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失錯行為

失錯行為―INDEX

<テーマ69> 失錯行為(1)
<テーマ70> 失錯行為(2)~失錯の利用
<テーマ74> 失錯行為(3)~自己破壊的な失錯

<テーマ104> 失錯行為(4)~自己懲罰的な失錯





<テーマ69>失錯行為(1)(約4600字)

 ある日曜日の朝、私は出勤のため電車に乗っていました。向かいの座席に親子三人が座っていました。どこかへ遊びに行くところのようでした。ある駅で電車が停まりました。信号待ちだったか特急通過待ちだったのか覚えていませんが、電車はそこで少し足止めを食うことになりました。その時、向かいの座席の子供(小さい女の子でしたが)が「閉まんない」と呟きました。それを聞いた父親は「つまんない?」と声かけたのでした。私は思わず「にんまり」してしまいました。
 この父親の行為はいわゆる失錯行為であり、父親は娘の言葉を聞き違えたのであります。娘は電車が停止して扉が「閉(し)まんない」と言っており、私もそれははっきり耳にしたのです。しかし、父親はそれを「つまんない」と聞き違えてしまったわけであります。

 フロイトにはこういう人間が日常何気なくしてしまう失錯行為についての研究があります。「日常生活の精神病理」という本としてまとめられ、フロイトの生前ではもっともよく売れた本だというふうに聞いた覚えがあります。また、「精神分析入門」においても最初の四章にてこういう事柄を取り扱っていますので、興味のある方は読まれてみられたらよろしいでしょう。そして、この研究は、Freidian slipという言葉を生み出すほどポピュラーなものになったのでした。
 フロイトは、このようなうっかりしてしまう失敗に対して、そこに無意識的な力が働いているということを論証していったのであります。そして、一見無意味に思われる失錯行為でも、当人にとっては意味があり、それは神経症を生み出すメカニズムと同一のものであるということを論じているわけであります。つまり、こうした失錯行為もまた「心の病」として捉えているのであります。
 
 先に挙げた電車の中の父娘の例において、私たちはこのような推測を立てることができるのであります。つまり、父親はせっかくの日曜日を家族サービスで費やすことになって「つまんない」と思っているのだろうということであります。もちろん、外側から推測できる事柄は必ずしもこの父親自身の体験しているところのものとぴったり一致するとは限らないかもしれません。でも、あながちその推測は当たらずとも遠からずといったところではないかと私は思います。

 失錯行為に関しては、これは観察してみるととても面白いので、読まれている方も、自分自身や周囲の人の失錯行為に目を止めてみられればいろんなことが分かるかと思います。私が収集したいくつかの例を挙げることにします。

 朝、出勤の準備をしている間、私はテレビのニュースを聞いているのですが、ある時、アナウンサーがやたらと言葉を噛むのに気づきました。昨年(一昨年だったかもしれません)の三月頃のことでした。毎朝、そのアナウンサーの声を聴いているのですが、これだけ言葉を噛むのは彼には珍しいことだなと、その時、私は思いました。興味を持って、しばらく画面を見ていると、ニュースの終わりにこの男性アナウンサーは、番組改編のためこのコーナーが終わること、そして彼が降板することを述べました。そして、長くご視聴いただいてありがとうございましたとカメラに向かって頭を下げるのであります。私は頷けるように思いました。彼にとってその日のニュースが、その番組での最後の仕事になったのであります。そして、言葉を「噛む」とはなんとも象徴的だと思いますが、彼は番組の改編と自身の降板に対して、少なからず不本意であったのだろうと私は推測します。彼はそれに対して抗議したかったのかもしれません。言葉を「噛む」ということで、彼は自分の怒りを「噛み」殺し、同時にこのような改編をした制作側に対して「噛みつき」(攻撃)たくなっていたのかもしれません。もちろん、これまでの彼なら、あるいは普段の彼ならこのようなことはしないのであります。
 このアナウンサーの例では、怒りの感情とそれを押さえようとする葛藤があったのだろうと私は思います。それが原稿を噛むという失錯行為として現れたのだと考えられます。

