ホーム > カウンセリングの過程(3)

カウンセリングの過程(3)

カウンセリングの過程(3)ページ―INDEX

<テーマ73> 「強制的クライアント」の一例
<テーマ77> カウンセリング状況を創る
<テーマ78> 保証を求めてしまう人たち




<テーマ73> 「強制的クライアント」の一例 

本項では「強制的クライアント」の一例を掲げて、このようなタイプのクライアントにおいて、どういうことが問題となってくるかを示したいと思います。

 クライアントは男性でした。彼は自発的に訪れたのではありませんでした。その旨は予約を取る際にもはっきりと申されました。「送り主」は彼の会社の上司であります。
上司の「命令」でカウンセリングを受けることになったと彼が言う時、私はまず彼と上司との間で何が起きているのかが疑問に浮かびました。つまり、その「問題」はクライアントである彼に生じているのか、「送り主」である上司において生じているのかが不明瞭でありますし、双方の抱えている「問題」が、二人の間において顕在化しているという可能性もあります。従って、このような例では、「誰の」「何が」「誰にとって」「どのように」問題であるのかがまったく分からないのであります。このような曖昧さは「強制的クライアント」には常について回っているように感じられるのであります。
私は彼のカウンセリングを断ることもできました。しかし、私が断ったとしても、彼に与えられる上司の圧力は変わらないでしょうし、余計に彼を苦しめることになるかもしれないと思いました。取りあえず、私を頼って来てくれるからにはお会いしようと決めたのであります。

 彼は予約した日時にきちんと現れました。詳細を述べることは彼のプライバシーにも関わってくるので、大雑把に説明します。
 彼の仕事ぶりは、上司から見ると芳しくないものでありました。上司からすると、なぜ彼が頑張れないのか、それは彼に問題があるからだと見做されていました。上司は「カウンセリングを受けてこい」と彼に命じたのであります。そして「カウンセラーの診断書を貰って来い」とも彼は言われていたのでした。
 一方、彼の方からすると、確かに仕事の成績が落ちているのは確かだけど、それは理不尽で一方的な上司に振り回されてしまっているからだということなのであります。彼の話をそのまま信用して私は聴いていくのでありますが、私から見ても、その上司の言動は理不尽に思われてくるのでした。上司の理不尽というよりも、戦前の軍隊のような精神主義で会社全体が動いているという印象を受けました。
「役立たず」(と上司は見做している)の彼は、他の支店へ異動することが既に決まっていました。彼としては、むしろ、この新天地でやり直したいくらいの気持ちでありました。
 このような背景があったわけであります。

 面接において、私は、それがクライアントの「問題」でもあるわけですが、むしろ上司の側が抱えている「問題」(またはその会社集団で抱えている「問題」)として、状況を再定義していきました。これは少しでも彼の感じている苦痛を軽減するためでもありましたし、実際、この状況は彼個人の「問題」として定義するのは相応しくないのでありました。
 一方で、私のそのような働きかけは彼をして落ち着かなくさせてしまっているようにも感じられました。自分だけの「問題」ではないということが分かるということは、彼に安心感をもたらすと同時に不安感も募らせていったようであります。この不安感は、「これをどう上司に説明しよう」というものではなかったかと思います。実際、彼は「上司になんて言えばいいんでしょう」と度々私に尋ねるのであります。自責感情は薄らいでいくに従って、上司からの叱責を恐れるようになったわけであります。
 こういうことはあまりしないのでありますが、私は彼に「上司にはこのように言うといいですよ」と、いくつか提案したのであります。それは無難な説明であり、特定の誰かを「問題」として捉えないというものでありました。もちろん、このようなことは、上司にカウンセリングのことを報告しなければならない彼の義務(そんなことする必要などないのですが)があり、そうしなければ彼の立場が苦しくなりそうだということを考慮した上で、特別にそういうことをしたわけであります。しかし、その説明は彼としても納得できるものでありましたが、彼はそれが言えるだろうか心配だと語りました。
 彼はこの上司を異常なほど恐れていました。それも理解できないことではありませんでした。常識的な物言いが通用する上司とは思えなかったし、私も同感でした。彼の体験している恐れというものが、その原型は彼と父親との関係に在ると考えることは可能でありますが、その可能性の方をここで追及してしまうと、この回のカウンセリングは意味をなさなくなってしまうでしょう。と言うのは、ここではまず彼の安全を確保するということを優先すべきであると私は判断したからであります。この上司から彼を守らなければ、そうした分析的な作業は不可能なことであり、無益なことなのであります。上司への恐れをまずは和らげること、それが最初の目標だったのであります。

