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自己否定と劣等意識

自己否定と劣等意識(1)―INDEX

<テーマ145> 受容と許容
<テーマ146> 否定と肯定
<テーマ147> 否定―肯定の統合と超越








<テーマ145> 受容と許容

(145―1)あるカウンセラーの間違い
 私がカウンセリングの勉強を始めた頃、次のような話を聞くことが多かったのです。
親が子供のことでカウンセラーを訪れます。その子供は当時で言う不良です。カウンセラーは来談した親に、「子供さんを受容してください」と伝えます。それ以来、その親は我が子を受容しなければならない(この感覚自体おかしいものなのですが)と、常に意識して子供と接するようになりました。
ある時、子供がバイクを買ってくれと親にせがんできます。親は戸惑います。でも、カウンセラーの先生から「子供を受容するように」と言われているから、親は子供を受容する意味で、子供にバイクを買ってやります。
バイクを買ってもらった子供は、その後もさらにいろんなものを要求してきます。親はそれを満たしてやります。それもこれも、子供を受容しなさいというカウンセラーの教えに従っているためであります。結局、この親子の関係はさらに悪化し、子供は何一つ改善しないのでした。
 当時、私はこうした話をちょくちょく耳にしたものでした。このカウンセラーは間違ったことを言っていたわけではありません。ただ、受容ということがどういうことなのかを、きちんと説明していなかった点に問題があるのです。
 受容、つまり相手を受け入れるということは、言葉で言う分には自明のことのように思われますが、このことをきちんと理解しようとすると、それだけで何冊もの本が書けるくらいのテーマなのです。一体、相手を受容するということ、また、自分が受容されるということはどういうことなのでしょうか。

(145―2)受容と許容の混同
 上述の親がしたような間違いを私たちはしてしまうものだと思います。私にも苦い経験がいくつもあります。また、同業者からも同じような間違いの話を耳にすることもあります。
この間違いとは、相手の要求を満たしてあげるということと、相手を受容するということの混同によるものなのであります。
 相手が何かを要求してきます。こちらはそれに対して「ノー」と言います。それは確かに相手の要求を拒否ないしは否定したことになります。ここで否定されたのは相手の要求の内容なのであります。相手の人すべてが否定されたわけではないのです。
つまり、相手の要求を断りながらも、相手を受容するということが、本当は可能なのです。相手の要求を満たしてあげるということと、相手を受容するということとが別の次元の体験であるからそれが可能なのです。従って、反対に、相手の要求を満たしてあげながら、同時に相手の存在を否定するということも可能なのであります。いかに多くの親や教師が知らず知らずのうちにこれをしているかを見ることができれば、私がここで述べていることに違和感なく接することができるかと思います。

(145―3)許容されないことへの傷つき
 上記のことをもう少しだけ丁寧に見ていきましょう。
相手が私に何か要求を出してきます。私はそれができないと答えたとします。これは相手の要求内容を私は否定したということでしかないのです。それ以上でも以下でもないのです。同時に、私はそれができない、それをしたくないという形で、私は私自身を自己受容しているのでもありますが、ここではそれを取り上げないでおきましょう。一方、相手がそういう要求を出さざるを得ないという感情を私が理解できているとすれば、私はそれを受容しているのであります。そこで私は相手を受容していることになり、相手を否定したとは言えないのです。
 クライアントはしばしば自分が否定されたと経験することがあります。クライアントの過去の体験や日常の生活の中で、あるいはカウンセラーとの間でそういうことを経験することがあります。
ところで、そうした体験をクライアントと丁寧に見ていと、それは多くの場合、クライアントの要求が満たされなかったという状況であったりします。その要求が許容されなかったということなのです。
 クライアントのどのような要求がどういう人に出されたのかという点も本当は考慮しなければならないのですが、それは一旦脇へ置いておきましょう。
自分の要求が通らない、言い換えれば、物事が自分の思い通りにならないという状況に置かれた時、人が経験する感情は「傷つき」であります。クライアントはそれで傷ついているのです。
そして、傷つけた相手を攻撃したくなる人も中にはおられます。相手に対しての期待、つまり自分のこの要求を満たしてくれそうだという期待が大きければ大きいほど、この傷つきや失望の感情も大きくなることでしょうし、それが、後々まで怨恨としてその人の中に留まり続けることもあるでしょう。それでも、多くの場合、その根本となった出来事を見ていくと、その人が否定されたのではなく、その人の出した要求が拒まれただけだったと理解されてくることが案外多いのであります。
 繰り返して述べておきますが、ここで問題になっているのは、受容と許容との混同であります。この混同はカウンセラーがしている場合もあれば、クライアントがしている場合もあり、双方が同時にしている場合もあるのです。ここではカウンセラーとクライアント間で生じる混同を述べていますが、こうした混同はそれ以外の人間関係においても生じる類のものであります。

