ボツ原稿、旧原稿集

ボツ、旧原稿集―INDEX


<はじめに>
<あいさつ集>:平成23年11~平成24年10月
<マイベストプロ原稿集>:コラム1~19より
<テーマ3>用語に関して
<テーマ4>「こうあるべき自分」から「こうありたい自分」へ








<はじめに>

 こういうサイトなんかであれこれ書いていると、諸事情によりボツになった原稿というものもたくさん出来てしまうものです。また、大幅に書き換えたり、あるいは、他サイトにて掲載していた原稿なんかもたくさんあります。
 それらはすべて過去のものなので、消去しても差し支えないものなのですが、私としては、何となく、せっかく書いたものだからという思いも払拭できないでいます。
 それで、こういうページを設けました。ボツ原稿はボツになったものとして読んでくださればけっこうであります。以下、本ページにて掲載される原稿について説明をしておきます。

(1)あいさつ文
 これは本サイトの某ページの更新頻度を上げようという目的で、毎月あいさつ文を書いて掲載しようと目論んだものです。一部は掲載したかもしれませんが、後半は恐らく掲載していなかったと思います。また、中間の月の分は、原稿そのものが紛失してしまっています。

(2)マイ・ベスト・プロ原稿
 マイベストプロと契約していた当時、コラムとして綴っていたものです。これも全部は残っておりませんが、私のパソコンの中に保存されている分だけを掲載します。

(3)旧サイト版原稿
 過去の二つの旧サイトより、保存されている原稿のみ掲載します。当時は自分の書いた物を保存しておく習慣がなかったもので、書き上げて、掲載すると、さっさと処分していたのです。残っているもののみを掲載します。

(4)本サイトの旧原稿
 本サイトにおいて、大幅に書き換えたような<テーマ>は、新しい方を掲載し、古い原稿はこのページにて保存しておこうと思います。私自身の思考の経過を見るにも、過去に書いたものは残しておいた方がいいと思うからです。

(寺戸順司)










平成23年11月の挨拶

 11月に入り、温かい日もあれば肌寒い日もありで、なかなか環境に適応するのが難しいと感じておられる方もいらっしゃるのではないかと思います。季節の変わり目は不調を来しやすい人も多いのではないでしょうか。私もそうであります。この時期は心身の調子を崩しやすいのであります。
「履霜堅氷至」(霜を履(ふ)みて堅氷至る)という言葉に遭遇しました。これは霜を踏む季節になれば、やがて固い氷が張る時期が到来することを予想すべきであるという意味であります(『易経』上巻p101 岩波文庫)。今の時期、もしくは間もなく訪れる時期に相応しい言葉ではないかと私は思います。
 少しの不調は、いずれ訪れる大病の兆しかもしれないと捉え、早めに対処することが望ましいと私は捉えております。日々の調子に注意して、変化を過小評価してしまわないようにお互い心掛けたいものですね。

(寺戸順司)





平成23年12月の挨拶

 今年もあと残すところ一月となりました。今年は厳しい一年だったと実感されている方がたくさんいらっしゃるだろうと察します。私も厳しかったのであります。ただ、厳しかった分、鍛えられたところもあったというように私は体験しておりますが、これをお読みのあなたはいかがでしたでしょうか。
 今年もまた、多くの人が不幸を体験されたことでしょう。「この不幸をバネにして頑張ろう」と言うのは、不幸から目を背けている人の言葉だと私は考えております。生きている限り、不幸や苦悩は絶えないものだと私は思います。望まなくとも、そういうことを人間は体験してしまうものなのだと思うのです。
 私が毎日お会いするクライアントは、一人として幸福な人はいないのです。不幸であるが故にカウンセリングを求め、援助を必要としているのです。しかし、私自身の経験からも、私がお会いしたクライアントからも、またその他のいろんな人の生涯からも、不幸な経験がその人の何かを変えることがあるということを、私は教えられております。私はいつもそこに不幸を体験している人に希望を見るような思いがしております。
 自分でもどうすることもできない状況を、哲学者のヤスパースは「限界状況」と呼んでいます。その限界状況において、人は挫折を経験するのです。ヤスパースは述べております。「人間が自己の挫折をどのように経験するかということが、その人間がいかなるものとなるかということを立証するのであります」(『哲学入門』カール・ヤスパース著 新潮文庫 第2講 p28)
 私もまた、こうした言葉を支えにしながらも、あと一か月生き抜いて、今年を無事に締めくくることができるように努めるしだいであります。また、今後とも多くのクライアントと出会うことができ、同じく苦悩や挫折を経験する一人間として、模索しながらも、力になれることができるように努めたいと思っております。

(寺戸順司)




平成24年 1月の挨拶

 新年、おめでとうございます。
 新しい年を迎えて、皆さんはこの一年をどのような一年にしたいとお考えでしょうか。私の今年の目標は、今年もまた一つ年を取るということであります。去年よりも、何かで成熟しているということであります。
 厳しい冬を迎えるロシアでは、長い冬休みがあるそうで、その冬休み明けに、「うつ病」や「出社拒否」が増えるというのを、何かで読んだことがあります。頷ける話であります。
 日本でも年末年始は大きなイベントであります。イベントの後というのが、実はとても怖いものなのであります。人が心理的に不調を来すのは、イベント前ではなく、イベントが終わってからの方が一般的なのであります。つまり、祭りごとの後の方が調子を崩しやすいということであります。だから、お互いに調子を崩さずに、一月を乗り越えたいものですね。
 私のところでは、毎年、一月から二月にかけて、新規のクライアントが増える傾向があるのです。やはり、この時期に調子を崩してしまう人が多いのだろうと思います。不調を感じられたら、速やかに援助を求めるべきだと私は考えております。私もその力になれればと願っています。
良くないことは、その不調を過小評価し過ぎてしまうことです。最初のちょっとした兆しが、放置されてしまい、後々まで尾を引くというような例もたくさんありますので、早めに対策を立てられることをお勧めします。
 さて、年の変わり目には「時間」を意識する人も多いのではないかと思います。「河は同じでも、その中に入って行く者には、後から後から違った水が流れてくる」(『ヘラクレイトスの言葉』 田中美知太郎訳 弘文堂)という、私の好きな文句がありますが、時間の中に生きる私たちには常に違った時間が流れ、新しい時間に私たちは直面しているのであります。生きられる時間を大切にして、お互いによりよい生を築いていくことができれば
いいですね。

(寺戸順司)




平成24年2月の挨拶

 最近、ある男性クライアントが「損な人生を送っていたな」としみじみと語られて、私は深く共感しました。これはたいへん大きな洞察であると私は思います。
「心の病」とか「心の問題」を抱えることは、人生の多くの面で損をするものであります。クライアントは当然「問題」を抱えて来られるのでありますが、彼らの話を伺っていると、過去に於いて、その「問題」に取り組む絶好の機会があったということが分かるのであります。私もそのような経験をしましたし、ほとんどすべてのクライアントにそれが確認できるのであります。
 冒頭に挙げた男性クライアントには、今から10年くらい前に、それに取り組む絶好の機会が訪れていました。もしその時に彼がその「問題」に取り組んでいれば、今頃、彼は違った人生を歩んでいただろうにと思うのであります。それを先送りしたがために、彼は10年間それを抱えなければならなかったのであります。
 今になって彼はそれに取り組んでいるのですが、どうやらいい方向に向かう兆しが見え始めております。この10年間に多くの損失を彼は体験したのですが、それでも今取り組むことで、次の10年はもっと違ったものに、より望ましいものになっていくことでしょう。
 これをお読みのあなたは、人生で損をしていませんか。それとも、自分自身に取り組む絶好の機会が未だ訪れていないのでしょうか。

(寺戸順司)




平成24年2月の挨拶

 私は自分の一生を全うすることだけを望んでいます。人が自分の一生を生ききることほど価値のある仕事はないと捉えております。一生を全うするとは、私の中にあるより真実なものに触れていくことであり、その真実を少しでも実現化していくことであります。
また、この一生の中で、私は一人でも多くの人と出会いたいと願い、その人たちの力になり、またお互いに助け合い、共に生きていくことを望んでいます。それ以外に欲しいものは何もないのであります。
 人が生き辛いと感じるのは、その人がどこかでその人の真実の生き方をしていないからであります。私はどの人も内面に真実なものを有していると考えています。しかし、多くの人は、今の自分が真実の自分を生きているのか、周囲から期待された自分を生きているのか、そういう区別がつかないまま生きて、苦しんでいるのだと私は思うのです。カウンセリングに訪れるクライアントたちもそうなのであります。
 真実なものを有していながら、それが何一つ実現されていないのを発見する時、クライアントは自分のこれまでの生き方が間違っていたということを知るのです。これを知ることは苦しい体験です。そこで絶望してしまう人や以前の生き方に戻ってしまう人もあります。私はそのような人たちを非難するつもりはありません。自分の真実に従うことよりも、周囲の誰かの望む生き方をする方が、はるかに安全であり、安楽でもあるからです。自分の真実を知っていこうとする人や、真実のものをより良くしていこうとする人は、こういう苦しみは避けられないものであります。そして、苦悩から始めなければならないのであります。
「病者が自分をとりもどすには、そのまえに自分の地獄を通り抜けなければならない」(『臨床精神療法』ガエターノ・ベネデッティ著 小久保享郎・石福恒雄訳 みすず書房 p199より)。「悪いことから始めなければならないのは当然なのに、それをしようとする人はほとんどいない」(『パトゾフィー』ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼガー著 木村敏訳 みすず書房 p17より)。こういった言葉は事実であると、私は特にそう思うようになりました。

(文責:寺戸順司)





 平成24年3月の挨拶

 これをお読みのあなたは、「問題を解決する」とか「悩みを解消する」「障碍を克服する」「病を治癒する」とかいうような言葉をお聞きになられて、どのようなことをイメージされるでしょうか。最近、私は私がイメージするこれらの事柄とクライアントがイメージされていることの間には差異があるということに気づく機会に恵まれました。それをまずお話したいと思います。
 カウンセリングを受けると何かが達成されると信じておられる方も多いようですが、実際はその反対なのであります。クライアントに何かが始まるのであります。カウンセリングはクライアントに、ゴールに導くのではなく、新たなスタートを切らせるものであると私は捉えております。変化とか変容とかいうもの、あるいは「治療」というものはそういうものなのであります。クライアントの中で何かが終了するだけではなく、同時に新しい何かが始まっていくことなのであります。到達よりも開始のイメージが私にはあるのです。そして、どうもこのことがクライアントには理解され難いようだと最近思うようになりました。
 私はサルトルの人間観が好きであります。サルトルは「人間は未だあらぬものになり、もはやあらぬものになる」というような表現を繰り返ししています(『存在と無』より)が、人間の存在をそのようなものとして捉えているのであります。私はこれから私が達成していくであろう存在になっていき、今の存在はかつてあった私ということになり、このプロセスの流れを常に生きているものであると私は解釈しております。「私は私」という存在の在り方は、それはモノの在り方であって、人間の在り方ではないということなのであります。
 私たちは変化しつつある存在であります。もしある人に変化・変容が感じられないとすれば、その理由は三つあると思います。一つにはその変化が極めて小さいかゆっくりであるためです。もしくは、その人が自身に目を向けることがあまりに少なく、いかなる変化にも気づかずにいるかです。三つ目の可能性は、その人が「心の病」を抱えているかです。
「心の病」というものは、それがどのようなものであれ、それを体験している人の生を縮小し、停滞させるという傾向を有するものです。クライアントがそれを克服し始める時、クライアントの中で動き始めるものがあるのです。一方で、それは狭小であっても安定をもたらしていた世界から抜け出すことでもあるので、当人は少なからず動揺を体験されることもあり、苦しい思いもされるのであります。それでも、何かが動き始めた時、クライアントの中で何かが始まるのであります。
 これをお読みのあなたはカウンセリングを通じて、どのようなあなたを生き始めることでしょう。

(寺戸順司)