 しかしながら、「上司になんて言えばいいのだろう」という心配に話題の焦点が移ってから、このカウンセリングは誰のものなのか不明確になっていきました。もともとそれが不明確なまま始められたカウンセリングであるので、その不明確感が顕在化しただけではありますが、彼にとってもそれは混乱をきたすものであったかもしれません。
 つまり、このカウンセリングは彼のためであるはずなのですが、そこには常に上司の影がちらついているのであります。常に上司のためのカウンセリングという感覚が、私たちを支配していたように感じられました。従って、彼にとって第一の目的は、上司が納得してくれるような答え、上司が満足してくれるようなものを持って帰るということになってしまっていたのでした。そして、そのためにはそれに見合うだけのものを私から引き出さなければならないということなのであります。
 私はこのカウンセリングは彼のためのものであり、上司のためにしているのではないということを何回か示しました。上司を喜ばせることは、彼にとっては大事なことかもしれませんが、私にとってはその上司のことなどどうでもいいのであります。しかしながら、私には一種のジレンマのようなものがあったのも確かです。彼の立場を擁護するためには、彼の求むものを与えた方がいいだろう、しかし、それをすると、私は彼の側にではなく、上司の側に立ってしまうことになるというジレンマでした。もし、私が彼の求む通りのことを診断書に書いたとすれば、その上司は「見ろ、やっぱりお前の方に問題があったのだ」と言って、彼を責めるであろうことは目に見えていました。上司にとって、「問題」は彼の方になければならないのでした。その証明としてカウンセラーの診断を求めているとしか思えないのであります。彼はその自分を責めるための材料を貰って来いと脅しをかけられているようなものなのであります。彼もまたジレンマに追い込まれていたのであります。

 私は診断書は書かないと彼に明言しました。彼は書いて欲しがっていました。もちろん、診断書や報告書の類を書くことを私が拒んでいるのではありません。ただ、そうした診断書が上司によってどのように使用されるのかということが不明であるために、私は断ったのであります。先述したように、彼には異動が決まっていました。彼の処置が既に決定しているのに、なぜ診断書が必要なのか私には分かりませんでした。それを彼に尋ねますと、上司はその診断書を異動先の支店に送って、彼の処遇を検討してもらうのだという話を彼はしました。これは明らかに、順序が逆なのであります。通常、医師や専門家の診断書、報告書が先にあって、それに基づいて、その人の処遇が決定されるものではないでしょうか。ところが、彼の場合、診断書や専門家の意見抜きで処遇の方が先に決まっており、上司は自分たちでそのような処遇を決定しておきながら、さらに彼に診断書を貰って来いと要求しているのであります。明らかにおかしいと私は感じていました。異動先の上司が診断書を求めてくるというのでしたら、まだ話は分かるのであります。彼は去ることが決まっているのに、去っていく部下の診断書を上司が求めているのであります。上司は理不尽だと彼は語るのですが、上司のこうした言動を見ると、確かに彼の方がまともなことを言っていて、上司の方が理不尽に見えるのであります。
 最終的に、診断書は意味がないと、私は判断しました。その診断書は彼のために役立てられることなく、上司が自分の正当性を証明するために用いられるか、あるいは、いわば上司の「覗き見趣味」を満足させるものでしかないであろうと思われたのであります。ですから、私はあくまでも書かないと彼に主張しました。
 私の主張は彼をかなり困らせたようであります。彼は繰り返し診断書を書いて欲しいと望みました。診断書を必要としているのは上司であります。上司が直々に私に要求するのであれば、私は応じるつもりではおりました。だから会社に戻ったら、上司に直接私に要求するようにしてくださいと彼に伝えました(もっとも、上司が直々に要求してきたとしても、やはり私は書かないと答えていたでしょうけれど)。
 彼の「問題」は、そこまで上司の言いなりになってはいけないということだと私は捉えていました。彼はあまりにも上司を恐れ、上司に従順すぎるのであります。私が診断書を書けば、少なくともその場は丸く収まるでしょう。しかし、上司はその診断書を用いて、自分が正しくて彼が間違っているという主張を繰り返すでしょう。もし、私の診断書が上司の意に沿わないものであれば、「あのカウンセラーがダメだった」という話に上司は持っていくことでしょう。そして今度は精神科医の診断書を貰って来いと彼に求めるかもしれません。同じことを繰り返すだけであろうということが、私には目に見えるようでした。