(145―4)本当に問題にすべきは何か
 ところで、私たちの日常生活においては、自分の期待や要求がそのまま通るということが一体どれくらい経験されるものでしょうか。私の個人的な経験では、時には自分の期待通りに物事が運ぶこともあるけれど、大半は期待通りには運ばないものです。部分的にでも期待通りに運べばまだいい方で、まったくそうならない場合も多いのです。自分の思い通りに事が運ばなかった場合、確かに私はがっかりするのですが、それでも、「困ったな、では、どうしようか」と考えるのです。これは私の個人的な体験なので、人によって違うかもしれません。
 肝心な点は、私たちは自分の期待通りに行かないということの方をはるかに多く経験しているということであり、問題となるのは期待通りに行かなかった時に経験する感情の強度であります。自分の要求が通らなかった時に経験する感情がとても強い人たちもおられます。先述のように、相手や周囲に対しての期待が大きかった場合には特にそうなるのです。
 そういう人にとっては、ただ一つ自分の要求が通らなかったというだけのことであっても、それがたいへんな脅威と感じられるのではないかと察します。自分の人格や存在のすべてが否定され、拒絶されてしまったかのように体験してしまうのではないかと思います。途端に自分が無意味で無価値な人間であるかのように自分自身を体験してしまうこともあるでしょう。
 その人が望んでいながら実現できなかったという事態は、とても苦しいものだということが私にも分かります。どうしても実現したいと強く望んでいるほど、この事態がもたらす苦痛は大きいでしょう。
この場合、その人の要望がとても大きいもので、何人であれ満たすことのできない類の願望であったかもしれないし、要望を出した相手にそれだけの能力がない場合も考えられるでしょう。そこには相手側の事情も当然あることでしょう。いずれにしても、満たしてくれなかった相手や状況が問題なのではなく、その人の心がこの事態をどう処理するかということが本当に問題となることなのだと私は考えています。

(145―5)受容と許容の同一視
 本項の本題に戻りましょう。私たちは受容と許容との混同を見てきました。本項では、受容とは自分の存在などが他者から受け入れてもらえているという体験であり、許容とは自分の要望が他者によって認可されるか満たされるかするという体験と仮定しています。
 では、なぜ受容と許容とが混同されてしまうのでしょう。私の考えでは、私たちの幼児性にその源があるようです。
 小さな子供は、自分の要求を満たしてくれる人を愛するのです。愛情とか受容ということと、自分の要求ということとが密接につながっているわけであります。従って、「私の要求が満たされる」がそのまま「私は愛されている」という感情体験となるのです。
 乳児が空腹を感じてワーッと泣きます。これは周囲に自分の要求を出しているわけです。その乳児が今の自分にできる限りのやり方で要求を出しているのです。これが即座に満たされることもあれば、延期されてしまうこともあるでしょう。もし、ここで即座にそれが満たされない場合、乳児は「自分は置き去りにされている」とか「否定された」とか「僕なんてどうでもいいんだ」といった感情に襲われるでしょう。もちろん、乳児はそのようなことを言語的には表現しません。非言語的、ないしは前言語的にそれを表現するのです。
 いずれにして、自分の要求が即座に満たされないということと、見捨てられたとか、否定されたとかいった感情とが結びつくことも知られているのです。
 もし、乳児が成長して、親子関係がそれなりに良好であれば、その子は自分の要求が満たされない場合もあるということを知るでしょうし、時に満足は延期されなければならないものだということも知るでしょう。そして、仮に親が自分の要求を拒んだとしても、それで自分そのものが否定されたとか、自分が無くなってしまったという体験はしなくなるでしょう。その子の基盤というか、核のような部分がしっかりすればするほど、その子は要求が満たされない状況、自分の思い通りにならない状況に対処していけるようになるのです。
 その辺りのことは、項を改めて考察していくことにしますが、そのような苦悩を抱えているクライアントと、カウンセリングを通してそれが達成していけるように、一緒に作業を重ねていくのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ146> 否定と肯定

