ひきこもり(3)

「ひきこもり」(3)ページ―INDEX

<テーマ140> 「ひきこもり」の「特有感覚」(1)
<テーマ141> 「ひきこもり」の「特有感覚」(2)
<テーマ142> 「特有感覚」と自己愛






<テーマ140> 「ひきこもり」の特有感覚(1)

(140―1)映画『チャンス』より
 ピーター・セラーズ主演の映画で「チャンス」という作品があります。
 主人公のチャンスはある屋敷に住み込む庭師です。ある時、屋敷の主人が亡くなって、彼は屋敷に住むことが許されなくなりました。彼は屋敷を後にし、初めて外の世界に出ていくのです。
 彼は車道の真ん中を歩いたり、ガードマンに庭の手入れのことを話したりします。不良グループにからまれて、彼はテレビのリモコンで応戦します。そして、この不良グループの捨て台詞を律儀に伝達しようとするのです。
 チャンスのこうした行為は観客には「ズレ」たものとして映るのです。そして、彼がいかに世間を知らずに生きてきたかということをも暗示するのです。
「ひきこもり」の人と面接していると、しばしばこれに類した「ズレ」を経験することが私にはあります。
 この「ズレ」を的確に表現する言葉を私は知らないので、取り敢えず、ここでは彼らの「特有感覚」と名付けておくことにします。本項ではこの「特有感覚」について述べることにします。
ちなみに、「特有感覚」の対義語は何かと言いますと、「コモン・センス」です。「コモン・センス」というと「常識」という意味になるのですが、ここではむしろ私たちが無意識的に共有している感覚という意味であることを強調しておきたいと思います。

(140―2)自分の「感覚」に苦しむ「ひきこもり」たち
「ひきこもり」を体験されている人たちが、自分の「特有感覚」に苦しむことになるのは、彼らが外に出るようになってからです。チャンスがそうであったようにです。
 彼らは次のような表現をします。
 ある男性は「自分は他の人たちと何か違うものを感じてしまう」と述べられました。
 同じく男性のクライアントでしたが、「何か自分だけ輪の外という感じがしてならない」というように述べられました。
 女性のクライアントは「みんなと同じものが自分にはないようだ」と語り、他の人たちが普通に有しているものが自分には欠けているのではないかという不安を語るのです。
 また、別の男性クライアントは、周囲の人から彼一人が何かズレていると指摘されて、初めて「自分の何がズレているのか分からない」と悩むようになりました。
 決して彼らに常識が欠けているとか、そういう意味ではないのです。これはもっと感覚的な現象であります。彼らにとって、自分がそれを有しているのは当然のことであり、それが彼にとって「常識」になっているのですが、周囲の人から見れば、彼らは何か独特の感覚、感性を持っているように映るのです。
 そして、こうした「ズレ」に直面させられてしまうということは、彼らにとってはひどく傷つく体験であり、脅威として体験されてしまうことも稀ではないのです。さらに、彼らをして疎外感に陥らせ、自分があたかも集団の中において異邦人であるかのように体験してしまうのです。
 後ほど述べたいと思うのですが、彼らがそういう体験をしている時、私にはそれは再学習の機会であるようにも思われるのです。でも、一方で、せっかく人の中に出て、社会の中で生きようとしている彼らがこれを契機に躓いてしまう危険性もあるのです。だから、このことは非常にデリケートな問題でもあるのです。

