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カウンセリングの枠組みについて(5)

カウンセリングの枠組みについて(5)

<テーマ64> 料金
<テーマ65> 料金に対する葛藤
<テーマ93> テープ録音(1)



<テーマ64> 料金 

 あなたがカウンセリングを受ける場合、あなたはカウンセリング料を支払わなければなりません。私の所では一回のカウンセリングは6000円であります。時間は一時間であります。
 この料金ということですが、これが何の金額であるのかということはクライアントからするとあまり見えないのではないかと思います。私は、基本的にこの料金というものはカウンセラーの時間と場所に対して支払われるものだと捉えております。
 私のような考えに反対している臨床家もおられます。例えば、カール・メニンガーは、はっきりと明記されているのですが、この料金は臨床家の時間に対してではなく、臨床家の提供するサービスに対して支払われるものであると述べているのであります(『精神分析技法論』カール・A・メニンガー著 岩崎学術出版)。私はその意見に賛成であります。しかし、臨床家が提供するサービスを何で測ればよいのでしょうか。結局、それを計ろうとすれば時間を持ち出さなくてはならなくなるのではないかと思います。つまり、時間ということの中に、提供されるサービスの内容も含まれているのであります。
メニンガーの時代よりも、現在ではこのことは普通に考えられるようになってきているのではないかと私は思います。例えば二時間食べ放題でいくらというような勘定に、私たちは依然よりも慣れているのではないでしょうか。以前だと、決められたコースに対していくらというような勘定の仕方でした。二時間食べ放題でいくらという場合、そこには料理やサービスの料金も含まれているはずなのでありますが、表記する際には時間の中にそれらを含めているということにならないでしょうか。
 カウンセリングのサービスとは、もっと計ることが困難であります。どのクライアントにどれだけのサービスを提供したかということは、臨床家自身明確にできないのではないかと私は思うのであります。結局、サービスということを平等に示そうとするなら、時間を出す以外にないのではないかと私は考えるのであります。従って、私はカウンセリング料というのは、時間と場所に対して支払われるものであるという立場を取っています。そして、この時間と場所ということの中に、臨床家の提供できるサービスや知識なども含まれていると考えているのであります。

 さて、料金の設定ですが、これは臨床家やその機関の任意によるところであります。ある程度相場というものはあるかもしれませんが、基本的に料金設定はその臨床家並びに機関の事情によるところが大きいと私は捉えております。
 私の場合はとても単純であります。大体月にどれくらい経費が必要か、私自身の収入も含めれば、一か月にどれだけ稼がなければならないかという額が出てきます。それを一か月でこなせる仕事量で割れば、おおよその一回分の料金が計算できるのであります。私の場合、それがたまたま一回につき6000円になったというだけであります。他所と比較したり歩調をあわせようとしたのではありません。
 繰り返しますが、私の所では一回が6000円です。それは面接時に現金でお支払いいただきます。カード払いは不可であります。そのような対応をしておりませんし、カード払いは却ってクライアントの負担を増やしてしまうからであります。また、ツケも認めません。これは後々問題が生じるからであります。
 以前は、料金を割り引くこともしていました。私を頼って来てくれたのに、料金が払えないということで追い返すということに私は抵抗があったからであります。しかし、その人たちは結局は定額を支払うことができるのであります。これは次項で述べようと思いますが、それはそのままそのクライアントのカウンセリングに対する姿勢を反映するものであります。本当にお金が払えないというような人は、初めから私のような個人営業のカウンセリングルームには訪れないのであります。今後は割り引くというようなことを私はしません。どなた様も規定額を支払っていただきます。

 また、料金に関して誤解されるのは、料金の高低はあくまでもその臨床家や機関の事情によるところが大きいのでありますので、それは内容とか「効果」とかいったものとは関係がないということであります。料金が高いと何か素晴らしいことをしてくれるように期待される方もおられるのでありますが、私の考えでは決してそんなことはありません。無料の電話カウンセリングでも立派なカウンセリングをされている方もおられるのであります。
 私がクリニックに在籍していた頃にこのようなことがありました。そのクライアントは対人恐怖症のような問題を抱えておられました。ある所で合宿のようなものに参加されたのであります。そこには「どんな問題も一日で改善します」というような文句が記されていました。その広告は私も見たことがあります。その一日の合宿の参加費が確か十何万円だったように記憶しております。現在の私のカウンセリングだと16~20回分、4~5か月分(週に一回として)に該当する料金であります。彼は一日かけて、講義を受け、ワークをし、最後は宴会みたいなことをして過ごしたのでした。結果はどうだったのでしょう。彼は新たにクリニックを探さなければならなかったのであります。彼にとっては、何も変わらなかったのであります。
「一日で改善します」などと書かれており、そこに高額な料金が示されていれば、人によっては簡単に信用してしまうかもしれません。しかし、結局のところ、その十何万円という金額は、主催者側の事情で決定されているだけのことなのであります。
 私は、この時、料金に対しての信仰が意外と強い人もあるのだなということを学びました。高額な金額のものをありがたがったり、簡単に信用してしまうのであります。ただ、金額が大きいというだけで、それが素晴らしいと信じてしまう人たちがいるということであります。私の考えるところでは、決してそうとは限らないということであります。
 また、金額に見合ったものを得られたかどうかということは、サービスを提供する側が決めることではなく、サービスを受けた側が決めることでもあると私は思います。もし、先述の合宿に参加されたクライアントが、「十何万円も支払ったけれど、それだけの価値があった」と述べられるのであれば、それはそれで結構であります。それは彼が自分で決めてよいことであります。それは価値がなかったのではないかと、私が決める筋合いのものではありません。