(146―1)用語について
 本ページは「自己否定と劣等意識」というタイトルを付しています。
「劣等意識」というのは、馴染のある言葉で言えば「劣等感」のことであります。次の二つの理由から、私は「劣等感」ではなく「劣等意識」という言葉を用いることにします。
 理由の一つは、人は劣等感に苦しむのではなく、劣等意識に苦しむものであるという前提によるものです。人が自分の中に何か劣っている部位を認識すると劣等感情を体験します。そして、人はその劣等感情を意識し、劣等部位を意識するようになり、さらにはその劣等部位を有する自分を意識するようになります。「意識する」ということがここではとても大きな働きをしていることが窺えるので、「劣等意識」と呼びたいのです。
 理由の二つ目は、これは語感によるものです。よく「意識は変えられる」と言われたり信じられたりしていますが、事実、自分の意識は変えることができるのです。感情以上に意識は変革していくことができるのです。その意味合いをも含めて、「劣等意識」という言葉を用いたいのです。
 一方、「自己否定」の言葉は、これはそのままの意味合いで、自己否定とは自分の中の一部もしくは全体が自分自身によって否定されているという現象を指している言葉としておきます。
 自己否定と劣等意識ということを同列に並べるのは、自分の中で否定されているものが劣等部位であり、その劣等部位を有する自分自身を否定したいという気持ちに人は襲われたりするからであります。つまり、自己否定と劣等意識とは密接につながっていて、切り離せないものだからです。
 そして、自己否定には自分で自分を否定するという側面と、自分が他者から否定されるという側面とがあります。ここで言う「自己否定」にはその両者を含んでおり、今後はその双方を考察の対象にしたいと思います。

(146―2)人は自分自身を完全には否定できない
「否定」ということはとても難しい問題を孕んでいます。ある人が「現実に否定」されたのか「否定されたかのように体験した」のかは、その体験をしっかり吟味してみないと分からないことも多いのです。
 しばしば、クライアントは自分の体験を大雑把にしか把握できないでいます。それは人間がとても複雑な機能を有していて、一度に多くのことを同時に体験し、その体験を抽象したり総合したりすることができるからです。また、一方では、自分の体験をしっかり吟味するほど、自分自身と接触がもてていないという理由にもよります。
 前項で示したことは、自分が否定されたというように体験されていたとしても、よくよく吟味すれば、それは自分の要求が通らなくて、そのことで傷ついていたという体験であることが分かるという一例でした。そこにはそもそも「否定」がなかったかもしれないのです。
 幾分、文脈を異にしているのですが、キルケゴールは「理性は自己自身を絶対的に否定してしまうことはできない」(『哲学的断片』より)と述べており、実は私もその通りだと信じているのです。
 本項において、私が取り上げたいことは、人は自分自身をすべて否定することはできないという事実であります。もし、自分を完全に否定しているというような人がいるとすれば、私はそれはもっと別種の活動ではないかと考えています。
でも、その前に否定と肯定の関係を見ておくことが大切だと思います。いささか抽象的な話になるかもしれませんので、読むのが面倒だと思われる方は(3)を飛ばして、(4)にお進みいただいて結構であります。