(140―3)「特有感覚」は伝わる
「ひきこもり」の人が私の面接室を訪れるという場合、多くはこれ以上ひきこもることができないという状況に置かれているのです。彼は就職しなければいけないという立場に追い込まれているのです。
 でも、彼は自分がまだ働けるレベルではないと体験していたりもするのです。就労ということが、あたかも、自分の能力をはるかに超えているものとして体験しているということなのです。
 時代が違えば、彼らの就職もそれほど困難ではないかもしれませんし、就職してからも彼らは抱えてもらえるかもしれません。残念なことに、就職難の時代の上に、彼ら自身に就労経験が乏しいということで、彼らの就職活動は一層困難を極めてしまうのです。
「ひきこもり」をしていたクライアントが就職活動をします。当然、彼らは履歴書を提示しなくてはなりません。この履歴書を送付する時点で不採用になってしまう人もおられるのです。どうしても経歴の上で空白の部分が生じてしまうからであり、それに対して採用する側を納得させるような理由がないためなのです。
 仮に、履歴書を受理してもらえて、採用面接まで漕ぎ着けることができたとしても、その面接で不採用になってしまうという例も私はいくつも見てきました。私は個人的にこう思うのですが、面接官には何かが分かるのではないかと思うのです。何か感覚的なものが伝わるのではないかと思うのです。
 でも、暗い見通しばかりではありません。もし彼らが就職を諦めなければ、何度も不採用を経験して、たとえアルバイトでも採用の通知を貰えるようになることもあるのです。なぜ、ずっと不採用続きだった人が採用を得られるようになるかということですが、大抵の場合、彼らは「面接に慣れたからだ」などと答えるのです。でも、私は彼らの「特有感覚」が修正されてきたからだというように捉えております。
 ある「ひきこもり」男性に、私は就職についていろいろ質問していました。彼は自分の就職に関して次のような物語を始めました。
 彼がどこかの企業に就職します。そこで彼は悪いことをする人たちの罠にかかってしまうだろうと言うのです。悪いことというのは、例えば賄賂を受け取るとか、会社の金を横領するとかいうことであり、自分がそういう事件に巻き込まれてしまうということなのです。そして、もしそういう事態に陥った時、自分は決して助からないと話されたのです。
 私は彼に「どこでそういう話を聞いたの」と尋ねてみました。彼はそういう情報をすべてフィクションの物語から学んだのでした。
 そういう事態が生じないと断言することはもちろんできないのですが、大多数の労働者は悪に手を染めることなく生きておられるのです。
 でも、おかしいのは彼がそれを語る時の語り方でした。まるで悪の一団が自分を落とし込もうとして企んでおり、自分はその一団に狙われているかのように話されるのです。
 これは彼の空想であります。この空想は、彼がいかに社会や企業に対して、そこを恐ろしい場所であると体験しているかを表しているのです。だから、彼は自分の恐れを表現されているのです。でも、何とも漫画チックな発想ではないかと私には感じられたのでした。
 こうした発想も彼らの「特有感覚」として捉えられるものだと思います。

(140―4)年齢との乖離
 時々、彼らはどこからそういう発想をするのだろうと不思議に思うことが私にはあります。私もまた、彼らと面接していて彼ら特有の「ズレ」を感じ取ってしまうのです。
 この「ズレ」の感覚をうまく表現することが難しくて、実は私も困っていました。本項を書き始めてから公開するまでに2年もかかっているのはその点にあるのです。
 あまりこういうことを述べると、「ひきこもり」の人を非難していると思われてしまうかもしれません。私自身はそういうつもりで述べているのではないということを明示しておきます。
 彼らの「特有感覚」は、ある意味では「マンガ的」とでも言い得るようなものであり、人によっては「世間知らず」と見做されるようなものであり、現実的なようでたくさんの非現実を含んでいるような感覚なのです。
 採用面接の面接官も彼らからそういうものを感じ取っているのかもしれません。たくさんの人と面接している人であれば、彼らから何か一般とは違う独特な感覚を感じることがあるのかもしれません。
 そして、この感覚は、私の印象では、どこか子供っぽいのです。これは見た目が若く見えるとか、童顔であるとか、そういう意味ではありません。
 発想や感覚、あるいはその言動などがどこか「幼稚くさい」ように受け取られてしまうのです。そして、「ひきこもり」の「ベテラン」になればなるほど、現実の彼の年齢との乖離が強調されてしまうのです。
 彼らを援助する際に、どうしてもそれは取り上げなければならない課題となるのです。私はそのように考えております。

