らないように私も気を付けていたのではありますが、どうも彼の不安の方が強かったようであります。
「治療的」な観点で言えば、彼の強迫的儀式は自身の不安に目を背けるために役立っていたものでした。そのやり方が通用しなくなっているということは、彼は自身の不安に新たな対処をしていかなければならないということであります。その際に、自身の不安を今まで以上に体験してしまうということは、どうしても起こり得ることであります。彼が不安を感じるようになったということは、強迫的儀式から彼が抜け出し始めているということであります。この観点は、特に「強迫性障害」や「依存症」では欠かせないものであると私は考えております。
 傷口を見ないように蓋をしている人を想像してみましょう。その人は蓋をすることに不自由さを感じております。ここで蓋をすることではなく、この傷口を治癒していくことが肝心であると気づいたとします。この人は何をしなければならないでしょうか。まず、蓋をどけて、傷口を見てみるということから始めなければならないということになるのではないでしょうか。強迫的儀式を続けていた男性は、傷口を見た途端に恐れを感じ、「治癒」の場を後にしたのであります。
 確かに辛い作業になったと思います。本当なら十回や二十回はかけて、こういう作業をしていくべきでした。彼とのカウンセリングでは、とにかく展開が速かったのであります。短期間に彼は自分の見たくない「傷口」に触れるということをしてしまったのであります。いずれにしても、この男性の事例において、その展開の急激さが問題であったのでありますが、彼が不安を感じるようになったということは、必ずしも悪い「動き」とは言えないということなのであります。

(114―5)「動き」はカウンセリングのプロセスを展開する
 望ましい「動き」と望ましくない「動き」ということに関して述べてきました。望ましいか望ましくないかというのは、クライアントの観点から見てということでありまして、現実にはどちらの「動き」も重要で、意味があるものであります。望ましい「動き」を体験した女性クライアントと、望ましくない「動き」を体験した男性クライアントの例を挙げましたが、どちらかだけを体験するという人はそれほど多くないものであります。私が経験した限りでは、一人のクライアントに両方の「動き」が体験されていることが多いのであります。
 本項では、残りの部分で「動き」に関してのいくつかの事柄を述べることにします。
 クライアントに「動き」が生じたかどうかということは、クライアントが報告してくれることもあればしてくれないこともありますし、クライアント自身が気づいていないという場合もあります。しかし、クライアントに「動き」が生じた場合、その「動き」は必ず面接場面において必ず表面化されるものであります。
具体的に言えば、クライアントの話が違ってくるのであります。例えば、前回までの面接で問題になっていた事柄が今回まったく触れられておらず、以前は周辺的だった事柄が今回はメインになっているとか、前回のテーマよりも今回のテーマはより進んでいるとかいうような場合であります。私にはこのクライアントが前回から今回までの間に「動き」を経験しているという予測が立つのであります。つまり、クライアントの内面の「動き」は、クライアントの関心や視点をシフトするのであります。
 誤解のないように申し上げておかなければなりませんが、前述のように、前回から今回までの間に「動き」が見られるという例もないわけではありませんが、多くは、先月と比べて、今はかなり「動いている」といったように、ある程度の時間枠を通して確認されることが多いのであります。劇的に「動き」が生じるということは、それほど多くないものであります。
 今、一年以上続けて来てくれている男性クライアントがいるのですが、本人はまったく気づいていないかもしれないし、「ここに来て何かなるのだろうか」とまでおっしゃられているのですが、私が確認した限り、この一年以上のプロセスにおいて、少なくとも6回は「動き」があったのであります。この男性は、カウンセリングを始めた頃に頻繁にしていた話題をもはやしておりません。それとは無関係ではないにしろ、当時よりもより発展したテーマを今では話し合っているのであります。また、最初の頃には考えることもできなかった事柄を、今では話し合っているのであります。本人はあまり意識していないだけで、実はそれだけの「動き」が彼には生じていたのであります。
 カウンセリングが継続的な方が望ましいと私が考えている理由の一つは、継続的に会うことで、クライアントの「動き」がお互いにより見えるからであります。一回会っただけのクライアントに対して、私はその人にどのような「動き」が生じたのかを見ることができないのであります。また、適度に間隔を空けるからこそ、こうした「動き」もよく見えてくるものであります。こういう事情があるので、標準型精神分析のように毎日クライアントと会うということに私は反対なのであります。
 肝心な点は、クライアントに内面的な「動き」が生じると、カウンセリングが展開していくということであります。クライアントに「動き」が生じると、視点や話題がシフトしていくと述べましたが、この「動き」に支えられて、クライアントは今まで見ることのできなかった部分を見ることができるようになったり、新たな観点や思考がクライアントに生じてくるのであります。こうして「動き」は変容の第一歩となるのであります。

