カウンセリングで何を達成するか

『カウンセリングで何を達成するのか』ページ―INDEX

<テーマ85> カウンセリングで何が達成されるのか~概観 (約4400字)
<テーマ87> 自己の「語りなおし」としてのカウンセリング(約3900字)
<テーマ88> 「受容」ということと「向き合うこと(約3500字)



<テーマ85> カウンセリングで何が達成されるのか~概観(約4400字)

「カウンセリングで何を達成するのか」というページを設けました。ここに述べるであろう事柄は、「カウンセリングの過程」ページに含めて述べようと思っていたのですが、それではあまりにも「過程」のページ量が多くなりそうなので、敢えて別項目として分けました。内容的に重複するところもあるかと思いますが、便宜上そのように分けるために、そうなるのも仕方がないことであると捉えていただきたいのであります。
 もし、あなたがカウンセリング(私の目指しているカウンセリングということでもありますが)を理解されるとするなら、「カウンセリングの枠組み」「カウンセリングの過程」とこの「カウンセリングで何を達成するのか」という三項目のみをお読みになられれば結構かと思います。その他の各種テーマは、重要でないとは言えませんが、どちらかと言えば周辺的なテーマであります。
「枠組み」がルールに関することであり、「過程」はそのプロセスに関することであると考えるなら、「何を達成するのか」というものはカウンセリングのゴールに関する事柄であります。
「何を達成するのか」ということを、「カウンセリングの効果」と言い換えてもよかったのですが、「効果」という言葉にはいくつもの意味がありますので、私はこの言葉を避けました。しかし、以下の論述のいくつかは「効果」に関することでもあります。しかし、この「効果」は、私たちが通常この言葉からイメージする事柄とは大きく様相が異なっているものでもあります。私は外側に現れる「効果」よりも、クライアントの内面で、内的に達成される事柄に重点を置くつもりでおります。内的に達成された事柄があるとすれば、その人の外的な「効果」となって表れるはずであると私は思います。従って、内的に達成される事柄は、外側に現れる「効果」よりも優先されるものであります。

以下において具体的な内容に触れていく予定でおりますが、記述していく上で、便宜上いくつかの項目に分けて論じることになるかと思います。ただし、それらは別個に達成されるものではなく、いくつもの項目が一人のクライアントの中で、絡み合い、統合されながら達成されていくものであるということを予め強調しておきたいと思います。一人の人間は全体的で統一的な存在であるからであります。

 今後述べていく事柄を若干、前もって概観しておこうと思います。
 まず、カウンセリングというのはクライアントが自己を「語りなおす」場であると捉えます。この「語りなおし」の作業において、クライアントは何かを体験し、何かが内的に動き始めるのであります。こうした動きは、それが一見して悪化したように思えるものであっても、クライアントの依って立つ位置が変わり始めていることの証として重要なものであります。それが変容の一歩であることをも述べる予定でおります。
「語りなおし」をしていく際、そこで語られるのはクライアントの過去の経験であることがほとんどであります。私たちはこの過去の自分の経験を、現在の自分の自我において振り返らなければならないのであります。そして、この作業をしている時、クライアントは自分を客観的に見ているということができます。物事の渦中に留まり続ける限り、その物事が本当には理解できないのと同じように、一旦自分自身の枠の外から自分自身を見ることによって、人は自己理解を進めていくものであると思います。
 この自己理解ということは、「洞察」という言葉で表現します。クライアントがしばしば初めに気づくのは、いかに自分自身のことを理解できていなかったかということであります。自分のことは自分がよく知っていると思い込んでいることの方が私たちには多いのであります。また、しばしば「洞察」の代わりに「知的理解」を「洞察」の代わりにしてきた人たちもよく見られます。それは文献等で得た知識を単に自分自身に当てはめただけなのであります。自分自身の心にまったく触れることなく、図式的に理論を自分に適用してきた人であります。私は、自分の体験からも断言できるのでありますが、人は自分の心に触れることができると、それだけでかなり落ち着くものであるのであります。そして、その体験からもたらされた「洞察」は必ずその人を次の段階へと導くものなのであります。
 カウンセリングはまた体験でもあります。クライアントは今までの彼の生活では得られなかったことを体験する場合もあります。それは自分が受け入れられる、自分が許されているという感覚であったりします。こうした感覚は、クライアントに安心をもたらすものであります。同時に、私たちは他者から受けいれられた事柄しか自己受容できないものでありますので、彼は徐々に自己受容を達成していくのであります。この受容には、彼にとって望ましくないものも含まれているかもしれません。しかし、それが望ましくないものであっても、私たちは受けいれることができた事柄しか自分で扱うことができないものであります。受け入れることができた問題しか克服することができないのであります。それは克服のための第一歩であると同時に、しっかり受けいれられた体験は、もはや当人に脅威をもたらさなくなるのであります。そうしたことも述べるつもりでおります。