(140―5)再び『チャンス』に戻って
「ひきこもり」の人たちが有している「特有感覚」なるものを、彼らが周囲の人たちと「ズレ」ているという感じを理解してもらうには、私の拙い文章では不十分だと思っています。
 もし、「ひきこもり」をされている人と接しているという人であれば、私の述べていることが何となく「これのことか」という程度には分かってもらえるかもしれません。
 ここで、私は冒頭で挙げた映画「チャンス」に戻りたいと思います。
 屋敷を出た後のチャンスの言動は、やはり周囲とは「ズレ」ており、彼に「コモン・センス」が欠けていることを私たちは知るのです。
 チャンスが車道の真ん中を歩くということは、彼が交通ルールを知らず、それが内面化できていないことを表しているのです。
 ガードマンに植木のことで忠告するのは、彼が人それぞれにある役割というものが理解できていないことを表しているのだと思います。
 しかも、彼は屋敷では庭師でしたが、外に出ても、いついかなる場面でも、彼は庭師として振舞うのです。これは彼が他のペルソナを被ることもできないし、その場面場面に応じて自己のペルソナを使い分けることができないということを示しているように思います。
 不良グループに囲まれた時、彼はテレビのリモコンで応戦しようとしました。テレビの画面がそれで瞬時に消えるように、彼らもそれで消すことができると信じていたのでしょう。これは「魔術的思考」であり、彼がその段階にとどまっていることを示しているようです。
 さらに、テレビのリモコンというものは肝心のテレビがなければまったく意味のないアイテムであります。彼はそれを持って屋敷を後にしたのです。このリモコンは彼の「補助自我」だったのだと思います。
 また、こういうアイテムと言いますか、「補助自我」を必要としているという辺り、彼がいかに外の世界に対しての恐れを抱いているかを推測させるのです。
 不良グループのリーダー格の捨て台詞を律儀に伝達しようとするのは、彼がコミュニケーションを理解できないということを示しているのだと思います。メタ・メッセージを理解し得ないのです。
 そのことは、彼がコミュニケーションに関しての体験がいかに不足しているかを示すものだと思います。
 彼は外の世界で起きている事柄を理解できません。愛されるということがどういうことかも彼には理解できないのです。彼には庭師という顔とテレビの視聴者という顔しか持ち合わせていないのです。
 もし、この映画をご覧になられた方で、チャンスの言動に「ズレ」を感じた覚えがあるという方であれば、私の述べている「ズレ」とか「特有感覚」というものが何となくでも理解していただけるのではないかと思うのです。
 映画では、その「ズレ」が面白いように現実を動かしていくのです。映画としては、とても楽しい場面にあふれています。
 しかしながら、このような「ズレ」や「特有感覚」だけで現実を生きていくことは困難なことなのです。
 分量が多くなりましたので、ここで一旦、項を終えたいと思います。事項において、この続きを述べていくことにします。事項以下、事例を提示する予定でおりますし、「自己愛」との関連をも取り上げる予定でおります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ141> 「ひきこもり」の「特有感覚」(2)

(141―1)「特有感覚」と周囲の反応
「特有感覚」とは、取り敢えず私がそう名付けている現象であり、その対義語は「共有感覚」(コモン・センス)となります。
「ひきこもり」をしている人が独りでいる時は、こうした感覚は問題にはなりません。でも、彼らが人の中に出た時、社会的な場面に入った時に「特有感覚」が問題になるのです。
 彼らは自分と周囲の人たちの差異を体験してしまうのです。その体験は「自分だけが浮いている」とか「場違いな感じ」「ズレている」「輪の外にいる感じ」というように表現されるのです。あるいは、周囲の人からそのように評されてから、それに気づいたという場合も少なくないようです。
 このような体験は、彼らをして疎外感や自分が異邦人であるかのような感じに導くようであります。
 彼らは、そこで、自分が他の人たちとは何か違うとか、隔たっているといった感情に襲われるようであり、とても大きな衝撃であり、深く傷つく体験になってしまうのです。
 私は彼らの「特有感覚」と呼んでいますが、これを理解してもらうのはなかなか難しいと感じています。どうも上手く言葉にできない事柄であるように感じています。
 彼らの「特有感覚」が発揮された時、周囲の人がどのような反応を示しているかを見るのも、このことを理解する一助になるかもしれません。次に私が実際に「ひきこもり」のクライアントたちから感じたことや、彼らから話されたことを述べていきます。
 まず、周囲の人にとって、それは驚愕なのです。「なんでそんなことをするの」とか、「なんで今それをやるのかな」とか、「どうしてそんなことが言えるのか」とか、周囲の人はそういう反応を示すことが多いようです。
 彼らが間違っているとは指摘されないのですが、「どういう感覚をしているんだ」といった反応を返されることが多いように思います。中には「なんでそんなことも分からないんだ」というように驚愕されたと報告したクライアントもおられました。
 彼らの「特有感覚」が発揮されると、周囲の人はまず理解に苦しむという体験をされるのではないかと私は思います。どうしてそういうことを言ったりやったりするのか分からないという体験なのです。そこで、恐らくですが、周囲の人たちも彼らとの間に感覚的なズレを感じてしまうようなのです。
 彼らと面接している私も時には「どこからそういう言動が出てくるのかな」と首をかしげたくなる思いを体験することがあるのです。それがどういう意味合いを持ち、どういう背景から発せられた言動であるかということは置いておくとして、とにかく、それは彼らに特有なもののように思えて、どこかズレとか差異のようなものを最初に感じてしまい、すぐには彼らがそれをする理由が把握できないという体験を私はするのです。

