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カウンセリングの枠組みについて(6)

カウンセリングの枠組みについて(6)

<テーマ94> テープ録音(2)
<テーマ95> テープ録音(3)
<テーマ107> 行動の制限~面接内での制限




<テーマ94>テープ録音(2)

 録音されたテープが残っているということは、とても役立つものであります。面接を終えて、クライアントが何を話し、私が何を伝えたかということは思い出すことができます。これは数日を経ても、ある程度思い出せるものであります。しかし、クライアントがそれをどのように話したか、私がそれをどのように伝えたかということは、しばしば記憶が曖昧になるのであります。「どのように」という部分を確かめるのに、テープ録音がとても助かるのであります。
 また、その時は気づかなかったけれど、後からふと気になった事柄を確認するのにも録音テープは役に立つのであります。そのような例を挙げましょう。

 これは私がカウンセリングの研修中に経験したことであります。クライアントは女性で主婦の方でした。クライアントの息子が引きこもり状態になっていて、クライアントである母親がそれを気に病んでいたのでした。母親であるクライアントは、息子の現在の状態に関して、深い責任感と罪悪感を抱いていました。息子のために、自分が頑張らなければならないと感じておられるようでした。
 ある面接時、家から一歩も出ようとしない、何もしようとしない息子のことをクライアントが話している時、私が「そのような息子さんを見て、どう思いますか」と尋ねてみました。彼女は「息子が不憫です」と答えられたのであります。私は、その時は、特に引っかかることもなく聞いていたのでした。
 しかし、後日、このクライアントがあの時「不憫だ」と言ったのではなかったかと、ふと思い出し、どうしてもその言葉が引っかかってしまったのでした。私はテープを聴きなおして、彼女が確かに「不憫だ」と言っているのを確認しました。我ながら自分の鈍感さに呆れ返るのでありますが、私はその時には気づかずに、素通りしてしまっていたのでした。「不憫だ」と感じることは、果たして母親が息子に対して抱く自然な感情なのだろうかと、私は初めて疑問を感じたのであります。
 彼女はなぜ「可哀そう」とか「哀れだ」とかいった他の言葉ではなく、「不憫だ」という言葉を選んだのだろうか、どうして他の言葉ではなくこの言葉が彼女から出てきたのだろうか、私は不思議に思うようになったのでした。彼女が「息子が不憫だ」と語って、私はそれをそのまま受け止めたのですが、いかに私が彼女を理解していないか、理解していると思い込んでいたのかを痛感したのであります。そして、テープで確認するということができなかったら、私はその点を曖昧なままにして、以後のカウンセリングをしていただろうと思います。
 ともかく「不憫」とはどういうことだろうということを私は調べなくてはいられませんでした。辞書を引いても、せいぜい「人を憐れむこと」などと意味が載っているだけでありますので、言葉そのものの意味はあまり役に立ちませんでした。
 次に、私は「私自身はどのような人に対して不憫という感情を抱くだろうか」を自問してみました。「不憫」にもっとも近い感情を抱くのは、私の場合、ホームレスの人を見た時であるとその時に気づきました。
 当時、大阪の扇町公園にはビニールシートを張ったホームレスの人たちが何人もおられました。私は次の休日にわざわざ扇町公園まで行って、それとなくホームレスの人たちを眺めていました。じーっと彼らを見ている、心の中で「不憫、不憫」と繰り返しながら、私はただ座って、彼らを眺めているのでした。何としても「不憫」を突き止めてやろうと必死でした。
 そうして眺めている間に、私はふとある出来事を、それもその時にはすっかり忘れていたある出来事を思い出したのであります。それは、その二、三年前だったかと思いますが、私が一人夜道を歩いていると、道端からいきなりホームレスの人がガバッと起き上がって、何やらわめきながら、棒のようなものを振りかざして、私に向かってくるのでした。私は怖くなって、一目散に駆け出しました。どうやら、うっかり彼のテリトリーに足を踏み入れてしまったようです。この出来事を思い出し、よく考えてみると、この体験を機にホームレスの人たちに対する見方が変わってきたように思い出されたのでした。それ以前の私は、ホームレスの人に対して、もう少し温かい目で見ることができていたように記憶しているのであります。
 つまり、私にとって「不憫」とはこういうものだったのです。私はホームレスの人を「不憫」に思っている。彼らは援助が必要な人たちであり、否応なしにホームレスになってしまったのだということを頭では理解している。しかし、追いかけられた怖い体験から、できることなら私は彼らとは関わりたくないと思ってしまっている。彼らに同情はできるけど、同時に私は彼らに恐れを抱いている。できることなら彼らに対して「傍観者」でいたいと思っている。そうしたいくつもの感情が複雑に絡み合って、「不憫」という感情になってしまっているのだということであります。
 私は自分の「不憫」理解に基づいて、今度、この母親が「息子が不憫だ」ということを表現した時には、必ずそれを取り上げてみようと考えていました。そのチャンスは三回後に訪れました。彼女は息子のためを思って、できるだけのことはしてやろうと考えていました。自分が息子をそのような状態にしてしまったのだと言って、自分を責めていました。彼女が再び「そういう息子を見ていると不憫で」と語った時、私は「息子さんのことを何とかしてあげたいと思う一方で、息子さんのことにもう関わりたくないくらいのお気持ちがあるのではありませんか」と尋ねてみました。さすがに彼女はびっくりされたようでありました。しかし、しばらく間をおいてから、彼女は「息子のことではもう疲れ果てているんです。もううんざりしているんです」と、初めて、これまで語ってきたこととは正反対のことを述べられたのでした。それを表現できなかったことが彼女を苦しめていたのでありました。息子のひきこもりに関して、彼女は自責感情を抱いておりましたし、夫や周囲の人からは母親の育て方が悪かったからだなどと言われ続けていたのでありました。息子を見放すような感情は、たとえ心の中で抱いていたとしても、決して口に出すことはできなかったのでした。彼女はそれをすることが禁じられていたわけであり、彼女自身も自らそれを禁じていたのでありました。
 この例については、これ以上詳細に述べる余裕がないのですが、その後、徐々にではありますが、禁じられていた感情が表現され、解放されることで、あくまでも状況は変わっていなくても、彼女自身の状態は見違えるように落ち着いていったのであります。息子がいかなる理由でひきこもっているにせよ、母親である彼女は、母親として当然のことをしている限り、息子と一緒に共倒れしていく必要がないということ、彼女自身の生活、人生を送っていってもいいということが体験されていったのであります。