(146―3)二分法の陥穽
 私たちは二分法の考え方に馴染んでいます。二分法というのは、対極する二つでもって分類するというものです。例えば「強い―弱い」「正しい―間違っている」「健康―病気」
「良い―悪い」「高い―低い」等々です。「肯定―否定」もまた一つの二分法であります。
 こうした二分法には一つの落とし穴があると、私には思われるのです。ある人が何かを二分法的に捉えたとすれば、その人には片一方しか見えていないということが生じるのです。他方も確かに存在しているのですが、そこはなかなか見えないという落とし穴なのです。
 ある人が「あの人は強い」と表現するとき、そこにはその人よりも「弱い」誰かの存在が想定されているものです。それが「あの人は私よりも強い」という意味であれば、そこでは言外に「私はあの人よりも弱い」を伝えているということなのです。
「肯定―否定」にも同じことが言えるのです。例えば、「私はインターネットの世界を否定している」と述べる時、そこには他に肯定されている世界の存在が暗示されているのです。「私は現代という時代がイヤだ」と言って、現代を否定する時、そこには私にとって理想的な過去の時代があるということをも表現していることになるのです。
 つまり、否定と肯定は常に一つであり、否定の中には肯定が、肯定の中には否定が含まれており、それらが同時に提示されているということなのです。私たちが何かを否定する時、そこには肯定されている何かの存在が暗示されているのであります。
 むしろ、二分法には対極のものがなければ成立しないものなのです。否定はそれ自体では存在しえないのです。同時に何かが肯定されなければ否定は成立しないのです。逆もまた真なりです。
 例えば「差別をやめよう」というスローガンがあるとします。ここでは「差別」が否定されています。同時に「平等」ということが暗示的に肯定されています。それでこのスローガンは成立できるのです。もし、「差別をやめよう」と言って「差別」を否定し、同時に「平等であることもやめよう」と言って「平等」をも否定すれば、それは矛盾であり、背理であります。この背理を解消するには、そこに肯定的な何かを新たに持ち込まなければならないのです。そこで例えば、「何があっても独りで生き抜きましょう」と言って、「自力」を肯定するとすれば、この背理は解消されるのです。「差別はしないけど、平等でもない社会で、自力で生きよう」と言ったとすれば、内容が倫理的にどうであれ、背理は解消されていることになります。
 何かが否定される時には、必ず何か肯定されているものが付随しているはずなのです。それがなければ背理を生み出すのです。もし、背理を生み出したとすれば、人は矛盾に耐えられないので、この背理を解消するために欠けている方を補うのです。否定して、さらに否定すれば、そこに肯定的な何かを補って、背理を解消するのです。
 幾分、話を先取りしすぎましたが、上記のことは後に再度取り上げることにしましょう。ここで押さえておきたいことは、自己否定という時にも、そこに何かが肯定されているということなのです。

(146―4)自己否定が手放せない
 前節で述べたことは、肯定と否定は同時に在るということでした。あることを否定するとき、その他の何かが肯定されていることが分かるということでした。
 それはおかしいと思われる方もいらっしゃるかと思います。なぜなら、人が自己否定しているとき、そこに肯定されている何かの存在がないからです。でも、これは単に見当たらないというだけのことであって、やはり、私は肯定されている何かを感じるのです。
 自己を激しく否定されている方々とお会いします。その方たちが自己を否定する時の口調を見れば分かるのですが、そこには否定以外の何かが感じられるのです。それも肯定的な何かです。
 その人が自己を否定しているのだから、きっと他者を肯定しているだろうと思われるかもしれません。中には他者を上位に立てる人もありますが、自己否定している人は基本的には他者否定的でもあるのです。自己を否定して他者を肯定するということは、私の考えではまず不可能なあり方なのです。それをしようとすれば、他ならぬ自分が人間から切り離されなくてはならないからです。もっと他のものが肯定されているのです。
 激しく自己否定している人は、その否定を肯定しているのです。つまり、自己を否定しているその人がまず在るわけですが、その自己を否定している自分が、積極的に肯定されている、もしくは、肯定的に体験されているということなのです。
 その人は自分を否定しています。自分を否定している自分を肯定しています。こういう在り方が可能だろうかとあなたは疑問に感じられるかもしれません。私はこの在り方はけっこう頻繁に見られるのではないかと思います。
 例えば、自分を犠牲にして他者のためにひたすら尽くすという神経症的な人がいます。DV「被害者」によく見られるタイプです。その人は自分を毀損し続けています。自分を否定し続けているのと同じです。でも、そこに価値を置き、あたかも英雄的な自己犠牲をしているかのように、それをする自分をどこかで肯定しているのです。ただ、この肯定は当人に気づかれていないことが多いのですが。
 もし、機会があれば、とことんまで自己否定している人が自己否定している現場に出合わしてみられるとよいでしょう。その様子を見れば、上記のことが分かるでしょう。彼らは自分を徹底して否定し、卑下します。でも、それをあたかも英雄的な行為であるかのように尊大に話しているように聞こえることは間違いなしです。
つまり、自分は人間失格だなどと自分を貶めることで、自分は他の人とは違う特別な人間なのだということを証明したがっていることが見受けられたりするのです。
 そして、この肯定的な要素がある限り、その人の自己否定は繰り返されてしまうのです。キルケゴールの言葉のように、理性ある人間は絶対的に自分自身を否定できない存在なのです。自分を否定しているようで、そこに肯定されている何かがあるために、その否定は当人には手放すことができない行為になるのです。