 私が以前よく通っていた飲み屋で、一人の年輩の男性と会話をしていた時のことです。その時、彼は若い頃の思い出を語っていました。なかなか波瀾に満ちた人生だったらしく、いろんな職種を転々としてきたようでした。若い頃のある時期、彼は自衛隊に入っていたと話します。自衛隊での生活がどんなものだったかということを彼は話しています。訓練において、実際に銃を撃ったということを話していて、ピタリと彼の言葉が途切れたのです。それまで流暢に話していたのに、ここに至って、なぜか言葉が詰まるのでした。それで「えーと、あれは何て言ったっけな」と、しきりと何かを思い出そうとするのでした。話題が銃器のことでしたので、私にはさっぱり分かりませんでした。私は彼が何を思い出そうとしているのか推測することもできず、また助け舟を出すということもできませんでした。彼が言いたかったのは、銃を発砲した後に、銃の中に残る残滓のことだったのです。それを何と言っていたかということが思い出せなかったのでした。
 私はさりげなく「きっと何か嫌な思い出がそれに関してあるんでしょう」と言ってみました。すると彼は「そうそう、その通りやねん」と答え、次のようなエピソードを語りました。当時、射撃訓練をした後、銃の手入れをしなければならなかったそうであります。そして、手入れがきちんとできているかどうかを教官がチェックするのであります。そのチェックをパスすると、夕飯にありつけるのでした。しかし、その教官という人がとても厳しい人で、銃に少しでも残滓が残っていたら、もう一度初めから手入れをさせられるのでした。何度も何度も手入れのやり直しを命ぜられて、夕飯になかなかありつけなかったのだと彼は話しました。
 銃の中に残ってしまう残滓に関して、そのことが彼の中では厳しかった教官に対する感情と結びついていたのでした。この苦痛な体験の記憶と結びついているために、彼はその残滓の名前を思い出すことができないでいたようでした。彼にとっては、それこそ思い出すのも嫌な体験だったのではないかと思います。

 私自身の例も挙げましょう。ある時、私は広告会社の営業マンと会っていました。この営業マンに対して、私はもう少し下調べをして、勉強してから来てほしいものだと感じて、イライラしていました。
 その中で、彼は「寺戸さんは京都の人なのに、どうして京都ではなく、大阪の高槻で開業しようと思われたのですか」と問いかけてきました。私はそんな周辺的なことを質問しないで、もっと肝心な、本質的な部分を取り上げてほしいものだと思いながらも、彼の質問に答えていきました。私は、まず、京都はこういう方面では激戦区であるということを彼に伝えました。そして、いろんな大学のグループが京都にはあって、「私が知っているだけでも、京都大学、佛教大学、京都学園大学、龍谷大学」とそこまで言って、はたと私の言葉が途切れたのでした。もう一つ大学名を挙げようとしたのですが、土壇場でこの大学の名前を私は忘れてしまったのであります。私も行ったことがあり、その大学のキャンパスの光景まで頭に思い浮かんでおり、尚且つ、その大学に所属している先生まで知っていて、その先生の顔まで頭に浮かんでいるのだけど、どうしてもその大学の名前が出てきませんでした。結局、その時は言葉を濁してごまかしたのですが、彼と面談している間、思い出そうとしてもついにその大学名が出てきませんでした。
 彼と別れてすぐに、私はその大学の名前を思い出したのでした。それは「文教大学」だったのであります。私は彼に対して、訪問する前に自分が訪れることになっている会社のことをもっと「勉強」してから訪問するべきだと思っていました。心の中ではそう思っていたのですが、それを表には出さないようにしていました。つまり、「事前に『勉強』してから来てください」ということを飲み込んでいた(抑圧していた)のであります。この言葉を飲み込んでいたので、類似の言葉にそれが影響を及ぼしていたのだと私は気づきました。つまり「勉強(べんきょう)」という言葉を飲み込んでいたので「文教(ぶんきょう)」まで一緒に飲み込まれてしまったということであります。
 もし、この時、私の「抑圧」が不十分だったとしたら、私は「文教大学」と言うべきところを「勉強大学」と言ってしまっていたかもしれません。