 この例では、録音したテープを聴きなおして、クライアントの言葉を確認できたことが、その後のクライアント理解に有益となったのであります。そもそも聞き流してしまった私に問題があるのですが、どれだけ熟練したカウンセラーでも時にはそういうことをしてしまうかもしれないと私は思います。注意深く聴くようには努めていても、決して過信してはいけないのだと私は考えるのであります。そして、テープ録音は、クライアントの利益にもつながることがあるのだということを理解していただければと思います。

(文責:寺戸順司)





<テーマ95> テープ録音(3)

 クリスチャン(5歳)は、母親から離れることができず、頻繁にパニック状態に陥るということで、母親に連れられて分析家を訪れた。分析家は初めに母親を面接室に招き入れる。その時、母親はクリスチャンに「ママがあのおばさんと話している間、一人で待っているんですよ。怖がることはないのよ、坊や。怖い人なんか来ませんからね」と言った。それまで静かにしていたクリスチャンが急に泣き出した。母親との面接が済むと、今度はクリスチャンが招き入れられた。その時にはクリスチャンはおとなしくなっていた。クリスチャンが面接室に入ろうとして立ち上がると、母親は「さあ、行っておいで。誰も注射なんかしないからね」と言った。クリスチャンは再び急に泣き出した。(モード・マノーニ著『子どもの精神分析』人文書院より p105~106)

 ハリー・スタック・サリヴァンは私が尊敬する精神科医の一人ですが、そのサリヴァンが「関与しながらの観察」ということを述べています。サリヴァンという人は絶妙な言い回しをするなと、私はいつも感心するのでありますが、臨床家はクライアントに「関与」しながら、同時に臨床家自身を、並びに双方の間で生じていることを「観察」するものだということであります。
 私はそれほど器用な人間ではないのか、この「関与しながらの観察」ということがどうしても十分にできないのであります。多くの場合、「関与」の方に熱中してしまい、「観察」の方が疎かになってしまっていることに気づくのであります。尚悪いことに、面接中にそれに気づいてしまうのであります。後でテープを聴きなおすということは、遅れながら「観察」の方をしているわけであります。テープ録音することは、私の「観察自我」を育てるためにも是非必要なのであります。
 テープ録音は、前項のように、クライアントの利益のために用いられることもありますが、それ以上に、私自身の利益のためにも用いるということであります。