(146―5)否定の否定が肯定されること
 何が言いたいのかといいますと、人間は究極的には自己否定できない存在なのだということなのです。自己否定しているようで、それは自己否定しているように見えるということでしかないのです。肯定されている何かが同時的に在るのです。
 その肯定されている何かというのを、自己否定している自分であると措定しました。このことから理解できたことは、その肯定がある限り、その人は自己否定を止められないということでした。
それは、自己否定をしないようにしてなされる努力の方向を誤らせるのです。自分を否定することを止めるではなく、自分を否定している自分をこそ否定されなければならないということになるのです。
 例えば、「僕は人よりも劣っている」と言って自己否定している人がいるとしましょう。この時、「ダメだ、こんな考え方をしてはいけない」と、そこを止める努力を重ねてしまうのです。でも、自己否定することによって自己肯定を獲得してきたのですから、これは同時に肯定されているものをも手放すことになってしまいます。だから、これは当然苦しくなってきます。肯定的な何かが完全に得られないように思われるからです。
 そこで、「僕は人よりも劣っていると自己卑下することで、僕は自分を特別な人間だと信じる」という部分に対して、「でも、それは間違ったやり方だ」と言わなければならないということなのです。否定している自分が否定されなければならないというのはそういう意味なのです。自己否定から得られる肯定感こそが否定される必要があるというのが、私の考えなのです。
 ここで得られていた肯定感を否定するとなれば、この否定は同時に何を肯定するでしょうか。おそらく自己否定を放棄している自分を肯定していることになるでしょう。次に、このことをまとめて見てみましょう。

(146―6)要点
 上記のことを少し簡潔にまとめてみます。

まず、
・(命題1)私は自分を否定している。
・(命題2A)私は自分を否定している自分を肯定している。
 を初めに設定しました。両者は背理しない、つまり矛盾しないのです。(命題2A)が(命題1)を正当化し、強化してしまうのです。

この命題の行き着く所は、
・(命題3A)従って、私は自己否定を止められない。(もしくは、私の自己否定は正しい、とか、自己否定を止めたくない、)
ということになるでしょう。(命題1)は変わらず存続するでしょう。

そこで、この(命題2A)の部分こそ変える必要があるということを述べてきました。 
そうすると、
・(命題1)私は自分を否定している。
・(命題2B)私は自分を否定している自分を否定する。
という背理になります。

 これは、自分を否定し、自分を否定している自分を同時に否定するという背理で、(命題1)と(命題2B)は矛盾を起こし、両者が成立しないということです。(命題2B)があるが故に、(命題1)が成立しないのです。(命題2B)が(命題1)を排斥しているからです。でも、(命題2B)は(命題1)が成立しなければ導かれないものなのです。もし、この両者が両立してしまうと、その人は身動きが取れなくなってしまいます。
 この背理は肯定的な何かを付加することで解消される必要があります。そうすると、この命題の行き着く所は

・(命題3B)私は自分を否定している自分を否定する自分を肯定する。(つまり、私は自分を否定しているような自分を否定し、そのような自分を肯定するということ。自分を否定しない自分を肯定する、ということ)
 という命題なのです。これは結果的に(命題1)を覆すものになるのです。

 実際の人間の体験や感情は複雑なので、これほど簡潔に述べることができないのが実情だと思います。ただ、自己否定を止めようと努力を重ねてきた人が、しばしば上の(命題1)の部分しか見ておらず、そこだけをどうこうしようとされてきているのです。当然、この努力は報われることがありません。非常に残念なことだと思います。
 そうではなくて、その奥にある(命題2A)に働きかけないといけないのではないかということなのです。そこが変わらない限り、(命題1)が繰り返されてしまうでしょう。それが本項で私が述べたかったことなのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ147>否定―肯定の統合と超越