 自分自身を理解しようとする際に、自分でしでかしてしまう失錯行為に注目するというのも一つの手段であります。失錯行為には、度忘れ、言い間違い、書き間違い、聞き間違い、勘違いや思い違い、うっかりミスなどのことであります。度忘れの中には、ある事柄を忘れるということだけでなく、反対にある事柄を暗記できないといったことも含めるとよろしいでしょう。しかし、人間は常に注意が行き届いているわけではないので、疲労や注意散漫なためにこうしたことをしてしまうこともあるので、そのすべてに隠された意味があるなどという前提に立たない方が望ましいと思います。身体的な面も無視しないように注意しなければならないことだと思います。また、こういうことは、できることなら自分自身の失錯行為に対して試みてみるべきでありまして、他人の失錯行為(私が上に示したような)をやたらと解釈してしまわないようにすることが、相手との人間関係においても、大切なことであるかと思います。
 上記の例は、私自身の例も含めて、失錯行為とある否定的な感情とが結びついているということが示されています。他者の例においては、私の解釈であるので、実際にはどうなのかということは断言できないのであります。それでも、その否定的な感情が存在しているのではないかという予測はできそうであります。
 その否定的な感情とは、ここに挙げた例においては「怒り」であるわけであります。怒りの感情を喚起されているのに、それを表現することが禁止されている場面で生じているのであります。怒りを感じながら、怒りを抑えなければならないということは、当人たちに非常な緊張感をもたらすものであります。この緊張感が失錯行為につながっているのであります。
しかし、その人たちに向かって「あなたは本当は怒っているのでしょう」と言ってみたところで、恐らく否定されるのがオチではないかと思います。ですから、「つまんない?」と娘の言葉を聞き違えて答えてしまった父親に対して、「あなたは心の中ではつまらないと思ってるのね」などと言ってしまわないように気をつけなければなりません。むしろ、「今日は楽しめそうにないのかな」と訊いてみる方がましでありますし、父親が楽しめるように何ができるかを考える方が、人間関係において、よっぽど建設的であります。私はそう考えております。
 そして、できるなら、失錯行為の理論(この理論自体は明快で利用しやすいのですが)は、自分自身の失錯行為に関して、その時の自分の感情に気づくために用いられる方がよほど適切であると私は考えております。

(文責:寺戸順司)






<テーマ70> 失錯行為(2)~失錯の利用(約2500字)

 失錯行為について続けていくことにします。前項では、私自身のものも含めて四つの例を挙げました。四つとも失錯行為が不快な感情や強烈な感情と結びついているということが理解できることを確認しました。このような例をもう少し続けたいと思います。
 その前に、私は人間はどうしても失錯行為をしてしまうものであり、それは避けられないことであるという前提に立っています。問題は失錯行為をしないということではなく、それを自己理解の糸口にすることであると捉えています。もちろん、他者の失錯行為を通して、他者理解につなげることもできるのですが、他者の行為の場合、それはあくまでも自分の推測であるという前提を忘れないように心掛ける必要があるでしょう。
 また、失錯行為をしてしまったら、それを真剣に取り上げてみて、有益な理解を得るということも大切かと思います。つまり、失錯行為の利用ということであります。そのような例を挙げてみたいと思います。

 私は予約表に目を通して、今日誰が何時に来ることになっているのかを確認しました。これは毎朝私がしていることであります。その日、Aさんが朝に来て、午後からBさんが来るなということを覚えていました。私はまずAさんが来るものとばかり信じていました。しかし、現れたのはBさんでした。私はびっくりしてしまいました。予約表を見ると、確かにBさんが朝に来ることになっていて、Aさんは午後からでした。私は間違って覚えてしまっていたのであります。
 私にとって問題だったのは、なぜAさんとBさんだったのかということであります。もちろんこの二人には現実的な関係は何もありません。でも、同じ日のCさんやDさんに対してはそのようなことが起きていないのであります。つまり、それがCさんやDさんではなく、なぜAさんとBさんとの混合が起きてしまったのかということが問題なのであります。詳細を述べようとすれば、各々の事例に踏み込まなければならなくなってしまうので、簡潔に述べることにします。私は改めてAさんとBさんのことを振り返り、この二人を一つとして考えてみようと思いついたのであります。結果、Aさんについて得た理解、Aさんに対する理解というものは、Bさんを理解する上でとても有益だったのであり、その逆も同様でした。
 この失錯行為がなければ、私はAさんとBさんとを関連づけてみようとは思いもつかなかっただろうと思います。これは利用ということの一つの例であります。