 私が特に観察したいのは、私の「無意識的な敵意」であります。本項の冒頭にマノーニの事例を掲げましたが、この母親は、意識的には子供を安心させようとしているのですが、無意識的には子供を不安に陥れてしまっているのであります。子供に対するこの「敵意」に母親は気づいていないのであります。この「敵意」が無意識的であるだけに、厄介なのであります。
「無意識的な敵意」に関しての素晴らしい見本は、ドストエフスキー「罪と罰」に出てくる母親の手紙であります(第1篇3章)。主人公のラスコーリニコフが高利貸しの殺害に向かう前に、彼は母親から手紙を受け取るのです。その手紙は、彼の妹が結婚をすること、その結婚は不本意で屈辱的な、強いられたものであることが述べられます。そして、ラスコーリニコフには妹の結婚を祝福するように求められ、一方で、こんなことになったのはお前のせいだということが随所に仄めかされているのであります。この後のラスコーリニコフの落ち着かなさ、不安な感じは、マノーニの事例の子供が体験しているものと同じようなものではないかと思います。私が初めて「罪と罰」を読んだとき、このチクチクと突き刺すような母親の手紙に不快感を覚えたのを記憶しております。最初は「なんとイヤミな手紙やな」と思った程度でしたが、後でそれは母親が無意識的に「敵意」を発散しているからだと思い至ったのであります。ちなみに、R・D・レインがこの手紙を分析していますので、興味をお持ちの方はレインの「自己と他者」(みすず書房)をお読みください。私など足元にも及ばない、見事な分析をされております。

 クライアントに対して怒りを覚えることもあります。怒るべきではないといって、その怒りを「なかったことにしよう」とするよりは、怒りを覚えている自分を自覚するようにしています。この怒りは私にとっては意識化されている怒りであります。ところが、無意識的な怒りや敵意というものが、非常に厄介なのであります。これはその時には気づいていないということが多いのであります。私は思うのですが、どれだけ熟練した臨床家であっても、こうした無意識的な怒りから完全には自由にはなれないものではないかと思います。どの人にも、無意識の内に生じている何らかのものがあるはずであります。

 ある女性クライアントとの間にそれが生じたことがあります。彼女が来室した時には、私はかなり意識的に温かく、快く迎え入れようとしていました。しかし、毎回、彼女が帰ってから、私の中で不快な感情が湧き起こってくるのでした。そして、前回の不快感情を反省して、今回もできるだけ温かく迎え入れようとしていたのであります。こういうことを私は繰り返していたのでした。そして、ある時、彼女は私の言葉に怒って帰られました。彼女は立腹して帰られたのに、私は彼女を止めようという気持ちにはなれませんでした。そして、彼女が去っていった後、私は何か気持ちが楽になったのを感じたのでした。後から気付いたのであります。私は、彼女に対しての怒りを無意識的に抱いていたのでした。
 初めて受けに来た時、彼女は自分がいかに哀れで不幸であるかを語るのでした。そして、極貧生活をしていて、面接料も十分には払えないと訴えるのであります。当時の私は、私を頼ってきた人を追い返したくないという気持ちが強かった(今では、私のこの気持ちが間違ったものであるということを認識しております)ので、彼女が支払える範囲での金額でカウンセリングをしていくことにしました。正直に申せば、彼女のカウンセリングをやればやるほど、私は自腹を切らなくてはならないのであり、こんなバカげたことはないのであります。ただし、私の方も、料金を下げる代わりに、いくつかの条件を彼女に約束させたのであります。
 ところが、後々、彼女はこの約束を平気で破るようになるのであります。それで何一つ悪いことをしているという認識をされないのであります。むしろ、そうする権利(条件を破る権利)が当然自分にはあるのだという態度を示されるわけであります。私はまずそのことが腹立たしく思えてきたのであります。そして、こういうクライアントを引き受けた私自身が腹立たしかったのであります。最初のうちは、引き受けた私がバカだったと思って、彼女への敵意は自分の中で処理していこうと思っていました。しかし、この敵意は私の中で蓄積していって、そして最後の時に、私が無意識的に発した言葉で彼女は怒ったのであります。しかし、その後で生じた結果こそ、実は私が本心から望んでいたことであったと気づいたのであります。
 私も人間であるので、怒りや敵意の感情はありますし、それを素直に感じ取ろうとしています。それが意識化されている間は、恐らく私はそれを処理していくことに苦を感じないでしょう。しかし、意識していない所で、それが顔を出したりするのが怖いのであります。
 この女性に対しては、私は初回のテープを聴きなおした上で、継続の件を持ち出すべきでした。なぜなら、この初回面接の中で、私の敵意が既に垣間見られていたからであります。このテープに録音されていたある種の私の言葉、例えば「カウンセリングをやっていって、あなたが良くなるという保証はありません」とか「あなたが望むような状態になっていくには、数多くの困難を経験されることでしょう。あなたにはそれが耐えられますか」とかいった言葉は、その時には慎重にかつ現実的な言葉として彼女に与えたつもりだったのですが、聴きなおしてみて、改めて彼女に対しての敵意の表明であったということに、私は気づいたのであります。

