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「うつ病」について(5)

「うつ病」について(5)―INDEX

<テーマ100> 冬枯れの桜の木と「植物的な生」
<テーマ101>「心の躍動性」
<テーマ105>「うつ病」の怒り





<テーマ100> 冬枯れの桜の木と「植物的な生」 

 冬枯れの桜の木が私は好きなのです。
 私が通勤に使っている駅には、桜の木が植えられているのですが、葉っぱ一つ付けていない桜の木を見るのが、冬の通勤の楽しみなのです。
 その駅の桜並木は、満開の頃になると駅の利用者は写真に撮ったりします。
 やはり満開の桜が好きだという人が多いのではないでしょうか。
 または、一気に花びらを散らせる桜吹雪の姿に共感を覚えるという方も多いかと思います。新緑の姿がいいという人もおられることでしょう。
 ですが、わたしにとって、桜の木は何と言っても冬枯れのあの姿が一番なのであります。
 一見、枯れ果てたように見える桜の木であっても、春に花を咲かせるための準備をしているのだと思うと、あのような姿になっても尚、生をしっかりと営んでいるのだなと私は思うのです。
 死んだように見えていても、決して死んではいないし、見えない所で生が営まれているのを感じるのです。

 今、仮に生物の生を「動物的な生」と「植物的な生」というように、便宜上二つに分けてみましょう。
「動物的な生」とは、移動し、エサを求めて活動する生き方であります。
 一方の「植物的な生」とは一所に根を張り、根からひたすら養分を吸収していくような生き方とします。
 どちらの生が望ましいかということは、まったく関係がありません。動物は主に「動物的な生」を営むでしょうし、植物は「植物的な生」を営むことでしょう。
 この二つの生を「動」と「静」のような区別に還元してしまわないように注意しなければなりません。
「植物的な生」は必ずしも「静」とは限らないのであります。
 一本の木は、生きるために枝を伸ばし、根を張り巡らせるのです。木が静かに立っているように見えるのは、私たちがそのような営みを直接目にする機会がないだけなのです。
 動物だって、冬眠をする種もあるのですが、冬眠する動物を直接目にする機会はないでしょう。そのために、動物というのは常に動き回っているという印象を抱いてしまうかもしれません。
 この二つの生に対して、それでは人間はどちらに属するだろうかということですが、私の個人的な見解では、人間の場合そのどちらもが可能であると捉えております。
 時と場合に応じて、「動物的な生」と「植物的な生」を生き分けているのかもしれません。

「うつ病」と診断された人は、一時的にであれ「植物的な生」を営んでいる人であると私は捉えております。
「うつ病」と診断された人が苦しむのは、自分がもはや「動物的な生」が送れなくなったということにあると捉えることもできるかと思います。
「動物的な生」に価値を置きすぎると、「植物的な生」の持つ生命感情を見落としてしまうかもしれませんし、「植物的な生」に対してその価値を認めることができなくなるかもしれません。