 失錯行為に気づく。その失錯行為の意味を振り返る。そうして得られたものを自分自身のために利用する。そういう流れで捉えていただければけっこうであります。自分自身や他人を非難、攻撃するためにそれを利用することは避けなければならないことであると私は捉えております。心理学の理論というものは、容易に他者に対する偏見や攻撃に利用されうるものであります。それは理論が間違っているのではなく、その理論を用いるその用い方が間違っているものであると思います。心理学(その他の学問も同様ですが)の理論は、それがどのような分野の理論であれ、人間を理解するためのものであり、それは人類の福祉に貢献するためのものであるのです。学問上の業績を、私たちは誤って使用してしまわないようにしなければなりません。歴史的に見て、人類の不幸はしばしばそれによって生じていることも少なくないと私は思うのであります。それは失錯行為の理論においても同じであるということであります。

 失錯行為に気づき、解釈して、理解が得られたら、その理解は自己を変えるために用いられることもまた望ましいことだと思います。自己反省の材料にすることもできます。
 前項の「文教大学」という言葉を度忘れしてしまった私自身の例では、営業マンに対して「もっと勉強してから来い」という感情を抑えていたのであります。しかし、後になって、私は彼に対してそこまで怒りを、抑圧しなければならないほどの怒りを感じる必要があったのだろうかと思ったのでした。彼の不勉強を私が叱責する権利があるでしょうか。彼は勉強するつもりだったかもしれません。大体において彼はそういうことをしているのかもしれません。彼が勉強しなかったのは、私の口から直接聞いてみたかったからなのかもしれません。もしそうだとすれば、彼は私に対してとても興味を持ってくれていたのかもしれません。そのように、いろいろな可能性を考えてみると、私がそこまで怒りを感じることが果たして正当なことだったのかどうか、自分でも怪しくなってくるのであります。
 ここで、別の可能性が考えられるのであります。確かに私はその時、怒りを感じていました。その営業マンに対して怒りを感じているように私は捉えていたのでしたが、もしかしたら、その他の部分に対して怒りを感じていたのかもしれないということであります。そこにたまたま勉強してなかった営業マンがいただけなのかもしれない、それだけのことだったのかもしれないのです。そして、この可能性は、私にとってはとてもよく頷けるのであります。その日、私は彼のために時間を割く余裕がなかったのであります。従って、この面談そのものが私にとっては都合の悪いものとして捉えられていたのでした。営業マンと気持ちよく対面しようと思えば(別にそのような義務が私にあるわけではないのですが)、私は私自身の時間をもう少し調整することができていなければならないのでした。こういうこともまた、一つの気づきであり、失錯行為をきっかけにして得られた洞察であるわけであります。
 そして、本質的な部分が取り上げられず、周辺的な事柄ばかりを質問されて、私がうんざりしていたのですが、それは私自身の抱える問題と無縁のものではないと思います。もし、私がその部分を取り上げることができていくとしたなら、この失錯行為はそのための一つの入り口を提供してくれていたということになります。そういうこともまた、失錯行為の利用であると思います。

(文責:寺戸順司)







<テーマ74> 失錯行為(3)~自己破壊的な失錯 (約3700字)

 失錯行為というのは私たちの誰もが経験あることなので、だからフロイトの本もよく売れたのだろうと思います。私たちにとっても、それは身近な経験であります。度忘れしたり、言い間違えたり、読み間違えたり、聞き間違えたりといったことを経験したことがないというような人はまず存在しないだろうと思います。それらは私たちが日常的に経験する事柄なのであり、誰にも覚えがあることなのであります。
 いろんな例を私は見聞してきました。ある人の名前がどうしても出てこないとか、約束を忘れてしまったりとか、忘れ物をしてしまったりとかいったことは、自分自身においても生じますし、私の周囲の人においても生じます。日常生活でごく普通に見かけるものであります。

 出勤時に阪急電車に乗ろうとしてJRのカードを改札に通してしまった人が、別の時には降りるべき駅を乗り越してしまったといった例もあります。ある目的地へ向かっている途中で道に迷ってしまって、その辺りをグルグル回って探してみたけれど、どうしても見つからず、人に尋ねてみて、その目的地が実はつい目と鼻の先だったことが分かったというような例もあります。
 こういった例は、その人の無意識的な願望が関与しているということが理解できるのであります。前段落の二例は、出勤することと目的地へ到着することを無意識的には拒んでいたと理解できる、つまり本当は行きたくないのだなということが理解できるのであります。それを意識化できていれば彼らはこのようなミスはしなかったことでしょう。繰り返しになるかと思いますが、そういう人に対して「あなたは本当はそこに行きたくなかったのです」と言ってみても、却って反感を買うだけなのでありますので、そういうことをしてしまわないように私たちは気をつけなければなりません。むしろ、何がその人をして、そのような抵抗を引き起こしているかを理解する必要が生じるのであります。「あなたは無意識的に出勤を拒否しています」と言うのではなく、「この人は出勤すること拒否したい気持ちがあるようだ。何が彼をしてそういう気持ちにさせているのだろう」と考えることの方がはるかに建設的で望ましいというわけであります。