(141―2)「特有感覚」は短所でもあり長所でもある
「ひきこもり」歴のある男性クライアントが仕事に就きました。ある時、休憩時間でしょうか、仲間たちが輪になって談笑しています。そこに彼が入って、その中の同僚の一人に仇名を考えたと言います。皆は興味をもって、それがどんな仇名なのかを彼に尋ねます。彼がその人に付けた仇名は、いささかその人に失礼なものなのです。彼の話では、誰もその人のことをそんなふうに呼んだりはしないそうです。彼は無邪気にこのエピソードを私に話してくれたのですが、もしかしたらその場が凍りついたかもしれないなと私は思ったのです。
 ある意味では、これは礼儀とかマナーとかいう領域に関わっていると言えるかもしれません。でも、そういう領域だけの話でもないのです。
 私が言う「特有感覚」とは、確かに輪郭が曖昧で分かりづらいかと思います。私自身、適切な表現が見当たらずに苦心してきたのです。ブランケンブルグの症例アンネの言う「自明性の喪失」はそれに近いかもしれません。周囲の人にとって自明な事柄が失われているとか、自分に備わっていないというような体験のことであります。
「世間知らず」とか「非常識」とか「礼儀知らず」と言った言葉は、一部分については該当するかもしれないのですが、でも、それだけではないのです。それにそうした言葉が含むほど否定的なニュアンスのものばかりでもありません。
 彼らの「特有感覚」は、時には彼らが周囲の人と交わる際に役に立つこともあります。独特の感性とかユーモアを持っていたりするので、それが人間関係にうまく働くこともありますし、仕事の上でも独自の発想になったりする場合もあるようで、必ずしもそれが悪いというわけではないのです。その「特有感覚」は、彼らに個性というか、ちょっと人とは違った雰囲気を醸し出していたりもしており、その人の魅力にもつながるものであります。私はそのように捉えています。
 次節において、一人の男性クライアントの例を提示します。特に指摘はしないつもりですが、いくつもの「ズレ」が感じられるのではないかと思います。