 私が研修中に経験した一人の女性クライアントを見てみましょう。
 彼女はひどい抑うつ気分を抱えて訪れました。
 当時、私が入っていた研修室には箱庭が置いてありました。彼女は話すのはしんどいからと、箱庭を作りたいと求められました。
 抑うつ気分を抱えている方でしたから、箱庭を作るのも、当然きびきびと手際よく作るのではなく、緩慢な動作でゆっくりと作られました。
 彼女はまず、砂を中央に集め、小高い砂山を拵えました。その山の頂上を手のひらで平らにし、そこに一本ずつ草木を植えはじめました。田植えをするように、一つ一つ草木を砂に差し込まれていきました。
 砂遊びを経験したことがある人なら理解できるかと思いますが、砂山に物を差し込むと、山がひび割れ、崩れそうになります。彼女はその度に砂地を固め、更に植えていかれました。
 こうして出来上がった箱庭は、中央に砂山というか、砂の台地があり、その台地に植物が密生しているというものでした。人間も動物も一切登場しない作品が出来上がったのであります。
 この箱庭は、その時の彼女の状態をそのまま表すものだったと私は捉えました。
 彼女は動物のように動き回れないのであります。動物的なエネルギーに満ちた動物たちは、その時の彼女には親和性がなかったのです。むしろ敬遠したいくらいだったのだと思います。
 その代りに、彼女は植物を植えていくのです。これでもかというくらいに彼女は植えていきます。根元を埋め尽くすかのように、植物が突き立てられていきました。「植物的な生」の在り方が、彼女には親しみが持てたのでしょう。
 この箱庭作品を見て、私が安心したのは、次の二点であります。
 彼女は植物しか用いなかったとは言え、中央に密集した植物たちからは生命感情が感じられたのでした。抑うつのために、「動物的」なエネルギーが枯渇していたかもしれませんが、植物は豊かに生きているのであります。その密集した林には瑞々しささえ感じられるように思いました。
 そして、もう一つ安心した点は、彼女が砂地をギュッギュッと固める仕草であります。砂山が崩れるからそうしたのだと言えばそれまでかもしれませんが、その仕草にある種の力強さを私は感じたのであります。
 彼女は「植物的な生」を生きているけれども、根本はしっかりしているのだなという印象を受けたのです。根元がしっかりしている限り、大地が草木をしっかり支えている限り、彼女の「植物的」な生命感は育っていくだろうと、私は見立てたのです。
 それが「植物的な生」の生命感情であれ、それが育っていくということは、彼女の中で何かが復活するであろうと私は思います。そして、私は彼女の見通しは明るいという希望を抱いて、この方に関わったのでした。

 冬枯れの桜の木は決して死に絶えているわけではありませんし、外見上は死んでいるように見えても、私たちの見えない所では生の営みが営まれ、花を咲かせる準備をしているのだと捉えますと、桜の木にはこのような冬枯れの状態がなくてはならないのだというようにも理解できるかと思います。
 よく誤解されている方もおられるのですが、もし、「動物的な生」を活動的で積極的であり、「植物的な生」は消極的で受動的な生き方であると思われる方がいらっしゃるとしたら、それは間違いであると私は考えております。
 植物は決して受け身的に生きているのではないのです。受け身的に生きているのはむしろ動物の方であります。
 動物はそこにエサがなくなれば、エサのある場所に移動しなくてはなりません。動物の方が周りの環境に対して受け身的な存在なのだと思います。
 一方、植物は、一所に根を張るのです。その意味では動物のように移動はしません。しかし、根付いた場所がどんな条件の場所であれ、植物はその場所で生きようとするものです。
 そして、地中に根を伸ばし、上空に向かって枝葉を広げて、積極的に環境に働きかけているのです。
 木は、それが同じ種に属する木であれ、同じ場所に隣り合って立っているとしても、一本として同じ形状の木が生まれないのです。形が一つ一つ異なるのです。少しでも日光を受けようと、隣の木と重ならないように枝葉を広げていくのです。
 従って、植物の方が自分の環境に対して、積極的に働きかけているのだと私は捉えております。

 生の在り方を「動物的な生」と「植物的な生」とに分けて見てきました。
「うつ病」と診断された人は、「動物的な生」からはかけ離れてしまっているかもしれませんが、「植物的な生」の在り方において、しっかり生きておられるものだと私は捉えております。
 ただ、このような在り方に価値を置かないという人が多いのではないかと思います。 次の春に花を咲かせるために、じっと生を営む冬枯れの桜の木に、私は「うつ病」で苦しむ人の姿を見るような思いがするのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ101> 「心の躍動性」

(101―1)常に活動する生
 冬枯れの桜の木は、一見死に絶えたように見えても、私たちが見えない所で生の営みを続けているということを<テーマ100>で述べました。
 冬眠している動物は決して死んでいるわけではなく、じっとしているとはいえ、生を営んでいるのです。
 見た目には分からなくても、生命は常に活動しているものです。
 生命、身体が常に活動しているのと同じく、「心」もまた常に活動しているものであると、私は仮定しています。
 この「心の活動性」のことを、私は敢えて、「心の躍動性」と呼ぶことにしています。
 と言うのは、心はただ受動的に活動しているだけでなく、もっと積極的で躍動的に活動するものだからだと思うからです。人間の心というものを、私はそのように捉えているのです。
 心は常に躍動的に活動しているものです。あることに考え耽ったり、思いに沈んだりすることも躍動の一つでありますし、閃いたり、連想が働いたり、思いついたりすることも「心の躍動」であります。
「こんなことをやってみよう」とか「こういう具合に今度はしてみよう」とか、将来に目を向けたり、指針を持ったりすることも、やはり「心の躍動性」なのです。
 また、心は常に対象を求め、対象と関わろうとします。
 心は常に感情をその人の内に生じさせます。
 そして心は自分自身や世界を広げようとしていくものです。それは死に絶えたように見える冬枯れの桜の木であっても、生きるためにより広く根を張り巡らせ、枝を伸ばし、そうして自己を拡張していく動きと重なるように私は思うのです。
 躍動的な心は自己を広げ、自己の中に何かを生み出し続けるものなのです。