 失錯行為には今まで述べてきたようなものだけではなく、もっと深刻なものもあります。その無意識的な願望が自己破壊的な願望である場合には、失錯行為はとても笑って済ませられるようなものではなくなってしまうのであります。
 ある高校の教師をされている男性が語ってくれました。毎年、彼は入学試験を採点するのですけれど、ほとんど満点に近い点数を獲得していながら、受験番号や名前を書き忘れる受験生が毎年何人かいると言うのであります。優秀な成績で合格できているのに、不合格になってしまう人たちがいるのだと彼は述べました。
 こういう受験生に対して、私たちは「彼らは本番で緊張していたのだろう」とか、あるいは「本番のプレッシャーに弱い人だろう」というふうに理解して済ましてしまうことが多いのではないかと思います。確かにそれは一つの理解の仕方であり、正しい一面もあるでしょう。ただ、それは表面的な理解でしかないように私には思われるのであります。というのは、彼らの人生を振り返って眺めてみると、彼らが本番や強いプレッシャーの下において成功した例を見出すことができるであろうからであります。彼らが本番やプレッシャーに弱いのだという理解に立てば、彼らがそのような状況下では常に失敗しているということが観察されなければならないということであります。そのような人は恐らく存在しないでしょう。
 ところで、もし、彼らが何かに対して無意識的に抵抗しているのだとしたらどうでしょう。そういう観点から理解してみることができるかと思います。同様な失錯行為を以下にいくつか挙げることにします。

 次にあげるのは私が昔アルバイトしていたお店での出来事であります。その店で、新たな試みとして、新しい事業に手を伸ばそうと店長は考えました。そして、先着何名かのお客さんに景品を渡そうと店長は計画しました。その景品を業者に発注する時、例えば三万円分の品物を取り寄せようと、店長は伝票に三万円と金額を記入したのです。しかし、後日店に届いた景品は三十万円相当の分量でした。店長は伝票に三万円と書いたつもりでしたが、「0」が一つ多かったのであります。店にとっては損失でありましたが、その後、その新しい事業も頓挫してしまったのでした。
 私が高槻で開業してまずやったことは、行きつけの店を確保して、とにかく地元のことを知ろうということでした。近くのバーをそういう店として私は選びました。そのバーは夫婦で経営されていましたが、若い頃から必死に働いて、自分たちの店のオープンにこぎつけたのだと話してくれました。それはそれで良かったのですが、オープンしてすぐ、ご主人が病気に罹り、入院することになってしまったのでした。そのため、店はできたものの、オープンしてすぐに一時休業しなければならなくなったと言うのであります。私が通うことにした頃には順調にいっていたようですが、やはりというか、その後しばらくして、その店は閉店してしまったのでした。
 私が見聞した例はたかがしれているので、上記のような失錯行為をもっと知りたいと思われる方はヴァイツゼッカー「病因論研究」(講談社学術文庫)を読まれることをお勧めします。どうも絶版になっているようですが、古本屋さんなどで探されると見つかるかもしれません。同書には、人生の大きな転換期に病気に罹ってしまう人の例が豊富に載せられています。そして身体の病気とその人の人生とがいかに関連しているかということを示唆してくれるとても優れた一冊であります。

 また、病気に罹るということではなくても、成功して、上り詰めていった人がわずかの失敗で転落してしまったというような人のことは新聞などで頻繁に見かけるものであります。それまで順調にやってきた人が、どうしてこのタイミングで、しかもその人からは考えられないような失敗をしてしまうのかと、そういう人の話を見聞したことはないでしょうか。あるいは、土壇場で失敗してしまうというような人も私たちはよく見かけるのではないでしょうか。
 この人たちはけっこう面白いなと感じていたお笑い芸人さんがいたのですが、彼らはしばしば大事な部分で噛んでしまったりするのでした。彼らはやはりメジャーにはなりませんでした。紆余曲折を経た挙句、解散してしまい、片方は引退したということを聞いたことがあります。