 この事例に関してはまだまだ伝えたいことや学ぶべき事柄がたくさんあるのですが、あまりに長文になってしまうので、この辺りで切り上げることにします。
 この事例において明らかなように、「強制的クライアント」では常に「そこに存在しない
第三者」が存在してしまうのであります。その第三者とは「送り主」のことであります。この「送り主」の存在のために、クライアントは自身を経験することができないのであります。クライアントには「送り主」の存在が常に意識され、「送り主」の目が光っていたのだろうと思います。それは面接の間を通してずっとそうだったのだと、彼の面接においても感じられたことであります。
 彼がカウンセリングを受けたのは、上司の命令であり、カウンセラーから診断書を貰うということがその目的でした。しかし、診断書を必要としたのは上司であり、その目的は上司の目的だったはずであります。彼はそれにあまりに従順に従っていたのでしたが、彼自身の目的は常に背後に隠されてしまっていました。背後に隠されていた彼自身の目的というのは、「はたして、自分がそんなに悪いのだろうか」というものだったと思います。この面接において、私が焦点を当てようとしたのはその部分でありました。面接の初めのうちは、それが表に出はじめると彼は必ず上司を引っ張り出して、私の焦点当てを無効にしてしまうのであります。常に上司の目的の方を優先しなければいられなかったのであります。面接の後半にいたって、この傾向が若干緩んだのであります。それだけでも、この回の面接は彼にとって意義があったのではないかと私は捉えております。

 この事例においても顕著だったのですが、「強制的クライアント」は「送り主」の目的を優先してしまう傾向があるのです。「強制的クライアント」がカウンセリングを受けるのは、「送り主」の顔を立てるためであり、そうすることで「送り主」との関係を穏やかなものにしておきたいという気持ちが少なからずあるように私は思います。「強制的クライアント」が「送り主」から自由になることが肝心であり、それは彼が「自発的クライアント」となていくことであると、私は捉えております。それはつまり、「送り主」のために受けるのではなく、自分自身のために受けるということに変わっていくことなのであります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ77> カウンセリング状況を創る

 クライアントがカウンセリングを受ける時、私はそのクライアントがカウンセリングを継続できるような環境を整えることをまず考えます。つまり、安定した関係、環境を先に確保しておかなければならないのであります。
 このことを述べなければならないのは、しばしばクライアントはあまりにも不安定な状態(これはカウンセリングを続けていくことという観点から見たものであります)で、カウンセリングを始めようとされるからであります。初めから継続していくことが困難な状態で始められるのであります。これはお互いにとって不利益をもたらすことでありますので、カウンセリング云々よりも、このカウンセリングを続けていけるような状況を何とかして作り出していかなければならない、それをまず目指さなければならないということになるのであります。
しばしばカウンセリングを継続していくために相応しい環境を形成すべく、クライアントに行動してもらわなければならないことがあるのです。そこを理解してもらわなければ、なぜ自分がそのような強制をカウンセラーから指図されるのかがクライアントには理解できないだろうと私は思います。