 平成24年4月の挨拶

 4月になりました。新生活を始める方も少なからずおられるでしょう。部分的に環境が変わるという方も多いでしょう。新しい人間関係を築くことになったり、環境の変化に適応しなければならなくなったりすることでしょう。
 慣れることや耐えることも時には必要なことです。でも、耐えるばかりで、何一つそこに満足や意義が見いだせないとなると、たとえそれが耐えることのできる苦難であっても、苦しくなることは避けられないでしょう。
 新生活や環境の変化から不調をきたしたというクライアントも少なからずおられますが、彼ら自身も何が苦しいのかよく分からないという訴えをなされるのです。仮に、これこれのことがしんどいというように訴えても、周囲からはなんでそれくらいのことが耐えられないのと言い返されるという体験を繰り返していることもあります。
 大きな障害が明確に把握できるケースはむしろ幸運な方です。ごく小さな障害に慢性的に曝されているというようなケースは、その問題が不明瞭になったり、誤解されることも多く、当人により多くの困惑をもたらすものだと思います。
 慢性的になるのは、それが耐えられる範囲内のものであったからです。額に水滴が一滴落ちたくらいは何ともないことです。しかし、絶え間なく水滴が額に垂らされ続けるとなると、その苦悩は一度に大水を浴びせかけられる以上の苦痛になるものなのです。慢性的に抱えてしまう人は、間違いなく、最初は耐えることができており、実際、耐えて来られていることが多いのです。
 しかし、矛盾があるとお考えになられた方もおられるでしょう。慢性的に苦悩している人は小さな忍耐を重ねていると言っておきながら、一方で耐えることも必要だと私が述べているからであります。
私の考えでは、慢性的に抱えてしまう人の忍耐は正しい忍耐ではないということなのです。このような人の忍耐は、その小さな苦痛に耐えるために、他の全てを犠牲にしてしまう耐え方なのです。そこから何一つとして満足や意義を見いだせないでいるのです。本当にその人を苦しめているのはその部分だと思います。何のために、誰のために耐えるのかはっきりしないのです。いわば耐えるために耐えているというような人たちなのです。
 これからそのような人たちをお会いすることも増えるでしょう。その人たちとともに、耐えるということ、状況と個人との関係などを考えていければと思っております。そして、その人たちと一緒に活路を切り開いていければと強く望んでおります。

(寺戸順司)




平成24年9月のご挨拶

 9月になりました。まだまだ厳しい暑さが続くことでしょう。これをお読みの皆様もその中で一日一日をしっかり生きておられることと思います。

 さて、先日、ある男性クライアントと面接後に少し話をしたのですが、彼は人間がみな孤独であるということが信じられないと言うのです。彼もまた自己の孤独に悩む一人でありました。彼からすると、このような孤独は彼を含め一部の人だけが体験するもののように思われ、それ以外の人たちはこういう孤独の苦しみとは無縁な幸福を体験しているように見えるのでしょう。
 彼から見るとそのように見えるということは理解できるのですが、私の個人的な見解では、やはり人間はすべて孤独なのだと思います。孤独といっても種類があるのですが、問題になるのは自己の空虚感として体験される孤独であります。望ましい孤独もあると私は考えますが、そうした区別はここでは脇に置いておきましょう。
 現代の日本人はやはり皆孤独であります。どこかで孤独を体験しているのではないかと思うのです。ただ、孤独でないように見えるだけであったり、その孤独を適切に表現する手段を有していなかったり、孤独なのに孤独ではないと演じたりしていることが多いのではないかと私は思うのです。
 ある人は際限のないお喋りやメールに従事します。他人のことや外側の事柄しかそこでは語られないのです。誰かと一緒に居ることは居るのですが、パーソナルな事柄には触れ合わない関係であったりします。
 またある女性は、自分がいかに忙しい人間であるかを示すために、予定で真っ黒けになったメモ帳を見せてくれました。彼女は何の予定もない空白の時間が生じるのを必死になって避けようとしているようでした。なぜなら、予定がないということは、自分の孤独を体験せざるを得ないことになり、尚且つ、自分が誰からも必要とされていない人間ではないかという不安を体験せざるを得なくなるからです。
 ある男性は、携帯電話に何百件というアドレスが登録されていることを自慢していました。彼にとって、これだけの人間とつながりがあるということは自慢に値することだったのです。彼はそれで自分がいかに孤立していない人間であるかを示したかったのかもしれません。このことは、彼が孤独を体験しているがために、自分は孤独ではないという確たる証拠を持ちたいということを示しているのかもしれません。
 ある女性は、彼女のブログに何も返信がなかったということでひどく傷ついていました。
 また、ある女性は、掲示板なんかに悩みを相談することが止められないでいました。回答がえられるかどうかは問題ではないのです。ただ、彼女の発信した事柄に対して、返答があるということが彼女の支えになっているようでした。
 ある女性は、自分がいかに苦労してきたか、どれだけの痛みに耐えてきたかということを周囲の人にいつも話すのです。周囲の人はそれで彼女のことを煙たがるようになったのですが、彼女はただ誰かに労りの言葉をかけて欲しかっただけなのかもしれません。
 ある女性は流行の音楽を聴き、話題の映画を観て、他の人たちも見ているドラマを欠かさず視聴していました。そういうことがしんどいと彼女は言いました。あることをやっていて、それがしんどく感じられるということは、それを好きでしているのではないということでもあるのでしょう。私がなぜそんな無理をしなければいけないのと尋ねると、彼女はそうしないと仲間についていけないからだと答えたのでした。言い換えれば、仲間外れになって、独りになってしまうことを彼女がどれだけ恐れているかを示しているのではないでしょうか。
 まだまだ例を挙げることはできますがこれくらいにしておきましょう。ここに挙げた人たちは特別な人ではありません。それにクライアントでもありません。私はわざとクライアント以外で私が出会った人たちの例を挙げたのです。自分は「心の病」とは無縁だと信じている人たちの言葉なのです。
 こういう人たちを見ても、私は人間がいかに孤独であるかを感じるのです。そしてその孤独を恐れ、その恐れが実現しないようにいかに必死になっているかも窺われるのです。そして、彼らが孤独を感じるのは、他の誰ともパーソナルな関係を築くことが困難だからであります。適切な自己表現を欠いていたり、不安があまりにも大きすぎて自己を語れなかったりするのです。そうして自分の恐れ、孤独をなんとかしてごまかそうとしているように私には思われるのです。恐れをごまかすことは時には必要なことかもしれませんが、その代り、彼らは誰とも親密になることができなかったりするのです。こうして、上辺だけの人間関係、なにもその人の中に蓄積されることのないような人間関係にしがみついている人たちがどれほどいることでしょう。
 カウンセリングがクライアントのそのような領域に関わることも多いのです。大半のクライアントがそうであると言ってもいいでしょう。適切に自己表現でき、望ましい関係を築き、お互いのパーソナルな部分でつながりあうような関係、私もまたそれらを達成することを目指しておりますし、いかにして人をそれらに導いて行けるか、まだまだ模索の日々が続きそうです。

(寺戸順司)




平成24年10月のご挨拶

 そこには初めは自然があったはずです。自然は自然の秩序があります。そこに人間が住みつき、人間の秩序を持ち込みます。都市はそこに持ち込まれた人間の秩序であります。計画的に区画整備され、秩序立づけられた都市は一つの人工美でもあると私は思います。
 都市に秩序があるとは言え、そこに住む我々は秩序的に出会いと別れを経験することはありません。一人の人間と出会うためには数多くの偶然が重ならなければならないのです。
 まず、私という人間が生まれていなければなりません。私という存在が生まれたのは偶然であります。私の原点だった精子は、他の一億個とも言われる多数の競争相手に先立って着卵したのです。ゴール直前で二番目の精子に追い抜かれていたとしたら、恐らく、もっと違った存在がこの世に誕生していたことでしょう。私が存在しているのは、わずかの偶然に左右されたものではないかと思うのです。
 出会うためには、同じようにあなたも生まれていなければなりません。あなたという人間が存在していなければならないのです。
 さらに、単にお互いが生まれただけではまだ不十分です。同時代に、同国の近隣にお互いがいなければなりません。さらに言えば、私の両親が出会っていること、あなたの両親も出会っていること、お互い移動しあう中で、偶然にも近い位置にいることなども関与してくるでしょう。
 このように考えると、一人の人間と一人の人間とが出会うということは、奇跡のような出来事ではないかと思うのです。天文学的な確立で出会うのではないかとさえ、私は思うのです。
 私が他者と出会う。この他者は都市においてすれ違う群衆のような存在ではありません。無名のその他大勢ではないのです。私は自分が存在していることを知っています。現に私がここにいることから、私は私の実存を体験することができます。しかし、私は常に誰かによって私の存在が承認される存在であります。この時、私は他者を必要とし、他者との出会いを強く希求することになるのです。このことは私だけでなく、あなたにも、他の人たちにも該当することであります。
 私という人間が承認され、私という人格を規定される時、その他者は私にとって意味のある他者になるのです。私は一人の人間として確かに存在しています。しかし、私が私という人間として在るためには、私を規定する多くの他者を必要とするのです。こうして、人は人との意味ある出会いを求めるのではないでしょうか。自分自身を認識し、自分自身を形成していくために。
 人間関係とは、お互いに双方のアイデンティティを形成していく関係のことだと思います。その関係の原点に出会いという人間的な現象があるのです。人間的な現象と述べたのは、これは機械的に秩序付けて実現できる現象ではないという意味を込めています。
 私もまたあなたと出会えることを望んでいます。意味のある出会いとなるかならないか、お互いに意味のある他者になるかならないか、私たちは双方が模索していかなければならないことでしょう。
 私もまた、一人の意味のある存在になるべく、試行錯誤している一人です。これを読んでいるあなたとも出会える日がいつか来ると信じて、今日を生きていこうと思います。

(寺戸順司)









コラム1~再開に向けて (約1100字)

 昨年、平成21年11月に、マイベストプロ大阪に登録させていただきました。私は、高槻カウンセリングセンター代表で、カウンセラーとして働いている寺戸順司と申します。

 マイベストプロでは、各方面のプロの方々にそれぞれページが与えられて、各自がそれに書きこめるようになっております。始めの頃は、私も週に一つはコラムを掲載しようと意気込んでいたのですが、昨年の暮れにちょっとしたトラブルが発生し、当初の目標を断念しました。
 そのトラブルというのは次のようなものであります。私がコラムを書きこんでいると、急に画面が変わり、インターネット上のページにアップできなくなったのであります。それは、今までやってきたやり方であり、これまではそのやり方でちゃんとアップできていたのです。担当の人に連絡をとり、状況を説明すると、「恐らく、セキュリティが働いたのでしょう」というお答えでした。
 セキュリティが働くのは、私の方ではなく、マイベストプロ側のシステムの設定によるものなので、私にはどうすることもできないのですが、その時、時間をかけて書きこんだ文章がすべて消えてしまったのです。それが一番困るのであります。どこかに残っていればいいのですが、どこにも残っておらず、打ち込んだ文章はすべて自動的に消去されてしまったのであります。
 それから、担当の人の話に基づいて、セキュリティが働く以前に書き終えようと試みてみました。ところが、一度セキュリティが働くと、短時間で働くようになるみたいなのです。担当の人の話では「ログインしてから三十分くらいで働く」ということだったのですが、二回目以降は十分程度でセキュリティとやらが働いてしまうようなのです。これではとても書いていられないということで、ここに書くことを一切断念した次第なのです。また、これ以上続けられないということであれば、それまでに書いた、二、三のコラムも宙に浮く感じがして恰好が悪いので、全て消去したのです。

 あれから四カ月以上経っており、その間に担当の方に訪問していただき、掲載できる手順を教えていただいております。マイベストプロの方々にはお手数をかけたことだろうと思い、感謝しております。
 せっかく、このようにページを用意していただき、私もこのページを利用して、多くの方々に私を知ってほしいと思っておりますし、また、多くの方々と出会いの機会となればと切に願っております。
 私自身が、他の業務で時間を取られてしまっていたために、長い中断となってしまいましたが、この文章が掲載でき、皆様に読んでいただけるようであれば、コラムを再開していく考えでおります。

(文責:寺戸 順司)





コラム2~私は「プロ」か (約1600字)