(101―2)躍動性の喪失
「うつ病」と診断された人の本当の苦しみは、心のこうした「躍動性」が失われることです。私はそのように理解しています。
<テーマ20>で、私は「うつ病」について書かれた本は、「うつ状態」「うつ症状」には当てはまるけれども、「うつ病」には当てはまらないものが多いと述べましたが、その理由はこの「心の躍動性」ということにあります。
 心が本来有している躍動性ということにまったく触れずに、思考を変えるとか脳内の物質がどうこうという話をしている本が多いように思うのです。
 私から見ると、「うつ病」とは「心の本来の躍動性」が損なわれることであり、それがこの「病」の本質であると捉えているのです。
 ところが、この本質的な部分を取り上げないで、周辺的な事柄を取り上げているものが多いように思うのです。もちろん、これは私の個人的な見解でありますが。
 確かに、「心の躍動性」などという概念を持ち出すと、それは医学や生理学を超えて、哲学的な命題になっていくかと思います。そこまで話を広げないようにされている著者もおられるかもしれません。

(101―3)誰もが躍動的な心を持っている
 さて、人間の心は躍動的であり、本来的に、エネルギーに満ちているものだと私は捉えています。
 この躍動感やエネルギーの存在を確認しようとするなら、幼児や子供を観察すればよいでしょう。彼らはまだ人間本来のものをそのままの姿で表現していることが多いのです。
 彼らを見れば、「心の躍動性」ということがどういうことなのか見えてくるのではないかと私は思いますので、子供と接する機会のある方は、是非、子供から学ばれるとよろしいでしょう。
 後に「うつ病」と診断される人であっても、子供の頃はそのような躍動感に満ちていたものです。
 実際、「うつ病」と診断された人が回想する子供時代には、彼がそのような躍動感の中に生きていたことを示すエピソードがいくつも確認できるのです。
 生まれながらにして「うつ病」だったという人を私はこれまで見たことがありません。
 また、こういう「心の躍動性」をまったく持っていないとか、一度も経験したことがないというような人にも会ったことはありません。
「うつ病」の人が苦しんでいるのは、繰り返しになりますが、決して脳内物質に苦しんでいるのでもなく、歪んだ認知や非論理的な思考に苦しんでいるのでもありません。その人にかつてあったはずの躍動感が今は失われてしまったということが苦しいのだと私は捉えています。
 従って、「うつ病」が「治る」ということは、脳内物質を正常な分泌に戻すことではなく、論理的な思考を習得することでもないと私は捉えています。それらは二次的に必要なものであるとは言えるかもしれません。
 それよりも、もっとも肝心なのは、彼の心が本来有しているはずの「心の躍動性」を再び回復することなのです(注1)。

