ホーム > インターネットの世界(2)

インターネットの世界(2)

インターネットの世界(2)―INDEX

<テーマ55> 臨床家への批判(3)~「クライアントのせいにしている」

<テーマ123> 無力者の抵抗
<テーマ125> 「書き手」は私に勝てない
<テーマ137> 「書き手」の憎悪
<テーマ138> 「書き手」の満足






<テーマ55> 臨床家への批判(3)~「クライアントのせいにしている」

(55―1)「クライアントのせいにしている」とはどういう類の批判であるか
 掲示板を見ていって、これもよく目にした内容なのですが、臨床家との間で「書き手」に何かが生じたときに、「臨床家はそれをクライアントのせいにしている」という批判であります。
 この批判は、「それは本当は臨床家が悪いはずなのに、私のせいにしている、私の問題に還元されてしまった」という意味合いを含んでいるように、私は受け取りました。「本当は臨床家が悪いのだ」ということを暗に秘めているように聞こえるのです。
 さらに、これは「それは本当は私の問題ではなく、臨床家の問題なのだ」という主張につながっていくかのように私には思われるのです。臨床家の方に問題があるという批判になるということです。
 確かに、臨床家も一人の人間であり、彼なりの苦悩や問題を抱えていることでしょう。誰に対しても、常に成功するとは限らず、間違ったことや失敗をしてしまうこともあるでしょう。
 私などはいくつも覚えがあるくらいです。私も多くの問題を抱え、それらに取り組みながら日々を生きる一人の人間にしか過ぎません。私は私の抱えているものや背負っているものに取り組む。同じように「書き手」も自分の抱えているものに取り組まれればよろしかろうと私は思うのです。そこには本来、何一つ対立するものなどないのです。
 しかし、そうは言うものの、私はここでは、やはり、クライアントの、そして「書き手」の「問題」の方を取り上げることになるでしょう。私は私で自己を内省して生きることにしておりますが、この場においてはそれを取上げないということを、明言しておきます。従って、「そういうお前はどないやねん」という類の反論は受け付けません。

(55―2)迫害を体験している可能性
 さて、「臨床家はクライアントのせいにしている」と「書き手」が体験する時、一体、双方の間でどのようなことが生じているのでしょうか。もちろん、これに関する手掛かりは皆無です。「書き手」は自分自身のことを書き込まないからです。
 だから推測を重ねていくしかないのですが、私が一番に思いつくのは、「書き手」が臨床家の言葉に対して、それを迫害的に体験しているということでした。この「書き手」は迫害される立場に自己を同一視してしまう傾向があるのかもしれません。
 言い換えれば、臨床家の言葉、解釈、介入を、いわば、一種の攻撃として体験されているのではないかということです。そして、「書き手」にとって敏感に反応してしまう領域に関しての事柄が、その時には話し合われていたのではないかと、私は察します。
 個々の面接状況が分からないので、一概にどういうことが生じたかということを述べることができないのです。でも、一つの可能性として、そういう場面だったということも考えられるのです。

(55―3)つけるべき区別
 既に二項にわたって、私が「臨床家への批判」と題して述べてきた事柄があります。もし、「書き手」がそれを読めば、やはり同じように私もまた「この人はクライアントのせいにしている」と映っているのかもしれません。
 だから、ここにはっきり述べておくことが必要だと感じています。
 私はいくつかの掲示板に目を通していって、そこにある私に対しての書き込みや他の臨床家に対しての批判の言葉を読んでいき、それについて私が考えていることを述べているに過ぎないのです。
 もう少し詳しく言うと、私が遭遇した現象を記述して、それに対して私が感じたことや考えたこと、推察したことを述べており、それが「書き手」にとっての理解の助けになればいいと願っているということです。従って、ここには特定の誰かを攻撃しようとか、責任転換しようという意図はまったくないのです。そういう意図をもって成された文章はないのです。この区別はつける必要があるのです。臨床家は何かを説明しているのか、現象を記述しているのか、自分の考えを述べているだけなのか、それとも迫害する意図で言っているのか、と言った区別です。もし、臨床家が責任転嫁して、「書き手」を迫害しているなら、誰が見てもそうとわかる証拠があるはずです。
 ここでも、もし、あなたが私の書いた文章を読んで、「自分が攻撃されている」とかいう体験をされているとすれば、私の文章の拙さのせいもあるでしょうが、それは私の意図しているところのものではないということを再確認していただきたいのです。
 私も記述には気を付けるようにしています。でも、それと同じくらい、なぜ私の言葉、文章をそこまで「迫害的」に受け取らなければならないのかということを考えてみることも重要なことだと私は思います。
 言い換えれば、私の問題は私に還元して私が取り組む、あなたの問題はあなたに在るものとしてあなたが取り組めばいいということです。そこにはお互いの間で対立し合うものなど存在しないし、お互いに批判し合う必要もないのです。