 昨年、マイベストプロのお話をいただいた時、それが新しい試みであるというところに私は強く惹かれました。既に出来上がってしまっているところに割り込むのではなく、スタート時点から関わりを持てるということが、私にはとても魅力的でした。
 本文の原稿は、ライターさんが取材に来て、その時の取材を基に書き起こしてくれたものであります。私のようなややこしい人間のことを上手に書いてくれたものだと思います。
 しかし、登録に関して、私は一つのことをマイベストプロ側に要求しました。それは、私には「プロ」という肩書を付けないで欲しいということでした。
 マイベストプロとしては、町の、さまざまなジャンルのプロを紹介するというモットーがあるために、登録者には全員「○○のプロ」という肩書がつくので、それを外すことはできないという返事をいただきました。それで、仕方なく、私の方が折れて、私は不本意ながら「プロ」の肩書を背負うことになりました。

 私は、どういうわけか、「プロ」とか「専門家(エキスパート)」といった言葉が苦手でありまして、「一流」とかいう言葉にも、嫌悪を持って反応してしまうのであります。私は、自分がそのような名称で呼ばれるに価しないことを、自分自身で分かっているのであります。
 私がカウンセリングをする。つまり一人のクライアントと面接をします。その度に、私は自分がカウンセラーとしての特別な才能も資質も持って生まれてきてはいないのだということを痛感するのであります。クライアントと別れた後、本当にこの面接がクライアントの役に立っただろうかと悩むことも多々あります。面接を録音させてもらった場合では、後で聞き直してみて、自分の鈍感さに腹が立つことも多く、どうしてその場で気づかなかったのだろうかと自分の不甲斐なさを繰り返し嘆く始末であります。
 一流の生き方をしているでもなく、専門家としてきちんと仕事をしたかと問われると、それもあやふやな感じがしてたまりません。私のような人間が、何かの「プロ」であると紹介されることも、おこがましいことのように思えてくるのであります。

 カウンセラーによっては、自分のことを「プロ・カウンセラー」と紹介している人もあります。それはそれで各々の個性や考え方があるから構わないのですが、私にはとても真似のできないことであります。
 そもそも、私の個人的な考えなのですが、カウンセリングの世界に、本当にプロやアマの違いがあるのだろうかと思うのです。そのような違いが本当にあるのだろうかということであります。
 カウンセリングの世界は奥が深くて、一生かかっても、ゴールにたどり着くこともなく、終了することもないプロセスであると、私自身は捉えています。カウンセリングに関しては、私たちは完成されることもなく、卒業することもないと思っています。従って、すべてのカウンセラーは未完成であり、学生なのであります。そこにあるのは、それに関わってきた期間の長さの違いだけなのではないだろうかと思われるのであります。プロやアマの違いがあるのではなく、長年カウンセリングに関わってきたか、駆け出しの新人かの違いだけなのではないかと思うのであります。

 そのようなわけなので、私に「プロ」の仕事を期待されると、がっかりされるかもしれません。私は、カウンセラーとしても完璧ではないし、人間としてもそれほど優れているとは思いません。ごく普通の一人の人間であります。一人の人間として生きていればそれで十分でありますし、それ以上のものを望む必要はないと考えております。
 クライアントによっては、私に神がかりな力を期待されている人もあります。そのようなクライアントは、私の面接を受けてさぞかし失望されることでしょう。
(文責:寺戸順司)






コラム3~「愛することと働くこと」 (約2000字)

 本文中で「愛することと働くこと」に言及している箇所がありますが、そこは訂正が必要なので、この場を借りて訂正したいと思います。
 本文ではそれが「心の病」の原因であるみたいに書かれているのですが、それはライターさんの勘違いなのであります。私が述べたのは、「心の病」というのは「愛することと働くこと」において顕在化するということだったのです。ライターさんはそれを「原因」であるというように捉えたのでした。
 第三者に書いてもらうと、このような箇所が必ず出てくるものでありまして、やはり、自分の述べることは自分自身で文章化する方がいいと、あらためて思うのであります。

 さて、この「愛することと働くこと」という言葉が生まれた場面が伝えられています。それはフロイトを中心とした精神分析家のグループにおいて、弟子の一人がフロイトに「健康な大人の条件とは何か」といった質問をしたのでした。フロイトはしばらく考えて、「愛することと働くこと」(Lieben und  Arbeiten)と答えたのであります。高尚な答えを期待していた弟子の中には、この答えに失望したというような逸話も残っております。しかしながら、私が思うには、これほど的確な答えはないのでした。むしろ、毎日患者を診ているからこそ生まれた言葉であると、私は捉えております。
 繰り返しますが、これが「心の病」の原因ではありません。「心の病」の原因というのは、実はよく分からないのであります。というのは、「心の病」に関しては、原因と結果が一対一の関係で成立するというようなことがあり得ないからであります。従って、これがあったためにこういう「心の病」に罹ったというようには言えないのであります。いろんな要因が絡んで「心の病」という現象につながっているものであります。

 さて、ある人が「心の病」であるかどうかということは、見た目ではまず分からないものであります。その人が、愛情生活・愛情関係において、あるいは労働生活において、困難を示している時に初めてそれが分かるのであります。「心の病」は「愛することと働くこと」の領域において、初めて表に現れることが多いのであります。
 フロイトの表現が的確であるのは正にこの点であります。もし、「愛することと働くこと」の領域において、その人が問題なく適応しているとするならば、その人には治療が必要なほどの「心の病」を抱えていないということになるからであります。そうであるならば、弟子の質問に対してフロイトは、これ以上の回答は望めないほどの、優れた回答をしているということになります。
 もう少し正確に述べるなら、「愛することと働くこと」の領域で困難が生じているということは、その人の心に何か障害があるということになるのです。しかし、だからと言って、何がなんでもこの領域で適応するために努力をする必要があるというのも正しくはないのであります。むしろ、健康な自我、健全な自己愛、しっかりしたアイデンティティ感覚を身につけている人は、「愛することと働くこと」の領域に自然に入って行くことができるのであります。無理矢理にでも適応しようとしている人は、どこかに「心の病」を抱えている可能性があるわけです。

 私自身が、「愛することと働くこと」という、この言葉の素晴らしさを実感したのはいつのことだったか、正確には覚えておりません。しかし、こういう領域に注意してクライアントの話に耳を傾けていくと、クライアントのことがとてもよく理解できるような感じを受けたのを覚えております。
「愛することと働くこと」というのは、私自身の使いなれた言葉に翻訳するなら、「イロ」と「カネ」のことなのであります。
「ひきこもり」の傾向のある男性クライアントがいました。面接において、彼は自分の哲学や彼が考えたストーリーとか、好きなアニメ・キャラクターのことなどを話しました。正直に申し上げれば、私には彼の話がさっぱりわからないで困っていました。ところが、彼が少しでも「イロ」か「カネ」に関する事柄を洩らした時には、必ずそこに介入して話を広げるようにしてみました。そのような話し合いをした時は、とても話が深まって行ったという経験をしたことがあります。それ以来、「イロ」と「カネ」は私にとっては重要なキーワードになっているのであります。

 実際、愛情生活の領域と労働生活の領域というのは、それだけで私たちの生活の大半を占める大きな領域であります。それ以外の領域というのは、本当にわずかなものでしかありません。それだけ広大で、かつ価値のある領域であるからこそ、人はそこでさまざまな問題を体験してしまうのだと述べることもできるでしょう。そして、この領域で適応するということは、その人の人生を価値あるものにしていくことにつながるであろうと、私自身は捉えております。

(文責:寺戸順司)






コラム5~「先生はどんな人ですか」 (約3400字)
「先生はどんな人ですか」「どういう人がされているのですか」
 時々、このような問い合わせをされる方がおられて、私は非常に困惑するのです。まず、こうした問いは、問いの内容があまりにも漠然過ぎるのであります。私の何を知りたいと思っているのか、私の経歴なのか、専門なのか、依って立つ学問的立場なのか、あるいは私の性格や思考様式なのか、また、そういうことを知ってどうするつもりなのかといったことが私にはまったく見えてこないのであります。だから、どうにも答えようがないのであります。
 私がどんな人間であるか、それは私自身知りたいと思っています。また、私がどんな人間なのかということは、おそらく私が生涯を通じて追及していくことになるテーマであります。従って、私がどのような人間であるかということを、現時点で述べることは不可能でありますし、私はそれをあなたに伝える言葉を知りません。私は自分がどんな人間であるかを自ら主張することはできません。また、私がどんな人間であるかということは、私の周囲の人たちによって決まってくるという要素もあることでしょう。

 私がどんな人間かと問われれば、私は「ごく普通の一人の人間です」とでも答えるでしょう。この「一人の人間である」という点はとても重要なことであると私は捉えております。私が「一人の人間」であるということは、私が「神」でも「救世主」でもないということを明言しているのでもあります。
 臨床家にしろ、医師や弁護士にしろ、あるいは福祉関係の職に就いている人たち、つまり人を援助する仕事をしている人は、自分が一人の人間であるということを特に忘れてはならないと、私は考えております。私も経験があるのですが、人を援助する仕事は、人から頼られ、ありがたがれ、尊敬されることもあれば、感謝されることもありまして、そういう体験を積むと、自分が一廉の人間であるかのような錯覚を起こすのです。自分がとても有能で、素晴らしい人間であるかのように思えてくるのであります。もし、私が「一人の人間である」ということを忘れてしまったとしたら、私は錯覚の方の自分を生きることになるのであります。

 時にクライアントは、臨床家に「神」がかりなものを求めてきます。臨床家がクライアントの期待に応えてしまって、本当に「神」になってしまうような人もあります。自分が「一人の人間である」ということを、この臨床家は見失っているのであります。
 私の知っているカウンセラーにもそういう傾向の強い人がありました。その人は「万能感」に支配されていました。たくさんのクライアントに対して、あたかも「私が治してあげました」と言わんばかりの人でした。そのような感覚に陥ると、「私だけが優れて」おり、心を病む人は「私が治してあげなければいけない、劣った人たち」という立場として捉えられてしまうことでしょう。これこそ「神」と同一視している人の感覚ではないだろうかと思います。
 しかし、私はこういう心理は「思い上がり」でしかないと捉えています。思い上がりというのは、その名の通り、思いだけが上に到達しているのであります。頂上に達していないのに、頂上に到達したと思い込んでいるのであります。
 自分が一人の人間であるということを忘れて、他人を援助しようとしている人たちには、こういう思い上がりのような心理が共通して見られるというように、私には思われるのであります。

 ところで、数か月前、私は一人の女性のクライアントを失いました。最後の面接の際に、彼女は冊子のようなパンフレットを私に差し出しました。そこには「あらゆる病を癒すパワーを身に付けた」というような人が紹介されていました。彼女はその人の治療をうけるつもりだと言いました。それで、私とのカウンセリングも今回限りにするということを彼女は述べたのであります。
「あなたにもその冊子を差し上げるからよく読むように」と彼女は言いました。彼女は「私が治らないのはあなたのせいです」と言わんばかりの態度で、私にそれを差し出したのです。私はそれを拒否することもできました。しかし、拒否するとこの人は手に負えなくなるということも分かっていましたので、取り敢えずは手に取り、パラパラとページを繰って、それ以上は読みませんでした。私の最初の感想は、「実にくだらない」というものでしたが、彼女はその「素晴らしい人」を見習ってくださいと私に言いました。私は「それは私が決めることで、あなたが決めることではありませんよね」と返しましたが、案の定、彼女は激しく怒って、部屋から出ていきました。彼女の好きにすればいいと、私もその時は感じていました。そして、どこか彼女に呆れていたのであります。なぜなら、彼女は以前にもそういう「素晴らしい人」の治療を受けており、それでひどい状態に陥った過去があったにも関わらず、再び同じことをしようとしているからでした。