(141―3)就職活動を開始した「ベテラン」の事例
 高校入学直後から不登校に陥り、その後、二十年近く「ひきこもり」を続けてきたという男性が、ある時、私の所へ相談に訪れました。
 彼の両親は健在でしたが、年老いて、彼を今まで通りに養うことができないと言うのです。毎日のように、彼は親から「どこでもいいから何かして働いてくれ」と泣きつかれるという状況でした。そこで、彼は働かなければならないということになったのです。
 高校へはほとんど行ってません。彼の実質的な最終学歴は「中学卒業」ということになります。
 その上、仕事を探すにしても、彼は何一つ資格を有していないのです。バイクや自動車の免許すら持っていないのでした。パソコンには詳しいようでしたが、それは例えば企業が求めるようなパソコン技能に精通しているというわけではないようでした。
 その彼が思い立って就職活動を始めているのです。たいへんな決断だったことでしょう。それに、それは素晴らしいことであり、応援したい気持ちになるのです。でも、彼はもっぱら一流企業であるとか、大手企業に応募しているのです。
 その時、職種に関しては一切考慮されていないのでした。メーカーであろうと、販売店であろうと、彼が応募する基準はそこが一流とみなされているかどうか、大手であるかどうかということだけなのでした。自分は一流企業か大手企業で働かなければいけなくて、自分は当然そうあるべき人間なのだと、彼は信じているようでした。
当然のことですが、そういう企業から彼は相手にされません。雇う側からしても、「中学卒」「高校中退」で、何の資格も有していない彼を雇うことは難しいだろうと思います。一体、彼がどういうことに向いている人間であるのかもまるで把握できないからです。
彼はいろんな企業に応募していました。企業の方では、彼のような経歴の人はいささか敬遠されてしまうものだと思います。
そして、これが現実なのです。この厳しい現実に、彼は痛々しいほど「自己愛的」傷つきを体験していました。彼は自分の空想の中で信じていたほど優れた人間でもなければ、当然だと信じていたほど周囲は自分を無条件には受け入れてくれはしないのだということを、ありありと体験していたのでした。
彼のこれまでの生き方が悪いとか間違っているとかいう話をしているのではありません。もし、彼が彼の思い描く通りの生き方をしようとするなら、彼は「大学卒で有資格者」であることが最低限の前提条件でした。彼はただそのようには生きてこなかったのです。
 二十年近く「ひきこもり」歴があるのですが、その間に彼は何をしていたのでしょう。彼は一度だけアルバイトをしたことがあると話してくれました。それは二か月くらい続いたそうです。
 彼にとって、二か月のアルバイトは確かにたいへんなことだったかもしれませんし、かなりの苦労もされただろうと察します。でも、彼が信じているほど、この二か月間のアルバイト経験は優れたものではないのです。彼が二か月で辞めた理由は問いません。彼のような「ひきこもり」をしている人が二か月間も働いたということは、確かに偉業ではあるかもしれませんが、一般的にはそのようには見做されないものなのです。
 どんなアルバイトでも、最初の一か月くらいは見習い期間になると思います。見習い期間を終えて、ようやく仕事ができるようになって間もなく、彼は辞めているのです。もちろん、まだまだ新人で責任ある仕事を任されたりはしていなかったでしょう。
 しかし、彼は、無邪気にも、この二か月間の体験があるから、自分は社会に通用すると信じていたようであります。
 今回の就職活動は、彼が親に泣きつかれるようになってから始めています。親が「働いてくれ」と泣きつくので、彼は職探しを始めているのです。それまでは「働いてくれ」と言われることもなかったので、それでいいものだと彼は信じていました。
 アルバイトも、ある時、親から「アルバイトでもしてみたらどうだ」と言われて始めたのでした。
 このカウンセリングも、彼は「難しいのならカウンセラーに相談してみては」と親から言われていたのでした。
 言われたらやってみるけれど、言われなければしなくていいのだという信念が彼にはあるように、私は感じました。つまり、彼は自分の人生に本当には関わっていないのです。
 そして、狙う所は一流なり大手の企業です。業種はまったく問われていません。適性とか興味とかをまったく無視して、自分が働くとすれば一流なり大手なりに決まっているという感じでした。そして、そういう企業が自分に値する所だと信じているというような、ある種の尊大さが彼には見受けられるのでした。
 しかし、彼の経歴はあまりにもみすぼらしいものでした。彼はそのことを決して理解しようとはしませんでした。二か月もアルバイトを継続したことがあるという、その事実だけにしがみついているのです。それは彼が信じているほどの効用がないにも関わらずにです。
 彼がカウンセリングを受けに来た時、彼は「とにかく就職できるようにしてくれ」と私に頼むのです。「それはあなた次第ですよ」などと私が言おうものなら、彼は恐ろしく激怒するのです。そして、「あなたはまるで私を魔法使いか何かのように信じておられるようだ」と伝えてみますと、彼は「だって、あなたはそういう人なんでしょう」と平然と答えられたのでした。
 彼はネットの世界ではそれなりに人気者だと話してくれました。現実には一人の友達もいないにも関わらずです。そして、自分のような人気者を採用しない企業はどうかしているし、自分のような人気者が助けてもらえないなんておかしいという口ぶりなのです。
 この男性とは一回限りの面接で終わりました。彼の求めるようなものを私は与えることができない、それは私の能力をはるかに超えているからだと私は説明しました。彼は「カウンセラーって、人を幸せにするものでしょう」と言います。実際、私はどこにもクライアントの幸福を保証するというような文章は書いていないのですが、彼はそのように捉えていたのでした。
 私は「あなたは何を選んでも構いません。自分の求めているものを与えてくれそうな人を探してもいいのです。少しでも自分自身を振り返るというのであれば、私も尽力するつもりではありますが、必ずしもあなたの満足のいくことばかりとも限らないものです」と伝え、今後どうするかを決めてもらうことにしました。彼は「考えます」と言って帰られましたが、「考えます」と言うすべての人がそうするように、彼もそれ以後まったく連絡することもなく過ぎていったのです。
 この男性を分析することはここでは控えましょう。脆弱で希薄な自我を過剰な自己愛備給で保障していたのですが、自己愛的な傷つきのために脆弱な自我が露呈してしまいそうになっているのを一次的な防衛機制を発動させて自分を維持しているということが窺われるのです。
 本項では「特有感覚」について述べています。これを読んだあなたが、彼の言動に少し「普通とは違うな」というような点を感じられたとすれば、それが彼の「特有」な部分なのです。