(55―4)私たちは現実を多少なりとも歪める
 ここで一つだけ注意を促しておきたいのです。
 それは、私たちは現実を現実のままには見ていないということです。私たちは誰もが現実をそのまま見ているのではなく、各々が自分の目を通して見ているのです。いわば、その人の持つフィルターを通して、現実を見ているということです。ですから、そこには多かれ少なかれ現実を歪曲してしまうという現象が生じるのです。
「心の病」という現象の一つの特徴として、この歪曲が非常に大きくなるということが知られています。
 現実に対しての歪曲が大きくなるということは、その人の中では現実よりも、「妄想」や「思い込み」の占める度合いが大きくなるということです。例えば、自分に対して悪意のない人の中に悪意を見出したり、攻撃的な意味合いのない他者の言動に攻撃を体験してしまったり、そもそも暴力のなかった関係や場面に暴力を持ち込んだりしてしまうのです。
 こういう現象は人間にとってとても不幸なことであると私は考えます。そして、カウンセリングのような作業を通してクライアントが達成していく洞察の多くは、周囲の人は自分に対してそれほど敵意を向けていたのではなかったという事実であったりもするのです。
 従って、「書き手」が「臨床家はクライアントのせいにしている」と書き込む時、一つの可能性として、「書き手」が本来そこになかった「悪」を見てしまっているのかもしれないのです。もちろん、一つの可能性ということを特に強調しておきます。私はその臨床家の肩を持っているわけでもなく、「書き手」が間違っているということを言っているのではないということ、そこで生じていることの可能性を述べているということを併せて述べておきます。