 次に挙げるのは、そのことがかなり極端に現れた例であります。これほど極端なものはそう頻繁には生じないものでありますが、逆に極端な例の方が私の述べようとする事柄が理解しやすくなるかとも思いますので、敢えて取り上げることにします。
 クライアントは男性でした。彼の訴えは、不安で居ても立ってもいられない、夜も眠れないくらい不安だというものでした。それで、彼をそこまで不安におとしめる何かがあるのだろうと思い、詳しく話を伺っていきました。
実は、彼は彼の勤務する会社において、ある犯罪行為と関わってしまっていました。それは彼が単独で行ったものではなく、複数の人間から成るグループで行ってきたものであります。その行為は、初めは人助けだと称してなされたのでした。彼は人助けのつもりで、その行為に加担してきたのでした。実際、それは初めのうちは人助けとして機能していたのであります。いつ頃からそれが犯罪の様相を帯びてきたのか分かりませんが、彼は「やばい」と思っていながらも、そのグループから抜け出すことができなかったのでした。それは彼の善良な性格と大人しい性質のためでした。
 そして、その行為が今にも会社側に発覚しそうだと彼は述べるのです。もし、それが発覚した場合、彼は罪に問われ、仕事も家族(彼には妻子があります)も、すべて失うことになる、どうしてもそれは避けたいと彼は嘆くのでした。
 彼がカウンセリングにおいて求めていることは、このまま周囲には嘘をつきとおすこと、そして家族に対して隠し通せるための何か知恵を授けて欲しいということでした。私は、それはできないと答えました。私が彼を冷たく突き放したように聞こえるかもしれませんが、私がそのように述べたのは次のような事情によるものであります。
 まず、彼の求めていることは不可能に近いということだけでなく、望ましいことではないように私には思われたのでした。彼が現時点で嘘をつき通したり、隠し続けていくということが、仮にできたとしても、彼はそれを一生していかなければならないということになります。いつそれが発覚するかということを常に恐れ、常に嘘をつかなければならなくなるのであります。そうなると、彼の今後の人生は、そのためだけの人生になってしまうのであります。
彼は、比較的年齢が若かったので、やりなおすには、まだかろうじて間に合うだろうと私は思いました。それに、今、どうにかやり過ごしたとしても、この先、例えば十年後くらい後には、彼はさらにひどい不安に襲われているかもしれないのであります。常に発覚することを恐れながら生きていかなければならないということですから、このことは容易に想像がつくのであります。それに、発覚の恐れが生じてから、それほど時間が経過していないにも関わらず、彼はこれだけの不安に苛まれているのであります。この先、一生、その不安を抱えて行けるだけの強さが彼に欠けていることは明らかでした。
私は彼の求めている解決策には賛成できませんでしたが、それでも彼が私を頼ってきた以上、なんとかならないだろうかと一緒に考えていくことにしました。私はさらに詳しく話を伺っていきました。
 もし、その犯罪行為が発覚した場合、それに関与した他のメンバーたちも同じような運命をたどるのだろうと私は思っていました。しかし、それを尋ねてみると、彼の話ではそうでもないようでした。発覚した場合、罪は彼一人にあるという話でした。

 彼の話をまとめると次のようなことがポイントとして浮かび上がってくるのであります。繰り返しになりますが、一つ、押さえておきたいと思います。
 まず、その行為は人を援助するために行われたものであるということ。
 人助けだという目的を聞いて、その言葉を純粋に信用して、彼はその行為に関わったということ。
 犯罪の色相が濃くなってきた時、彼は自分が「危ないことに関わっている」という認識をしていたこと。
 何度も抜け出そうとしたが、できなかったこと。これは彼のパーソナリティも関与しているが、他のメンバーの圧力がかかっていた可能性もあるということ。
 彼は「カモ」にされている可能性があること。つまり、責任の引き受け役として、罪を一人被る役割として、メンバーに利用されていた可能性があること。
 そして、自分の問題として、カウンセリングを(私のカウンセリングを)受けに来ているということ。
 こうした背景があるわけであります。こうしたことを考慮してみると、果たして、彼はどれだけの罪に問われるのでしょうか。もし、こうした背景がきちんと立証されるなら、彼は罪に問われない(仮に問われたとしても軽いもので済む可能性がある)かもしれないと私は考えました。
 そこで、私は次の提案をしました。彼は一つの決断をしなければならないということであります。その決断とは、まず弁護士を探すこと、そして、会社にこれまでのいきさつを報告すること、家族にも打ち明けて味方になってもらうことであります。彼にはまだ救われる道が残されているように私は感じました。そして、自分の性格の弱さのためにこのような事態に巻き込まれたということを彼自身が認識しており、それを克服するためにカウンセリングを受けているということにしたらいいと、私は提案しました。そして、そのためには実際にカウンセリングを継続して受けているという実績を残さなければならないということも伝えました。
 私は彼に共感しすぎたのかもしれませんが、とにかく、彼が一人で罪を負うのはおかしいと感じて、激しい憤りを感じていました。弁護士に相談することというのは、彼の関与した行為に対して、より適切な対応をしてくれるだろうと思われたからであります。彼のパーソナリティに関しては、私は述べることはできますが、犯罪行為に関しては、その道の専門家に頼んだ方がいいと私は考えたのであります。
 この時の私の処置が適切であったのかどうか、今でも疑問に思うこともあります。もっと、適切なことが言えたのではないかと、その後も後悔することがありました。とにかく、その時に私が目指したのは、彼の立場を安全なものとして確保しておくということでした。それが一番に目指されることであると私は考えていました。そして重要な点は、それが確保されている限り、このカウンセリングは続けていけそうであることであります。つまりカウンセリングを彼自身の援助の場として彼が活用できるということであります。

