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アイデンティティ

アイデンティティ―INDEX

<テーマ89> アイデンティティについて~その言葉の意味(約3900字)

<テーマ90> アイデンティティについて~自身が一致される(約3200字)





<テーマ89> アイデンティティについて~その言葉の意味 (約3900字)

 ある時、知り合い夫婦に招かれました。彼らの家で、たまたま来ていた彼らの親戚夫婦も交えて、五人でお酒を飲んでいました。私がアルバイトで食いつないでいた時期の出来事であります。お酒が進むほどに、男性たちの口調に熱がこもり始めます。私は嫌な予感がしていました。そして、間もなくというか、案の定と言うか、二人は熱く語り始めたのであります。二人で議論と言うか、口論を始めたのであります。暑苦しい酒は勘弁してほしいなと思いながら、私は傍観していました。初めはお互いの仕事について、近況などを尋ね合っていたのですが、ヒートアップして、片方がついに怒って「お前のアイデンティティはなんだ! 答えてみろ!」と相手に怒鳴ったのであります。怒鳴られた側も、カッとなって「そういうお前こそ、お前のアイデンティティは何だ!」と怒鳴り返したのであります。聞いていて、「そんな無茶な」と私は心の中で思っていました。最初に怒鳴った方は、「質問を質問で返すな。先に俺の質問に答えろ」などと怒鳴り返すので、事態はさらに穏やかなものではなくなっていったのであります。エラい場面に出くわしたものでした。
 お酒が入ると熱くなる人たちがいらっしゃいますが、個人的には、あまり付き合いたくない部類の人たちであります。昨年の夏に、私のいきつけの飲み屋で「来年の高槻祭りにはこの店のメンバーで出店しようか」と私がぽろりと漏らしたことがあります。ちょうど外では高槻祭りをやっていました。それを聴いた常連の一人で、しかも彼は暑苦しいくらい暑い人だったのですが、その熱い彼がものすごく熱く語り始めたのであります。店の常連たちにはそれぞれの役割がその日のうちに、彼一人によって決められてしまい(ちなみに私はサーバーでビールを注ぐ係りでした)、明日にも決行しようかというような勢いでした。みんなもお酒がまわっていて、私の提案に乗ってきたのでありましたが、その時はワイワイ盛り上がって楽しかったのであります。しかし、翌朝目覚めた時の惨め感というのは喩えようがないものであります。あれだけ盛り上がって、あれこれ計画を立て、担当まで決めていたのに、翌朝気づくことは、結局何もしていないということであります。暑い人と一緒に飲むと翌朝が空しいものであります。

 今のは余談でしたが、肝心なのはあの二人の口論で交わされた言葉であります。「お前のアイデンティティは何だ!」という言葉であります。結論を言いますと、アイデンティティとは「何」で答えられるようなものではありません。本項ではその点について考えてみることにします。
 以前も述べたかと思いますが、その人を表す属性はすべてその人のアイデンティティの一部であります。「私は○○です」という文章の「○○」に入るものはすべて私のアイデンティティの一部であります。「私は男性です」「私は日本人です」「私はカウンセラーです」といった事柄は、すべて私のアイデンティティを指します。しかし、それでアイデンティティのすべてが把握できるものではありませんし、その個々のアイデンティティをひっくるめて一つのアイデンティティであると述べることもできないものであります。アイデンティティとはそのような性質があると私は捉えております。

 アイデンティティに関して、私の好きな定義は「アイデンティティとはその人の歴史である」(R・D・レイン)というものであります。アイデンティティについて考えれば考えるほど、この定義の絶妙さが理解できるのであります。そのことは後に述べていくことにします。