 今回、こういうことを書きたくなったのも、その女性クライアントの件があったからでした。不思議な「パワー」や「エネルギー」や「気」を発見し、身につけ、それによってあらゆる病気が治せるなどと言う人は、私には自己愛の病理を抱えている人のように思われます。
 自分がそのようなエネルギーを発見したと彼らは主張するのでありますが、もしそのようなエネルギーが本当にあるとして、既に誰かがそれを発見しているかもしれないという発想をこの人たちはしていないのであります。人間に関しては、そんなに新発見の事柄がそうそう出てくることはないだろうと私は考えておりますので、もし、そのような素晴らしいパワーが存在するなら、既に発見されており、活用されていなければおかしいと思うのであります。
 また、そのようなエネルギーによって人を癒しているなどと彼らは述べるのであります。病気を治すのはあくまでも「自分」であり「自分の力」であって、病者は「自分」の力を必要としている無力な存在とでもみなしているかのようであります。これもまた、思い上がりであります。

 私は極めて現実的であり、かつ平々凡々な一人の人間でありますので、彼らのような素晴らしいパワーなど持ち合わせてはおりません。彼らは、なるほど、確かに素晴らしいパワーを身につけているのかもしれません。しかし、優れたパワーを有しているからといって、その人が人間として優れているということの証明にはなりません。ここは勘違いしてはいけないところであると、私は考えております。その女性クライアントは、私にこの人を見習ってくださいということを辛辣な口調で伝えてきたのですが、私はこの人を見習うつもりなどまったくありませんでした。私が追い求めているものが、基本的にこの人とは違うのであります。彼はパワーを身につけ、それで他人を癒してあげているのだということに価値を置いているようでしたが、私はあくまでも一人の人間となることを目指しているのでありまして、見習おうにも、彼とはまったく違った世界に生きているのであります。
 素晴らしいパワーを身に付けた「治療者」にとって、「患者」が「病」と格闘してきた歴史など眼中にないのでしょう。「患者」が自分の病を克服するために払った努力など無視しているようにしか私には思えないのであります。彼からすると、「私と出会わなかったばかりに患者は苦しんできたのだ」ということになるでしょう。彼は万病を癒す「救世主」のような「癒し手」であり、「患者」は彼のパワーを知らなかったばかりに苦しんできた無知で無力な人となるでしょう。「患者」は彼に平伏し、彼のパワーを請い願う哀れな存在として自己を体験することになるかもしれません。しかし、そんなことは彼にはどうでもいいことなのでしょうけれど。
 もし、私がこの先、何かそういうパワーを発見し、身につけ、それによってどんな人でも治してみせるなどと豪語するようになったとしたら、迷わず精神病院に入るつもりでおります。もし、そうなったとしたら、そこで一生を終えても構わないと考えております。もし、あらゆる病気を私のパワーで治してあげるなどと、私が真剣に取り組むようになったとしたら、私という人間など、初めからこの世に生まれてこなかった方が良かったのであります。
(文責:寺戸順司)






コラム8~「一人で悩まないで」考 (約3400字)

 これまで、何度か広告会社に広告を作ってもらった経験があるのですが、彼らは決まって「一人で悩まないで」といった文章を載せようとするのであります。私にとっては、それは困ったもので、広告会社の人にはもっと想像力を働かせてほしいものだといつも思うのであります。

 さて、この「一人で悩まないで」という文句ですが、私にはとても問題の多い文句であるように思われるのであります。
 まず、この文章の何が拙いのかと申しますと、これが「~しないで」という禁止の文句になっていることであります。しかも、音声の伴わない文章なので、これが「~しないでほしい」という依頼のニュアンスなのか、「~するな」という命令のニュアンスなのかが不明確なのであります。
 従って、「一人で悩まないで」という文章は、否定の命令で、しかも禁止の意味合いが濃いということであります。従って、とてもきつい文章、厳しいメッセージを伝えているように、私には思われてならないのであります。これなら、まだ「一人で悩んでいませんか?」などの方がましであります。
 ところで、人は一人で悩んではいけないのでしょうか。一人で悩むということは、それほど禁じられなければならないことなのでしょうか。私はそうは思いません。それに、クライアントというのは、必ずと言っていいほど、最初は一人で悩むものであります。
 広告会社の人は、クライアントが内気であるからとか、勇気がないからとか、恥ずかしがっているからといった理由のために一人で悩んでしまうのだというように捉えているのではないかと思います。しかし、実際はそうではなくて、一人で悩むというその行為そのものが、クライアントの問題の何かを反映しているものであります。つまり、クライアントは自分の抱える問題の一環として、その一つの現れとして、一人で悩むということをしてしまうのであります。広告会社の人は、専門家でないから仕方がないのですが、そのような発想をしていないのであります。
 以下、クライアントが一人で悩み、問題を一人で抱えてしまう幾つかの理由、背景を述べていくことにします。もちろん、これは私の個人的見解であるということを、初めにお断りしておきます。

(A)異常意識に襲われている。
 異常意識というのは、「自分に理解できないこと、あり得ないようなことが起きている」という意識のことであります。この意識に囚われてしまうと、自分の問題をそう簡単には人に話せなくなってしまうものであります。ちょうど『息の喪失』の主人公が体験したことのように、その人はそれを一人で抱え、自分一人の秘密にしておかなければならなくなってしまうのであります。そのために、その人は一人で悩まざるを得なくなってしまうのであります。

(B)傷つきと不信感
 実は、クライアントはカウンセリングに訪れる前に、何らかの形で自分の悩みを誰かに相談するという経験をしていることが多いのであります。それは家族だったり、上司や教師だったり、占い師だったりするのであります。その時にひどく傷ついたという体験をしてしまって、そのために相談相手のことを信頼できないというようなことが時々起こるのであります。そうなると、次はそう簡単には人に相談しようとはしなくなるのであります。そして、一人で悩まざるを得なくなるわけであります。

(C)相談するということがその人の何かを損ねてしまう。
 誰かに自分のことを相談するということが、その人の内面の何かを損ねてしまうように体験してしまう人もあります。多くは敗北感のような感情でありまして、他人に相談することが自分自身に対する敗北をもたらすかのように思いこんでいるのであります。このような人は少々「自己愛」の強い人であり、「万能感」に支配されている人ほどこのことがより多く確認されるように思います。
 自分のことはすべて自分で何とかしなければならない、且つ、それができると信じている人は、自分が万能であるという感覚を持ち合わしているということであります。だから自分が他人に依存したり依頼したりといったことをすると、自分の万能な自己像が脅かされるような体験となってしまうのであります。このような人は誰かに相談するという行為そのものが、彼を傷つけてしまうのであります。従って、彼は一人で悩まなくてはならなくなるのであります。

(D)カウンセリングを「処罰」の場と捉えてしまう
 これはカウンセリングを受けることに関しての恐れがある人たちのことでありまして、その恐れは「処罰される」という色彩が濃いものであります。
 現実にカウンセリングを受けに来られた方でも、「今日はカウンセラーからどんなことを言われるのかと思ってビクビクしていました」とおっしゃられる方もあります。詳しく尋ねていきますと、その「どんなこと」の内容が、例えば自分の弱点を突っ込まれるのではないかとか、自分の間違いを責められるのではないか、といった内容であることが明確になるのです。私が「あなたは私から責められてしまうのではないかと心配だったのですね」と述べますと、「確かにその通りだった」と彼は納得されるのであります。まるで、叱られるということが火を見るよりも明らかなのに、それでも先生の所へ行かなくてはならない子供のようであります。しかし、振り返ってみると、彼が恐れていたようなことが起きていないということが、私にも彼にもはっきり分かるのであります。そして、それはとても不自然な恐れであったということが納得できるのであります。
 相談するということに恐れがある人は、必然的に一人で悩まざるを得なくなるわけであります。処罰されることへの恐れがある人は、その他の面においても処罰される恐れを抱く傾向があり、その人の抱えている問題ともそれが密接に関わっているものであります。

(E)決断ができない人
 これは相談するかどうかが決められない人のことであります。決断ができないのであります。確かに、人間はそれが重要であればあるほど、もしくは、それが自分のプライバシーに関わっていればいるほど、決断をするのが難しくなるという傾向があるとは思います。しかし、それだけではないという人もおられます。
 自分の何かを決断するためには、その人の中にしっかりとした自分の「核」のようなものが育っていなければなりません。私は「核」という言葉を用いるのですが、人によっては「自己」という言葉を用いておられます。言葉の違いはどうあれ、述べていることに違いはありません。その「核」が弱いために、その人はいかなる決断も回避しなければならなくなってしまうのであります。
 決断ができない人は、やはり必然的に一人で悩みを抱えてしまわざるを得ないわけであります。広告会社の人がイメージするのはこのような人たちではないかと私は捉えています。と言うのは、「一人で悩まないで」という文章は、決断ができない人に対して決断を促すようなメッセージを伝えていることになるからであります。しかしながら、決断ができないということがどういうことなのかを広告会社の人たちはイメージしていないようであります。決断とは、何かをするということを決断するのではなくて、何かをすると決断することを決断するのだ、そのようなことをキルケゴールだったかが述べていたように記憶するのですが、決断できない人には決断以前のものが問題になっているかもしれないという発想がないのであります。

 人が一人で悩みを抱えてしまう背景にはもっとさまざまなものがあることでしょう。分量の関係もあり、ここではこれ以上取り上げないことにします。
 広告会社の人たちに文句をつけるつもりはありませんし、「じゃあ、どういうことを書けばいいのだ」と問われると、私もいい案が浮かばないので困っているのであります。
 少なくとも言えることは、「一人で悩まないで」という言葉が、いかに悩みを抱えている人の心情にそぐわないものであるかということが分かるのであります。この言葉は、真剣に悩みを抱えている人にとっては、とても薄っぺらな言葉として響くのではないかと私は思います。

(文責:寺戸順司)





コラム11~誰の何が問題? (約2400字)

 他人の会話を盗み聞きするというのは、私の趣味の一つであります。駅や電車の中、飲食店などにおいて、気になる言葉が発せられると、私はそれに耳を傾けてしまい、彼らの会話を聴いてしまうのであります。それは趣味というよりも、病気のようなものであります。しかも、まったく聞いていないかのように、あたかも彼らに関心がないかのように装いながら、しっかり傾聴し、観察しなければならないので、なかなか技術を要する趣味(病気)であります。
 先日、とある居酒屋さんで、私が一人で飲んでおりますと、すぐ近くの席で怒っている声が聞こえてきました。それとなく見てみますと、そこには二人の男性会社員が対坐しておりまして、怒っている方は四十前後、怒られている方は二十代前半くらいの人でした。明らかに上司と部下の関係であることが分かります。
 さて、この上司の方は、若い部下に、「新しいスーツを買え」などと怒っているのであります。私はトイレに立つフリをしながら、この若い男性社員の服装を見てみましたが、特におかしいとか乱れているとかいうようなことはありませんでした。なかなかしっかりしたスーツを着こなしていました。
 上司の方は、部下を叱り続けています。「新しい服を買え。金がないのか」などと迫ります。部下の方は黙々と上司の怒りの言葉を聞いていました。彼は反論するでもなく、上司に同意するでもなく、黙々とその場に佇み、ビールを飲んでいました。上司はそれ以外の事でもその部下を厳しく叱ります。部下の方は、相変わらず、黙々とビールを飲んでいます。上司はついに匙を投げたのか、部下を連れて店を出ました。
 ここにその一言一句を掲載することができれば面白かったのですが、そういうわけにもいきません。私が感じたことは、明らかに、この口論は上司の負けでありました。彼は、スーツを新調することが部下にどのような利益をもたらすかということを明示することができませんでした。ただ、新しいのを買えと迫るだけだったのであります。
 ところで、この議論、毎日同じスーツを着ている部下に問題があるのか、そういう部下を問題だと捉えている上司に問題があるのか、とても不明瞭であります。実は、人間関係にはこのような誰の問題であるかがはっきりしない問題というのがよくあるのであります。