(147―1)否定と肯定の統合
 前項で述べたことは、否定と肯定は必ずその両方が含まれているということでした。私たちが何かを否定するときには、他の何かが肯定されているということであり、何かを肯定するためには他の何かが否定されなければならないということでした。
 そこからもう一歩進めると、私たちの変容とか成長という現象は、常に古い何かが否定され、新しい何かが肯定されることによって成り立つものであります。否定されたものはそのまま背後に追いやられるのかと言いますと、決してそうではありません。肯定されているものと同時に否定されているものの双方が見えて、初めて私たちにはその両者を統合する道が開けるということなのです。本項ではその点について私の考えているところを示そうと思います。
 まず、何かが否定されている時には他の何かが肯定されているということ、またその逆の場合も含めて、もう少し例を通して見ておくことにします。
 一人のクライアントとのカウンセリングにおいて、この方に「否定」がどのように現れ且つ感じられてきたかを見ていきましょう。このクライアントは30代の女性でしたが、人生に行き詰まりを感じてカウンセリングを受けに来られたのでした。

(147―2)女性クライアントの事例
 この30代の女性クライアントの詳細を述べることは控えましょう。彼女はとても不幸な経験を積んでいます。そして、その不幸に対して、彼女自身の目は開かれていませんでした。つまり、彼女は自分が不幸を経験しているということに無自覚なのでした。
 決して幸福ではないのに、自分が不幸であるということが見えていないということは、要するに、彼女はその時その時の安楽やその場限りの愉悦だけで生きてきたということなのです。
 カウンセリングを継続していくうちに、彼女は自分がいかに瞬間的なものにしがみついてきたか、刹那的な生き方をしてきたかが見えてくるようになりました。彼女は、深い後悔の念に駆られ、そのやり場のない怒りを私に向けてくるようになりました。
 私は彼女の将来に目を向けてもらうような話し合いを展開していきます。彼女はそれがとても辛いと話すのです。その理由も分かるのです。彼女は今では自分のこれまでの生き方を後悔しているのです。とても、将来は思い描けないし、思い描いていた将来が実現しそうにないということが実感されてしまうからです。
 そんな時、彼女は「先生は私のことを否定している」と言って憤慨されました。私はあなたのどこが否定されているように感じるのかを尋ねました。彼女は、自分の過去が否定されていると答えたのでした。私が彼女の過去を否定していると述べるのでした。
 彼女の語っていることは一面においては正しい。でも、私はあからさまに彼女の過去を否定しているわけではないのです。彼女がそれを否定したいのです。それを彼女は自分がそれをしているのではなく、私によってされているというように体験したいのです。詳細を述べないので伝わりにくいかもしれませんが、彼女が過去を否定していると私に対して主張する時、それは同時に彼女の願望でもあるということが感じられたのでした。
 さて、私は彼女に対してその過去を否定するというような言葉は現実には発していないのです。でも、心の内ではそれがあったということを認めます。つまり、彼女の過去の生き方は間違ったものであり、いわば、否定されなければならないものだという考えがあったのです。
 私はその意味では確かに彼女の過去を否定しているのです。でも、この否定は、彼女のこれからの生き方を肯定するものなのです。彼女のこれからの生き方に対して肯定的であるために、彼女の過去の生き方に対しては否定的な態度を取らざるを得ないのです。
 望ましいものを生み出すために、それを肯定するためには、望ましくないものは否定され、放棄されなければならないのです。
 彼女は、例えば、同年代の多くの女性たちが手に入れていることのわずかしか手にしていないし、わずかしか経験していないのでした。それが彼女の過去の生き方なのです。自分自身を狭窄する生き方をしていたと表現してもいいでしょう。彼女がそういう狭い世界で生きてきたことは、彼女の人格を貧困化してきたのです。彼女が自分が不幸だということに無自覚だったというのは、彼女の生きる狭い世界でおいてのみ、わずかの幸運的な出来事や一時的な快楽が経験できており、それが彼女の世界のすべてであるかのように感じられていたからなのです。
 この生き方は、私の見解では、否定されて然るべきなのです。たとえ彼女がそういう生き方しかできなかったという背景があるとしても、どこかでその生は改められる必要があるのです。