(55―5)クライアントには責任転嫁できない部分がある
 それが精神科医の診察室であれ、カウンセリングの場面であれ、クライアントが「心の治療」を受けるとなれば、そこでは常にクライアントのことが話題の中心に据えられることになります。それが通常なのです。
 私の面接において、私の場合、クライアントが何かを発言した時には、その言葉はクライアントに属している何かの表現であると考えます。そして、その言葉がなぜ生じたのかとか、その言葉は一体何を指し示しているのだろうかということを、私は考えます。
 こうした作業は、私がクライアントを理解しようとしているものであり、何かをクライアントのせいにしているという作業ではないのです。この部分の違いは押さえておきたいのです。
 もし、私のクライアントが私に向かって「あなたは私の問題をすべて私のせいにしている」と述べられたとすれば、私はそれを否定しないでしょう。そして、まず、次のように考えるかもしれません「このクライアントは自分の問題を自分の問題として受け止めることに困難を覚えているようだ」と。あるいは「自分の問題を自分のせいだと宣言されることに、この人は非常に傷つくのだ」と理解するかもしれません。そして、「そのような責任をすべて自分に還元されてしまっていると体験しているのだから、私のことを非常に敵対視しているだろう」というようにも考えるでしょう。
 そして、もし、このクライアントが「自分がこうなったのは私のせいではなくて、暴力を振るった飲んだくれの親父のせいだ」と述べられるとすれば、私はその言葉はそのまま信じようとするでしょう。なるほど、クライアントが今の状態になったのは父親のせいなんだなと納得はするでしょう。
 しかし、だからと言って、問題は父親の側にあって、そのクライアントの問題ではないという結論には達しないのです。なぜなら、問題を意識して私の面接を受けに来られたのは、父親ではなく、このクライアントであるからです。
 従って、クライアントが自身の問題を抱えて訪れている限り、その元凶が事実父親にあったとしても、面接場面では、その問題を抱えて苦悩しているクライアント自身が中心に据え置かれることになるのです。父親の話ではなく、クライアントの話が常に取り上げられることになるのです。どのような「治療法」であろうと、それは変わらないのです。これは問題をクライアントのせいにしているというようにクライアントには見えているかもしれなくても、それとはまったく違った視点なのです。
 しばしば、それはあまりに不公平だと訴えるクライアントもおられます。「父親が悪いのに、なぜ自分がいろんな犠牲や負担を負ってまで、この問題に取り組まなければならないのか」というように感じられたりするのです。
 確かに不公平なことです。しかし、今現在において、問題を意識して臨床家を訪れているのは、やはり父親ではなく、そのクライアントであるわけです。その「問題」をどうにかしなければならないと感じているのは、父親ではなく、クライアント自身であります。その問題が切実に体験されているのは、やはりクライアント自身であり、父親ではないのです。
 私がカウンセリングを受けていた時、私にとって一人目の臨床家の先生でしたが、ある時、その先生は次のようなことを私に言いました。「寺戸君が今の状態になったのは親にも責任があるのだから、治療費を親に求めてもいいのではないか」と。私は断固として反対したのです。当時、私は一応大学生だったので、アルバイト代をそのままカウンセリング料に充てていたのです。それで私が辛そうに思ったのか、先生はそのように言ったのです。一応、先生の親切心から言ってくれたことなのだろうと捉えています。
 なるほど、私の体験したことを聴いていると、臨床家にはそれが私の親のせいであるように見えたかもしれません。私の「病」には親に責任があるかもしれません。でも「病の治療」は私の責任でやりたかったのです。私の場合は、「治療」に親が関わってくる方がもっとイヤな感じがしていました。「治療」に親を引き入れたくなかったのです。だから、私はそこにあまり不公平感を見なかったのです。
 それはあくまでも私一個人の体験であり、それを他のクライアントたちに強要することはできません。ただ、「治療」に関わる責任はクライアントもまた引き受けていかなければならないものであるということを述べたいのです。つまり、クライアントには「治療」に関して、引き受けるべき責任がある、責任転嫁できない部分があるということです。それは避けられないことです。しかし、そのこともまた、「クライアントのせいにしている」というのとは、まったく異なった話なのです。

(55―6)「裁判官」イメージと関わる
「クライアントのせいにしている」と「書き手」が体験する時、次のような可能性もあり得るだろうと思います。「書き手」はその時、臨床家その人に反応しているのではなく、臨床家が「書き手」にもたらしているイメージに「書き手」が反応しているという可能性です。
 この「書き手」にとって、臨床家は「裁判官」のようなイメージがあるのではないかと私は思うのです。誰に責任があるかを判決し、言い渡す裁判官のイメージです。そして、この裁判官に自分が裁かれるというような体験をしているのかもしれません。しかし、この「裁判官」は「書き手」の中で生じている臨床家のイメージであり、現実の臨床家とは必ずしも一致しないかもしれません。
 私には「臨床家はクライアントのせいにしている」という書き込みを読んだ時、あたかも有罪判決を受けてしまった人の姿を見る思いがしたことがありました。事実、その「書き手」にはそのような体験、それに近い体験があったのかもしれません。
 私は、その「書き手」にとって、本当の「裁判官」は誰であったのかを見ることができれば良かったと思うのです。なぜなら、もし「書き手」が現実の臨床家ではなく、「裁判官」イメージと関わっているのであれば、「書き手」の中にある「裁判官」イメージの原形となった人物が存在すると仮定できるからです。その原型となった現実の人物との間で経験した問題を、この「書き手」は臨床家との面接場面で再現していると言えるのかもしれません。