(114―6)何が「動き」をもたらすのか
 では、何がそのような「動き」をクライアントにもたらすのでしょうか。これを簡潔に述べることは難しいのであります。クライアントによって様々であるからであります。
 一言で言えば、クライアントがカウンセリングの場に於いて体験する事柄が、クライアントに「動き」をもたらすと言えるのであります。でも、ではどういう体験が「動き」をもたらすのかということは、一概には言えないものであります。そのクライアントにとって欠けている何かであるとしか、私には言いようがないのであります。
 私が22歳頃に受けた初めてのカウンセリング体験を振り返ってみると、私はその時、生まれて初めて私の言葉に耳を傾けてもらえたということを体験したのでした。おかしな話に聞こえるかもしれませんが、私は私の言葉に耳を傾けてもらえるということが、当時は信じられなくて、また、耳を傾けてもらうこと自体を諦めていたような所があったのであります。カウンセリングで、私の話を聴いてもらえるということは、私にとっては初めての経験であったのであります。それまでの人生で得られなかったことや体験できなかったことを、初めて体験したのであります。私の場合はですが、この体験、初めての体験が後に生じる「動き」に少なからず影響していたのだと捉えております。
 クライアントはしばしばそういうことを表現されるのであります。「初めてこのことを人に話した」とか「初めて理解できた」とか申されるのであります。強迫的儀式を続けていた男性も、初めて自分の抱えている不安に触れるという体験をしたのだろうと思います。今まで得られなかったことを初めて得たとか、体験できずにいたことを初めて体験したとか、避けていたことに初めて触れたとか、そういう体験は間違いなく「動き」をもたらすものなのであります。

(114―7)本項の要約
本項の要約をしておきます。
カウンセリングにおいては、クライアントに内的な「動き」が生じるということがテーマでした。その「動き」は、クライアントから見て望ましいと思われるものもあれば、望ましくないものとして受け止められるものまであるのですが、どのような動きであれ、それは望ましいものであります。なぜなら、「動き」が生じるということは変容への第一歩であるからであります。
クライアントに生じた「動き」は、必ず以降の面接場面に持ち込まれるということ、それが面接のプロセスを展開していくということであります。また、面接場面での変化を通して、クライアントに「動き」が生じているということがお互いに確認できるということであります。
 初期において、こうした動きを体験するクライアントの方が展開が速やかで、予後が良いという印象を私は受けております。但し、急激すぎる「動き」は、関係が切れるかもしれない危機を孕んでいます。一方で、「動き」がほとんど見られないというクライアントもあります。このような場合は長期化する可能性があるということです。本項では述べませんでしたが、なぜ、このような「動き」の見られないケースが生じるのか、何が「動き」を拒否しているのかということもいずれ考察する予定をしております。
 内面的な「動き」は、しばしばその人にとって意味のある体験をした時に生じるということも述べました。特に初めて体験するような事柄であると、必ずと言っていいほど、「動き」が生じるのであります。

(文責:寺戸順司)






ご読了お疲れ様でした。以上で「カウンセリングの過程(5)」ページは終了です。
引き続き「カウンセリングの過程(6)」ページにて論を進めていくことにします。