 テープ録音をするということは、私が面接において、自分でも気づいていない何かを発してしまっていないかを後で確認したいからであります。本項では、自分で気づいていない敵意や怒りを取り上げましたが、その逆のものもあります。無意識的な好意にも気づいていかなければならないのであります。自分で気づかない事柄に気づくために、私は面接を録音することにしております。

(文責:寺戸順司)





<テーマ107> 行動の制限~面接内での制限

(107―1)二種類の行動と行動の場面
 カウンセリングの枠組みの最後の項目は、行動の制限ということであります。これはクライアントの行動ということでありますが、一部においては、同じことが私の側にも該当するものであります。
 クライアントの行動に関して、それを便宜上、面接室内の行動と面接室外の行動というように、二回に分けて取り上げる予定でおります。本項では面接室内での、つまりカウンセリングの時間内でのクライアントの行動ということを取り上げます。
 また、制限される行動、もしくは望ましくない行動を取り上げるということは、その一方で望ましい行動、推奨されるべき行動ということをも暗に含んでいます。この点についても述べる予定でおります。

(107―2)クライアントに保証されている自由
 カウンセリング場面においては、クライアントにはできるだけの自由が与えられるものであります。その自由とは、語ることの自由であり、どのようなことを、どのように語るかということに関して、クライアントには自由が保証されているということであります。ここはしっかり押さえておきたいと思います。クライアントには語ることに関して自由があるのであり、この自由は好き勝手な行為をしても構わないという意味ではないのであります。
 例えば、一人のクライアントがとても憎んでいる人のことを話しているとしましょう。「あいつを殺したいほど憎い」と言葉で表現することは、何も罪ではないのであります。推理小説を読むことが何も犯罪ではないのと同じことであります。個人が殺意幻想を語ろうと、実際の行為に移したりしない限り、その人は罪に問われないわけであります。
 その際、彼が荒々しい語調で殺意を語ろうと、淡々と無表情で語ろうと、硬く拳をにぎって語ろうと、全身を硬直させて語ろうと、それは彼の自由なのであります。彼の表現スタイルは守られるものであります。しかし、彼がそこで立ち上がり、面接室内のものを壊したりとか、暴れたりとか、あるいは私に殴り掛かるとかいう行為を始めたとすると、それは厳しく禁じられるのであります。
 このことはつまり、言語化と行動化の区別をつけるということであります。言語化に於いては自由が保証されているのですが、行動化の方は禁じられるということであります。

