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カウンセリングの過程(2)

カウンセリングの過程(2)―INDEX

<テーマ62> カウンセリング環境へ適応すること
<テーマ71> クライアントの3タイプ
<テーマ72> 「推薦クライアント」の一例








<テーマ62> カウンセリング環境へ適応すること 

 私が所属していた陸上部に新しい顧問が来ました。私が中学二年生の時です。以前の顧問は転勤したのでした。以前の顧問は「陸上は意外と危険なものであり、砲丸や円盤を投げ、その脇を走ったりする。他の部活ともグラウンドを共有しているために衝突が起きたりもする。だからちゃんと見てくれる顧問の下で練習していってほしい」と、最後の練習の日に、私たちに伝えたのでした。
 新しい顧問は、確かテニス部と掛け持ちだったと記憶しています。その顧問はテニス部には顔を出すのに、陸上部には一切姿を現しませんでした。私たちは彼の所に行って、その日の練習メニューを貰うのです。あとは自主トレ状態で、中学生の私たちが自分たちで練習するのであります。監督してくれる人もなしにです。私は当然新しい顧問と陸上部に反感を覚えました。そして、前の顧問の言葉を裏切ってしまっているようにも私は感じていました。私が練習をサボるのも、その反感をアピールするためでした。いわゆるデモやストライキを個人的にしていたのであります。他の部員たちはそれでも練習に励んでいました。
 当時の私は自分が筋の通ったことをしていると感じていました。大人になって分かったことは、実は何一つ筋の通ったことはしておらず、ただ不適応を起こしていただけなのだということであります。もし、陸上部に反感を覚えているのであるならば、私は退部すれば良かったのであります。その方がよほど筋が通っているのであります。以前の陸上部に戻すことを望んでいた私は、新しい環境に馴染めなかっただけなのであります。そして他の部員たちの方が新しい環境に速やかに適応していたのでした。

 私のこの体験を持ち出したのは、私が新しい顧問と陸上部に馴染んで適応する代わりに、批判し攻撃ばかりしていたということ、そしてそれが間違った行為であり不適応であったということを伝えたいためなのです。私は次のどちらかをその時に選択しなければならなかったのだと今では思います。一つは陸上部に所属する代わりに、新しい顧問に適応すること。もう一つは退部する代わりに、いかなる批判もしないこと。それは退部した以上、陸上部に対して物を言う権利や自由は私にはないからであります。所属していながら、文句だけ言う自由は私にはなかったのであります。
 このことは、ネットの掲示板で書き込む人たちに対しても同じようなものだと私は考えております。彼らはそのカウンセラーとは縁が切れた以上、批判する自由はないのであります。なぜなら、そのカウンセラーはもはや「書き手」には無関係であるからであります。「書き手」のことも後で述べるかもしれませんが、もう少し「適応」ということを見ていきましょう。

 次のような例は適応していると言えるのかどうかを考えてみて欲しいのです。
 ある女子高校生がコンビニでお菓子の袋を開けて、勝手に食べ始めました。会計はまだ済んでいません。店員が注意すると、「お金はちゃんと払うから」と言います。そして、空になった菓子袋をレジに持って行ってお金を払います。この高校生は「ちゃんとお金払っているのになんで注意されないといけないの」と怒って、注意した店員に怒りを露わにします。
 さて、この高校生はその場に適応していたのでしょうか。決してそんなことはありません。不適応を起こしていたということは一目瞭然であります。お金と商品を引き換えて、その時点で商品は客のものになるのであります。客の物になるまでは、お店の品物であります。これは自明のことであります。お金を払うから一緒だという理屈はここでは通用しないのであります。また、店内で勝手に袋を開けて食べるということも禁止されている行為であります。なぜそうなのかと言えば、それは店のルールがあるからだとでも言えばここでは十分でしょう。つまり、その場その場で従うべきルールがあり、私たちはそれに従うことがその場では求められているということであります。常に、私たちは適応を求められている存在であると言っても構わないかと思います。
「適応」ということは、ものすごく単純に考えれば、その場において、その場に相応しい行為を選択するということであります。ルールやマナーを守るということは「適応」の一つの形であります。さらに、それが強制的に課せられているから従っているというのではなくて、それが自然に無理なくできるということも「適応」の要件だと私は考えます。規範が内在化されているということは「適応」のための条件であると思います。また、自分自身や周囲との折り合いをつけていくということも「適応」の一つであります。この場合、周囲と折り合いをつけながらも、自分自身を喪失してしまわないということが肝心なことであります。抽象的な表現になるかと思いますが、「適応」とはその場その場においてその人のパーソナリティが適切に機能することであると、私は考えております。
 また、どれだけ「適応」に優れた人であっても、時には「適応」に失敗するということもあります。私自身はそれほど「適応力」に優れているとは思いませんが、足の怪我で病院に行った時に、医師から怒鳴られたというエピソードをどこかで述べたかもしれません。時にはそういう失敗をしてしまうこともあるかと思います。
 さらに、「適応」ということには、その場においてという意味だけでなく、他者に対しての「適応」というものがあると私は捉えております。冒頭で示した私の中学時代の体験は、私が新しい顧問に対しても「適応」しなければならなかったということであります。