 私は心とは本来躍動的なものであると仮定しています。その躍動は「生命感情」と述べてもよいかと思いますが、心に本来備わっているものだと仮定しているのであります。それがあるから私たちは前進することができるのであります。「生命感情」が枯渇しているということは、その人が停滞状態にあると見做すことができるわけであります。自分の心に触れ、洞察を深めていく中で、そして関係を体験していく中で、「生命感情」は回復していくものであります。

 また、関係や対象は内在化されるものであります。特に、その関係や対象がその人にとって重要なものであればあるほど、この内在化は速やかにかつ深く行われるものだと捉えております。もし、カウンセラーとクライアントとの関係が良好であれば、その良好な関係はクライアントの中に内在化されていき、カウンセラーと離れていてもカウンセラーと一緒に存在している自分を体験されるのであります。このことは医師と患者の関係であっても、教師と生徒の関係であっても同じことが生じるのであります。それらが内在化されていくということは、クライアントが自分自身のカウンセラーになっていくということであり、同じように、患者が自分自身の治療者になっていくこと、生徒が自分自身の教師になっていくことへとつながるものであります。そうして、私たちは自分自身を育て、良くしていくことが可能になるのだと私は思います。

 外側の事柄も含めて見てみましょう。
 クライアントが自分自身を「語りなおし」、理解と洞察を体験し、それが安心感や自己確実感に発展していくにつれて、彼は日常生活において落ち着いていくでしょう。クライアントは、私の場合では、穏やかになっていくことが多いのであります。そこにはもはや不毛な競争もなければ、不必要な活動や緊張もないのであります。自分自身を拠り所としていくので、葛藤にも処理していくことができるようになるのであります。
 自分自身を拠り所とするということは、彼の世界において、彼自身が世界の中心に立っているということであります。外側の世界には、客観的に存在している世界とは別に、私たちの現象の場に現前されてくる世界があり、その世界においては常にその人が中心にあるわけであります。この感覚が強くなっていくので、彼はより自己主体的に行動するようになるのであります。ある人は自己主張が増していきますし、他の人は新しい分野へ踏み出していくのであります。そして、彼はそういうことを他者を苦しめるようなやり方ではしないのであります。自己が自己尊重されている限りにおいて、彼は他者を尊重することができるからであります。他者と衝突することはあっても、他者と調和的に生きる方を彼は選ぶようになるのであります。
そして「生命感情」が回復して、活動性が増していくにつれて、その人は過去において彼を束縛していた事柄から解放されていき、生まれ育った家族の家族神話から自由になっていくのであります。過去は過去として、否定されることなく、そのままの過去としてその人の中に生き続けるのですが、それがもはや彼にとっては苦ではないのであります。それどころか、しばしば過去の体験の違った側面がいくつも見えるようになっていることもあります。彼は過去から現在に至るまでの時間軸の中で生きることができており、そのことは自分自身の未来に対しても開かれているということを意味するわけであります。

 また、自分自身に対しての意識も高まることが多いのであります。それはつまり、より自分自身に対して気づきやすくなるということであります。ある意味では、適度に内省的な活動が増えていくわけでありますが、それによって、彼はより意識的に生きることが可能になっていくわけであります。意識的に自らを生きるということは、その人の主体性に関わることであります。