(141―4)大人社会への憧れと恐れ
 上記の事例の男性は、少なくとも、大人社会を知ることなく生きてきたのだと言えるのではないかと思います。
 私たちが子供だったころを思い出していただきたいのですが、大人や大人社会に対して、すごく反発感を覚えたり、恐ろしいと畏怖したり、不潔で汚らわしいと思われたりしたという経験をお持ちではないでしょうか。
 私には子供時代にそういう経験をしたことを覚えています。その感覚を忘れたのか、克服したのか、何とも言えないのですが、いつのまにか大人社会に足を踏み入れ、当たり前のようにそこに適応してしまっているのです。恐らく、他の人たちも同じような経験を多少なりともされているのではないかと私は思うのです。
「ひきこもり」の、それも「ベテラン」の人たちとお会いして私が思うのは、彼らはその感覚をいまだに持ち続けているのではないかということです。
 彼らの話では、大人は「悪」であり、大人社会は「悪」や「犯罪」が渦巻いている世界であるかのように語られることも多いのです。
 さらには、人間には「裏表」があるものだということが、彼らにはどうしても受け入れがたいのではないかと思います。上記の男性も、「応募の宣伝ではうまいこと言っているのに、応募したらまったく採用しないとはなにごとか」と立腹されていました。募集の宣伝文句と現実の採用とはまた違ったものであることが彼には理解し得ないことのように思われました。
 そうして、彼らの「人間観」とか「社会観」というのは、ある意味で、とても純粋で純情なのです。
 彼らのこの感覚が、彼らをして「大人社会」へ踏み出すことを思いとどまらせてしまうことに一役買っている場合もあるように私は感じます。
 ある「ベテラン」のクライアントは大人を「汚い」と語りました。そのことは「汚い大人の仲間入りすると、自分も汚い人間になってしまう。自分が汚くなって堕落するくらいなら、大人の仲間入りはしたくない」という観念を生み出しているようでもありました。
 ところで、なぜこの人にとって、大人は「汚い」存在でなければならないのかということが私には気になるのです。
 大人の側を「汚い」と措定することで、彼自身は「きれい」な存在であるという感覚が維持できるのだろうと思います。
 では、なぜ彼は「きれい」でなくてはいられないのでしょうかということが、同じように疑問になります。ここでは彼のある部分が否認され、排斥されているのを私は感じます。
 つまり、彼は自分が「きれい」ではないから、自分に「きれい」ではないものがあるから、自分は「きれい」でなければならないということになっているのだと思います。
 自分が「きれい」ではないということは、彼は自分の中に、自分でも見たくない「汚い」ものを多分に抱えているのだろうと思います。「汚い」ものがそこにあるのが彼自身に感じられているのではないかと思います。
 でも、その「汚い」ものは何としても否定したいし、自分の中から排除したいのです。その人が大人を「汚い」と言って非難する時、彼は彼自身の中にある何かを非難しているのでもあるのです。私はそう捉えていました。その人が大人や大人社会に対して発言する時には、同時に彼自身の何かについて語っているわけであり、自分の見たくない部分を、大人の側に見出しているということになるわけなのです。
 こうした「投影」によく注意しておくと、「ひきこもり」の人を理解するうえでとても役に立ったという経験が私には個人的にあります。
 ある「ひきこもり」の男性クライアントは、中学生の頃にいじめに遭い、不登校に陥り、それ以後「ひきこもり」になってしまいました。その人は社会もまた中学校と同じように恐ろしい場所であると信じていました。彼は、中学生の頃の学校や教室、クラスメートたちといった世界を、そのまま大人の社会に投影しているのです。中学校の教室で起きたこととそのまま同じことが会社で生じるだろうと信じていたのです。
 彼らが大人や社会を「汚い」とか「悪」として感じたり、恐れたりするのは、その社会の中で生きている人を彼らが知らないという観点もあります。彼らの身近にモデルとなるような大人がいないということなのです。この点はとても重要なことでありますので、項を改めてテーマとして取り上げたいと思います。
 彼らが「大人社会」を汚らわしいと感じたり、恐れを感じたりしているとしても、その一方では、何か「大人社会」への憧れみたいなものを抱いているという印象をも私は受けるのです。
 彼らにとって「大人社会」は、手の届かない世界でもあり、怖いのだけれども、一方で、その世界の仲間入りをしたいという感情もあるようで、それは彼らの空想内容を読み解くと感じられるのです。そして、仲間入りしたいという感情の方をいかに育てていくかということも、「ひきこもり」に関しては、大切な観点であると私は考えております。
 彼らの「特有感覚」は、彼らと周囲の間に亀裂を生み出し、彼らは傷ついてしまうのです。そのことが、仲間入りをしたいという感情そのものへも影響を及ぼしてしまうので、私は問題意識を抱えているのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ142>「特有感覚」と自己愛