(55-7)クライアントのせいにしたら、臨床家はクライアントと会う必要がなくなる
 また、「書き手」は次のような可能性を見落としてしまっているように私は思いますので、最後にその点だけ述べて本項を終わることにします。
 もし、クライアントの問題や言動のすべてが、そのクライアントのせいであると臨床家が認めているのだとすれば、つまり「書き手」の記述通り、「すべてをクライアントのせいにしている」とすれば、臨床家はそのクライアントとは会わないだろうという可能性です。これはけっこう自明なことではないかと私は思います。
 臨床家はその人に対して、「あなたに責任があるのだから、あなたが負いなさい」とか「あなたが悪いのだからあなたが反省しなさい」と言えば事足りるのです。それ以上にその人に関わる必要はないのです。
 だから、臨床家がクライアントに会い続けている限り、すべてをクライアントのせいにしているということの証明にはならないのです。むしろ、それらがすべてクライアントのせいだということになれば、臨床家はもはやその人を援助しようとも思わないでしょう。
 私の浅い経験から言うと、すべてをクライアントのせいにして片づけることができるのなら、これほど楽な作業はないのです。
仮に、「問題」となっている事柄の原因の一部をそのクライアントが担っているとしても、それ以外の部分もあり、その部分も見えているから、臨床家はクライアントのせいにして片づけることができないのです。


(文責:寺戸順司)






<テーマ123> 無力者の抵抗

(123―1)人には身に付けた表現スタイルがある
 他項で述べたことですが、人にはそれぞれ、その人が生きてきた中で身に付けたスタイルというものがあります。
そういうスタイルがあるということは、いくつかの場面で、その人は身に付けたスタイルに従って行動する傾向が強くなるということです。
従って、このスタイルはその人の行動に一貫性をもたらすものになるのです。私たちが「性格」と表しているのは、このスタイルであるということができるのです。
 怒りの表現ということにもその人のスタイルがあると私は仮定します。つまり、その人が怒りを表現する時には、かなり一貫したやり方をとるものです。
例えば、ある人が私に対して「寺戸はサイテーのクズ野郎だ」と掲示板なんかに書き込んだとします。その同じ人がコンビニの店員さんに毒を吐く時には「あそこのコンビニ店員はサイテーのクズ野郎だ」というように書き込むものです。時には、その人は自分自身に対してさえ「私はサイテーのクズ野郎だ」と罵るものです。
もちろん、ここで挙げたように一字一句違いなく罵るとは限らないとしても、大体において、同じような傾向の罵言を吐くものです。その人が身につけた表現スタイルがあるからこそ、場面や対象が違っても、同じような表現をするものなのです。

(123―2)硬直している人ほど一つのスタイルにしがみついてしまう
 そんなことはないと思われる方もおられるでしょう。書き手が毒を吐くのにも、いくつものパターンがあるのではないかと反論されるかもしれません。確かにそれは考えられることではありますが、私はそれには素直に頷けないのです。
 なぜかと言いますと、書き手が繰り返しあのような書き込みをするということは、その人の行動パターンが既に限られてしまっていることの証拠であると思われるからです。
様々な場面で、様々な行動パターンが採れる人は柔軟性のある人だと言えるのですが、書き手にはそのような柔軟性を欠いており、かなり硬直したパターンで生きている人たちであるという印象を私は受けるのです。
 あるいは行動のレパートリーがほとんどないのかもしれません。従って、頭に来るようなことがあっても、一つのやり方でしか対処できないのだろうと思います。その限定された対処法がネットで書き込むということです。後でまた取り上げる予定ですが、他の対処法が何もないからこそ、「書き手」は書き込まざるを得なくなっているのだと私は理解しているのです。
 パーソナリティに柔軟性を欠き、硬直している人ほど、さまざまな場面においても一つの行動パターンで応じてしまうということになるのです。そして、そのように硬直している人ほど、その表現スタイルも単一のものになってしまう傾向があるのです。