 また、受容され、理解されるという体験を繰り返していく中で、彼の体験していることが人間の地平において生じていることが理解できるものであります。彼が人間であるからこそ、彼は人間的な体験をしているのだという認識であります。彼が、自分もまた一人の人間であるということが再体験されていくほど、彼は他者との紐帯を回復していき、孤立から救われていくのであります。他者との紐帯が回復されるということは、彼は他者との関係に生きることを可能にしていくことにつながるのであります。彼は人と一緒にいることも、一人でいることも、どちらも苦もなく成し遂げることができるでしょう。飲み込まれ喪失されるか、嫌われ見放されるか、そのどちらかしかなかった人間関係から、彼はそのどちらでもなく、一緒にいて尚且つ一人にもなれるという関係を築くことが容易になっていくわけであります。つまり、対人関係においても、彼は自分が自由であることを認識するのであります。

 この項目においては述べようと思うことがとてもたくさんあります。ここではこれくらいにしておきます。また、上の文章だけではどういうことやら訳が分からないと思われた箇所も多々あったことだと思います。それらは後々、それぞれのテーマ項目において、詳しく論じていくつもりでおります。本項では、「達成」ページにおいて、私がどういうことを展開するつもりでいるのかということを掴んでいただければ、それで十分であります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ87> 自己の「語りなおし」としてのカウンセリング (約3900字)

 カウンセリングで行われる作業というのは、クライアントが自己を「語りなおす」ことだと私は捉えております。
 自己を「語る」ではなく「語りなおし」というように、わざわざ「なおす」という言葉を付け加えている点に注目していただきたいのであります。なぜ、このように付加するのかといいますと、私たちは日常生活において、様々な場面で何らかの形であれ、自己を語るという作業をしているものであります。人間というものは自己を表現せずにはいられない存在だと私は思います。コミュニケーションの観点から言えば、人間は周囲に対してメッセージを常に発し続けているのであります。それをまったくせずに存在するということは、人間にとっては不可能なことだと私は思います。
 意識していようとしていまいと、私たちは常に自分自身の何かを周囲に語っているわけであります。それを敢えてする場を私は提供していることになるわけであります。この場において、改めて、クライアントは意識的に自己を語らなければならないという意味もあって、「語りなおし」という表現を用いているのであります。

 カウンセリングにおいては、クライアントは主に言葉を通して自分自身を語るのであります。私はそれを聴くのであります。クライアントは自分の話を聴いてもらうと同時に、自分自身もそれを聴く、もしくはそれを語っている自分に気づくのであります。また、私からも、例えば「あなたのおっしゃることはこれこれこういうことでしょうか」とか「あなたが言いたいことはこういうことではないですか」といった応答を通して、クライアントは自己の語りをやはり「聴きなおす」のであります。つまり、クライアントが「語りなおし」た事柄は、一旦は臨床家によって受け止められ、投げ返されたりすることによってクライアント自身に「聴きなおし」され、再びクライアントに還っていくのであります。
 語りなおされた事柄は、そのようにしてクライアント自身に聴きなおされ、吸収されていき、その語った事柄はクライアント自身のものになっていくのであります。その過程において、語られた体験はよりクライアント自身のものになっていき、そのことがクライアントがより確かな自己を確立することにつながるのであります(もちろん、これはもっと複雑な過程を経るものであります)。このような形でしか、私たちは自己を確立することはできないものだと私は捉えております。