(107―3)「反治療的」な行動化
 もし、殺意幻想を抱いている彼が、そこで面接室内で暴力を振るったとすれば、それは次のことを意味しているのであります。彼が自分の殺意幻想を自分の内に抱えることができなくて、また、それを適切な形に昇華することもできず、ある意味で幻想をそのまま実現化しているということであります。彼の内面で生じている事柄に対して、彼がそれらを内面にとどめることができないでいることの証なのであります。そして、このようなことは「反治療的」な行為なのであります。なぜなら、「治療」とは、内面の物は内面にとどめ、適切な形で表に出すことを目指すからであります。
 なぜ、そのような行動化が「反治療的」なのかを、もう少し丁寧に見ていきますと、彼が抱えている自身の殺意幻想を何らかの形で表出することによって、彼はある種の満足は得るかもしれませんし、カタルシスのようなものも体験するかもしれません。しかし、そのような満足は極めてその場限りのものであり、そこから何かを彼が得られるとは期待できないのであります。それに、彼の「問題」は、彼の殺意幻想にあるのではなくて、そのような殺意幻想を生み出してしまっているものにあるはずなのであります。彼が行動化するということは、殺意幻想に束縛され、支配されてしまい、そしてその幻想を生み出してしまっているものに目を背けさせる結果になるのであります。従って、彼はそれを生み出しているものに関しては、いつまでも盲目なままでいることになるのです。この意味においても、彼のそうした行動化は「反治療的」な行為として定位されるのであります。

(107―4)クライアントはルールを守ってくれる
 しかしながら、上に述べたような暴力的な事柄はこれまで一度たりとも、私は経験したことはありません。ここは話し合いの場であるということを私が随所で述べるからかもしれません。そして、これは何も難しいことではないのであります。
 私が求めるのは、面接室内においては理性的に振舞って欲しいということなのであります。ほとんど大部分のクライアントはそれだけの理性を持っておられるものであります。よほど小さな子供にとってはこれが難しいだろうとは思いますが、私がお会いするクライアントは大部分が成人であります。一定年齢以上の精神的発達を遂げている人であれば、行動化することなく一時間の話し合いをすることは可能なのであります。私もそれを信じてクライアントとお会いしているのであります。

(107―5)身体的接触
 これまでのことを簡潔に申し上げますと、面接室内においては、基本的に、暴力を振るったり暴れたりさえしなければいいということであります。面接中にクライアントは泣いても構わないし、拳を堅く握りしめて語ってもよいのであります。後ろを向いて話しても、床にじかに座ろうと構わないのであります。これらも一つの行動化であり、中にはそれらも禁止する臨床家もおられるかもしれませんが、私にはまだ許容できるものであります。
 さて、暴力的な行為以外に、お互いに禁じていることは、身体的な接触であります。私はクライアントには触れませんし、私も触れられないようにしています。私が個人的に体を触れられるのが好きではないのであります。そのことも手伝ってか、私はこれを特に守っております。
 継続して通われていたある女性クライアントでしたが、ある回の面接終了後、別れ際に「握手してください」と要求してきました。私は迷ったのであります。彼女の愛情飢餓感というものは前々から感じられていのでしたが、何となくそれはしてはいけないという注意信号が私の内にて働いたのであります(注1)。私は「最後の時にしましょう。それまではおあずけ」などと言って、ごまかしたのであります(注2)。
 臨床家によっては、私とは別の考え方をされる場合もあるでしょう。例えば、一時的にでもあれ、この人の愛情飢餓感を満たさないとこの人が危ないと考え、クライアントの要求通りに握手に応じるかもしれません。ただ、私はその考えには賛成しかねるのであります。
 私の考えるところでは、直接的に触れるのではなく、言葉や時間、空間を通して、間接的かつ象徴的にクライアントは触れてもらえているという体験をすることの方が大事だと捉えております。そしてクライアント自身がそのことを理解でき、その接触で満足できるようになることが、彼女の愛情飢餓感を本当の意味で克服できるものであります。
 また、クライアントによっては、身体的な接触が退行を極端に促してしまうこともあり得ることなのであります。私の女性友達だった女性がボディケアやマッサージの仕事をしていて、彼女から客の話をいくらか聞いたことがあるのですが、彼女を困らせるような客というのは、何らかの形で極端な退行を示している人が多いようでした。退行するということは、客があたかも駄々っ子のように振る舞ったりするわけであります。それで彼女は困惑していたのでしたが、私の受けた印象では、身体的接触がその人の退行を促してしまったのだろうということであります。
 クライアントが身体的な接触により退行をきたしたとしても、そのような人を抱えるだけの環境が整っていれば、まだクライアントは救われるものであります。ただ、私のようなやり方で実施している臨床家は、やはりそれができないことを認めないわけにはいきません。リスクを避けるためにも、身体的な接触は避けようと私は決めているのであります。