(123―3)無力者が攻撃する時
 ここでネットに書き込むということがどういう現象であるかを考えてみましょう。ある人は誰かに対して頭に来ることを体験します。その人がネットに書き込みます。その書き込みは、怒りをもたらした相手に知られない所でなされるという、いわば相手の目に触れるかどうか非常に不確実なやり方なのです。相手に知られないように、相手の悪評を流すというやり方なのです。
まず、考えたいのは、こういうやり方を採ってしまうのはどのような立場の人であるかということです。それは、明らかに相手に対して正当な手段を取ることができない立場の人たちなのです。相手に対して弱い立場にある人であるはずです。
この立場の弱いというのは、言い換えると、相手に対してまともに物を言えないということでもあります。相手に対してあまりに無力であることを体験しているのだと私は思います。
無力者が人を攻撃する時はこのようなやり方を採ることが多いのです。脅迫状を送りつけたり、いきなり切りつけたりすることも、同じであると私は捉えています。すべて相手との関係で無力な人が実践するやり方なのです。
 この無力さは、その怒りを適切に処理することに失敗している自分を体験していることからももたらされているかもしれません。つまり、相手との関係で無力であるだけでなく、自分自身に対しても無力であるという体験をしている人もあるかもしれません。
無力な自分を体験しないためには、それをもたらした相手の価値下げをもしなければならないのでしょう。実際、以前私が受け取った脅迫状まがいの文面はそのような活動で満ちておりました。私がその人に気付いて欲しいと願うのは、相手を価値下げして自分の優越を維持することではなくて、そうせざるを得ないほど無力感を体験されている自己の方なのです。
「書き手」に対しても、私は同じように言いたいのです。まず、無力な自分を体験しているのだろうということ、その無力感のために、非常に惨めな自分を体験されているだろうということです。確かに辛い体験ではあるでしょう。それで精一杯反抗したくなるでしょう。でも、そのやり方は「書き手」の内面をかなり損ねるやり方だと私は理解しています。そこに大切な事柄があるかもしれないのですが、「書き手」の書き込むという行為は、こういう部分には決して取り組まれることがないものとなるのです。

(123―4)ネットは自分を偽る場である
 柔軟性を欠き、一つのやり方でしか対処できなくて、尚且つ無力な自己を体験されているとすれば、その人はあちらこちらで同じような書き込みをするでしょう。
掲示板に書き込むというこのやり方が、最も安易であり、安全であると感じられるからです。簡単に書き込めて、相手から反撃されない確証が得られるからです。
だから、一つの掲示板に繰り返し毒を吐くというような「書き手」もけっこうおられるようです。あるいは、特定の他者のことを、複数の掲示板にて書き込むという人もあるようです。
 よく、「ネットでしか本音を語れない」というように表現されるのを耳にするのですが、私はそれに対しては半信半疑です。もしかすればそのような人もおられるのかもしれませんが、私がいくつかの掲示板で見た限りでは、そこに「書き手」の本音などが語られているとは思えないのです。別項で述べるように、書き手は決して自分自身を書かないからです。むしろ「ネットでしか自分を偽れない」という人も案外多いような気がするのです。
 もし、本音を語るなら、書き手は相手を攻撃することではなく、自分の無力さや卑小さや弱さをもっと書き込んでいるはずです。しかし、私の見た範囲では、そういう書き込みを目にすることは滅多にないのです。
時には、本音どころか、自作自演しているのではないかと思われるような書き込みをも目にするのです。だから、掲示板というものは、「書き手」が本音を語る場ではなく、むしろ「書き手」が自己を偽る場となっているのではないかと私は捉えています。
 従って、私は個人的に次のような見解を持っているのです。ネットの掲示板で書かれるのはその人の本音ではなく、偽りのその人であるということです。その掲示板の中でしか、相手よりも強く尊大な自己を表現できないということです。実際は、その人はもっと相手よりも微弱で無力な自分を体験されているかもしれないにも関わらずにです。そして、書き込みはその人の偽りの方を助長する行為となる、私はそう捉えているのです。