 本項に挙げた人たちは、言うなれば、成功しそうな時に失錯行為をしてしまっているのであります。あるいは、失錯行為さえしなければ上手くいっていただろうというような人たちであります。彼らのことを、失敗する願望が無意識的にあるのだと言ってしまうと、それは間違っているとは思いませんが、首をかしげたくなる人も多いのではないかと思います。失敗したいと願っているような人をイメージすることは難しいからであります。むしろ、成功することが彼らの中では禁じられているというように理解する方が適切なのであります。成功してしまうということに恐れがあり、抵抗したくなっていると考えることもできるのであります。要は、成功するということが彼らの中ではタブーになっているということであります。しかも、自分がそういうタブーを抱えてしまっているということに、彼ら自身気づいていないのであります。
 もう一度、どういう局面で失錯行為が生じていたかを見てみましょう。上に挙げた人たちは、彼らの人生において重大な局面に面した時に失敗をしているのであります。入学試験で、念願の自分たちの店をオープンした時に、新規事業を始める時に、肝心のオチを言って笑いを取る場面でそういうことが起きているのであります。そして、その失錯行為はその人の後々の人生に影響を及ぼしているのであります。明らかにその時だけの失敗では終わっていないのであります。

 成功することがその人の中でタブーになっているということに関しては、それは失錯行為の範疇から外れていきますので、「自殺と自傷」ページにおいてこのような人たちのことを再度取り上げたいと思います。興味のある方はそちらをご覧ください。
 ここで考えておきたいことは、その人の失錯行為の中に、その人の人生に対する構えが現れるということであります。その構えは当人においては無意識なのであります。その場合、何よりも自分自身のそのような構えに気づくということが大切なのであり、失錯行為がそれに気づくための手段であってもいいのであります。そのためにも失錯行為を過小評価して見過ごさないようにするというのも大事なことではないかと、私は考えております。

(文責:寺戸順司)






<テーマ104> 失錯行為(4)~自己懲罰的な失錯

(104-1)自己懲罰的な失錯
 失錯行為は、その人の生に対する構えや姿勢と密接している場合もあります。クライアントはいくつかそのような失錯行為を報告してくれるのであります。それは、例えば自己懲罰的な生き方をしている人は、失錯行為においても、自己懲罰的な失錯をしてしまうということであります。いくつか、このような例を挙げてみましょう。

(104-2)書類を紛失した男性クライアントの例
 あるクライアントは仕事で必要な書類、それも大事な書類を紛失してしまったと語りました。それは彼がカウンセリングを受けに来たそもそもの問題とは無関係な出来事でありましたが、私たちはそれについても話し合いました。彼は何度探してもそれが見当たらないということで、落ち込んでいました。仕事場も、家の中も、隈なく探したのですが、彼はどうしても書類を見つけ出すことができませんでした。何週間も探してまわった挙句、
「もう、諦めて、失くしてしましましたと上司に報告するつもりです」
 と彼は決意しました。そしてそれを実行に移したのであります。当然、上司からは厳しく叱られました。意気阻喪した彼が、その日、家に帰ると、自分の部屋の中で、あれほど探していた書類を発見したのでした。
 この日のことを話してから、彼は「上司に報告するのをもう一日待ったら良かった」というように述べました。
 私はもう少し詳しく尋ねてみました。とても興味を覚えたからであります。書類は彼の部屋にあったのです。そして、彼の部屋は何度も探されたのであります。当然、書類が出てきた個所も彼が繰り返し探した場所でありました。従って、彼の失錯行為というのは、書類を紛失したということではなくて、そこにあった書類を見落としていたというところにあるということになります。何度も彼は書類がそこにあるのを見ていたはずであります。しかし、彼にはそれが見えていないのでした。
 ここにはもう一つ、タイミングの問題があります。彼が書類紛失を報告して、上司から叱られたまさにその日に、あれほど探していた書類を彼は発見したのであります。これは偶然でしょうか。彼の言葉によれば、その日に発見されるのであれば、報告するのをもう一日待った方が良かったということであります。このことはつまり、上司に叱られたということと書類の発見とは無関係なものと彼にはみなされていたのであります。彼が、上司から罰を受けたからこそ、書類を発見できたのかもしれないという発想をしていないのは明らかであります。
 私の考えるところでは、彼がもう一日待ってみたとしても、その日はやはり今までと同様に発見できないということを繰り返していただろうと思います。おかしな言い方に聞こえるかもしれませんが、彼の自己処罰が成就したからこそ、彼は書類を発見することができたのであります。
 彼の自己処罰傾向というものは、カウンセリングの初期から明確に見えていました。最初の頃、彼を処罰するのは、周囲の視線でした。書類を紛失した頃、彼はそのような視線から罰せられているという恐れからはかなり解放されていました。しかし、この解放(もしくは彼の内面的な変容による解放)を、彼はまだ十分には受け入れることができなかったのではないかと私は当時考えました。それで別の形の処罰が彼には必要となったのかもしれなかったのであります。処罰が必要と言うと、首を傾げたくなるかもしれません。これは彼の経験してきた事柄を見れば頷けるものでありますが、端的に言うと、彼は常に罰せられるポジションに置かれていたわけであります。このポジションは彼には苦しいことでありましたが、そこから抜け出ることができるということが、当時の彼にはまだ信じられないのでした。そこから一部でも抜け始めた頃に、こういう失錯行為が生じているのであります。彼は上司(彼にとっては父親のような対象)から罰せられることによって、以前のポジションに留まる結果になったのであります。これはある意味では後退であります。視線によって罰せられる感情は減少しましたが、彼は罰せられる自分をこうして再体験してしまったわけであります。彼にとって、直接的な処罰を体験するということは、過去に戻ろうとする傾向であり、行動化でもあったのです。