 私がよく経験するのは、上司や教師とか親など、その人よりも権威のある人から「君はもっとこんな風になった方がいい」などと言われてしまい、そのことで悩んで、彼らの言うとおりの人間に変わろうとして、カウンセリングを受けに来る人たちであります。
 ある男性は「自分は社交的ではないので、それを改善したい」と訴えてカウンセリングを受けに来ました。私は「あなたが社交的ではないというのは誰がそう言ってるの?」と、話し合いの途中で彼に質問しました。彼は「上司がそう言うのです」と答えました。彼の話によると、飲み会か何かの場で、上司が彼に「君はもっと社交的になった方がいいよ」と言ったそうであります。彼にはその上司の言葉はとても意外なものでありました。彼自身は、自分は特に社交的ではないかもしれないけれど、それほど非社交的でもないというように自分自身を捉えていたのでした。しかし、上司の一言は彼の自己像に疑問を投げかけることになってしまったのでした。
 彼が社交的かそうでないかは実は問題ではありませんでした。彼が社交的ではないというのは、その上司の視点であって、その上司の見方がそのまま彼に持ち込まれてしまって、それが自分を見る見方になってしまっているということの方が問題だったのであります。分かりやすく言えば、彼が非社交的であると見ている上司の側の問題が、彼自身の問題になってしまっているということであります。実際、上司のその言葉を受けるまでは、そのことは彼には何ら問題にはなっていなかったのであります。
 また、ある母親は「うちの子供に問題があって、一度見てやってほしい」と訴え、子供をカウンセリングに行かせると言いました。私は、お母さんが子供の予約を取るのではなく、子供に自分で予約を取ってほしいと頼みました。いまだにその子供からの予約の電話はありません。ここでも、子供に問題があるのか、子供に問題があると見ている母親に問題があるのかということは明確ではありません。社交的になった方がいいと上司に言われたクライアントは、実際に面接を受けることで上司のいいなりになったのですが、この子供は少なくとも母親の言うとおりには動きませんでした。この母子の対決は、子供の勝ちでありました。

 人間関係というのは複雑で、それが誰の問題であるか、誰にとっての問題であるかがはっきりしないことも多く、それは自分の考えや物の見方なのか、誰かの考えや物の見方なのかということも一つ一つ確認していかなければ見えてこないものもたくさんあります。人が人間関係に悩むのは、人間関係で生じるこういった複雑な交錯がもたらす混乱が絡んでいるということは確実であります。一つ一つ解きほぐすには、自分一人では難しいものであります。なぜなら、その人は既に、何が最初から自分にあったもので、何が後から他人によってもたらされたものであるかが不明確になってしまっているからであります。

 さて、居酒屋で見聞した二人のことに戻りましょう。部下に問題があるのか、部下に問題があるとみなしている上司に問題があるのか、それは分からないまま終わりました。ただ、この勝負は部下の方が勝ったということであります。それ以外のことは何一つ確実にはできませんでした。しかし、一つだけ確実に言えることは、この二人の会話を楽しんで盗み聞きしている私に問題があるということであります。

(文責:寺戸順司)





コラム12~理解の三段階 (約2700字)

 もしピアノという楽器を知らない人に対して、ピアノを理解してもらおうとするならば、あなたならどうするでしょうか。
 それには三つの方法があると私は考えております。
まず、ピアノの構造を説明し、どのようなメカニズムで音を出すかを説明するやり方であります。また、ピアノの形態を図説したり、ピアノの歴史を講義することによっても、相手には何らかのピアノの理解がもたらされることでしょう。つまり、言葉によって、概念的に説明する方法であります。
 次に、映像や演奏を視聴してもらうことでその人にピアノを知ってもらうという方法があります。これは現実に見ることになるので、こちらの説明は不要なうえ、その人にとっても言葉を重ねられるよりかはずっと理解しやすい方法でありましょう。これは現実に見てもらう、例示するという方法であります。
 最後に、実際にその人をピアノの前に座らせて、彼に音を出してもらうという方法があります。これは実際に体験して理解する方法であります。
 何かを理解するという場合、このような三つの段階、方法があると私は考えているのです。何かを理解するためにはどの段階も必要でありますが、特に三つ目の段階は本当にそれを理解するうえで不可欠なものであります。「分かる」という場合、実際にそれを体験するということが絶対に必要になってくるのであります。
 私も趣味でピアノを弾きます。それはキーボードと電子ピアノなのですが、時間がある時などに弾きます。私の腕前はというと、何の曲を演奏しているのかは演奏している当人にしか分からないという程度であります。そのような私ですが、ある時、偶然にも本物のピアノを触る機会がありました。本物のピアノはもっと繊細な力加減が要求される楽器であり、音にはもっと深さと透明感があり、心地よい余韻をもたらす楽器であることを、私は初めて知りました。それはこれまで私が弾いていたようなものとはまったく違う楽器なのだということを実感しました。つまり、本物のピアノに触れるまで、私はピアノを知らなかったのであります。その代替物を通して知っていると思い込んでいただけなのでありました。現実に体験したことによって、私は初めてピアノを理解したのでした。
 あなたは問いたくなるかもしれません。「それじゃあ、フランスを知るためにはフランスで生活しなければならないということなのか」と。私は「そうです」と答えます。私たちはフランスという国について、その地理や歴史、言葉を学ぶことはできます。しかし、それはフランスという国を知ったということには、本当の意味で知ったということにはならないのであります。
 私たちが学校で学ぶことは、そのほとんどが一つ目か二つ目の段階で終わるのであります。そして、人間が一生の間に体験できる事柄にも限界があります。従って、私たちはこの世のことを、ほとんど何も本当には理解せずに一生を終えてしまうのであります。私はそう考えております。あるテレビのクイズ番組で、回答者がとても難しい漢字の読み方を答えて周囲から称賛されている場面を見たことがありますが、なんと無意味な知識であるかと、私は呆れたことがあります。その回答者は「物知り」ということになるのでしょうが、実は人間が一生の間で本当に理解できることはごく限られたものにしか過ぎず、「物知り」も「物不知り」もそんなに違いはないものだと思います。

 どうしてこのようなことを述べているのかと言いますと、カウンセリングを知らない人に、私のカウンセリングをどうやってわかってもらうかということに随分悩んでいるからであります。カウンセリングとは、基本的に二人の人間のやりとりであります。このやりとりを双方が意味のあるものとして体験しているのであります。しかし、どうやってそのことを伝えればいいのか、私はいつも暗中模索しているような気分であります。
 カウンセリングの場面を実際に公開して見てもらう(第二段階目の方法)としても、やはり、そこには伝えられないものがあるのです。
 仮に、次のようなやりとりを見てみましょう。Cはクライアントで、Tはカウンセラー(セラピストのT)であります。実際の面接場面でなされた会話を基に、クライアントが特定できないような脚色を若干加えてあります。

C「今日、電車に乗っていると、また、気分が」
T「また、不安になって」
C「気が遠くなるような、息が詰まる感じで」
T「だから、何とかしなくちゃと慌てて息を吸いこもうとしたのね」
C「それで苦しくなっちゃって」
T「心臓もドキドキして」
C「それで倒れそうになったけれど」
T「なんとか踏みとどまって」
C「途中の駅で降りて、トイレに駆け込んで」
T「一息ついて」
C「それで今日、ここまで来たんです」

 このクライアントは不安がとても強い女性でした。実際にこういうやりとりがあったのですが、このやりとりは第三者には何の意味も感じられないことだろうと思います。
 見た限りでは、クライアントが体験したことを単に描写しているように見えるのですが、よく見ると、二人で一つの文章、状況描写を作っているということが分かります。この時、おそらく、クライアントは一体感を感じているはずであり、支えられているという体験をしているものと推測できるのであります。私自身、この時は波長が合っているという感覚を実感しておりました。彼女は、一人で苦手な電車に乗ってここまで来たのですが、このやりとりをしている時、彼女は一人ではなくなっているわけであります。この体験が、現実に彼女の安心感を回復させていったのであります。
 このやりとりは、第三者から見ると何の意味もありませんが、この場にいた私と彼女自身にとってはとても意味がある話し合いだったわけであります。そして、第三者から見て意味があるかどうかということは、カウンセリングではまったく関係がないのであります。ただ、そのクライアントにとって意味のある体験をすればいいのであります。

 理解してもらうには三つの段階、方法があると最初にお話ししました。文章で伝えることができるのは、二つ目の段階までであります。「カウンセリングってどんなことをするの?」と問われる方に対しては、私が伝えることができることには限界があるということも理解していただきたいと願います。それでも知りたいと思われる方は、どうか三段階目までふみ出してほしいと、つまり、現実にカウンセリングを受けに来て体験するということをしてほしいと願うのであります。

(文責:寺戸順司)






コラム16~離婚(1):Aさんの事例:カウンセリングを受けるまで (約3000字)

 カウンセリングを受けに来た一人の男性がいました。仮に、ここではAさんとしておきます。
 Aさんは結婚しており、その夫婦生活は極めて円満でした。最初の頃は、胸を躍らせて、妻の待つ家に帰っていたのでした。その生活はとても充実しており、仕事もやりがいをもってこなしていました。
 結婚生活も数年経つと、何かが変わってきたことに彼は気づきました。彼には日に日に妻のことが煩わしく感じられてきたのでした。妻の言動が時々神経に触るようになっていたのです。彼は、その頃は、これはちょっとした倦怠期だろうくらいに受け止めており、時間が経てばまた以前のような関係、以前のような生活に戻れるだろうと考えていました。
 しかし、彼の期待とは裏腹に、状態はますますひどくなってきました。かつては胸躍らせて妻の待つ家に帰っていた彼が、今では、家に帰るのを何とかして遅らせようとするようになったのでした。特に急ぎの仕事でもないのに残業をしたり、用もなくだらだらと会社に残ることもありました。会社帰りに寄り道することも増えました。これはかつての彼では考えられないことでした。それでも家に帰らなくてはなりません。家に帰っても、妻との会話は減っていき、些細なことでケンカになり、彼にとって妻の言動はますます耐えがたいものに感じられてきたのでした。
 こうして彼は、家庭では憂うつな気分に襲われ、生活からは活気が失せ、火が消えたように消沈した日々を送るようになったのでした。気分は落ち込み、食欲も減退し、睡眠も十分に取れなくなっていきました。会社では、仕事に集中できず、小さなミスを繰り返すようになり、成績も下がってきました。
 以前よりも状態が悪化している。彼はそう実感しました。もはや時間が経てば回復するだろうという楽観的な期待をすることはできませんでした。彼はすがるような思いで精神科を受診しました。その時の診断は「軽いうつ病」ということで、薬を処方されました。
 薬は彼にはよく効いたようでした。集中力が増し、食欲や睡眠を取り戻していったのでした。しかし、その一方で、妻に対してはますます耐えられないほどの怒りの感情を覚えるようになったのです。今では、妻の一挙手一投足がすべて彼の神経に障り、妻のことに関してはいつもイライラしていました。
 この頃、会社の女性とお喋りすることが増え、それは彼にとっては久しぶりに女性との会話を楽しんだ経験となったのでした。こういうことは結婚当初の彼からは想像もつかないことでした。結婚した頃は、他の女性と会話することは、妻に対して罪悪感のようなものを感じていたと彼は述べました。それが、今では、他の女性と話すことは楽しみであり、新鮮な体験ですらあったのでした。
 家庭ではますます口論が激しくなり、夫婦の関係は完全に冷えきってしまいました。そこにはお互いに対する愛情も思いやりもないということが、お互いに分かっていたようでした。それでも夫婦関係を維持しなければいけないと思い込んでいたのは、子供のためでした。彼は言いました。もし子供がいなければもっと早く離婚していただろうと。
 彼がカウンセリングを受けに来た時は、さらに状況は悪化していて、家庭は崩壊寸前というところまで来ていました。「同じ男性だからわかってくれるだろう」と思って、私に会いに来たと、彼は述べました。この時点では、まだ離婚はしていませんでした。