「一週間考えます」
 彼は私の提案を聞いて、そう答えました。ここでも彼の性格的な弱さが現れています。しかし、そこを触れるだけの時間がありませんでした。「とにかく弁護士さんを探しましょう」と私は念を押して、その時は別れました。
 翌週、彼は私を訪れました。彼の表情は、当然ながら、沈み込んでいます。私は「どうでした」と尋ねました。私は彼が弁護士さんと話がついているという前提で問いかけてしまったのでした。しかし、彼の話では、事態はとんでもない方向へ向かっていたのでした。
 彼はこの一週間、会社には具合が悪いと言って休み、家族には出勤しているふりをして家を出ていたのであります。そして、毎日、ぶらぶらと放浪していたのでした。そしてこの面接の前日、会社の方から「確認したいことがある」という連絡が家に入ったのであります。この時点で、家族には出勤しているという彼の嘘がばれてしまったのでした。
 嘆かわしい気持ちで、私は彼の話を聴いていました。逃げてはいけない所で、彼は現実逃避してしまったのであります。貴重な一週間がこうして蕩尽されたのであります。「もうダメだ、おしまいだ」と、彼は嘆いて、面接室を後にしました。
 彼のケースにおいて、私は自分の処置がそれほど間違ったものではないと、それは今でも信じているのですが、私は彼の決断をもっと支持し、現実に向かえるようにサポートしていく必要があったのだと反省しております。彼が「一週間考えます」と言った時、それを安易に容認するべきではなかったと思っております。

 もし、カウンセリングを開始することができていれば、彼が自己洞察を深め、性格的な弱さを克服し、パーソナリティを強化していく方向に歩み出していたかもしれません。しかし、そのためには、彼が刑に服していないということが絶対に必要だったのであります。
彼は自分を変え、自分が置かれている境遇を自ら変えていくことを目指す前に、その場から逃げたようなものなのであります。

 上記の例は、カウンセリングを始める前段階でつまずいてしまった例であります。彼のカウンセリングは始まってもいなかったのであります。カウンセリングを始められるようにするための、いわば環境調整の段階で、既に失敗してしまったのであります。そして、これに成功するためには、どうしてもクライアントにも動いてもらわなければならないという側面があるのです。
この事例の男性は、自ら動くということをしなかったのであります。自己放棄して成り行き任せにしてしまったわけであります。この姿勢こそ、彼の人生の中で彼を支配してきた態度ではないかと私は思います。もし、彼が行動を起こしていれば、それだけで、彼は望ましい一歩を踏み出したということを意味するのであります。彼はそれをしなかったために、罪を問われ、自分を変えていくための機会を失したのであります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ78> 保証を求めてしまう人たち

 カウンセリングを受けることに対して、クライアントが葛藤し、逡巡するのは、そこに確かな保証が読み取れないからであります。私はそう考えております。
「料金」に関する項目で、「一日で改善します」という宣伝文句をそのまま信じて、十何万円ものお金を払って合宿に参加した人の例を挙げました。「神経症」的な人にとって、「一日で改善します」という宣伝文句はとても魅力的に響くのだろうと思います。一日で得た効果は、一日しか続かないものだと私は思います。この人の抱えている問題は、「一日で改善します」という文句に表されているような、確かな保証を求め過ぎていたことであると、私は捉えております。
 この例のような「一日で改善します」とか「自信があります」「成功率90パーセント以上」「30年の実績」と言った言葉は、端的に言えば、不安の強い人や自己信頼に欠けている人に対して強くアピールするものだと私は捉えております。そのような彼ら自身の傾向のために、彼らはそういう言葉に惹かれてしまい、また、そうした言葉を求めてしまうものであります。つまり、彼らは確かな保証を求めているわけであり、そのような保証が得られないと行動に移せない(決断ができない)のであると、私は捉えております。