私のカウンセリングは一回が6000円であります。この金額は私の事情に基づいて決められたことであります。あなたが受けられる場合、あなたは6000円支払うことを求められます。あなたにとって6000円がどれだけの価値があることなのか、私には分かりませんし、それは人によっても異なるでしょう。そして、6000円支払っただけの価値があったかどうかということは、あなたが決めればよろしいのであります。私が決める事柄ではありません。私個人の価値観においては、何か一つでも自分自身についての洞察が得られるなら、6000円は十分価値があったと思うのでありますが、それはあくまでも私の価値観にしか過ぎません。高かったか安かったか、価値があったかなかったか、満足したかしなかったか等々、あなたがどのように決めようと構わないのであり、それはあなたの自由であります。私が決めることでも、押し付けることでもないものであります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ65> 料金に対する葛藤

 私の個人的な見解ですが、ある人のお金に対する態度を調べれば、その人のことがかなり理解されてくるだろうと思います。何にどれくらい、どのようにお金を使うかということは、かなりその人を表すのではないかと思います。お金とは極めて人格的なアイテムであると思います。
 クライアントは少なからず料金に関して、お金に関して何らかの葛藤を経験するものであると思います。以下に示すのは、実際にクライアントがお金に関して語ったことであります。それに対して、私なりの見解を述べていくことにします。

 あるクライアントはカウンセリングを受けたいと真剣に望んでいるけれど、支払うだけの余裕がないと訴えました。私はその人の生活事情も考慮して、割り引いて受けてもらったのでした。その人は精神科医にもお世話になっていたのですが、そこでも同じことをしていたのでした。ある時、料金のことが話題になったので、私はその方に「どうして臨床家は安くなければならないのですか」と尋ねました。その方は言葉に詰まりました。そして「もういいです」と言って、去って行きました。
 また、あるクライアントは「保険が使えたらいいのに、どうしてダメなのですか」と尋ねます。医療機関ではないので、医療保険は適用できないだけであります。しかし、保険が使えたからと言って、料金が安くなるとは限らないということだけは申し上げておかなければなりません。現行では三割の負担なので、その人の支払いは6000円より下回るかもしれませんが、国全体が医療費を余計に徴収しなければならなくなるとしたら、同じことであります。
 この二人の方は、カウンセリングや「心の問題」に対してのある種の反応を示しているのであります。それは料金を懲罰のように捉えているということであります。料金を払うよりも、むしろ罰金を払う感覚に近かったのではないかと私は察します。

 これは私自身の事例ではないのですが、私はとても好きなので、少し述べたいと思います。あるクライアントは規定よりも少ない額だけを支払っていました。臨床家はいつも「かわいそうな人」と、その人を哀れむ気持ちに襲われていたのでした。ある時、臨床家はクライアントと対決しました。そのクライアントに対して「あなたはそれだけの料金で引き受けてくれるカウンセラーを探すことができる」と伝えたのであります。
 私はこの臨床家の態度は立派だったと思います。私には真似ができないかもしれません。この臨床家は決してクライアントを突き放したのではないのであります。ただ、クライアントを子供扱いすることを改めたのであります。事実、この後、クライアントはより収入のいい仕事に転職し、既定の料金を支払うようになっていったと述べています。哀れな慈悲を乞う子供のポジションから、一人の大人としてのポジションに臨床家はクライアントを引き上げたことになるのであります。従って、この例においては、臨床家とクライアントの関係も変わってきたはずであります。臨床家もクライアントもどちらも一人の人間としての正当な権利を持った存在として会うことができるようになっていったのだと、私は捉えております。