 さて、カウンセリングに訪れるクライアントは、その場や対応してくれるカウンセラーに「適応」するということがどうしても求められてしまうのであります。私のカウンセリングを受けにくる場合、私の面接室に適応し、私という人間に適応しなければならなくなります。同じことは私の側にも言えることであります。私もまたそのクライアントに適応することが求められているのであります。ただ、この場合の適応に関しては、クライアントの方が私よりも若干負担が大きいだろうとは思っております。
 クライアントによっては、こうした「適応」に困難を覚える方も少なくありません。自分が、いわば「不適応」を起こしていたのに、そこは省みずに、カウンセラーをネット上で批判しているようなケースも少なからずあるだろうと私は捉えております。
 臨床の場に「適応」するということがどういうことなのかを示す例があります。それを以下に引用します。
「『非常に若いときに』と自発的に入院したある患者は私に言った。『病院生活とはどういうものかすっかりわかりました。そこでは他の人たちに耐えなければならないということです。なぜなら他の人たちも私に耐えようとしているのですから』」(『反―精神医学と精神分析』モード・マノーニ著 松本雅彦訳 人文書院 p22より)
 私はこの患者さんの言葉が大好きであります。この人は病院という所が、治療の場というものが、どういう所かが分かったと言います。彼は詳細を語りませんが、そこは自分が独り自由に閉じこもる安全な空間もなく、常に人の目に晒され、自分の領域や世界に無遠慮に踏み込まれてしまう場であることを彼は認識しているように思います。彼はそのような苦痛に満ちた場に自ら飛び込もうとされているのであります。つまり、その場に「適応」しようとされているのではないでしょうか。相当な覚悟をされたのではないかと察します。そして、ここには諦めの感情だけでなく、より積極的な姿勢を見る思いがします。彼の積極的な信念を支えているのは、自分もまた誰かの領域に踏み込み、邪魔をし、耐え難い思いをさせてしまっているだろうということ、彼らもまたそのような自分に対して耐えているのだという洞察であります。
 この患者さんがその後どうなったかといったことは同書では述べられていませんが、私はきっと上手く行っただろうと推測します。なぜなら、ここまで治療に協力的になっている患者さんの治療は成功する確率が高くなるからであります。何よりも、この患者さんが治療状況に適応しようとしている姿に、私は感動するのであります。

 クライアントがカウンセリングを受ける時、そのカウンセリングの場に、そしてそのカウンセラーに「適応」していくことが求められるのであります。それはクライアントにとっては一つの試練であり、その後、繰り返し試されることになる試練であると私は思います。クライアントはそれをしなければならないのであります。
 カウンセラー側にも同じことは言えるのであります。私自身を振り返っても、「適応」に失敗したクライアントを何人か思い浮かべることができます。それは私にも課せられた試練であります。しかし、この試練は、やはり「適応」の場合と同様、クライアントの方がはるかに負担が大きいものであり、それにとても耐えられないクライアントもおられるのであります。しかし、「適応困難」とか「不適応」という言葉で片付けてしまうことよりも、たとえ少しずつであってもいいので、クライアントがそれを達成していけるようになっていくということがとても大事なことであります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ71> クライアントの3タイプ 

 カウンセリングに訪れるクライアントには三つのタイプがあると私は捉えております。一つは「自発的クライアント」で、もう一つは「強制的クライアント」であり、その中間として「推薦クライアント」がいると捉えております。こうした言葉は私の個人的な用語でありまして、専門的に使われる言葉ではありません。インスー・キム・バーグら、解決志向のセラピストたちは、「クライアント」と「カスタマー」を区別されていますが、これは私の用語では「自発的クライアント」と「強制的クライアント」にそれぞれ該当するものと私は捉えております。