(「病」の背後にある夫婦関係の「問題」)
 ここまでAさんがカウンセリングを受けに来るまでの経過を見てきました。これは彼がカウンセリングの中で語ったことを私が時間順に再構成したものであります。上記のようないきさつは数回に渡って語られてきたものでした。もちろん、その間には他に多くのエピソードが語られているのですが、必要な話のみを取り上げているのであります。
 さて、事例を先に進める前に、ここまでの所で重要と思うポイントを述べていくことにします。
 まず、結婚して数年目に、彼は夫婦生活に変化が見られたことに気づいていました。彼はそれを倦怠期に入ったのだろうと考えました。彼は自分が体験している変化を過小評価していたと言えます。本当はこの時期にカウンセリングを受けるなり、何らかの対処をすることができたのですが、彼はそれを大したことはないとみなして、そのままにしてしまったのであります。
 その後は、先述したとおり、状況はますます悪化していきました。このことはAさんだけに該当するわけではありません。カウンセリングを受けに来た人の話を聞いていますと、自分の状況に対してAさんがしたような過小評価をしてしまって、どうにもならない状況に追い込まれて初めて援助を求めるという例が本当に多いのであります。自分の後退や生活に変化が見られたにも関わらず、それを大したことはないとみなしたり、そのうち良くなるというように考えたり、時にはそうした変化に気づかなかったり、見過ごしてしまったりする人もあります。これらはみな自分自身の変化や状況を過小評価していることになるのであります。
 彼にもそういうことが起きていました。早い段階で援助を求めていれば、自体はもっと違った展開になっていたことでしょう。
 彼はまず、心身の状態が不調であるということを訴えて、お医者さんにかかったのです。お医者さんは彼を診察して「軽いうつ病」と診断しました。この診断は間違ってはいないのですが、私は個人的な見解として「うつ病」と「うつ状態」ということの区別をもう少しつける方がいいのではいかと考えています。Aさんの場合は、「うつ病」として診断するより、「うつ状態」と診断する方が適切であると思います。
 医者から処方された薬はAさんにとてもよく効きました。彼は以前の集中力が回復し、生活習慣を取り戻したのでした。しかし、困ったことに、妻に対する怒りの感情や不平不満が噴き出すようになったのです。こうした感情を彼は表に出さないように努めていたということがこのことから推察されるのであります。この感情を表に表さないということは、彼に莫大なエネルギーを消費させていたのでした。これが彼に「抑うつ」感をもたらし、ひいては集中力や気力を奪っていたのでした。言い換えるなら、薬がとてもよく効いたがために、「うつ状態」に陥ってまで抑えていた感情と向き合わされることになったんであります。
 ここで重要な点は、Aさんはお医者さんから診断名を貰ったことで、「うつ病」ということが彼の問題であるというように分類される可能性が高くなるということであります。その「問題」や「病」の背景に夫婦の問題が潜んでいるということが案外多いのでありますが、表に現れた問題に診断名を付されると、背景にあるものが見過ごされる可能性が出てくるのであります。実際には、ほとんどのケースにおいて、クライアントがカウンセリングを受けにくることになった直接の問題の陰には夫婦の問題や家族の問題が潜んでいるものであります。しかし、病院に行くと、それは「うつ病」とか「人格障害」や「摂食障害」などといった問題としてみなされることになりかねないのであります。
 もしAさんの治療が「うつ病」治療に限定されていたとすれば、今後のカウンセリングでみられるような展開は望めなかったかもしれません。

(文責:寺戸順司)





コラム17~離婚(2):Aさんの事例(続き) (約2500字)

(再びAさんの事例に戻って~離婚の先にあるもの)
 Aさんのカウンセリングは8回程度で終了したのですが、妻に対する不平不満は最初の頃に少し見られただけでした。彼は言います。「妻のことに関しては腹が立つこともあるし、不満もあるけど、どういうわけかあまりそれを話す気にもなれない」と。
 私は、Aさんが妻のことで苦しんでいるのだから、当然、妻に対しての愚痴がもっと彼から語られるだろうと思っていたのでした。彼がそう言うのだから、無理に愚痴を語らせる必要もないので、「今後、どんなふうになればAさんにとって望ましいことなのでしょうか」と尋ねてみました。彼は、「離婚した方がお互いの為だと思う」と答えました。彼の気持ちは、この時点でかなりはっきりしていたようでした。
「それでは、離婚してからどのようなことをしたいと思いますか」と私は尋ねました。この質問に彼は答えにくそうでした。それもそのはずで、離婚するということが彼の最大の関心事であるのに、それより先のことを聞かれているのですから、彼が「そんなこと考えたこともない」と答えたのは当然でした。
「考えたこともないから答えられないのは当然ですよね。でも、いい機会になるかもしれませんから、この場でそれを少し考えてみるのはいかがでしょう」と私は、彼に考えるように促しました。
 彼が考えるために私はいくつもの質問をしてそれを手助けしました。例えば「離婚することによって、あなたが得られるもの、もしくは取り戻せることがあるとしたら、それはどんなことでしょう」とか、「離婚してから、あんたはどんなふうに変わっているでしょう、今とどういうところが違ってくるでしょうか」といった質問をしていきました。こういう話し合いは、カウンセリングというよりも、むしろコンサルティングに近いものです。彼は、離婚後の自分というものをなかなかイメージできませんでした。私は「現実の制約を一時的にでも無視して考えてみませんか」といった助けを出していかなければなりませんでした。
 こういう話し合いを何回か続けていく中で、明確になったことを要約すると次のようになります。まず、Aさんは、家庭よりも仕事に戻りたいと考えていること。仕事の方を生きがいにしたいということ。それは、彼には仕事に対しての理想があるからで、家庭を持っていては、その理想が達成できないように思われること。それが達成されてからでないと、再婚のこと、家庭を築くことは考えられないということ。離婚した場合、妻と子供への生活費はきちんと送るつもりでいること。そのための経費を別にしても、贅沢さえしなければ一人でも生活できるめどはついているということでした。


(離婚後の生活を考えるということ)
 前回同様、ここまでのことで少し解説をしていくことにします。
 離婚するかもしれないという危機感から、カウンセリングを受けにきた人の大部分は、離婚してしまった後のことを考えていないという傾向があるようです。目先の事柄にあまりにも囚われ過ぎているということであります。仮に、考えていたとしても、それが漠然としていたり、非現実的であったりすることもあります。離婚するにしてもしないにしても、お互いにその後の人生があるので、その後のことを現実的に検討しておくことは有益であると私は考えております。
 Aさんも、他の多くの例と同様に、目先の離婚のことで頭がいっぱいで、それから先のことは視野に入っていないという感じでありました。彼は、私の質問にすらすらと答えたわけではありません。随分深く考え込みながら、時間をかけて答えたものでした。これは私の質問が難しいからではなく、私が質問するようなことを彼が考えたこともなかったためなのでした。考えたことがあったとしても、改めて質問されると答えられないことが多く、その時になって初めて十分に考えていなかったことが分かったり、考えているつもりでいたということに気付いたということも多いものであります。
 ここで指摘しておきたい点は、考えるのはAさんの仕事であり、カウンセラーである私は質問したりして、Aさんが考えるのを手伝っているということであります。カウンセリングでは、作業をするのは常にクライアントの方でなければならず、カウンセラーが代わりに考えてくれるものではありません。もし、アドバイスを与えるタイプのカウンセラーがいたとしても、そのアドバイスを受け入れるかどうかはクライアントが決めなければならなくなるのです。カウンセリングの場において、クライアントは常に自分の生活や人生、考え方や物の見方について、向き合うことになるのであります。

(愚痴の効用)
 Aさんのケースでは、妻に対しての愚痴がほとんどありませんでした。家庭内では妻のことで腹を立てながら、カウンセリングの場では、それがあまり語られませんでした。
 よく、「愚痴をこぼしても解決にはならない」と言って、愚痴をこぼそうとしない人もあります。その人はある意味では正しいのです。愚痴は直接的に解決につながることはありません。しかし、愚痴をこぼしているうちに見えてくることがあり、もしくは愚痴を十分にこぼした後で見えてくるものがあり、それらが解決に役立つということも案外多いものであります。直接的な解決はもたらさないかもしれないけれど、愚痴をこぼすことによってもたらされるものもあるということであります。これを「愚痴の効用」と私は呼んでおります。
 さて、Aさんは妻に対する愚痴をこぼしませんでした。このことは何を表しているのでしょうか。妻に関して愚痴をこぼしている時、その人は、どこかで妻に対する未練や期待を語っているものであります。Aさんが妻への愚痴をこぼさないということは、このこともまた妻に対しての感情を語っているものとみなすことができ、その感情とは、妻に対して期待することも未練もないという感情ではないかと思われます。それだけに、彼の離婚への決意は相当しっかりしているとみてよいと思われました。

(文責:寺戸順司)





コラム18~離婚(3):Aさんの事例(続き) (約2400字)

(再び事例Aさんに戻って~知り合った頃のことが話題になる)
 離婚後のAさんの生活がどのようになっていくかを、彼に考えてもらい、イメージするという作業をしていきました。どのように変わるかということは先述したとおりであります。私は「そのような生活はAさんにとって、どのような意味があるのでしょう」と尋ねました。それに対して彼は「以前の生活を続けることになる」と答えました。
「それはどういうことでしょう」と私が尋ねると、彼は結婚前の生活を語りました。時はバブル経済崩壊後の、大学生の就職難の頃でした。彼が入学した頃は、まだ景気がよくて、彼の先輩たちはとんとん拍子で就職を決めていたのです。ところが、彼が就職活動する頃には、様相がすっかり変わってしまい、新入社員を取らない企業がたくさんあったのです。就職は困難でしたが、かろうじて彼は神戸にある小さな会社に入ることができました。大学時代に、社会の明暗をはっきり見てきた彼にとって、会社に入れるだけでも良かったことだと述べていましたが、一方で、先輩たちとの不公平感から、彼はますます上を目指そうという気持ちを起こしたようでした。
 彼の理想は、このままこの会社で出世していって、ゆくゆくは自分の支店を持つということでした。この理想にかんしては後に取り上げることになるでしょう。
 入社した翌年、阪神大震災が起きました。彼の会社もダメージを受けました。会社が再建するまで、かなり時間がかかりそうだったので、彼は実家のある大阪に戻り、再就職することに決めました。
 再就職は、知人のコネも使って、利用できるものはなんでも利用するというような気持ちで取り組み、どうにか成功しました。それほど大きな会社でもないのですが、やりがいのある仕事だと彼は感じました。
 彼が取り戻したいと考えている生活というのは、震災で中断されるまで続いた生活のことのようでした。入社して、高い理想を抱きながら、一年も経たずに終わってしまった、あの生活をやり遂げたいと願っているようでした。
 さて、Aさんの妻とは、再就職先で知り合ったのでした。そこでは妻の方が先輩にあたり、彼の面倒をとてもよく見てくれたようでした。Aさんは彼女に惹かれていきます。そして結婚ということになりました。結婚してからのことは、最初に述べたように、彼に幸福と充実感をもたらしてくれていました。
 Aさんの妻という人は、彼の話からすると、とても面倒見のいい人のようであります。甲斐甲斐しく相手に尽くし、相手を助けようとする人のようであります。それも、母親が子供の面倒を見るような感じでするのでしょう。それと、おそらく、同情心にも厚い女性のように思われました。
 Aさんは、こういう妻を得たことで満足があったわけであります。それが、年月を経るに従って、同じ人に対して不満がつのってきたのであります。これはどういうことなのでしょうか。

(鍵と鍵穴の関係~夫婦の一つの形態)
 さまざまな夫婦のあり方がある中で、鍵と鍵穴のような関係の夫婦も少なくないようであります。それは一方の空隔を他方がきっちり埋めてくれるというような関係であります。鍵と鍵穴がぴったりフィットしている限りにおいて、その二人は最高のパートナーどうしに思われるものであります。
 Aさんの場合もそういうところがあったようです。お互いがフィットしている間は良かったのです。ところが、一方の形が変わってしまったために、鍵穴に鍵が合わなくなってしまったのであります。
 では、変わってしまったのはどちらなのでしょうか。Aさんでしょうか、それとも妻のほうでしょうか。この例では、Aさんの方が変わってしまったのであります。
 Aさんは就職難の時代にかろうじて入った会社で、理想を掲げながらもそれの実現に近づくこともなく、震災ですべてを失ってしまったのでした。彼の話では、地震が起き、半倒壊したマンションから、取るものも取りあえず、斜めに傾いた階段を下りて逃げ出したそうでした。そして、仕事も失ったのでした。大学を出て、一年も経たないうちにすべてがなくなってしまったのでした。彼はそういう体験をしたのでありました。
 妻となる女性は、再就職したAさんにとても同情したのでしょう。当時のAさん自身、そういう同情に飢えていたのかもしれません。ここに鍵と鍵穴が成立したと見ることができるでしょう。彼は何もかも失ったサバイバ―で、妻は彼に与えることのできる救世主のようになったのです。
 彼が変わったというのは、年月が過ぎ、震災の影響から回復していくにつれて、彼はもはや同情を乞う哀れな存在ではなくなっていたということでした。もはや、同情も、いかなる援助も必要としない、一人の自律した人間に彼は戻っていたのです。妻の方は、まだ彼を同情と援助が必要な哀れな男と見ていたのであり、ここに両者のずれが生じてしまっていたようであります。妻は彼の面倒を見ようとします。既に彼はそんな面倒を見てもらう必要はなくなっているのにもかかわらずにです。だから、妻が彼に対してすることは、彼には不必要なことになっており、彼には煩わしいだけのものになってしまっていたのであります。妻に甲斐甲斐しく世話を焼かれることは、彼にはむしろ自分のプライドが傷つくような体験となっていたのかもしれません。
 彼はもはや援助が必要な子供のような存在ではありませでした。彼が一人の男性として、女性社員とお喋りを楽しむことができ、またその時間を充実したものとして体験していたということもそれを表しているかのように思います。
 簡潔に述べるなら、彼には自分が子供扱いされることが耐えられなかったのだということになるでしょう。