 語られたことがクライアントに吸収されていくということは、クライアントは彼にとって真実であるところのものを語らなければならないということであります。偽りの語りは再び偽りの自己を強めることになるでしょうからであります。
 そして語られたことは、臨床家と共有されなければならないものであります。この他者との共有という点が、たとえばプライベートな日記などとは大きく異なる所であります。この共有という点は稿を改めて述べるつもりであります。
 しかし、こうした作業は「未成熟な自我」には耐えられないことであります。語りなおしていくという作業は、時に、自分にとって不都合な部分に目を向けなくてはならなくなるからであります。これをすることは、「自我が未成熟」な人ほど困難となります。それに耐えられるだけの強さが欠けているからであります。自分とは無関係な、自分の外側のことを語る方がはるかに安全なのであります。子供の会話とはこのようなものであります。また、大人であっても、私たちは日常会話でどれだけこの手の会話(自分とは無関係な事柄に関しての会話)に時間を割いていることでしょうか。
 自分にとって不都合なことに目を向けることは確かに苦しいことであります。しかし、ここに臨床家の存在価値があると、私は思うのであります。クライアントの不都合な事柄を、臨床家と一緒に見ていくのであります。恐らく、大部分のクライアントにはそれを一緒に見ていくといった人、その作業につき合ってくれるといった人が、彼の人生において、いないものであります。そのため、彼は自分の不都合な部分に目を向ける機会を得られず、その部分は彼にとって秘密となり、自分にとって「あってはならないこと」といった色彩を帯びることになるのであります。結果的に、それは自分にとって「異質」な何かとなり、自分の中から排除しなければならない事柄となって、その人の心の中に存在し続けることになるのであります。
 もしそれを語ることができるなら、その人はその事柄がもたらす苦しみから解放され始めているというとこであります。そして、それが共有されるのであれば、それは彼にとってもはや秘密ではなくなっていくものであります。この過程を経ていくうちに、彼は彼を苦しめていた「秘密」から解放されていくのであります。彼が「秘密」から解放されていくほど、彼はより自分が自由になっていくのを感じるものであります。私はそのように捉えているのであります。

 ところで、自分が上手に話せるかどうかということをとても気にするクライアントもたくさんおられます。大部分のクライアントがそうであると言っても過言ではありません。その人が培ってきた言語表現能力には、当然のことながら個人差があります。そのような個人差があるということを押さえた上で申し上げますと、クライアントのほとんどは「語り下手」なのであります。
 クライアントが「語り下手」なのは、私には二つの傾向によるものだと思います。一つは完全に分かってもらおうとし過ぎるという傾向であります。私にもその傾向があります。そのことは、そのような人がこれまでどれだけの誤解に晒されてきたかということを示唆するものであります。もう一つの傾向は、会話量が少なかったということであります。この会話量というのは、大抵は彼の家族内においてのことであります。会話がほとんどない家庭で育ったり、あるいは自然な会話が行われなかったり、彼にだけ発言権がないかのような会話スタイルを有する家庭で育ったりとした背景があるものだと思います。そのような人は、自分に発言権が与えられると狼狽するものだと思います。自由に話してくださいと言われて、その「自由」ということに苦しめられてしまう人だと思います。
 しかしながら、私が特に大事だと考えている点は、そういう所にはありません。クライアントが上手に話せるかどうかということは、私にとっては二の次の話であります。肝心なのは、「語りなおし」の過程において、クライアントに動きが生じるかどうかということなのであります。
 私たちが何かを話しているとします。話している最中に、その時の記憶や感情が蘇ってきたりします。あるいは、何か思いついたり、連想が働いたり、発想とかインスピレーションが湧き起こったりします。こうしたことは、話しているうちに、心が動き始めたことの証拠であると私は捉えております。「語りなおし」の作業において、このようなクライアントの中で生じてくるものが肝心なのであります。これが生じない限り、クライアントはなかなか前に進めないものであります。そもそも、成長とか変容とかいうことの第一歩は、何かが動き始めることだからであります。
 あるクライアントは、自分が何を話すかについて綿密な原稿を書いてこられました。その人はただそれを読んで私に聞かせるだけであります。私は、少なくとも、そのクライアントに関しては、そのままにしておきました。その人は、自分が動かされることを非常に恐れていたように思えたからであります。他者からの影響を非常に恐れているといったタイプの人だったわけであります。だから、私は彼が原稿を読むのを妨げはしなかったのであります。しかし、このカウンセリングでは、お互いの間に動くものや、共鳴し合うものは生じなかったのであります。私は彼が原稿を必要としなくなるまで待たなければなりませんでした。徐々に彼は原稿に頼らなくなっていったのでしたが、彼が原稿に頼らなくなるに従って、彼は自分の心の動きに身を任せることができるようになっていきました。つまり、より自然なやりとりがお互いの間で生じてきたのであります。自然なやりとりが増えていくほど、彼の内面で動きが生じていったのでした。