(123―5)私の反応
 ここで公平を期するために、私も本音を書きましょう。私が私に対する書き込みを目にする度に、私は忌まわしい過去の古傷に触れられたような体験をするのです。それはかつての迫害された自分を再体験するような感覚を受けるのです。それだけに私はその手の書き込みに対して過敏に反応してしまっているのです。
 最初に私に対する書き込みを見た時には、非常に嫌な気分に襲われました。この嫌な気分がどこから来ているのかを私は私なりに追及していったのです。
子供時代、私は家族の鼻つまみ者でした。それが私の迫害恐怖を生み出し、自分が迫害されるという物語を空想し続けていた時期をもたらしたのです。
ああいう書き込みを目にした時、私はかつての空想が甦り、あの忌まわしい空想が実現したかのような恐怖感を覚えたのでした。このことが洞察できるまで、私はとても苦しい思いを体験していました。
逆にこの洞察が得られると、私は私に対しての書き込みが苦しくなくなっていくのを体験しました。そして、書き手のことをもっと知りたいと思うようになったのです。
 たとえ癒えている傷であるとしても、傷跡を無神経に撫でられるのは気持ちいいものではありません。だから私を苦しめたいと思う人はどんどん私に対しての書き込みをされたらいいのです。私は書き込まれたものを削除しようとはしません。むしろ永久保存しておきたいくらいなのです。その書き込みで、恥をかくのが私の方であるか、あるいは書き手の方であるか、いつか決着が着く時が来るでしょう。そして、私が自分の体験しているこの苦しい感じがどこから来ているのかをしっかり把握できている限り、私はそのような書き込みで被害を受けることはないでしょう。私を不快な思いにさせることはできても、「書き手」には私を傷つけることはできない、そう自負しているのです。
 私は以前、エドガー・アラン・ポーの「息の喪失」という短篇を解釈して掲載したことがあります。『その他(1)』ページを参照していただければ結構であります。文学好きのあるクライアントから「どうしてああいう読み方ができるのですか」と問われたことがあります。それは私が迫害される人に同一視できるからです。私自身にそういう体験があるので、あの主人公の体験をそのように捉えたわけです。私は私自身の迫害体験や迫害空想を逐一書こうとは思わないのですが、私にそのような経験があるということは、そのテーマの箇所を読んでいただければ頷かれるのではないかと思います。

(123―6)書き込みは一つの「症状」である
 さて、私にそういう体験があって、書き込みは古傷を蘇らせるものとして、私には体験されました。書き手について書いていた最初の頃は、私は自分の過去や空想を否定したい気持ちから、そして書き手に対して反撃したいという気持ちで綴っていたのです。私はこれを隠そうとはしません。かなり辛辣に書いた箇所もあるのではないかと思います。
 今、こうして書くのは、私の個人的な過去や感情に基づくものではないのです。「書き手」が書き込むのを、私は一つの「症状」として捉え、その他の「症状」と同じように考えてみたいからです。そして、書き込むという行為が、「書き手」をしてどこに導くかを考えたいのです。
 まず、それが「症状」であるということを示したいと思います。もしあなたが通りで「あいつはサイテーだ」などとぶつぶつ呟き続ける人を見かけたり、「あんな奴死んでしまえ」とわめき散らしている人を見かけたりしたら、あなたはどういう反応をするでしょうか。「怖い」と思われるかもしれません。それは自然な感情だと思います。できるだけ近づかないようにしようと警戒されるかもしれません。そして、こんな風に思うかもしれません。「あの人は狂っている」と。「書き手」が掲示板に書くということも、これと基本的には違わないものであります。
 少し立場は異なりますが、通りで「明日、世界は滅びるのだ」と叫んでいるような人を見かけたことはないでしょうか。私は過去において何人かそういう人を見たことがあります。そういうことを叫ぶ人は「狂人」と見做されてしまうものです。それは半分は正しいものです。なぜなら、その人は「世界没落体験」をしているからです。そして、この「世界没落」感というのは、れっきとした「症状」なのです。「心の病」の「症状」というものは、しばしばそういう形で表に現れるのです。
 掲示板などに於ける、「書き手」による書き込みも、個々の書き手の「症状」であり、「病」の一つの表れとして捉えることが可能であり、私はむしろそのようなものとして捉えるべきであると考えているのです。