(文責:寺戸順司)





コラム19~離婚(4):Aさんの事例(続き) (約3100字)

(Aさんの事例に戻って~妻の意味を洞察する)
「再就職して、とても結婚を焦っていたように思います」
 当時を振り返って、Aさんはこう述べます。
私、「失ったものがあまりにも大きいので、何か、取り戻したいような気持ちだったのではないでしょうか」
 Aさん「とても不安定だったように思います」
 私「結婚することで、安定が取り戻せるように思われたことでしょう」
 Aさんは、彼にとって、妻にどういう意味があったかを洞察しようとしています。Aさんに限らず、自分にとって相手がどういう意味があったかを見ていくことは重要であり、この作業をしなければ、しばしば、同じことを繰り返したり、結婚生活をしていた期間を失敗としか受け止められなくなるということが起きるように思われます。
 このような話し合いをして、彼が行き着いた結論とはどのようなものだったのでしょうか。その結論から見えてきた現実とはどのようなものだったのでしょうか。簡潔に述べれば、彼は妻を愛していなかったのだということであります。妻の方もまた同じだったのではないだろうかということでした。
 Aさんの夫婦関係は、Aさんが哀れな弱者である限りにおいて成り立っていたものでした。「可哀そうな人」と「可哀そうな人に愛の手を差し伸べる人」の関係であり、対等な関係になることはありませんでした。
 詳しく述べるなら、ここで愛していなかったというのは、援助者と被援助者という関係の愛情ではあったかもしれませんが、夫婦としての愛情ではなかったということであります。Aさんは、自分が救われるために妻を必要としたのであり、必要としたのにはそれ相応の理由があるにしても、基本的に自分本位の関係なのであります。妻の方も、おそらくAさんを助けることで自分の存在理由を確認していたのでしょうから、こちらも自分本位だったのであります。妻にとって、自分の存在価値を保つためには、Aさんが永遠に援助が必要な人間でなければならなかっただろうと思います。
 これを読んでいるあなたは、自分が救われるために妻を必要としたというのなら、Aさんはなんて自分勝手な人なんだろうと憤りを覚えているかもしれません。確かにその通りであります。彼はかつては「助けが必要な人」でした。妻は彼を「助ける人」でした。彼が妻に嫌悪するようになったのは、彼が妻に「助けられて」成長したからであります。妻を失うことを恐れて、いつまでも「助けが必要な人」で留まり続けるとするならば、それこそAさんは「心の病」ということになってしまうでしょう。彼が妻を嫌悪するようになったということは、彼の心が「健康」であるということの証でもあると私は思うのであります。
 Aさんは確かに妻に助けられたのです。妻に助けてもらえたからこそ、今の彼があるわけなのです。それがAさんには理解できるようになっていました。だから、妻を煩わしく思えても、妻を恨んだりはしてこなかったのであります。
 それと、もう一点、重要なことは、Aさんが苦しんでいたのは、実際には妻のことではなかったのであります。彼が震災で最初の職場を失ったということは述べましたが、彼はその時の生活、その時の生き方を取り戻したいと願っていたのでした。このことはカウンセリングを通して、次第に彼に明らかになってきたことなのですが、最初の頃はそれに気づいていませんでした(もしくは、それが見えていなかったのです)。結婚以前の生き方において、彼はやり残したことがあるように思えてならなかったようです。妻よりもそちらを優先したくてならなかったのです。妻と一緒にいる限り、彼は、自分がそれを取り戻せるとは思えなかったのでした。
 そうして、彼は離婚の決意を固めました。

(カウンセリングは常に不完全に終わる)
 彼が決意を固めたことで、彼はカウンセリングから離れていきました。離婚を成立させて、新生活の準備に取り組みたいと言うのです。私は、彼が下した選択であり、判断であるので、反対はしませんでした。
 カウンセリングというのは、完全な形で終わるということはありません。常に何らかの問題を残したまま終わるものであります。その理由は、一つは人間というのは常に変容していくからであります。ある時点での解決は、次の時点での問題を形成するものであります。すべてを解決するということは人間には起こり得ないことであります。もう一つの理由として、クライアントの多くは当面の問題にめどがつけばそれで十分であると考えるからであります。そこから先を追及していこうとはしないものでありますし、また、追及する必要がない人もたくさんいます。
 Aさんの場合、何が不完全に終わったのでしょうか。それは、彼の掲げる「理想」の問題であります。
 彼の言う「理想」に関しては、それほど述べてこなかったので、少し説明する必要があります。彼が最初の会社で掲げた理想は、出世して自分の支店を持つということでした。それは就職難を経験したことから生まれた考え方であると、彼自身も捉えていました。最初の会社で、彼がそのような「理想」を熱く語ると、上司や同僚は彼のことをとても頼もしいと感じたようでした。誰も、彼の「理想」に異議を唱える人はありませんでした。
 ところが、二度目の会社で、尚且つ、彼自身が三十代になっていて、以前と同じように「理想」を熱く語っていると、周囲の同僚や上司は彼を疎ましく感じ始めたようであります。時には、「理想を語る前に現実の仕事をしてくれ」などと注意されたり、「君は理想論者だ」と批判されることも増えてきたようであります。ある時、彼は私に言いました。「理想を語ることは、そんなにいけないことなんでしょうか」と。
 理想を抱くことは何も悪いことではないのです。問題はその抱き方にあると言えるかと思います。私は一度、彼の理想話に付き合いました。それはとても熱心に語り、一生懸命なのであります。私は感じました。彼がそれだけ熱心に「理想」を語り、その「理想」を追及しなければならないということは、彼が自分自身に欠乏を感じているからではないかと。
 自分の内面に欠乏があるからこそ、それを埋め合わせるために、外部にあるものを追及しなければいられなくなるのです。彼もそうなのではないかと感じました。そして、この欠乏は、彼が震災に遭うよりも以前から存在していた欠乏だったと思われるのであります。震災を経験したことは、彼が内面に漠然とでも感じていた欠乏を、現実のものとして体験してしまう機会となったのでした。従って、その時に始まった欠乏ではないはずであります。欠乏が現実のものになったがために、彼はより一層その埋め合わせをしなければならなくなったのです。しかし、職場を失った彼には、それまで彼を埋めていた「理想」を追求することが難しかったのであります。そこで、彼は「理想」で内面に欠けているものを埋め合わせることを放棄して、「妻」にそれを求めたのであります。やがて「妻」は彼の欠乏を埋め合わせることはできなくなり、そうなると再び「理想」が求められるようになったのであります。
 こうなるとAさんの問題とは、離婚でも妻のことでもないということになります。問題は彼の内面の欠損にあるということです。しかし、彼自身には、自分がそういう問題を抱えているとは認識できませんでした。「理想」が彼を埋め合わせることができなくなった時、彼は自分の本当の問題に向き合わざるを得なくなるでしょう。

(文責:寺戸順司)








<テーマ3> 用語に関して (約3300字)

 ここでは頻繁に用いられる言葉について簡単に説明しておくことにします。

(1) カウンセラー
  相談を受ける側の立場の人のことであります。これを「治療者」「臨床家」「セラピスト」「ヘルパー」「コンサルタント」などと、どのように述べても構わないのですが、私は「カウンセラー」という言葉を好んで使います。なぜなら、その言葉がもっとも中立的なニュアンスを持っているように思われるからであります。

(2) クライアント
 これは相談をする側の立場の人のことを指します。これも同じように「患者」「ヘルピー」「顧客」など と言い表すことができるのですが、私は前述の理由で「クライアント」という言葉を用います。「クライアント」とは「依頼者」のことでありまして、依頼してきた人はみな「クライアント」であります。その人がどのような人であるかといったことは、この言葉には含まれません。また、「依頼者」というのはとても適切な言葉であると私は考えるのであります。カウンセラーはクライアントからの「依頼」があって初めて成立する関係であり、この「依頼」ということがなければカウンセラーは動けないからであります。

(3) カウンセリング
 カウンセラーとクライアントとで行われる行為、並びにその場面を指します。特に場面の方を強調する場合は「面接」という言葉を私は用いることもあります。

(4)「 」が付される言葉
 私の書く物にはやたらと「 」が付くというのが特徴的なのだそうです。私が「 」を付けるのは以下の四つの場合であります。

(4-A)カウンセラー並びにクライアントの発言
(4-B)書物等からの引用
(4―C)「心の~」と言う場合
(4-D)病名、診断名

 この内、説明を要するのはCとDでありましょう。
 Cに関しては、私たちは日常に於いても「心の病」「心の健康」「心の問題」「心の教育」「心の闇」などというように、やたらと「心の~」という言葉に接することがあるかと思います。こういった言葉に私が「 」を付けるのは、それらがよく分からないためであります。
  例えば「心の教育」という言葉を耳にして、すぐにそれがどういうことを指しているのかが理解できるという人がいるでしょうか。たいていの人は「何となくこういうことではないか」というようなイメージで理解しているのではないかと思います。そもそも、「心」とは「教育」されなければならないものなのでしょうか、それが可能なのでしょうか、そういうことを考えてみると、この言葉が実に不鮮明なものに見えてくるのであります。
 同じように「心の闇」というような言葉にしても、そもそも「心」とは人間の中の、目に見えない、目で確認することができない部分を指しているのではないでしょうか。従って、「心」 そのものが「闇」であるはずです。「心の闇」と言う場合、私には「闇(の中)の闇(の部分)」ということを表現しているように思われてならないのであります。
 なぜ、こういうことが起きるのかと言いますと、「心」というものがはっきり分からないためであると、私は考えております。従って、「心の病」とか「心の健康(メンタルヘルス)」というような言葉も、私たちはあたかもそれらを自明の如くに使っていますが、実はよく分からないものだということになるのであります。そもそも「心」は「病気」とか「健康」とかの概念を受け付けるものなのだろうかと、私はいつも思うのであります。
 できることなら「心の~」といった言葉は用いないようにしたいのですが、しかしそれではクライアントがカウンセリングに持ち込む「もの」をどう表現していいかが私には分からないのであります。「それ」を現す適切な言葉を私が知らないので、あくまで便宜上、「心の病」とか「心の問題」という言葉を使うことにします。 「 」が付されているのは、適切な言葉が他になくて、よく分からないまま使用しているからであるというように解釈していただければと思います。
  Dに関しても同様なのであります。私たちは「うつ病」とか「統合失調症」とか「不安性障害」「強迫性障害」「人格障害」などといった診断名があるのを知っていますが、しかし、これらがどういうことであるのかを一つ一つ本当に理解しているわけではないでしょう。本当には理解していないのだけれど、そういう言葉を使ってしまっているというような例も多いかと思います。先述のように「心」とは非常に曖昧ではっきりしない概念でありますので、それの「病気」と言われているものも必然的にはっきりしないものになってしまうのではないでしょうか。「心の~」と言う場合と同じように、やはりはっきりしないものであるという意味合いを込めて、私は病名にも「 」を付けるようにしているのであります。