(104-4)手を怪我した女性クライアント
 もう一例、自分自身を罰してしまった、それも失錯行為という形で罰してしまったというクライアントの例を挙げます。
 このクライアントは女性で母親でした。彼女の子供には生まれつき障害があったのです。それでも彼女は障害のある子供を献身的に育てていたのでした。とても健気な人だなと私は感じていました。彼女は、カウンセリングに来て、子供との楽しい体験を語ります。休みの日に子供と何をして遊んだとか、どこへ行ったとか、そういう話をされることが多かったのであります。
 ある時、回数も十回は超えていたのでしたが、彼女は子供の障害のことで、いかに自分を責めているかということを涙ながらに語りました。彼女がその感情を言葉にしたのは初めてでした。妊娠中にもっと自分がきちんと注意していれば良かったとか、そういう後悔の念を話し、いかに自分が子供に対して悪いことをしたかを切々と語られるのでした。私は、その気持ちを十分語るように促しました。
 翌週、彼女は再び面接室に来ました。その時、手に包帯を巻いておられたのでした。私が驚いて、どうしたのですかと尋ねると、彼女は自転車で事故したと答えるのであります。彼女の家で、自転車をしまう時に、手を挟んでしまったのだということでした。彼女はその生活において、毎日、自転車に乗るのであります。従って、自転車をしまうというのは毎日していることなのであります。ところが、その時に限って、彼女は手を挟んで、怪我をしてしまったのであります。
 問題はこの怪我をした日であります。実は、彼女は前回のカウンセリングからの帰りにこの事故を起こしたのであります。彼女は「偶然ですよ」と言うのでありますが、私はそのようには捉えませんでした。
 ポイントは次の点であります。彼女はそれを毎日のようにしていて、怪我をしたことは一度もないということです。よりによって怪我をしたその日に、彼女は自分がいかに罪深い人間であるかということを表明しているという点であります。
 彼女は自分が子供に対して罪深い人間であると表現しました。しかし、私は彼女を罰したりはしませんでした。そのために、彼女はこういう形で自分を罰してしまったのかもしれないのであります。私の受容が足りなかったのかもしれません。
 また、怪我をした領域が手であるということも私は気になりました。なぜ手だったのでしょうか。この子に「私が手をかけてしまった」というように感じられていたのかもしれません。どのような意味があるにしろ、彼女の手が処罰の対象として選ばれていると考えることができるのであります。
 彼女の個人的な感情を別としても、手というのは罪ということと関連のある部位であります。「犯罪に手を染める」とか「相手に手を出す」「会社の金に手をつける」などの表現を見ると、罪と「手」ということの関連が深いということが分かるのです(注1)
 私は彼女の怪我について、もっと掘り下げたかったのですが、彼女は「済んだことだから」と、それに「単なる事故だったから」ということで、それ以上には語ろうとしませんでした。
 彼女の罪悪感はその後は語られることはありませんでした。ただ、これ以後、彼女の状態は見る見るうちに良くなっていったのであります。これは罪悪感が語られたということと、それに伴っての処罰を彼女自身が受けたことによるものだと私は捉えております。
 その後の彼女は、一応、状態が好転していったので、カウンセリングを終了したのでありますが、私としては一抹の不安を残すケースでありました。