(123―7)無力であるという共通点
「世界が滅びてしまう」と叫ぶ人も「あんな奴殺してしまえ」と書き込む人も、その表現スタイルは異なっているとは言え、案外同じものを抱えているのかもしれません。片方は自分があまりに脆く、無力で、世界が滅んでしまう危険性を体験している。他方は、自分があまりに脆く、無力で、こういう体験をもたらした相手を滅ぼしてしまいたいと体験していると言えるかもしれません。いずれにしても両者は自分の無力さの表現なのかもしれません。
 その人の自己があまりに無力で脆いからこそ、一つの感情がその人のすべてを支配してしまうのです。方や不安の感情に、他方は怒りの感情であります。その感情に自分のすべてを委ねてしまう、もしくはより正確に言うならば、一つの感情がその人を支配してしまうので、その他の部分が無に帰してしまうのです。そして、それこそ自己放棄の一つの有り方なのかもしれないのです。
 従って、書き手が本当に取り組まなければならない一つのことは、なぜその人はそこまで無力なままで生きなければならないのかということになるのです。
そして、自己疎外はその人をしてさらに無力な存在に貶めてしまうものです。なぜなら、共人間的な生き方をしていない人ほど無力感に襲われやすいからです。
書き手がしなければならないのは、人間のつながりから脱落することではなく、欲求不満や怒り、憎悪を掻き立てられても尚、人間の中で生きていくようになることなのです。私はそのように考えるのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ125> 「書き手」は私に勝てない

(125―1)本項の忠告
 本項を読まれる方にまずは注意しておくことがあります。それは、少なくとも前半において、私はかなり辛辣に物事を述べるだろうということです。そして、私は幾分悪意を込めて書くだろうということです。それを意識的にするつもりなのです。ですから、読んで不快に思われそうだと感じられる方は、ここで読むのを止めてくださって結構です。そして、もし、読んでみて不快感を体験したとしても、私に責任を追及しないでいただきたいのです。少なくとも、私はここで忠告をしておきました。後は、読まれる方の自己責任で読んでいただきたいのです。

(125―2)私に関してはどんどん書き込みをしてもいい
 最近は忙しいのでチェックしていないのですが、私に対する書き込みはやはり増え続けているだろうと思います。それで構わないのです。書き手はどんどん書けばいいのです。書き込むことを私はもっと推奨します。もっともっとありったけの悪口を書き込めばいいのです。なぜなら、最終的に勝つのは私だからです。今回はそれを証明してみましょう。
 私はこのサイトの中で、そういう私に対する書き込みを止めて欲しいと頼んだことはありません。書くなら書いて下さって結構ですと言っているのです。そして、私がそれを言い続けている限り勝つのは私ということになるのです。
 次に簡単なやりとりを示します。実際にはこういうやりとりはないのですが、分かりやすくするために記します。
 ある「書き手」が「寺戸はクズだ」と書いたとします。私はもっと書いてもいいと言っているわけですから、私はこう返事を送るでしょう。「私のことをクズだと思われるのですね。でも、もっと書きたいことがあるのではありませんか。どうです、もっと書いてみては」と。
 すると、今度は「寺戸なんか生きる価値がない」と「書き手」が書く。私は「なるほど、私はクズで生きる価値もない人間だということですな。それだけ思うということは、もっと言いたいことがあるのでしょう。もっと書きませんか」と書く。
 すると「寺戸はサイテー野郎だ」と書くとします。「私はクズで生きる価値もないサイテー野郎だということですな。もっと書いてもいいですよ」と私が答える。
 今度は「寺戸はカスだ」とでも書くでしょう。「私はクズで生きる価値もないサイテー野郎のカスなのですな。もっと書いてもいいですよ」と私。
 次には、「寺戸はアホだ」と書く。これが延々と続いて、最終的に「なるほど、私はクズで生きる価値もないサイテー野郎のカスでアホでバカで気色悪い変態で狂人でさっさと死んじまえという人間なのですな」ということになる。その後でやはり私は「もっと書いてもいいですよ」と答えるでしょう。
 お分かりいただけたでしょうか。「書き手」が何かを書き込む、私がもっと書き込むよう推奨する、「書き手」はさらに書き込む、これを繰り返しているのですが、これを繰り返すということがどういうことであるか、理解できたかと思います。
 つまり、「書き手」が書き込めば書き込むほど、「書き手」は私の言いなりになっているということです。私の言いなりになるということは、取りも直さず、私の支配下に「書き手」が置かれているということを意味するのです。