 まず、この三者それぞれについて説明しておきます。
「自発的クライアント」とは、自ら必要性を感じて、自ら探して、カウンセリングを受けに来るといった人のことであります。いわば自発的な来談者であり、その人自身の動機づけに従って受けに来られるクライアントであります。
「強制的クライアント」とは周囲から半ば強制的にカウンセリングに送られるという人のことであります。そのために来談の動機が弱いかまったくないかという人が多いのです。そして、そこには、当然のことながら、その人をカウンセリングに寄越した「送り主」が存在しています。中でも家族によってその人がカウンセリングに送られるというパターンが多いのです。親が子供を連れて来たり、送ってよこしたりするということが、私の経験ではほとんどですが、「自称AC」の人が母親を送り込んでくるという場合もこれに含まれます。家族以外の人では、その人の友人が送ってよこしたり、職場の上司などが部下を送りこんでくるという場合があります。いずれにしても、当人はカウンセリングの必要性をほとんど感じていなくて、義務的に受ける場合が多いように私は感じております。仮に、自身でカウンセリングの必要性を多少なりとも感じている「強制的クライアント」であっても、そのカウンセリングはどこかその人自身のためではないという雰囲気に包まれてしまうという印象を私は受けるのであります。そこには常に「送り主」の存在が背後にあるのであります。
「推薦クライアント」とは「自発的クライアント」と「強制的クライアント」の中間にあって、カウンセリングの必要性を自分では感じているのですが、誰かに勧められてそのカウンセラーを訪れるといったタイプの人であります。これには「推薦者」の存在があります。この「推薦者」はかつて「自発的クライアント」であったという例が、私の経験では、ほとんどであります。この中には特定の「推薦者」はなくとも、「口コミ」で受けにきたというような人も含まれています。「強制的クライアント」と比較してみると、「推薦クライアント」は一応、自分の決定で受けに来ているという点で「強制的クライアント」とは異なります。一方、「自発的クライアント」と比べてみると、その動機づけが非常に弱かったり、どこか他人事のような感じで受けに来られるという人も、「推薦クライアント」では見かけることがあります。
 また、「推薦クライアント」とは、自分で行動に移せなかった人、自身で決断できなかった人であるとも表現できるかと思います。カウンセリングの必要性を自分で感じていながら、誰か身近な人が先に受けて、その人を見てからでないと、自分が受けるかどうかの決断がなかなか下せなかった人たちであると私は思います。

 私はかつて「自発的クライアント」でした。二十代の頃でした。この経験のため、私が自分のクライアント体験から何かを語るときには、どうしても「自発的クライアント」の視点で語ってしまうことになるだろうということを予めお断りしておきます。私にはしばしば「強制的クライアント」の立場に立つことに困難を覚えたり、「推薦クライアント」の視点がうまく掴めないので、誤った疑問を投げかけてしまっているのではないかと心配になることがあります。それは私自身にそのような体験がないためであり、その分、私の推測や憶測に基づかざるを得ないという点をご理解していただきたく思います。
この「カウンセリングの過程」というページそのものも、「自発的クライアント」を前提として述べているという点をも併せて注意を促しておくことにします。また、「推薦クライアント」と「強制的クライアント」とは、「自発的クライアント」とは違ったプロセスを経る場合が多いということも申し上げておきます。

 さて、この三種のクライアントですが、これは大部分が最初の動機づけによって区別されているに過ぎないのであります。最初は「強制的クライアント」だった人が、後に「自発的クライアント」に変わっていったという例も少なからずあります。つまり、この三種のクライアント像は、いわば不動のポジションのようなものではなく、その過程によって流動していくものであります。そのようなものとして受け取られることを私は望みます。
 クライアントの動機づけだけではなく、私に対しての感情にも三者には違いがあります。「自発的クライアント」は私に対して、何らかの信頼や期待を抱いているのであります。既に私に対しての信頼が芽生えているのであります。「推薦クライアント」もある程度はそれが見られます。「強制的クライアント」になるとそうはいかなくて、猜疑心に満ちていたり、時には敵意をむき出しにしてお越しになられる方もあります。「強制的クライアント」にとってみれば、カウンセラーは「送り主」側の人間だと見られているのかもしれませんし、何よりも彼にとって重要なのは「送り主」であって、カウンセラーなんかはどうだっていいというような人もあるかもしれません。