(104-4)失錯行為の意味とタイミング
 こういう失錯行為は、自罰的な様相を帯びているものであります。本来なら「自傷」のページで取り上げた方が良かったのかもしれませんが、失錯行為にはこのような種類の物もあると私は考えておりますので、ここに掲載するのであります。
 一人目の男性は書類が見えていなかったという失錯であり、二人目の母親はおよそ事故を起こさないような場面で事故を起こしたという失錯であります。それぞれには意味がありました。男性の方は父親からの処罰、母親の方は我が手を罰するという意味合いでありました。それは、そのまま彼らの人生において大きな地位を占めている事柄に関係していました。しかもタイミングに焦点を当てると、あたかもそれらの失錯行為は、起きるべくして起きたかのような印象を私は受けるのであります。従って、単なる「事故」とか「偶然」とかいう形で、これらの行為を済ましてしまわないようにしなければならないと私は考えるのであります。

(104―5)彼らは何をするべきだったのか
 ここで挙げた二人のクライアントは、自罰的な行動化(本人たちは意図的にそれをしているわけではありません)をしてしまっているという理解をしました。彼らはそのような行動化をする代わりにどういうことをしていく必要があったでしょうか。
 書類を紛失した男性は、処罰を受けるポジションから逃れるということが、彼のテーマとなると私は理解しております。そして、そのことは、彼が恐れている対象を恐れなくなるということでもあります。いつ叱られるかとビクビクしなくなるということであり、それは処罰を下す対象から解放されるということであります。そのためには、支えや守りを内在化していかなければならず、そうした作業を私との間でしていかなければならないということであります。
 もう一人の母親の方はどうでしょうか。彼女は手を怪我する代わりにどういうことを経験していく必要があったのでしょうか。彼女は我が子の障害に罪悪感を抱いています。その罪の償いとして、彼女は手を罰したのであります。これは事故という形を取りました。書類を紛失した男性と比較してみると、彼の方が処罰を他者に行ってもらっている分、より「神経症」的な行為であると見做すことができるかもしれません。しかし、どちらも自分を処罰するような形でそれが起きているということでは共通しています。彼女は事故の後、状態が良くなっていきましたが、それは自己処罰が成就したためのものである可能性が高いと私は捉えております。従って、この好転は一時的なもので終わるかもしれないのであります。本当に彼女にとって必要なことは何だったのでしょうか。それは、彼女は自分の罪悪感や子供に対する感情を十分に表現しなければならないということです。彼女は最初の十数回に渡って、面接の場でそれができずにいたのであります。少しずつそれができていれば良かったと思いますし、私もそのような働きかけをもっとするべきだったと今では捉えております。彼女の場合、それが一気に噴き出したので、一回の面接では十分に処理し切れずに、家まで持ち帰ってしまったのだと思います。
 彼女は(もちろん書類を紛失した男性も同様ですが)、許されるべきだったのであります。私はそう捉えております。自分が許されるべき人間ではないからこそ、自分は罰せられなければならないということになってしまうのであります。そして、その処罰を無意識的に遂行してしまうのであります。しかし、当人たちは、それが自己処罰的であるとは認識していないし、そのような観点で失錯行為を捉えていないのであります。失錯行為の背景には必ず何らかの「禁止」が働いているものであります。当人をして禁じられているものこそ、表現され、受け入れられ、当人の内に収まり、それが許されていかなければならないものであるのです。

(104―6)注と補足
(注1)罪、あるいは罪悪感ということと手との関係について。<テーマ105>における、我が子を殺してしまった男性の引用例を参照のこと。この男性は後に機械に手を挟んで右腕を失って(処分して)いる。文学ではマクベス夫人の半夢遊状態での手洗い行為(「マクベス」シェイクスピア)がよく知られています。イエスを十字架にかけたピラトが、手を洗う場面を想起されてもよいでしょう。(「・・・水を持ってこさせて、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血についてわたしには責任がない。お前たちの問題だ』」マタイによる福音書27章24)。手は罪意識と関連があり、手を洗う、手を処分するということは、その贖罪の意味があると考えられるのです。

(文責:寺戸順司)





 

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