 心理学で「アイデンティティ」という言葉を用いたのはエリク・H・エリクソンという人でした。エリクソンの本を日本語訳で出す時に、アイデンティティという単語を日本語にどのように訳すべきかで困ったと訳者が述べられているのを読んだことがあります。確かに訳しにくい単語であります。この時、訳者は「自我同一性」という訳語を創られたのであります。この訳語はとても優れているとは思いますが、どこか腑に落ちない感じも一方ではしています。それに「自我同一性」と言われても、一体何のことやら分からないというのが正直なところではないでしょうか。日本語に訳されても、その訳語の説明がなければどういうことなのか理解できないのではないかと思います。
この分かりにくさというのは「Identity」という単語そのもののニュアンスにあるかと思います。アイデンティティについて考えていく際に、この単語のみに焦点を当てていっても、一向に埒が明かないという経験を私はしたことがあります。そこで今回は視点を変えてみることにします。この単語の動詞形は「identify」というものです。この動詞形に基づいて、アイデンティティということを理解していこうと思います。
「identify」という単語には「分かる」という意味合いがあります。しかし、この「分かる」ということの「分かり方」を理解しなければならないのであります。

次のような例文を考えてみましょう。ちなみに、以下に挙げる例文を作成する際に、英語が得意である女性クライアントに協力していただきました。彼女には感謝しております。

さて、例文とは、
“I identified him James”(私は彼がジェームスであると分かった)
であります。

この例文において、彼女は「これでは指名手配犯を発見したようなニュアンスがある」と指摘され、「この場合、recognizeの方が相応しい」とおっしゃられました。この二つの指摘はとても重要でありますので、後ほど取り上げたいと思います。
 まず、この例文において、「私」にどういうことが起きているかと言いますと、私の目の前にいる男性が私の記憶しているジェームスさんの姿と一致しているということであります。「分かった」と訳しましたが、「確認した」「照合した」という感じに近いかと思います。心の中のジェームスさんと目の前にいるジェームスさんとが同一で、私の中で両者の像が一致したということであります。そのような「分かり方」を示しているわけであります。このニュアンスを把握しておくことが肝心であります。
 海外旅行をされたことがある方なら、空港でパスポートをチェックされた経験があるはずであります。その時、あなたはidentifyされているのであります。パスポートの写真と実物のあなたとが同一の人間であるかを照合されているわけであります。
 彼女が例文を見て、これでは指名手配犯を見つけた時のようだと述べられたのは正しいわけであります。指名手配写真の姿と目の前にいる人物の像とが一致しているということを意味しているからであります。

さて、「アイデンティティ」を「自我同一性」と訳されたことは正しいと思いますが、あるいは「自我一致性」というように訳しても良かったかもしれないと私は個人的には考えております。この単語には、両者が「同一」であるという現象を示しているだけでなく、「一致している」というように、より動きがあるようなニュアンスを私は受けるのであります。
 では、一致するとか照合するとか言う場合に、何と何が一致するのか、何と何が照合されるのかという問題を次に考えてみましょう。

 先ほどの例文に少し付け足してみましょう。
 “I identified him James although he had changed a lot”(彼はすっかり変わってしまっていたけど、私は彼がジェームスであると分かった)

 この例文においては、照合されているのは、私の記憶の中にある過去のジェームスさんの姿と、今、私の目の前にいるすっかり変わってしまったジェームスさんの姿であります。私の中で両者が照合され、一致しているということが認識されているわけであります。今現在の姿が記憶にある姿とはすっかり変わってしまっているけれども、何かが以前のまま残っているからこういう照合が可能になっているのであります。ここに「アイデンティティ」ということの「歴史性」があると私は思います。過去の姿と現在との姿とが、両者にどれだけ違いが生じていても、一つのつながりのあるものとして捉えられているのでなければ、このような照合はできないのではないかと思います。