(101―4)「心の躍動性」の回復
 では、どうすれば「心の躍動性」が回復するのかということですが、一言で言えば、自分の心に気づき、触れるという体験を通じてであると私は捉えています。
「うつ病」と診断された人の話を聴いていると、彼らがいかに自分の内面を疎かにして、外側のことを重視してきたかということが窺えるのです。彼らは自分の心に気づいたり、触れたりするという経験をしないような生き方をしてきたのです。
 こうして、自分の心はないがしろにされたり、二の次のこととされたり、ひどい時には無視されたり遠くへ押しやったりしてきているのです。「うつ病」はこうした生き方の一つの結末であると理解しても、あながち間違いではないと私は考えております(注2)。
 作家志願の「うつ病」女性のことを述べたことがあります(<テーマ32>参照)。
 彼女の小説を読ませていただいた時、作品そのものはよくできていたと感じましたし、文章も上手でした。ただ、どうしても主人公に共感することが難しかったということを述べたと思います。
 この主人公は、彼女の一つの分身というか、書いた時の彼女の心をそのまま生きていたのだと思います。
 この主人公に共感することが困難だったのは、この主人公に「心の躍動性」が失われていたからです。
「心の躍動性」が失われていたということは、この主人公があまりに機械的であるという印象を与えるのです。主人公からは生命感情が感じられないのです。そのために、読んでいて共感しにくかったのです。
 また、「うつ病」と診断された人が愚痴や悪口を言えるようになると、かなり回復するということもどこかで述べたかと思います。
「うつ病」と診断されるような人は、まずこうした愚痴や悪口を言わないものです。「そういうことを言っても何にもならない」とそのような人は語ることが多いのです。
 確かに、何も変わらないかもしれません。但し、それは外側の世界においてということです。
 私が思うには、愚痴や悪口を言うことで、その人が自分の心に触れているのです。愚痴や悪口そのものが望ましいのではなく、自分の心に触れてみるということが大事なのであり、愚痴や悪口というのは、比較的そういうことが生じやすい領域ではないかということなのです。
 従って、愚痴や悪口という行為は単なる入口に過ぎません(注3)。

(101―5)内面に触れること
 愚痴を少しずつこぼすようになったある「うつ病」男性は、愚痴をこぼしていくうちに活き活きした感じを呈してきました。
 彼は、自分の心に触れて、自分の心がまだそのような感情を抱けるだけの生命を保っているということを実感されたのかもしれません。
 また、愚痴や悪口でなくても、カウンセリングにおける話し合いの途上で、自分の内面に触れていくことのできる人は、やはり回復していくのです。
 難しいのは、そういうことが困難になっている「うつ病」クライアントです。
 彼らの話は、極端に言えば、自分の外側の話で満ちているのです。あたかもニュースキャスターがニュースを読むように、自分自身を語るのです。そのような人からすれば、内面に目を向けてみるということがどうしても難しいのです(注4)。
 異論はあるでしょう。例えば、「うつ病」の人が「死にたい」とか「悲しい」とかを訴える時、その人たちは自分の内面の何かに触れているのではないかと疑問を呈される方もおられるでしょう。
 私の個人的な見解では、それは一部においては正しいということです。
「うつ病」の人が「悲しい」と口にする時、健康な人が体験するのと同じようには悲しんでいないということを以前に述べました。「悲しい」という感情が本当に体験されているのかどうかも定かでない場合もあるのです。
 従って、これは内面に生じている何かを表現しているとは考えられるのですが、必ずしも内面の感情を語っているものとは思われないのです。
 このことは言い換えると次のことを表します。「うつ病」と診断された人が、本当に悲しいという感情を体験しているのであれば、その人は既に回復の過程に入っているのだということです。その人の心が回復しているからこそ、その人は悲しいという感情を体験できているということになるからであります。

101―6)本項の要約
 本項で述べたことを要約しておきましょう。
 私の前提として、心は本来的に躍動感に満ちており、生命感情にあふれているものであると仮定しています。幼児や児童はこの躍動感や生命感情をそのまま生きていると仮定しています。
 この躍動感は、その人の自己や世界を広げ、その人の中に何かを生じさせるものです。
「うつ病」とは、その人の心から、人間の心が本来有しているはずの躍動感が失われた状態であると見做しました。従って、この本来有しているものが再び躍動することが「治療」の目標とならなければいけないということです。
 心の本来的な躍動性を回復するためには、その人が自分の心に目を向け、関心を寄せ、感じ取って行かなければならないと私は仮定しております。
 なぜ、そうすることによって、心の躍動性が回復するのかという点は、別項において取り上げる予定をしています。
 そして愚痴や悪口がその過程の入り口であっても構わないということも述べましたし、「うつ病」の人が本当に「悲しみ」を体験しているのであれば、それは回復の兆しであるということを述べてきました。

(101―7)注と補足
(注1)このことは実際に「うつ病」と診断された方に尋ねてみると、その通りだとお答えになられることが多いのです。例えば「かつて、あなたはもっと活動的で活き活きしていたのに、今はそれがまったく失われてしまったように感じておられるのですね。そして、そのようなかつての自分に戻ることができないように今は思うのですね」と伝えたりすると、たいへん納得されるのです。私の経験では、これは認知の歪みや非論理的思考を取り上げている時よりも、はるかにクライアントが納得される事柄なのです。