 また、このような例も聞いたことがあります。それは男性のクライアントだったそうですが、その人はカウンセラーの前に札束を積んで、ふんぞり返って、「この金で俺の問題を何とかしろ」と迫ったのだそうです。その臨床家は賢明にも、このクライアントを断りました。この臨床家が断ったのは、このクライアントの要求ではなく、クライアントが自分を放棄しようとする態度を拒否したのであります。私にはそのように思えます。

 次に示すのは、私がクリニックに在籍していた頃に経験したものであります。その人はカウンセリングを受けたいと望まれましたが、その際に、「効果があればお金を払う」という要求を出してきたのであります。彼の言い分では、「お金を払わないとは言っていない。効果があれば払うのだ」ということであり、「効果がなければ払わない」ということを暗に示していたのであります。
 彼は自分では正当な取引をしているつもりだったかもしれませんが、それは疑問であります。もし、彼を引き受けた場合、起こり得る結果は次の四点のどれかになるはずです。まず、(1)カウンセリングを受けて、効果があって、それまでの面接料を彼が支払う、があります。そして、(2)カウンセリングを受けたけれど、効果がなかったので、彼は面接料を支払わないです。この両者は彼が要求していることと一致しています。次に、(3)カウンセリングを受けて、効果があったけれど、効果がなかったと言って、これまでの面接料を踏み倒すという可能性があります。これは彼にはもっとも有益な結果であり、私たちからすれば、大損の結果であります。最後に、(4)カウンセリングを受けて、効果がなかったけれども、彼はこれまでの面接料を支払うということであります。私は個人的には、この(4)の結果になることが、彼にとってもっとも望ましいものであると考えています。しかし、彼はこの結果になることを一番に恐れていたのであり、最も避けたいと願っている結果なのであります。端的に申せば、この男性はいかなるリスクをも支払うことを避けたいのであります。リスクを背負うだけのものがこの人には育っていなかったのだと思います。

 同じく、クリニック時代にもっともよく耳にしたのが「料金が高い」という苦情でした。この苦情に対しては、私は何とも返答しようがありませんでした。なぜなら、この言葉は「お宅のところは料金が高い」ということを言っているのであって、つまり私たちの側のことを伝えているだけなのであります。「料金が高い」からどうなのかということをこの人たちは決して述べないのであります。何一つ要求するでもなく、主張するでもなく、何かをこちらに察しさせようという感じなのであります。当然、それは通用しません。

 いくつか例を挙げてきましたが、こうした例は他にも挙げることができます。肝心な点は、料金のことを通して、このクライアントたちが何をしているかということであります。端的に申せば、それらは臨床家への不信を表明し、抵抗を示しているのであります。それだけではなく、その人の抱えている問題の一端が、料金を通して顕在化しているのでもあります。つまり、臨床家や機関の設定する料金が問題なのではなく、その人の抱える問題が料金に関わって出てきているのであります。その人の問題が料金を通して表に現れているわけであります。
 もう少し正確に述べるなら、こういうことであります。料金はクライアントにとって常に葛藤の種になるのであります。葛藤に対してその人がどのような振る舞いをするかということが、面接料を仲介にして出てきているわけなのであります。上記の人たちは、その人それぞれの葛藤対処の仕方を如実に示してもいるわけなのであります。そして、自分の葛藤を自分で処理していく代わりに、あるいは、自分の葛藤に折り合いをつけていく代わりに、臨床家や機関を自分の都合に合わせて動かそうとしていることになるわけであります。そうすることで自分の葛藤を処理しようとしているのであります。このような対処の仕方が、その人の抱える問題の在り方を如実に示しているものと私には思われるのであります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ93> テープ録音(1) 

 私のカウンセリングでは、原則として面接内容を録音します。テープ録音します。録音されたテープは、そのクライアントが継続して来談している限り保存することにします。あるいは、3年ないし5年は保存することに決めております。そして古い分から順に再利用するか、廃棄するかという形で処分します。
 録音されたテープに関しては、私自身、外へ持ち出さないようにしております。また、聴きなおす場合は、音が外に漏れないよう、必ずヘッドフォンを使用しております。
 また、このテープは私以外の人間が聴くということはあり得ません。他の人が(あるいは面接を受けた当のクライアントが)、テープを聞かせて欲しいと依頼してきても、私はそれには応じないことにしています。