(5)退行
 退行というのは後ろに下がる、後戻り するという意味であります。ここでは精神的な意味での後戻りを指します。精神的に退行するということは、以前の段階、子供時代に戻るということであります。どうして人間が退行するのかと言うと、その人がそれ以上先へ進むことができなくなっているからであります。クライアントの多くはカウンセリングを受けに来る時点で、何らかの形で退行を示していることがありまして、それだけにこの概念はとても重要なものなのであります。ある人が退行していると述べる場合、その人は実際の年齢よりも以前のような状態にあるという意味に理解していただければと思います。より正確に述べるなら、一時的に子供返りすることで、 この苦しい状況を耐えようとしているというように解釈する方が適切な場合が多いようであります。

(6)神経症
「神経症」というの は、かつてはれっきとした診断名として使われていました。ところがアメリカでは1980年代に、この言葉が診断項目から姿を消しました。日本ではそれより多少遅れましたが、現在ではこの診断名を付される人は見かけなくなりました。私が一昨年(平成22年)お会いしたクライアントで、お医者さんから「~神経症」という診断をもらった人はわずかに一人だけでした。少しびっくりしましたが、恐らくそのお医者さんの受けた教育が古くて、そうした言葉に馴染みがある人だったのでしょう。
「神経症」というのは英語でneurosisと言います。Neuroは神経のことであり、-sisというのは病気を表す接尾辞で、日本語の「~病」「~症」に当たります。従って、「神経症」とはneurosisの直訳なのであります。ちなみに、「ノイローゼ」というのは、この 単語のドイツ語訳なのであります。三者は言語が異なるだけで、同じ意義なのであります。
「神経症」には「神経」という言葉が含まれておりますが、これは特定の神経を指しているのではありません。私たちが「神経を使う」とか言う場合にも特定の神経を指して行っているのではないのと同様でありまして、気持や内面を指しているものであると理解するとよいでしょう。
  さて、「神経症」というのはとても便利な言葉でありまして、三つくらいの用法がありました。一つは病名を指すもので、「強迫神経症」とか「不安神経症」と いった診断名として用いられていました。二つ目の使用法は「病理の深さ」を表すのに用いられていました。その場合「神経症レベル」などというように用いられてきて、「人格障害レベル」「精神病レベル」よりも「健常」に近いものとして捉えられていました。三つ目の用法は形容詞的に用いるものであって、「神経症的な生き方」などというように用いられてきました。
 私がこの言葉を用いるのは、もっぱら最後の形容詞的な使用法としてであります。「病的」と言うよりも「神経症的」と表記する方が、より現実を反映していることが多いように思われるのであります。

 その他にも様々な言葉が登場することでしょう。専門用語はあまり使いたくないと思っているのですが、それでも使うことになった場合には、その都度説明するようにしていきます。

(文責:寺戸順司)






<テーマ4> 「こうあるべき自分」から「こうありたい自分」へ (約4500字)

 この項目のタイトルは、この「ご挨拶」ページのトップに掲げられている文句であります。こういう文句を素通りしてくだされば問題はないのですが、目についてしまった方のために、この文句についての説明を試みたいと思います。
  そもそも、この文句は以前HPを作成してくれた会社の人が考えた文句を、私が言い直したものなのであります。担当者は私と面会し、その上でこの文句の内容を考えてくれたのであります。私の話からその担当者が受け取ったメッセージであると、私は捉えております。ただ、その人の考えた文句というのが、ちょっとそのままの形では使えない箇所があったので、意味内容を変えずに、言い回しだけを私が変えて、現在あなたが見ているこの文句になったのであります。
「こうありたい自分を目指す」ということは、夢が叶うとか、なりたい自分になれるというような意味ではありません。よくそこを誤解される方もおられるように思います。結論を簡潔に述べれば、「健全」で、「適切」な「自己愛」を育てるという意味合いなのであります。ここで言う「自己愛」に関しては、後に述べることにしまして、まず、「こうあるべき自分」という部分から述べていくことにします。

「こうあるべき自分」、あるいは、「自分はこうあるべきだ」ということは、「うつ病」と診断されたクライアントや「うつ状態」にあるクライアントからは頻繁に耳にする言葉でありますし、大部分のクライアントが直接的にではなくても「自分はこうあるべきだ」ということを表現されるのであります。一体、彼らをして、「こうあるべき」と強制するものはなんなのでしょうか。
「こうあるべき」に対して、当然ながら「こうあらぬべき」自分というものもあるのですが、彼らは今の自分が「こうあらぬべき」の方の自分に堕落したと感じているようであります。

 ところで、「こうあるべき」というのは、一体どのような思考様式なのでしょうか。そして、この思考はその人をしてどこに導いていくのでしょうか。
  もし、「常にテストでは100点をとるべきだ。そういう自分でなければならない」などと考えている人がいれば、その人にはどのようなことが起きるでしょうか。もちろん、一回でも90点を取ることは許されなくなります。1点でも不足してはいけないということになりまして、たとえ99点だったとしても、その1点が欠けているために不完全な自分を体験してしまうことでしょう。
 そればかりではなく、仮に120点の出来栄えだったとしても、この人には苦痛なのではないかと思うのであります。100点満点のテストで120点の出来栄えだったとしたら、それは望ましいことではないかと考えられるかもしれませんが、120点獲得したために「テストでは100点を取る人間であるべきだ」という、その人の信念は揺さぶられることになるのではないでしょうか。実際、その人にとって望ましいことが起きているにも関わらず、そのために苦しんでいるという人にお会いすることも珍しくはありません。
 従って、「こうあるべき」という考えは、それより上でも下でもいけないということになるのであります。その人には「こうあるべき」姿より、上昇することも下降することも、 広がりをもたせることも許されなくなってしまうのであります。つまり、自由がなく、型にはまらなければならなくなるということになるのであります。「自分はこうあるべき」というものを強く抱いている人ほど、それに拘束され、本来自由であるはずの人間が、自由でなくなっていくのであります。私はそのように捉えております。
 従って、「こうあるべき」というものは全て不変の物事を扱っていると述べることができます。「こうあるべき」という、固定した像があって、それは絶対に不変でなければならないということであります。ここには自由もなければ、変化・成長への可能性にも閉ざされているのであります。

それに対して、「こうありたい」という方は、常に変化や成長への可能性に開かれているということができるのであります。
 先に、「こうありたい自分」を目指すということは、夢を叶えるということや、「なりたい自分になれる」というようなことを意味するのではないと申し上げました。それらは「歪んだ自己愛」に基づくものであると、私は捉えております。
  私が思うに、現代の日本では「夢が叶う」とか「なりたい自分になる」というようなことに価値を置きすぎているように見受けられるのであります。人にはそれぞれ自分なりの夢や希望があるのはわかりますし、それはそれで結構なことなのですが、一個人の「夢」を叶えられることほど迷惑千万なこともないだろうと私は思うのであります。
 例えば、あなたは将来医者になりたいと考えているとします。この場合、あなたの夢は「医者になること」ということになります。あなたが自分の夢を達成しようと努力するのは構わないのですが、その夢のために犠牲になる人や奉仕せざるを得ない人たちも現れてきます。あなたによって蹴落とされるライバルも出てくることでしょう。あなたにとって自分の夢は至上の関心事でしょう。応援してくれる人も現れることでしょうが、結局のところ、あなたが医者になることは誰も望んでなどいないのであります。そこにあるのは、あなたが医者になるかならないかだけなのであります。
また、あなたは自分の夢だけを考えて生きていくこともできます。周囲の事柄には全く目を向けずに、つまり犠牲になった人や奉仕してくれた人や敗れたライバルたちを無視して、ひたすら自分の夢だけを追求することもできるのであります。それが何になるのでしょうかと、私は思うのであります。このような人こそ「歪んだ自己愛」に支配されているのだと私には思われるのであります。
 実際にそのような人を私は知っております。その人が自分の夢を叶えようと躍起になるのは構わないのですが、なにしろ自分のことしか見えていないので、彼のために力を尽くした家族や周囲の人たちは本当に気の毒なほどでした。彼らにしてみれば、その人に「夢を断念してくれないかな」と言いたかったことでしょう。自分の夢だけしか見えていなかったので、その人は恐らく、他人の犠牲や奉仕を当たり前のことと捉えていたように私には見えました。彼は自分が「不遇」で「不公平だ」と愚痴をこぼしていましたが、私はその人に「もっと周りの人のことを思いやりなさい」と言いたくなる衝動を感じておりました。
 私が「こうありたい自分を目指す」と言う場合、あなたに上記のような人になってもらうことを願って言っているのではありません。私がその言葉で伝えたいと願っていることは、あなたの「健全な自己愛を育てていく」という意味なのであります。

「こうありたい自分」を目指すと言う場合、その人は何をしなければならないのだろうかということについて、次に述べていくことにします。
「こうありたい自分」にしろ、「こうあるべき自分」にしろ、それはその人の自己像と関係しているのでありますが、その自己像が何に基づいてその人に描かれているかということも問題になるのであります。「歪んだ自己愛」に基づいて「こうありたい」姿を描くとすれば、それは当然歪んだ姿になるでしょうし、現実的でない姿を描くことになるでしょう。自分自身を偽っているというような人が描くとすれば、それは「偽りの自己」に基づいて描かれている姿ですから、当然偽りの姿を目指していくことになるでしょう。
 つまり、ここで肝心になってくるのは、「こうありたい自分」を目指す場合、偽りのないその人自身に基づいて目指されなければならないということになってきます。従って、何よりも先に、その人がその人自身にならなければならないということになります。それが絶対に必要になってきます。

 最後に次のことも強調しておく必要があるでしょう。「こうありたい自分」を目指すということは、その人の中に、自己を確立することでもあるということです。
「人間はこうあるべき」といった表現は、たとえば人生論や道徳、宗教に関する本をひもとけばいくらでも出てくるものであります。あるクライアントは何冊もの人生論を読んだと語りました。私が「それは役に立ちましたか」と尋ねると、彼は「それが、あまり・・・」と言葉を濁されました。私は彼の言わんとする所のものが分かるように思いました。ここにはサルトルが神を否定した表現と同じ図式が働いているように思いました。
 サルトルは「神が不在なために人間は不幸である」というようなことを述べております。こういう言葉のためにサルトルは無神論であると言われてしまうのですが、サルトルが言わんとするのは次のことにあります。聖書などには、例えば「敵を愛しなさい」というような言葉が記されているとしても、人間が直面する個々の状況に於いては、そうした言葉が役に立たないことも多い。つまり「こうすべきだ」というような教訓がどれだけあったとしても、個々の状況においては、自分の振る舞いは自分でその都度決定していかなければならないということになります。人は困難な状況で、神にすがりたいとか、神の指針を求めたいと願っても、皮肉なことに人間はそういう時にこそ、神がいないということを思い知らされてしまうということになるのであります。サルトルが述べているのはそのようなことであると、私は捉えております。
 人生論を読破していった先のクライアントも同じような体験をしてきたのだろうと思います。「人間はこうあるべき」といった教訓は、それ自体は意味があっても、それが彼の直面する具体的な個々の場面においてはいかに役に立たなかったかということを、彼は実感していたようであります。
教訓にしろ、自己像にしろ、「こうあるべき」というものは、実は意外と当てにできないのではないかと、私は個人的に捉えているのであります。むしろ、「こうあるべき」というものに頼るのではなく、人間は自分自身に頼らなければならなくなるということでありまして、その都度、人間は自分の行為を選択していかなければならない存在であるわけであります。そして、自分自身の行為を選択し、決定していくためには、そこに確立された自己が不可欠なのであります。ここで言う自己というのは、その人の「核」のようなものと捉えていただければ結構であります。
 従って、「こうありたい自分」を目指すということは、その人の「核」の部分を育てていくということにもつながるのであります。

(本項の要点)
「こうありたい自分を目指す」ということには、その人が自分の自由や成長・変容の可能性に開かれること、その人の「健全な自己愛」を育てること、その人自身になっていくこと、その人の「核」の部分をしっかりしたものにしていくこと、そういった意味合いが含まれているということであります。

(文責:寺戸順司)