(注2) 「うつ病」と診断された人の多くが自分自身よりも他者や周囲を優先していたことが分かるのです。そういうエピソードを語られるのです。その意味で、「うつ病」と診断された人はあまりに「他者志向」の生き方をしてこられたのです。

(注3)愚痴や悪口というのは、感情に触れやすいのですが、同時に、それをすることで「うつ病」の人の自罰傾向を緩和するという意味合いもあります。

(注4)三十数年の人生をわずか三分程度で話された「うつ病」女性は、このような語りの一つの典型です。彼女はあたかも履歴書を読み上げるようにしか、自身の人生を語ることができなかったのです。内面的な事柄は一切語ることができないのでした。

(文責:寺戸順司)






<テーマ105> 「うつ病」の怒り

(105-1)「うつ病」の怒りの爆発を体験した家族
「うつ病」と診断された人に感情が蘇ってくると、時々、激しい怒りとしてそれが表出されることがあります。
 それにびっくりしたという話を最近してくれた女性があります。
「うつ病」と診断されたのは、その方の夫だったのですが、ずっと沈み込んでいた夫が、ある日、些細なことをきっかけに爆発したと報告されたのでした。当然、彼女は驚いて、どうしてよいか分からなかったと述べております。
 この「うつ病」と診断された夫が、感情を一気に爆発させたということは想像に難くないのであります。
 それまで感情が動いていなかった人に、いきなり感情が動き出したりすると、しばしば極端な形をとることがあるのです(注1)。
 ただ、その感情の爆発は、彼女にはとても衝撃的だったようです。それも理解できないことではありません。彼女には夫が豹変したように見えたのではないかと察します。 しかし、「うつ病」の人にそのような怒りが見られるということは、しばしば回復の一過程でもありまして、望ましいことでもあると私は捉えております。
 望ましいこと「でもある」と述べるのは、ケースによって異なるからであります。望ましいことでありながら、望ましくない結果に導いてしまうようなこともあるのです。

(105-2)感情の爆発と自殺
 この怒りの爆発の一つの結末が自殺となることもあります。
「うつ病」においては回復期に自殺が見られるというのは、怒りが「自分自身」に向いているということであり、その人は怒りという感情体験ができるまで回復していると見ることができるのです。
 感情体験が戻ってくるということは望ましいことではありますが、自殺という結末は望ましいものではありません。望ましいことが生じた場合、それが望ましい形で行われるにこしたことはありません。

(105-3)自動車を大破させた夢を見た「うつ病」男性の例
 こういう感情的な爆発が夢で見られたという例があります。
 クライアントは男性で、「うつ病」と診断された人でした。
 彼は回復していく過程で次のような夢を見ました。彼は仕事で営業に回ることが多いのですが、仕事の途中で会社の自動車をぶつけて破損させてしまったという夢でした。
 営業で使う会社の自動車を、彼が大破させてしまったということに、私はこのクライアントの感情の爆発を感じたのです。
 この夢には続きがありまして、彼は会社の車を大破してしまって、どうしようと困惑したのです。夢の中で、彼は自動車を修理するのでしたが、それがなぜかプラモデルの自動車に変わっていたのです。
「プラモデルに何か思い出がありますか」と私が尋ねますと、彼は子供の頃は好きでよく作ったと語りました。
「プラモデル作りは楽しかったですか」と私は更に尋ねました。彼は楽しかったと答えました。
 さて、車を大破させたというところに、彼の感情の爆発を感じたのでしたが、その車が会社の車だったというところから、その感情は彼の会社、仕事ということと結びついているということが分かるのです。
 そこに対して感情を爆発させて、「しまった!」と体験しているのです。彼にとって、それをすることは禁じられていたのだということが理解できるのです。
 彼は大破させてしまった車を修理しようとするわけですが、そこで車がプラモデルの車に代わっているということに私は興味を覚えました。
 プラモデルは彼の子供時代の楽しい経験と結びついているのです。
 この夢は、従って、会社に対して感情を爆発させてしまうと、取り返しのつかない事態に陥ってしまうことを表しているように思われました。それをすることは危険であると夢が教えてくれているのだと思ったのです。
 その代りに、彼はプラモデルを作っているのです。つまり、危険なやり方を採る代りに、より安全な形で彼は感情体験を取り戻す必要があるのだと私は考えたのです。
 私が上記のような解釈を彼に伝えました。
「うつ病」と診断された人の中には彼のように素直な人も多いのですが、それから彼は現実にプラモデルを作るようになったのです。翌週、来られた時にそう報告されたのです。
 プラモデルを作っていると楽しいと彼は語りましたし、後々、彼は子供と一緒にプラモデルを作るようになっていったのです。
「楽しい」という感情が体験されていくほど、彼は「うつ病」から解放されていったように見えました。
 もう一度、ポイントを押さえておくと、この男性は、夢の中で感情の爆発が起きてしまったのでしたが、それを現実にしてしまう前に、より安全な形で感情を取り戻していったのです。夢はそのことを示唆してくれていたように思います。