 旧サイト版で、ホームページ制作会社の担当者から、「成功したケースだけを載せるようにしたらどうか」と提案されたことがあります。私が上手くいった例と同様に、上手くいかなかった例もありのまま載せていたので、それでは宣伝効果がないと考えになられたのかもしれません。ですが、私はそれを拒否しました。成功例だけ掲げて、「これだけの人が良くなりました」と伝えることは、そしてそれだけを伝えることは、私にとっては、「一日で改善します」とアピールするのと同じことだと考えたのであります。
 ある人の問題が、彼が保証が得られないと動けないということにあるのだとすれば、単純に保証を与えてしまえばいいということになるかもしれません。しかし、それによってその人は行動に移せるかもしれませんが、その問題の本質の部分が取り上げられなくなってしまうかもしれません。私はそれを避けようとしているのであります。
 また、「一日で改善します」というような文句を載せれば、クライアントはたくさん獲得できるかもしれません。私はそのことを特に重視しているわけではありません。保証されて大船に乗った気持ちで来られるよりも、不安を抱えたまま来られる方が、私には価値があるように思いますし、その人たちの方が私は好きになれるのであります。そのような考え方をしていますので、いかなる保証も、このサイトでは見当たらないだろうと思います。不安が強くて保証を求めてしまう人たちから見ると、私は不親切な人間に映るかもしれませんが、私は自分の考え方に従うつもりでおります。私はいかなる保証も約束もしないつもりでおります。

 以前のサイトでも私は保証に関して同様のことを述べております。基本的にこれに関しては、その当時と考え方は変わっていません。ある人に対して何かを保証するという行為は、その人の将来にある事柄に関して述べることになります。簡潔に申し上げれば、将来その人に起こることなど、私には分からないのであります。予知能力があるわけでもなく、私自身の明日のことさえ分からない人間でありますので、他人の将来、その人が「治る」のかどうかなど、尚更分からないのであります。
 
では、私から保証を得られないとすれば、この人たちはどういうことをするのかと言いますと、彼らは私を見学しに来るのであります。様子見で訪れる人や、あからさまに「覗きに来ました」というような人までいろいろであります。そして、私に探りを入れて、私を見定めるか、保証を引き出そうと試みられるのであります。私はその人たちのために時間を割くだけのゆとりがありませんので、そのような行為はどうかご辞退願いたいのであります。
 ある人はいきなり私を訪れては、あれこれ自分自身のことを話し始めるのであります。私は予約を取って下さいとお願いして、早く切り上げようとしました。そして、最後にその人は「どれくらいの人が良くなっていかれているのですか」と尋ねたのであります。私はうんざりして、「9割の人が良くなっていったとしても、あなたが9割の方ではなく、1割の方に入ってしまう可能性は十分にありますよ」と答えたのでした。さすがにその人は「これはダメだ」と思われたのか、そそくさと帰って行きました。

ある機関が「成功率が9割」と謳っていたとしても、それはそこの「過去」の実績であるはずであります。これまでの人たちの成功率が9割だということでありまして、それは今後の人たちの数字ではないはずであります。これまで9割だったから、今後も9割を維持するだろうと考える根拠は何もないはずであります。尋ねる人が本当に知りたいと望んでいることは、自分が今後その9割の方に入るかどうかということだと思います。中には確実に自分は9割の方に入ると信じている人もあるかもしれません。そうでなければそのような数字に魅力を感じないのではないかと思います。
 どんな場合においても、成功するか失敗するかは半々だと私は思います。コインを投げて、表が出るか裏が出るかという賭けにおいても、どちらが出るかということは五分五分の確率であります。仮に裏が連続して10回出たとしても、次の一回の確立は五分五分なのであります。過去のデータがどうであれ、次の一回で裏が出るか表が出るかの確率は変わらないのであります。もし、こういう話に興味をお持ちになられるなら『確率の世界』(ダレル・ハフ著)という本をお勧めします。今、私が述べたようなことが載っています。(余談ですが、私は前述の『確率の世界』と『統計で嘘をつく方法』[ともに講談社ブルーバックス]という二冊からずいぶんいろいろなことを学びました。この二冊は私のお勧めであります)