(142―1)修正と再学習
「ひきこもり」の人たちの「特有感覚」という概念を2回にわたって述べてきました。
 この感覚自体はそれほど問題ではないのですが、これが彼らと周囲の人との差異を見せつけるので、時に彼らは傷つき、再び人間社会から引き下がりたくなってしまうこともあるのです。ここをどうサポートしていくかということが、「ひきこもり」の援助でとても重要であると私は認識しています。
 周囲の人が当たり前に共有している事柄が、自分にはないという体験を彼らはしてしまうのです。しかしながら、これは何も不思議なことではありません。彼らはひきこもっていたが故に、それを単に知らないだけだと捉えて構わないからです。
 私たちは人生の初めからコモン・センスを身に着けて生まれるわけではないのです。その後の経験によって、いつしかそれを身に着けていくものです。
 それに、私たちはコモン・センスだけで生きているわけでもありませんし、すべての人がそれを完全に身に着けているわけでもありません。不十分にしか身に着けていなくても、それなりに適応的に生きることも可能なものであります。
 そして、ある程度までの「ズレ」は許容されたり、見過ごされたりすることもけっこうあるものであります。
 従って、彼らがもし自分の「特有感覚」のために苦しんでいるとすれば、これからそれを修正し、学んでいけばいいというだけのことになるのです。
 私には確かなデータがあるわけではないのですが、人間社会の中で生きるようになれば、大体一年もあればかなり「コモン・センス」は身に着くものだと捉えています。このことは、例えば、大学生と入社一年を経た会社員とを比較してみればよく理解できることなのです。
「ひきこもり」の人が自分は周囲の人たちと決定的に何かが違う、何かが備わっていないという感じに苦しんでいるとしても、それは必要な苦しみであり、そういう体験を通して彼らは新たなことを身につけたり修正していくことが可能なのです。

(142―2)教えられることが脅威になる
 ここまで読んでこられて、もしかすれば、「それが分かっているのならカウンセラーであるあんたが彼らに教えてやればいいじゃないか」と思われる方もあるかもしれません。それに、その指摘はもっともなものであります。
 実は、私は一時期そういうことを試みたことがあります。私のやりかたが下手だったのか、彼らの側にある何かのためか、これは上手くいきませんでした。
 彼らの多くは、私の経験した範囲では、人から教えてもらうということに耐えられないのです。そして、しばしば反発したり、聴く耳を持たないといった態度に出られるのです。「それはこんな風に考えることもできるんじゃない」と私が述べただけで、「それは暴力だ」と返してきた人もありました。彼らにとって、こうした働きかけは耐えられないことなのです。
 彼らの強すぎる自己愛が、彼らをして人から教えてもらうという出来事を屈辱であるかのように体験させてしまうのだと思います。彼らは人から教えてもらうということに耐えられないようでありますし、それは非常に彼らの何かを損ねる出来事なのであります。
 従って、彼らがこの先傷つかないように、苦しまないようにと思って、前もって教えておこうという試みはどうしても失敗してしまうのです。それ以来、私はこの方法を断念しています。
 さて、彼らは他の人たちが普通に共有している感覚が自分にはないようだと気づく瞬間がそのうち訪れます。その時に彼らが体験するのは驚愕であり、困惑であり、傷つきであります。みんなが普通に知っていることを自分は知らないという、実はそれだけのことなのですが、これが彼らの自尊心を大きく損ねることになります。
 知らないだけなのだから、謙虚に学んでいけばいいだけのことなのですが、彼らの自己愛は人から学んだり教えてもらうことに対して、激しく抵抗してしまうのです。
 こうして、彼らは一つの段階からなかなか抜け出すことができなくなってしまうのです。ここを彼らにどう理解してもらうかということ、並びに、この事態に対して私がどのような働きかけができるかということが、「ひきこもり」の人を援助する際にとても大きなテーマとなっているのです。

(142―3)壊れやすい自己愛
 自己愛の問題はとても大きいテーマでありますので、別に項を設けて取り上げるつもりでおります。ただ、人間は誰しも自己愛を有しており、自己愛そのものが問題なのではなく、その人がどんな自己愛を有しているかということが問題となるということをここでは強調しておくにとどめます。
 自己愛の問題は「ひきこもり」の人に限ったことではありません。しかし、「ひきこもり」をしている人の話には、尊大な自己愛を示すエピソードが頻繁に出てくるというのも事実であります。
 前項で20年近くひきこもってきた人の事例を挙げました。彼には2か月間のアルバイト経験がありました。しかしながら、20年の間に2か月というのは、ほとんど無いに等しいものであります。でも、彼はその2か月の体験があるから、自分は一流企業でも通用すると信じているのでした。これもまた自己愛なのです。
 また、あるクライアントは私用で平然と遅刻することが多々ありました。相手が待っているとは信じられないかのようでした。別のクライアントは「自分はいつも5分前にここに着いている。だから僕ほど真面目なクライアントはいない」と私に語りました。
 女性のあるクライアントは仕事を始めて、ある時、先輩からひどく叱られたという体験をして、とても落ち込んでいました。彼女は仕事のことで先輩に尋ねたのです。先輩は「何べん教えないといけないの。いい加減、覚えてよ」と言われたそうです。それも、彼女はとても忙しい時間帯に先輩に尋ねたそうです。
 別の女性クライアントはある場所に行くのに、どうしても道が分からず、ずいぶん遅刻してしまったという話をしました。今のように携帯でナビが見られるようになる以前のことです。私は「道を尋ねるような人がいなかったの」と聞いてみました。彼女は「人には道を聞けません」と答えました。続けて、彼女は「人に尋ねるのは恥ずかしい」と話されたのでしたが、この恥ずかしいという感情の背後に自己愛を私は感じるのです。
 他にもたくさん例を挙げることができるのですが、これくらいにしておきます。上記の例はすべてその人の抱える自己愛の問題が露呈しているものなのです。
 彼らの自己愛はとても強すぎる観を呈するのですが、実際は非常に脆い自己愛を有していることがほとんどです。この脆い自己愛は、他者の些細な言動でひどく傷ついてしまうのです。彼らはそれを「自分はとても傷つきやすい人間だ」というように表現されるのですが、傷つきやすいというよりも「壊れやすい」と表現する方が正しいのです。わずかの傷つきで彼らはいともたやすく壊れてしまうのです。そして、この脆さをカバーするために、あるいは守るために、自己愛を過剰に備給しなくてはならないのです。それがある種の尊大さとして表面に現れているのです。