(147―3)否定を受け入れる
 カウンセリングを開始して、10か月ほど経過した頃に、彼女はそのような体験をするようになったのです。その後、どのように展開していったかを述べる前に、ここまでの経過に関して、いくつか補足的な事柄を述べておくことにします。
 開始してから、10か月の間にはさまざまな展開がありました。その過程において、先述の「先生は私の過去を否定している」という言葉が出てくるのです。詳細を述べなかったので、お読みいただいているあなたからすると、彼女がいきなりそういう発言をしたかのような印象を受けてしまうかもしれませんが、決してそういうわけではないのです。
 この間、彼女は自分のこれまでを振り返ってきました。外側に対しても、彼女はいくつかのことに挑んだり、開始したりしています。それらを話し合う過程で、彼女は自分が自分の思っているような人間ではないこと、気づいていなかったけれど本当に幸福ではなかったこと、自分の生き方が間違っていたのではないかといった不安が生じ、少しずつそれらが見えてくるようになったのです。このことは彼女自身にとって衝撃的な発見だったのではないかと察します。
 彼女は自分の過去を否定したいのだと私は感じていました。これをお読みのあなたにはそこがよく理解できないと感じられるかもしれません。そこで、なぜ、私がそう感じたのかということですが、受け入れがたいものを何とか受け入れようとする際に、人間がどういう方法を取るかという理解があれば、このことはよく理解できるのです。
 これを単純化して言うと、人が自分の何かを否定したい時、その否定する事柄があまりにも大きいと感じられる場合、あるいは否定することがとても苦しいというような場合、自ら進んでそれを否定することが難しいのです。そこで、一段落おいて、あの人がそれを否定するという形にするのです。こうして、自分が否定しているということは棚上げされてはいるのですが、その人の中にそれを否定しているという感情や事実は持ち込まれることになるのです。それはやがてその人自身のものになっていくものなのです。
 人はしばしばそのようにして自分の受け入れがたい事柄を受け入れていくのです。彼女もそうだったと思うのです。私は彼女の過去を否定するような言葉をはっきり述べているわけではありません。「そんな生き方はダメだ」とか「すぐに止めなさい」などとは言っていないのです。私は否定していないのに、彼女は私が否定していると述べているのです。それで私は上記の仮説を見立てていたのです。彼女は自分の過去を否定したくなっている、それが困難で受け入れがたいので、私によって否定されているという形で、一時的にせよ、折り合いを付けようとしているという仮説です。
 もう一つ疑問が浮かぶかもしれません。それは私がこの女性を十分に受容していないのではないかというものです。先取りして述べれば、その人に受容されているから、人はその人とともに自分の見たくないものを見ることができるようになるのです。
 私は彼女の人柄や在り方をそのまま受容しています。この受容に支えられているから、彼女は既に10か月ほど通い続けてきたのです。もし、受容がなければもっと早い段階で彼女はカウンセリングから去って行ったでしょう。
 <テーマ145>で述べたことですが、受容は必ずしも許容を意味するのではないのです。私は確かに彼女のこれまでの生き方は改められる必要があると感じていました。カウンセリングもその目的に沿ってなされていました。何か改善すべき点がその人にあるからこそ、その人は壁にぶち当たっているのです。私がその人の抱える「問題点」を見て、把握しておくことは私の職業倫理だと私は考えています。そのことは、つまり、彼女のどこが間違っているかという問題の把握と、彼女を受容するということとの区別であります。間違った何かを抱えている彼女が、カウンセリングの場面では、確かに受容されてきたのです。
 彼女は現実には受容されることのない生活を続けてきました。それが彼女の過去の生活だったのです。彼女は自分の世界や自分自身を縮小することで生きながらえてきて、それから得られるわずかのことに満足してきただけなのでした。それが自分の世界のすべてだと信じて、そこに疑問を抱かずに彼女は生きていたのでした。
私が彼女を受容しないとすれば、彼女はその生き方を続けるでしょう。受容されなかったということが、彼女の過去の生き方の形成に一役買っているからであります。つまり、彼女が同じ経験をし続けるなら、彼女は同じ生き方を続けていただろうということです。
 でも、彼女が過去の生き方を否定したくなっているとすれば、彼女は過去に経験できなかったことを経験するようになっていたはずなのです。それが自我異質的に体験されるようになったので、否定したくなっているのです。
 