 保存期間について補足しておきますと、あなたが私のカウンセリングを受けるとして、私はあなたとのやり取りの模様を録音します。継続して来られることになった場合、毎回テープ録音します。もちろん、その都度了承をいただくようにはしています。録音機はあなたの目に見える場所に置くことにしています。
 継続して受けていたあなたが、カウンセリングを終結します。3年ないし5年というのは、この終結時から数えることにしています。一旦、終結して2年後くらいにあなたは再びカウンセリングを受けるとします。私はこれは継続であるとみなしますので、この二度目のカウンセリングが終結した時点で、再び数え直すことになります。
 あなたが一旦終結して、3年、もしくは5年以上後に再びカウンセリングを受けるとします。その場合、私はそれを初回面接として数えます。3年から5年以上間が空いて、再びカウンセリングを受けるということは、それは前回の継続として見做すよりかは、あなたは以前とは違った事柄のために受けに来ているというように見做します。

 録音したテープをすべて聴きなおすということは、時間的に無理があります。必要に応じて聴きなおすことにしております。それでも初回面接分は必ず聴きなおすようにしております。では、初回面接以外で、どんな場合に聴きなおすのかということですが、それは後々述べていくことになるかと思います。
 また、カウンセリングというものはクライアントとのやりとりを必ず録音されるものなのだというように早合点していただかないようにお願いする次第であります。私は、私の必要から録音するということに決めているのでありまして、他所では録音しないところの方が多いのではないかと思います。

 以上のことは、録音したテープの取り扱いについての話であります。気にならない人にとってはあまりどうでもいい事柄であるかもしれません。それでも、一応、私は録音したテープをどのように扱っているかということをここに明示しておきます。

 テープ録音の目的、理由は主に三つほどあります。それは(1)クライアントのものも含めて、私の言葉づかいを自分自身で聞くというため、(2)私の無意識的な敵意に早期に気づくため、(3)クライアントの反応を見るため、であります。本項では(3)について、この後、述べていくことにします。
 旧サイトにおいて、私は故意にテープ録音のことは伏せていました。テープに録音しますということをどこにも書かなかったのであります。それはなぜかと言うと、その時のクライアントの反応を見たかったからであります。
 私のサイトを見て、クライアントは私のカウンセリングを自分なりにイメージされるだろうと思います。当日、来談して、初めてテープ録音するということを知らされるのであります。これはクライアントにとっては予期しなかった出来事であります。この予期しなかった出来事に対して、クライアントがどのような反応を示し、どのようにこの状況に適応していくかということを私は見ようとしていたのであります。少々意地悪なやり方だったとは思いますが、これはクライアントに関して非常にたくさんのことを教えてくれるものでありました。
 私の見てきた限りでは、速やかにテープ録音を承諾してくれるクライアントほど、より安定しており、その他の場面においても適応がいいのであります。それは適度に私を信用してくれていることであり、人や世界に対する信頼感を獲得できていることを表しているように私は捉えております。
 一方、不安の強い人ほど、不信感が強い人ほど、テープ録音に抵抗感を示すのであります。録音したテープはどうなるのか、録音してどうするつもりかとしつこく尋ねられたクライアントもおられました。彼がいかに強い猜疑心を抱いていたかということは容易に見て取れることであります。
 中には録音されることを非常に喜ぶクライアントも見かけます。そのようなクライアントの一人は、自分に関する物をカウンセラーが残しておいてくれるということがとても嬉しいようでありました。私は、このクライアントの態度から、この人がどれほど孤立しており、日常生活において、自分自身を大切にしてもらえているという感じが得られないでいるかということが思いやられたのでした。そして、そのことは後々の面接において、やはり同じようにその人の話の中に現れているのでした。
 そして、一部のクライアントは録音されることを完全に拒否されます。録音されるくらいなら止めた方がましだと言って、受けずに帰られた方もおられました。録音を拒否するか、カウンセリングの方を拒否するかをされるのであります。私の経験では、録音を拒否するクライアントは、大抵予後が悪いのであります。テープがあるということは、私にとっては振り返りの材料となるのですが、それがないということも不利になってしまうのであります。それ以上に、クライアントが抱えている必要以上の恐れのために録音を拒否されているためなのであります。テープ録音に抵抗なく許可してくれる人と比べて、この人たちがあまりにも強すぎる恐れを、私に対して、抱いているのであります。このような人は、テープ録音に不安を覚え、拒否しているのではなく、その人が既に抱いている私に対しての恐れが、テープ録音ということにまつわって表れているのだと、私は捉えております。

 今後とも私は面接を録音していくつもりでおります。その管理は私が責任を持ってしなければならないことであります。今回のサイトでは、録音しますということをはっきり伝えておりますので、これから受けようと思われる方はその心つもりをしておいてください。
 今回、これを書くということは、クライアントに予期せぬ場面に遭遇させて、その反応を見るというやり方を、私が既に放棄しているからであります。そのような「実験」に頼らなくても、私には分かってきたものが増えてきたためであります。

(文責:寺戸順司)






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