 こうしたことの違いは、三者において、そのスタート地点が自ずと異なってくるということを示しているのであります。敢えて単純化して申し上げれば、「自発的クライアント」は速やかにカウンセリングのスタートが切れるのでありますが、「推薦クライアント」と「強制的クライアント」では、その前にしなければならない作業があるために、スタートが遅くなると言うことができます。
もしくは、「強制的クライアント」と「推薦クライアント」に関しては、彼らがカウンセリングに持ち込んだそもそもの問題以外に問題になっていることがあるために、作業が増えるのだと表現してもいいかと思います。それをクライアントの来談動機となった直接の問題を話し合うことと同時進行で取り上げなければならないのであります。

 先述のように、私は「自発的クライアント」の視点でこういう原稿を書いています。このページだけでなく、その他のページに関しても、やはり同様なのであります。続く項目において、私は「推薦クライアント」と「強制クライアント」のそれぞれの事例を提示して、そこでどういうことが問題となるのか、「自発的クライアント」とどういう点で多くの作業をしていかなければならないのかということを述べるつもりでおります。そして、「推薦クライアント」や「強制的クライアント」であるということが、何も悪いことではなく、彼らが「自発的クライアント」になっていくことを私は目指そうと試みているのだということをも、事例を通して見ていくことにします。

(文責:寺戸順司)






<テーマ72> 「推薦クライアント」の一例 (約3800字)

本項では「推薦クライアント」の一例を掲げ、次項において、「強制的クライアント」の例を挙げることにします。

 ここで例として挙げるのは、一人の主婦であります。主婦には主婦サークルみたいなものがしばしば生じるのですが、彼女の所属する主婦サークルに、私のかつてのクライアントがおられたのでした。彼女は、私のクライアントであった主婦が以前とは違って見えるので、どうしてそう変わったのかと疑問に思っていました。そして、その主婦が私のカウンセリングを受けているのだということを彼女に教えたのであります。彼女は興味を覚えたのか、私の面接を受けに来ました。ただ、彼女はすぐに行動に移したのではないようであります。彼女は、その主婦が私のカウンセリングを受けているということを知ってから、数か月経って、私を訪れたようであります。
 彼女は一回目の面接で、「実は○○さん(私のクライアントの名前を述べる)の知り合いで」と、素直に話されました。「推薦クライアント」には数人お目にかかったことがありますが、大抵の場合「推薦者」を名指しされるのであります。そして、私が「ああ、○○さんのお知り合いですか」と応じると、「推薦クライアント」はとても嬉しそうな表情をされるのであります。このことは「推薦クライアント」にとって、しばしばとても重要な意味があるのですが、その理由は後で述べることにします。

 私がお会いした「推薦クライアント」の方々(それは少数であるかもしれませんが)は、ほとんど決まって自分と「推薦者」とは似ているということを、何らかの形で伝えるのであります。はっきりそれを表明される方もおられました。この、「推薦者」と自分が似ているというように当人に感じられていることが、「推薦クライアント」とお会いしていく上でしばしば困難な問題をもたらすのであります。このような問題は「自発的クライアント」ではまず生じないことであります。
 自分が「推薦者」と似ていると感じていることによって、その人の中では常に「推薦者」が間に入ってくるのであります。そのクライアントは確かに私と対面しているのです。しかし、その人の中では私との間に「推薦者」との関係をも見ているのであります。私―「推薦者」―自分という、このような関係が「推薦クライアント」の中でしばしば生じているのであります。カウンセリングにおいては、この関係から「推薦者」の姿が薄くなっていくことを目指すことになるのであります。それは「推薦クライアント」が持ち込んできた問題とは、時にかけ離れていることもあります。
 ところで、彼らの言う「似ている」ということでありますが、彼らは「あの人と自分は似ている」とか、時には「お互いに似ているなあと感じている」などと表明されるのであります。しかし、私から見ると、実は似ていないのであります。当人たちには似ているように感じられているのであります。その点が重要なのであります。
客観的に似ているか否かということは問題ではありません。ただし、「推薦クライアント」が「推薦者」と自分とが似ているということを表明するとき、彼らの体験している事柄が問題になるのであります。ここには彼らの抱える問題の一端が現れているように思います。
 端的に申せば、「鏡像段階」にある子供のイメージを私は思い浮かべてしまうのであります。「鏡像段階」というのは、鏡に映った自分の姿を見て、自分に生き写しの姿を見て、自分自身を確認する子供の段階であります。私たちはこの段階を必ず経ているのであります。自己確認の一手段として、自分と生き写しの存在(自分と似ている存在)を必要とするのであります。自分と似ている存在を手掛かりとして、自己を確認していくのであります。「推薦クライアント」にとっての「推薦者」はそのような存在なのかもしれないと、私には思われるのであります。
 先に、私が「推薦者」のことを覚えていると、「推薦クライアント」が嬉しそうな表情をするということを述べました。その理由を先送りしていたのですが、ここでその理由が理解できるように思われます。つまり、「推薦者」は「推薦クライアント」にとって自分と等価なのであります。従って、私が「推薦者」のことをよく覚えていると言う時、「推薦クライアント」にとってはどこか自分自身を覚えていてくれているような感覚を覚えるのではないかと思います。あるいは、「推薦者」のことを覚えていてくれているカウンセラーだから、「私」のこともきっと覚えてくれるだろうというように感じられているのかもしれません。