(105-4)自己懲罰をした男性例の引用
 次のような悲惨な例もあります。これは私が直接体験したものではありません。書物からの引用であります。(『おのれに背くもの(下)』カール・メニンガー著 日本教分社より)
 憂うつ症に陥った男性が入院しました。この人は入院して回復していったのだろうと私は思います。
 ある時、彼の母親がやって来て、「息子のことは私が一番良く知っている」と言って、医師たちの反対を押し切って、彼を無理矢理退院させて家に連れ帰ったのでした。
 家に連れ戻されて数日後、夜中に彼は起き上がり、眠っている幼い我が子を見て、「この子がこの世の苦しみを体験するのは忍びない」(注2)と感じて、金槌で幼い我が子を殴り殺してしまったのでした。
 この男性は再び精神病院に入院したのでしたが、その後、作業の途中で自分の右手を機械に挟んでしまい、右手を失ったのでした(注3)。
 彼の憂うつ症は、おそらく回復過程に入っていたのでしょう。母親は勝手に退院させてしまったのですが、医師たちは退院はまだ早いと認識していたのです。
 そのように捉えると、「治癒」はしていないが、回復の途上にあるという段階に彼がいたのだと推測して間違いではないように私は思うのです。
 恐らく、感情が動き始めていたのではないかと思いますが、その晩、彼の怒りが爆発してしまったのです。
 しかし、その怒りは、彼の子供に向けられてしまったのです。
 この怒りは、本来は彼の母親に対して向けられるべきものだったはずなのです。
 しかし、彼は最愛の子供にそれを向けてしまったのでした(注4)。

(105-5)「うつ病」の怒りはどこに向けられるのか
 怒りにはそういう傾向がしばしば見られるのですが、「うつ病」と診断された人には特にこの傾向が見られると思います。
 この傾向というのは、愛する人や大切な対象に対して(一次対象、主要対象に対して)怒りが向けられてしまうという傾向のことであります。
 我が子を撲殺してしまった男性は、大切なはずの我が子にそれを向けてしまっているのです。
 同じように、会社の自動車を大破させてしまった夢を見た男性も、会社ということが彼にとって大事な対象だったのだと察します。
 同様に、妻に怒りをぶつけてしまった「うつ病」者にとっては、妻が彼の一次対象だったのだと私は察します。
 そして自殺をしてしまう「うつ病」者も、その人にとっては自分自身が主要な、一次対象となっていると考えられるのです(注5)。

(105-6)本項の要点
 本項では、「うつ病」と診断された人の怒りの爆発に関して述べてきました。
 それは突発的に生じるように見えるので、周囲の人は驚いてしまうということですが、一方でそれは回復の過程にその人がいるのだということをも示すものであるということを述べました。
 そして、その怒りは、彼が愛している人や大切な対象に対して(一次対象、主要対象などと呼ばれることもある対象に対して)向けられるということを述べました(注6)。
 冒頭に挙げた女性に、「うつ病」の回復過程でそのようなことが生じるかもしれないということが予め知らされていたなら良かったと私は思います。
 そして、言葉や夢でそれをしてくれた方が、自殺や殺人といった行為でそれをされるよりも、はるかに望ましいものであると私は考えております。