(142―4)これまでの生き方の否定
 あまり自己愛のテーマに入り込むのは控えましょう。そのテーマのページを設ける予定をしておりますので、そちらを参照していただければと思います。ここで「特有感覚」の方に話を戻しましょう。
 彼らは彼らの会得している能力で適応しようとし、身につけたわずかばかりの対人関係技術で対処しようとします。彼らにできる精一杯のところで、人間関係や社会に適応しようとしています。本当にギリギリのところで適応しているという人が多かったように思います。
そこで、彼らは「自分は他の人たちと何かが違う」とか「みんなが普通に分かっていることが自分には分からない」という体験をしてしまうわけであります。だから、この体験が彼らにとっていかに辛いものとなるかということも、私は理解できるのです。
 彼らははっきりと述べてはくれないのですが、この時、彼らはこれまでの「ひきこもり」の人生を後悔しているのではないかと私には感じられるのです。
 最初に述べたように、彼らは「ひきこもり」をしていたために、学ぶことができなかっただけなのです。だからこれからそれを学んでいけばいいだけなのです。
 でも、もしそれをするとなると、彼らは「これまでの生き方が間違いだったと、すべて否定されてしまう」と述べられるのです。この思考も実は自己愛なのですが、それは置いておきましょう。
「ひきこもり」の人であれ、その他の人であれ、生き方を改めようという場合、どこかで「これまでの生き方が間違っていた」という認識を得なければならないものです。確かに辛い認識ではありますが、この認識が欠けている場合、本当にその人の生き方が変わっていくかどうかはひどく疑わしいと私は考えます。辛いけれど、必要な認識であると私は捉えています。
 そこから先へ一歩踏み出すかどうかは、それぞれの「ひきこもり」体験者に課されていることなのです。

(142―5)項の終わりとして
 私が「ひきこもり」の人と会っていて感じる彼らの「特有感覚」について、三項にわたって述べてきました。上手くまとめられたという感じが私はしていませんので、恐らく、読んでくれた方々にも伝わりにくい部分が多々あったのではないかと心配しております。
 この「特有感覚」は、彼らが学び損ねたという部分が大きいと考えていますし、一部は彼らの自己愛がその感覚に一役買っているものでもあると考えています。
「特有感覚」そのものは別に悪いものでも間違ったものでもありません。ただ、彼らが人間社会の中で生きていくことを困難にしてしまうという点で問題になるものであります。
 彼らの体験は「自分はみんなと違う」という言葉に要約できるでしょう。自分と他人の違いを知るということは、実はとても大切なことで、それが自己の確立につながるのです。その代り、一方では、その差異の認識は彼らに衝撃や傷つきを与えてしまうことにもなるのですが、そういう体験は防ぎようがないのです。
 彼らがそういう体験をしないようにしようと思って、こちらが前もって教えてあげようとしても、彼らには伝わらないのです。
 彼らが傷ついたとしても、私はその傷つきも必要なものであると捉えています。ただし、それも傷つきの程度によります。
そして、彼らが傷ついた時、私はその傷つきの体験を表現してほしいと願うのです。そして、この傷つき体験から学ぶことは学ぶように援助したいと思うのです。
 私は「ひきこもり」の「治療」が一筋縄ではいかないし、根本的な「治療」には多大な時間がかかるということも理解しています。少なくとも、彼らが人間の中で生きる事、社会の中で生きることができ、生きていける場所を獲得していけばそれで取り敢えずは十分だと考えています。
「特有感覚」は、その目標の妨害として働いてしまうがために問題になるのです。

(文責:寺戸順司)