 本項の内容を簡単にまとめておきましょう。
 カウンセリングにおいて、クライアントは自分自身を意図的に「語りなおす」のであります。「語りなおされた」事柄は、臨床家によって共有され、同時にクライアントは「聞きなおし」作業をもするということであります。クライアントの「語りなおし」はクライアント自身に吸収されるような形となり、それがより自己を確かなものにしていくということであります。
 問題となるのは、クライアントが見たくない、語りたくないと思っている部分であって、
それをクライアントは臨床家の手助けを得ながら、臨床家と一緒に見ていくことになるのであります。もし、そのような作業がうまくできるなら、その体験はもはやクライアントを苦しめなくなるということであります。
 また、肝心な点は、「語りなおし」ていく中で、クライアントの内面で動きが生じるということであります。上手く話せるかどうかということは、ここでは問題にならないのであります。クライアントに動きが生じるということが、最初の一歩であると私は考えております。

(文責:寺戸順司)






<テーマ88> 「受容」ということと「向き合う」こと (約3500字)

 前項で、「語りなおし」ていくと同時に、クライアントが自己を「聴きなおす」ということを述べました。そうして、語られた事柄が再びクライアントに吸収されるのだということでありました。しかし、その前に、聴き手である臨床家によって、その語りは吸収されているのであります。この「吸収」とは、広く捉えれば「受容」ということであり、「受け入れる」ということであります。ます。以後、「受容」あるいは「受け入れる」という言葉を用いることにします。
 多くの人は、自分に関して、自分でも受け入れることができる側面と、自分でも受け入れることができない側面とがあると思います。これをお読みになっているあなたにもそれがあるだろうと思います。当然、私にもありましたし、現在でも否定したくなる側面を持ち合わしてもおります。
 そこで次のような実験をしてみて欲しいのであります。しなくても結構なのですが、ここで読むのを中断して、その実験をしてみた方が、後の話が理解しやすくなるかと思います。
 実験とはこのようなものであります。まず、あなた自身を振り返ってみて、自分で受け入れることができる部分をいくつか挙げてください。自分の中で好きな所であるとか、長所と感じている所のものを書いてみられればいいでしょう。次に同じようにして、今度は自分でも受け入れ難い部分を挙げて下さい。自分の嫌いな部分や否定したいもの、あるいは短所とかいったものをいくつか書き出してみてください。誰もそれを見ないので、どうか正直に書き出してみてください。また、どちらもどのような事柄であってもかまいません。性格的なことであろうと、外見的なことであろうと、身体的なものであろうと何でも構いません。ただ、たくさん挙げる必要もありませんが、複数個挙げるようにしてください。
 これができたら、あなたの目の前には二つのリストが完成しているはずであります。好きな部分と嫌いな部分というリストになっているはずであります。次にそのリストの一つ一つに関して、その項目に関して思い出すことのできるエピソードをいくつか挙げてください。
 これができると、あなたの目の前には二つのリストがあり、そのリストの一つ一つの項目にいくつかのエピソードが揃っていることになります。今度はそのエピソードに注目していただきたいのです。その各エピソードにおいて、他者はどのような関わりをしているでしょうか、他者はどのような役割を果たしているでしょうか。
 この実験にはさらに続きがあるのですが、一旦、ここまでにしておきましょう。

 さて、この実験の目的は、人が自己受容しているところのものと、他者がそれを受容するということとの関係を見るということであります。あなたが自己受容できる部分(自分の長所や好きな所)というのは、他者もまたそれを受け入れてくれたり、承認、賞賛してくれたりしたというエピソードが見られたのではないかと思います。逆に、自己受容できない部分(自分の短所や嫌いな所)というのは、他者によっても拒絶され、否定され、処罰を受けたといったエピソードが見られたのではないかと思います。ある事柄が自己受容されることと、それが他者から受容されることとの間には密接な関係があると私は思います。このちょっとした実験でそれが了解できればと望んでおります。