 ここまでのことを少しまとめておきましょう。
「推薦クライアント」は自分と「推薦者」が似ているということを何らかの形で表明します。それは「推薦クライアント」が自己を確認する手段として「推薦者」を利用していると理解しました。利用という言葉は誤解を招くかもしれません。自己確立のために「推薦者」を補助的に必要としていると述べる方がより適切かもしれません。いずれにしても、「推薦者」と「推薦クライアント」とはそのような関係を築いているように私には思われるのであります。
上記のことを踏まえた上で、他者をそのように自己確認の補助手段として必要とするということは、「推薦クライアント」が、それだけ不鮮明な自己を有しているということを意味していることが窺われるのであります。実際、私がお会いした「推薦クライアント」はすべてそのような傾向を多少なりとも有しておりました。つまり、自分がはっきりしないのであります。
 また、「推薦クライアント」は「推薦者」の変容を間近に見ています。そして「自分もあの人のようになりたい」という目標を抱いていることも多いように思います。しばしばこれは表に現れず、クライアントの中で隠された目標となっていることもあります。つまり、あくまでも「推薦者」からかけ離れたくないのであります。それだけ「推薦クライアント」にとっては、「推薦者」は強く結びついた存在になっているのであります。
従って、次のように述べることができるかと思います。「推薦クライアント」がカウンセリングを受けることになった直接の問題が何であれ、それとは別に、「推薦クライアント」が「推薦者」とは違った自己を確立していかなければならないということであります。それがカウンセリングのもう一つの目標になるわけであります。従って、「推薦クライアント」は、その人がカウンセリングで改善していくためには「自発的クライアント」よりもより多くの作業を、その前段階としてまたは同時的に、していかなければならないということになるのであります。

 先のクライアントのその後の経過を簡単に述べておくことにします。彼女は自分自身の家族と夫との関係について悩んでいました。それらを彼女の中で改善するということが、カウンセリングの表向きの目標でありました。真の目標は、彼女自身が個を確立するということであります。ただし、これははっきりと明言されたわけではありませんでした。私の中で設定された目標でもありました。
「推薦者」のことが話題に生じるのは、ごく初期の頃だけでした。後半になると、より彼女自身のことが語られるようになっていきました。これは「推薦者」の影響がそれだけ薄らいできたということであります。彼女自身が自己を語り、自己への理解を深め、自分が体験したことを自己の中に収めていくことができるに従って、彼女は安定を取り戻し、現在の生活をより生きやすくなっていったのであります。そのようになっていくに従って、彼女は自分自身になっていくことができていったのであります。
 この変容は、例えば、面接の初期頃においては、「○○さんのところは上手くいっていていいなあ」というような言葉が発せられたのでしたが、それが中期頃においては、「○○さんのところもたいへんなんだなあ」に変わってきて、後期頃においては「○○さんのところと自分とは全然違うんだなあ」に変わっていったのであります。もはや彼女にとって、「推薦者」と自分が似ているかどうかは問題ではなくなっていたのであります。むしろ差異がはっきりと認識でき、かつ、その差異を自然に受け入れることができていったように私は思います。それは彼女自身が「推薦者」から離れたことを表すのであり、「推薦者」とは別個の個人として、自身が存在しているということが認識できていったのだと言うことができるかと思います。その後、彼女は「推薦者」とは違った自分として、「推薦者」と新しい関係を築いていこうとしているようにも私には見えました。
 彼女がカウンセリングに持ち込んだ問題というのは、表向きには十分に改善されたとは言い難いかもしれません。しかしながら、彼女が自己を確立していくに従って、彼女は自分の生活を甘受することができるようになっていったのであります。その生活の中で、自分を失うこともなく、現実的にその環境の中で活動できるようになっていったのであります。そうなると、彼女は今の生活で生きることがそれほど困難ではなくなっていったのであります。

(文責:寺戸順司)






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