(105―6)注と補足
(注1)このような極端さのもう一つの例が「うつ病」と診断されていた人が「操状態」へ陥る時にも見られると私は捉えております。
 今まで動くこともできなかったような人が動き始めると、「操状態」のような過活動ぶりを見せることが、私の経験したクライアントからでも確認できるのです。
 また、「うつ病」に限らず、今まで動いていなかった部分が動き始めた時には、極端な形を取って表出されることがあります。感情が動いていなかった人に感情が動き始めると、物事にやたらと感動したり、やたらと泣いたり、笑ったりしてしまうというようなことが生じます。いくつかそのような例も私はみてきました。
 ある人はまったくと言っていいほど自己主張できませんでした。カウンセリングを体験していく中で、その人は徐々に自己主張をするようになるのですが、すぐに激しい形を取り始め、半ば攻撃的なくらいの自己主張をされるようになったのでした。抑えていたものが一気に噴き出したような感じなのです。しかし、このような激しさは一時的なもので、ほどなくしてその人は適切な自己主張に落ち着いていったのです。
 このような極端な形を取って表出されると、本人や周囲の人は「悪化した」と捉えてしまいがちなのですが、必ずしもそうではないということです。
 その人が、感情をコントロールできる度合いに応じて、そのような激しい表現は速やかに消失するものであるという印象を私は受けております。

(注2)「この子がこの世の苦しみを経験することが忍びない」という思考は「うつ病」に特徴的な思考だと思います。
「うつ病」と診断された人が誰かを殺してしまったり、あるいは無理心中したりする時には、このような思考がその動機として見られるのです。厭世観に彩られている思考です。
 もう少し、丁寧に述べるなら、この男性は「この世は苦しいことに満ちている。この世の苦しみを経験する私は不幸であり、生まれてくるべきではなかったのだ。この子も同じように苦しみを経験する。苦しみを経験するこの子は不幸な子であり、この子は生まれてくるべきではなかったのだ。生まれてきたこの子に罪はないけれど、生んだ私は罪深い人間だ。この子に対してできる償いは、この子がこの先、不幸を経験することがないようにしてあげることだ」といったような思考で満ちているのではないかと私は理解しております。
 厭世的な気分で世界を見てしまうがために、何事も厭世的な色彩を帯びてくるのです。

(注3)我が子を殺したこの男性が、後に手を失うということ。
 我が子の命を奪った「この手」を処分するという意味合いがある行為でです。これは<テーマ104>でも触れた通り、一つの自罰行為であり、こういう形でこの男性は自己懲罰をしているのです。
 ここでも罪意識と手という身体部位の関わりを見てとることができるのです。

(注4)最愛の子供というのは、私の推測でありますが、この男性は学校の先生であったということが記されていますので、子供、児童に対しての愛情を持っていた人であると仮定しています。

(注5)「うつ病」と診断された人が、その攻撃や怒りを向ける対象として、その人にとっての一次対象、主要対象が選ばれるということ。それは、かつて対象に注いでいたエネルギーが自身に戻ってくるというメカニズムと関連することであります(「悲哀とメランコリー」シグムント・フロイト著 参照)。
 このことは少々不謹慎な話ですが、「うつ病」の人は無差別殺人のようなことはしないであろうということが理解できるのであります。
 もし無差別殺人を犯した犯人が「うつ病」と診断されていたとすれば、そのような例があるとすればですが、それは診断の方が間違っていたのだと私は考えます。

(注6)<テーマ32>において、「うつ病」と診断された作家志望の女性の作品を取り上げました。この小説の主人公は最後に感情を爆発させるのであります。それも主人公が大切にしているはずであろうものに感情を爆発させていくのであります。
 この場面は意味深なものがあります。彼女自身はそのような感情の爆発を現実にはできないので、小説の主人公に託したのだという理解が成り立つのです。
 現実にはそのような感情を爆発させるようなことができないので、小説の中でそれをしたのではないかということなのですが、これもまた、夢で車を大破させてしまった男性と同様、より安全な爆発のさせ方であると私は捉えております。


(文責:寺戸順司)






 以上で「うつ病について(5)」は終了です。ご読了お疲れ様でした。
 引き続き「うつ病について(6)」ページにて、さらにいくつかのテーマを綴る予定でおります。