(107―6)言語化された感情は共有される
 怒りや敵意を、行動で発散するのではなく、言語的に表現しなければならないのと同様に、面接室内では、愛情飢餓感も言語的に表現されなければならないのであります。強い愛情飢餓感を抱いている人が、「手を握って欲しい」とか「抱いて欲しい」と要求したり実行したりすれば、その人は返って拒絶を経験してしまう可能性があるのであります。しかし、その人が「淋しいんです」とか「触れて欲しいんです」「人肌が恋しいんです」などと、愛情を求めているという自身の感情を言葉で表現される限り、その感情は他者により受け入れてもらえて、共有してもらえるものなのであります。繰り返しますと、行動化によって表現されたものは拒絶に遭いやすいということであり、同じことでも言語化されたものは共有され得るということであります(注3)。
 言葉を十分に駆使できない乳幼児や小さな児童においては、自身の感情や内面を言語的に表現することが困難であります。言語的に表現する代わりに、行動によってそれを表現しなければならないのであります。そのために、その行動はパターン化されやすいものであります。そうしてパターン化された傾向を一般的に「性格」と称しているのでありますが、これに取り組むためには、私の目指すところでは、その人に言語化への道を模索してもらわなければならないということであります。しかし、私たちは子供から大人へと成長していく段階で、このような作業をしてきているものであります。だから何も特別な作業ではないと私は捉えています。従って、行動化から言語化への橋渡しをしていく作業をカウンセリングにおいてはしていかなければならないということなのであります。
 簡潔に述べますと、カウンセリング場面においては、行動化は禁止されますが、言語化は推奨されるということであります。もちろん、どのように言語化される必要があるか、どういう部分をもっと言語化しなければならないかという問題も生じるのですが、ここではこれ以上深く取り上げないことにします。いずれ別項にてそのような問題も考えてみたいと思っております。

(107―7)本項の要点
 本項のまとめをしておきます。本項では、面接室内において制限される行動について述べてきました。クライアントには語ることに関しては自由を保証されていますが、いくつかの行動に関しては制限がなされます。特に、暴力的な行為や身体接触という二点について取り上げました(注4)。行動化は常に当人に拒絶を再体験させてしまうことになりかねず、行動に駆り立てるものを言語化する道を模索しなければならないということを述べてきました。カウンセリングとは、このような言語化への援助でもあると私は捉えております。

(107―8)注釈
(注1)
 愛情飢餓感が強くなった場合、それが接触欲求として当人に体験されている場合もよく見られることであります。この接触欲求は、根源的には「抱っこされたい」というところに行き着くものであります。この根源的な欲求に関して、私はそれを直接的に満たしてあげることはできないのであります。従って、握手はいいけれど、抱くことは許されないという葛藤をお互いに生じさせる結果となるものであります。

(注2)
 結局、このクライアントとは握手することもなくお別れすることができました。クライアントにとって、もはや私の握手が必要ではなくなったからであります。愛情飢餓感の克服としては、望ましい形だったと私は捉えております。

(注3)
 言語化、行動化の両者をつなぐものとして、象徴化を挙げることもできます。象徴的に表現することもできるのであります。ただ、この象徴表現は、お互いに共通の象徴理解が得られていれば滞りなく通じるでしょうが、そうでない場合はしばしば誤解を生みだすものであります。

(注4)
「破壊」衝動と「性愛」衝動と言い換えてもいいかもしれません。この二つは言語的に表現することが、確かに、難しい領域であるかもしれません。それだけに行動化に移しやすい傾向を有しているかもしれません。問題となる行動には、常にその両者のどちらか、あるいは双方が関与しているものであります。そして、その行動が当人に不都合や不利益をもたらしている場合が多く、それだけに、それらは行動化されない方が望ましいのであります。行動化よりも言語化するということは、当人には困難を伴うものであります。なぜなら、そのような言語化の試みを当人がしてこなかったという背景があるからであり、言葉にできないからこそそのような行動化が生じているからであります。困難ではあるけれども、言語化への方向へ探索していくことの方が、より建設的であり、安全であり、当人にとって望ましいことであると私は捉えております。

(文責:寺戸順司)






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ご読了、お疲れ様でした。