(147-4)否定から肯定的な何かが生まれる
 彼女の事例に戻りましょう。ここからしばらくは簡略化して述べることにします。
 彼女は自分の過去の生き方を後悔しています。それが表現されます。「あの時、もっとこうだったら良かった」とか「こうしていたらもっと違っていたのに」とか、そういう話が増えてきます。私はその後悔をもっと話すように彼女を促します。
 その後の3~4か月間は、こういう後悔の話に従事するのですが、その中において、彼女の表現に違いが生まれてきます。つまり、それは「あの時、もっとこうだったら良かったのに」といった後悔は、「あの時、もっとこういうことがしたかったのに」という後悔の表現に変わってきたのです。彼女の願望がそこに入ってくるようになったのです。
 さらにカウンセリングが継続していって、彼女は焦燥感に駆られるようになりました。それは「君はまだあれもしていない、これもしていないではないか」という声を聴くような思いだったそうです。否定と肯定という観点に立てば、これは彼女の中に肯定的な何かが生まれてきているということを意味します。
 こういう自分を駆り立てるような声、使命感を呼び覚ますような声、それが生命感情だと私は考えています。心の躍動性はそういう形で当人に示されるものだと私は体験しています。
 彼女はそうして、自分が何をすべきなのかを考えるようになりました。それを実際にやっていくには困難なことがいくつもありましたが、彼女はこれからの生き方に対して既に肯定的になっていると捉えることができるでしょう。
 もう少し、丁寧に表現するなら、彼女は過去の生き方を否定しているのです。将来の生き方に対して肯定的になることがこの時点ではできていなくても、少なくとも、過去の生き方を否定している自分が肯定されているのだと私は思いました。なぜなら、過去の生き方が否定され、その否定する自分も否定されているとすれば(これは<テーマ146―6>で示した背理状況です)、彼女は身動きできなくなって、何も行為できなくなっていたでしょうし、あのような駆り立てる声を聴くこともなかっただろうと思われるからなのです。

(147―5)肯定―否定を超えて
 彼女はやがて新しい生活を始めるようになりました。分からないことだらけで手探りでそれを始めたのです。新生活を始めるようになって、彼女はカウンセリングに来る時間的な余裕が乏しくなったと言います。その後、しばらく継続した後、彼女はカウンセリングを終えられたのでした。
 再び否定と肯定という観点で考えてみましょう。
 彼女は自分の過去を否定しています。もし、これが否定だけであるならば、彼女は自分の過去をなかったことにしようと努めるでしょう。でも、彼女はそうはしていません。彼女は過去を否定しているのですが、その過去を決して捨ててはいなくて、それを糧にして生きようとしています。ここには、過去に対して否定以外の何かがあるということが窺われるのです。何かが肯定されていると考えるのが妥当だと思うのです。
 過去を否定し、その否定が見えており、否定していることが肯定されているから、彼女はそれを否定することができるのだと私は思います。過去を否定することによって、彼女の生活には肯定的な何かが新しく付加される余地が生まれています。
 否定されてきたものと、これから肯定されていくものと、その両方が見えているから、人はその両方を受け入れることができるのだと私は考えています。両方が見えると統合的になるというのはそういう意味なのです。
 さて、彼女とのカウンセリングはそこで終わりになったのですが、もし、彼女が自分の生を生きていくことができていれば、次のような段階に進んでいるだろうと思います。
 過去の否定と現在と将来の肯定という二分法で見てきましたが、もはやそのような二分法で自分の人生を捉えていないだろうということです。
 現在の力が強くなればなるほど、人は過去からの影響力に囚われなくなるものです。そうなると、過去のことは過去に位置付けられていくのです。そうして、単にそこに在るというだけの過去は、その人に影響を及ぼすことがなく、肯定も否定もないのです。過去はその人の内において在り、現在へと統合されているのですが、その過去によって苦しむことがなくなっていくのです。

(文責:寺戸順司)






 本ページは以上です。ご読了お疲れ様でした。
 否定―肯定ということは、考えていくと、それほど単純な問題ではないということに思い至りました。
 私なりの見解を述べましたが、随所で説明不十分な点や難解な点もあったかと思います。そのことを承知の上で公開すしておりますことは、何卒、ご了承くださいませ。