 先ほど、私の女性クライアントが「その場合、recognizeの方が相応しい」と指摘したことを述べました。私が思うところでは、recognizeは「他のものと識別する」ニュアンスがあるのではないかと思います。Aが、BではなくAであると認識する時、それはrecognizeしていると考えてよいのではないかと思います。Identifyは、Aが他ならぬAであることを認識しているということであって、その他のBと区別しているのではないのだと私は思うのであります。
 例文において、私はその人を見て、その人がジェームスさんであると分かったのであります。この例文は、ジェームスさんの双子の弟のリチャードさんではなく、ジェームスさんの方であると分かったという意味ではないのであります。昔のジェームスさんと同じジェームスさんを私が見ているということであります。アイデンティティについて考えていく際に、どうしてもこのニュアンスは掴んでおく必要があると私は思います。

 本項において、アイデンティティについて考える際に、その動詞形である「identify」を用いて考えてみました。あくまでこの単語に基づいて考えてきました。ここから本題に入って行こうと思うのですが、長文になりますので(熱く語る酔っ払いのことで私が無駄話をしてしまったためなのですが)、次項において、より具体的に個人のアイデンティティについて考えてみることにします。

(文責:寺戸順司)






<テーマ90> アイデンティティについて~自身が一致される (約3200字)

 アイデンティティということを考えていく際に、その動詞形であるidentifyという単語に注目しました。それは、「二つの物を照合し、両者が一致し、同一であるということが分かる」というニュアンスを有しているということを述べてきました。そのことを、例えば、写真に写っている人物と目の前にいる人物を照合して同一人物であると認識することであり、目の前に現れた人が変わり果てたとは言え、記憶の中にあるその人の姿と同一人物であると認識できるという例を挙げて述べてきました。Identifyにはそのような意味合いがあるということであります。

 では、個人のアイデンティティという場合、一体、何と何が同一ないし一致しているのでしょうか。本項ではそれに関して、私の考えているところのものを述べてみようと思います。
 こういうことを考えている時に、私はふと昔読んだ記事を思い出しました。それはある出版社の編集長のこれまでの生涯に関する記事でした。彼は出版社に入るまでに、様々な職を転々としてきたと言います。出版社に入社したのも偶然だったように思います。しかし、彼は編集の仕事をしているうちに、ふと思い出したことがあると述べるのであります。それは彼の子供時代の記憶でした。彼は当時から、例えばお気に入りの曲をテープに編集したりすることが好きだったと言うのであります。そういうことをするのが元々好きだったのだということを思い出されたのであります。この瞬間、彼は自分自身をidentifyしたのだと私は思います。
 それはつまり、子供時代の彼(あるいは彼がしていたこと)と、今現在の彼(あるいは彼のしていること)とが、彼の中で一致したということであります。この一致が彼のアイデンティティを形成していくものだと私は思います。
 この時、照合されているのは過去の自分と現在の自分であります。これが一致し、同一であると実感される時、その人の中で自分の芯のようなものが確立されるのであります。私の個人的な経験も述べましょう。

 高校生の頃、私は翻訳家になりたかったのであります。英米には素晴らしい作家がたくさんいるのですが、その各々の作家の全作が訳されているわけではなく、代表的な作品だけしか日本語で読めないということが非常に残念だと思っていました。日本語に訳されていない作品でもきっと素晴らしい作品があるはずだと信じていました。それらはもっと翻訳されなければならないと思い、そのために英語の勉強に励んできました。ところが、大学に入って、英語に対しての興味を失い、紆余曲折を経て心理学に行き着いたのであります。
 心理学、精神分析学の勉強は(これは他の学問でもそうでありますが)、その半分は専門の言葉を覚えることであります。エス、超自我、防衛機制、転移、抵抗、あるいは刺激、反応、学習、トークン、シェマ、フィードバック、などといった言葉を覚え、それを使いこなせるということであります。これは英単語を覚えることと何一つ異なる行為ではありませんでした。今でも私はそれをしているのであります。
 今、私はカウンセラーとしてクライアントと会うという日々を送っています。クライアントの話を聴いて、「あなたのおっしゃっていることはこういうことでしょうか」などと応答したりします。この時、私はかつて翻訳家を目指していた頃の私と一致している感覚を覚えるのであります。
 また、私が小学校4年生頃、私はシャーロック・ホームズの物語にハマりました。パイプに残された歯型から、そのパイプの持ち主がどんな人間であるかを鮮やかに記述するホームズに、私は痺れるほど感動しました。シャーロック・ホームズに憧れ、ホームズのようになりたいと私は願っていたのであります。今、クライアントの話をいろいろ伺って、そこから推測(推理)を働かして、「あなたのおっしゃっていることはこういうことになりませんか」などと言って、私の解釈を伝える。その解釈をクライアントが目を見晴らして、驚きをもって受け止めることもあります。「どうして、そういうことが分かるのですか」とびっくりされるクライアントもおられました。「簡単な推理だよ、ワトソン君」と言いたくなるのを堪えて、「あなたのような人を何人も見てきているからですよ」などと私は答えるのであります。この時、私は小学校4年生の頃の私、シャーロック・ホームズに憧れていた私と一致する感覚を覚えるのであります。