 もし、あなたが女性で、「わたしの長所はわたしが美人なことである」(わたしは自分が美人であることを受け入れている)というように答えられたとしたら、それにまつわるエピソードとして、「あなたは綺麗ね」とか「あなたは美人で羨ましい」などと言われたといった体験を思い出されるのではないかと思います。また、「わたしの短所はわたしが美人であることである」(わたしは自分が美人であることが受け入れられない)と答えられたとしたら、それにまつわるエピソードとして、「美人のあなたにはこんな悩みないわよね」と仲間外れにされたりとか、「美人は得よね」などと皮肉を言われた経験を思い浮かべられたのではないかと思います。前者はあなたの容貌がそのまま他者から受け入れられていると言えますし、後者はあなたの容貌が否定されているというように言えるかと思います。
 実験をされた方の個々のエピソードに私が踏み込んでいくわけにもいきませんので、話を前に進めることにします。ここで肝心な点は、各々の内容ではなくて、その生じている順序であります。先に他者の言葉があったはずであります。もともと、人間には自己受容も自己否定もなかった存在であると私は考えております。そのようなものを有しない存在として生まれてくるものだと思います。そして、自分の何かを誰かが受容するということが先に生じるものであります。誰かによって受容されたものを、次に自分自身が受容していくのだと思います。その反対の場合においても、この順番は変わらないものだと思います。先に誰かがそれを否定しているのであります。それから続いて、自分自身がそれを否定していくのであります。この順番が逆になるということ(つまり先に自己受容があって、それを他者が受容する)は、私には考えられないのであります。

 カウンセリングを継続していくうちに、クライアントは徐々に今現在の自分や、過去のそうするしかなかった自分というものを自己受容していくのであります。人が自分自身を自己受容していくということは、とても大きなテーマでありますので、ここでは物凄く大雑把に述べているのであります。その点は了承していただきたく思います。何よりも、私たちが自己受容する時、必ず他者を必要とするものだと私は考えております。
 私たちは、これはカウンセリングという見地を除外したとしても、終局において、自分自身になっていかなければならないものであると私は思います。その自分自身が自己において受容できるということが、生きることのテーマであると私は考えております。目先の問題解決というのは、私にとっては、それほど重要なこととは思えないのであります。
 人が自分自身になるということ、偽りのない自分自身を体験するということ、その自分自身を受け入れ、その自分自身で生きていくということは、言葉で言うほど簡単なものではありません。大部分の人がそれができないでいるのであります。私自身でさえ、自分でもよくわかるのですが、それに程遠いことをしてしまっている自分に気づくこともあります。私たちは自己受容することはおろか、自分自身に向き合うことさえできないでいるものだと思います。

 パスカルという人がいました。この人は気圧の研究で有名でして、気圧の単位であるヘクト・パスカルには彼の名前が付されているほどであります。パスカルは科学者であると同時に、一方で思想家でもありました。パスカルには「パンセ」という有名な哲学書があります(正確に述べると、「パンセ」はパスカルが書いたものではなく、後世の人がまとめたものでありますが)。「パンセ」において、パスカルは繰り返し、人が自分自身に向き合うことの困難さを述べております。
 私が理解しているところでは、パスカルは次のようなことを述べているのであります。人々は本当に自分自身に向き合うことをせず、社交のお喋りに興じたり、ギャンブルに耽ったりするというのであります。そして(これがパスカルの思想の面白い所でもありますが)、戦争でさえ、人々が自分自身と向き合わないことに利用されていると言うのであります。確かに、自分自身と向き合うよりかは、他者と競争している方が、はるかに楽な生き方であると、私は思います。
 パスカルは17世紀のフランスの人でした。しかし、17世紀のフランスの人たちと、21世紀の日本人にどれほどの差があることでしょうか。私たちは、少なくとも17世紀の人たちより、何一つとして進歩しているわけではないのだと私は思います。むしろ、現代の私たちの方が自分自身と向き合わないためのツールに囲まれているように私は感じております。
 私たちは自分自身と向き合うことは難しいし、怖いものであります。しかも、それなくては私たちは自分自身になれないと思います。この作業を、クライアントは私との関係を通して、一方、私はクライアントとの関係を通して、お互いに達成していくことが、私の望んでいるところのものなのであります。

 (文責:寺戸順司)






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