 どうもここまで書いてきて、保証を求めてしまう人たちに対して辛辣過ぎたのではないかという気持ちに襲われています。認めることが難しいかもしれませんが、私たちの生きているこの世界においては、何一つ確かな保証というものがないのであります。私は今日生きました。しかし、明日も同じように一日を生きられるかという保証はどこにもないのであります。私たちの世界を丁寧に見ていけば、私たちは保証なしにこの世に放り出され、生を営んでいることが理解できるのであります。将来の安心のために保険会社に加入するとします。これは一つの保証を手に入れる行為であります。しかし、その保険会社が今後とも永続するという保証はないのであります。占いに頼るのも、保証を手に入れる行為であります。それは将来のことに関して、何か確かな物を獲得しようとする行為であります。今日、占いで一か月後の私の運勢を見てもらったとします。それは私の今日の段階での一か月後を見てもらうことであります。明日、私は交通事故で亡くなってしまったとしても、この占いが外れたことにはならないのであります。従って、究極的には占いも何一つ保証を与えないものだと私は考えております。私たちは確実な保証がない世界に生きているのだと思います。そして、このような世界で生きなければならないのだと思います。
 何一つ保証が得られない世界で生きていかなければならないということは、私たちはこのような世界に耐えることを学ばなければならないのだと思います。そのことは保証を得ることよりもはるかに肝心なことだと思います。仮に保証が得られたとしても、その保証はどこまでも部分的なものであるわけであり、その保証が保証し得ない部分というものが生じてしまうのであります。そこを他の保証で埋め合わせたとしても、その埋め合わせに用いられた保証もどこまで追求しても完全なものではないのであります。常に保証され得ない部分が生じるものだと私は思います。

 確率や統計はこのような場合、最も役に立たないものだと私は考えております。先述した人のように、保証を求める人は確率や統計で答えてくれるように質問するものであります。日本人男性の平均寿命は確か77歳だったと記憶しています(もし間違っていたら勘弁してください)。この数字は私には何一つ意味をなさないのであります。なぜなら、日本人男性の平均寿命がそれだけあったとしても、他ならないこの私がその年齢まで生きられるかどうかは、その数字は何も教えてくれないのであります。むしろ、日本人男性の半数はその年齢まで生きられなかったということを、この数字は同時に示しているのであります。従って、ここでも私にとっての確率は、その年齢まで私が生きられるかどうかという確率は五分五分のままなのであります。
 悲観的な話を私が展開しているように思われる方もいらっしゃるかと思います。将来のことは常に不確実で、不鮮明であります。百パーセント確実に言えることなどほとんどないのではないかと思います。肝心な点は、確実な保証を得られなければ何もできないということではなく、確実な保証が得られなくても生きていくことができるということなのだと思います。私たちはそれを目指さなければならないのだと思います。

 話が脱線してしまったので、この辺りでカウンセリングのことに戻りましょう。
 これを読んだあなたはこのようにお尋ねになられるかもしれません。「それでは、お宅のカウンセリングを受けに来る人たちは、何の保証もなしに受けに来るのか」と。私は「その通りです」とお答えします。そんな当てにならない所は御免蒙りたいというのであれば、それはあなたの自由でありますので、私はそれで結構であります。過去にどれだけのクライアントが上手くいったとしても、他ならないあなたが私と上手くやっていけるかどうかに関しては、あなたには何一つ保証がないのであります。その保証がないという点に関しては、私の方も同じ条件であります。私があなたとうまくやっていけるかどうかということは、私には何も保証がありません。お互いにやってみなければ分からないのであります。
そして、実際大多数のクライアントはそのような気持ちで受けに来られているのだと、私は信じております。

(文責:寺戸順司)






このページは以上です。ご読了お疲れ様でした。
以後、「カウンセリングの過程(4)」にて引き継ぎます。