 過去の私と現在の私との間に一致する感覚、それがアイデンティティなのだと私は思います。そして、このような感覚が得られる時、人は驚きをもってその感覚を体験すると同時に、どこか嬉しいような懐かしいような感覚をも体験しているのではないかと、私は自分の体験からもそう思うのであります。そして、この感覚が得られる時、その人の中で何かがつながるような、一本芯が通ったような感じを受けるものだと私は思います。
 過去の私と今の私との間に一致しているものがあるということは、そのような感覚が得られるということは、私に一貫性がもたらされるのであります。私の中に、一本の道が通じるような体験を私はするのであります。
アイデンティティがはっきりしない、不鮮明、不明瞭であるなどと専門的には表現されることがあるのですが、それはその人の中でこの一貫した感覚がないということになるかと思います。これまで生きてきた各々の年代が、彼の中ではバラバラになっていて、つながりが見いだせないでいるという状態と言えるのではないかと思います。

 さて、このように見ていきますと、前項の冒頭で示した「熱い酔っ払い」たちの口論がなんと意味のないことかと思えてきます。「お前のアイデンティティは何だ!」というのは、この質問自体が答えられない類のものなのであります。アイデンティティとは「何」という形で、いわばそれだけを取り出して提示できるようなものではないということであります。むしろ、アイデンティティとは「個人の中で個人的に体験されている感覚」なのであります。私はそう考えております。そして、アイデンティティとは、ただ確立されていくだけではなく、発見されて、体験されていくものであると私は捉えております。
「私は日本人である」というのは、確かに私のアイデンティティの一つであります。しかし、私はこのアイデンティティを発見したわけではありません。例えば、もし私がアメリカで市民権を得て、アメリカで生活することになったとします。そうなると私は日本で生まれ育ったけれども、今ではアメリカの一市民であります。「私は日本人である」というアイデンティティよりも、「私はアメリカの一市民である」というアイデンティティを獲得していくかもしれません。しかし、私が久しぶりに日本食を食べた時、きっと私はかつての私と同一の何かを感覚的に体験するでしょう。その時、初めて「私は日本人である」ということが、本当の意味で私自身にidentifyされることになるのでしょう。その時、私は日本に住んでいたかつての自分と、アメリカで暮らしている今の自分とが時間的につながっていくような体験をするかもしれません。その時、私は以前の自分と一貫した自分を体験するでしょう。アイデンティティとは、そういうものなのかもしれないと、私は思うのであります。

 本項の要点として、アイデンティティとは、その人における一貫性であるということになるかと思います。バラバラだった自分自身がつながるという感覚であると思います。その一貫性がどのような形の一貫性であれ、どのようなつながり方をしたとしても、この感覚が「アイデンティティ」なのだと、私は考えます。

(文責:寺戸順司)






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