(125―3)「書き手」はこのジレンマを抜け出せるか
「書き手」がこの状況から抜け出そうとすれば、つまりもっと書き込みなさいという私に抵抗しようとするならば、「書き手」は書き込むことを止めるしかないのです。しかし、それもまた私の望む所なのです。「書き手」は何を書いてもいいのですが、私は私の知らない所でゴチャゴチャ言われるのを好まないのです。だから、「書き手」が書き込むのを止めたとすれば、それもやはり私の望む通りになったということなのです。
 悪口を書き込むこともできず、さりとて書き込みを止めることもできないのであれば、そこから抜け出す一つの方法は、「書き手」が思ってもいないことを書き込むという手段です。
 つまり、本当は私を罵りたいのだけど、私の言いなりにならないためには、私を賞賛する書き込みをしなければならなくなるということです。しかし、それもまた私にとっては望ましいことなのです。なぜなら、「書き手」は私のいい評判を流してくれるからです。その分、「書き手」は心にも思っていないことを書き込まなければならないのだから、そうとう苦しい思いをされるでしょう。
 そこで、こんなカウンセラーとはさっさと縁を切るという「書き手」も生まれるでしょう。しかし、私としては、縁が切れてくれたらそれはそれで願ったりのことなのです。後々までゴチャゴチャ書き込まれるよりかは、縁が切れてくれた方が私はラクになるからです。だから、ここでも、やはり私にとっては望ましい結果に至るのです。
 書き込みを続けても、書き込みを止めても、ウソを書いても、縁を切っても、この関係では私が優位なのです。この関係から抜け出すために、怒りに駆られた「書き手」は私を刺しに来るかもしれません。それもまた願ったりなのです。私はその時、ようやくその「書き手」と対峙することができるからです。そして、私を刺し殺したとすれば、「書き手」は世間に知られ、私とその「書き手」との間で、どういうことが生じていたのかが白日の下に曝されるでしょう。その時、世間は私か「書き手」か、どちらが正しかったかを論じるでしょう。どちらが正しかったのかが判明するということは、やはり私の望んでいることなのです。私は殺されているので、その結果を私自身が知るということはないにしても、世間において白黒はっきりしてもらえるのであれば、やはり、私にとって本望なのです。
 このジレンマから抜け出すために、私の周囲の人、私の愛する人を攻撃する「書き手」も現れるかもしれません。それもまた、私にとっては願ってもないことなのです。私は攻撃されたその人たちのために堂々と戦うことができるからです。もちろん、その際には誰が書いたものであるかを調べるでしょうし、警察に必要な情報を提供するかもしれません。そうして一騎打ちできるのであれば、それはそれで私にとっては望ましいことなのです。影でこそこそと書き込まれるよりかは、対決してくれる方がよほどましだと私は考えているのです。それでさっさとこの関係を清算できるからです。
 書き込むことを私が推奨し続ける限り、「書き手」は書き込みをしても敗北し、止めても敗北し、本心とは裏腹のことを書いても敗北し、私と縁を切っても敗北し、私を刺し殺しても敗北し、私以外の人を攻撃しても敗北するのです。「書き手」が書き込んだ時点で、この関係が成立しているのです。言い換えれば、「書き手」が書き込んだ時点で、「書き手」の敗北が決定しているのです。「書き手」は自らそういう立場に身を置いてしまうのです。
 私はいくつものシチュエーションを考えてみました。私の考えた範囲では、「書き手」が勝利を収める手段はありませんでした。しかし、一つだけ、「書き手」が有利になる手段があるのです。
あくまで有利となるということで、「書き手」は部分的にしか勝利を収めないし、そのために払う犠牲も並々なものではないのですが、そういう手段が一つだけあるのです。
「書き手」がその手段を講じても、私が単に不快になるというだけで、私の側にそれほどの損失があるわけではないのです。でも、そういう手段が一つだけあるのです。それが何なのかということは、明示しません。せいぜい、このダブルバインド状況を抜け出す手段を銘々で考えてみられたらよろしいでしょう。

(125―4)何が望ましいのか
 もっともいいことは、誰かの批判中傷の書き込みをするという時点で、このような拘束状況に置かれてしまうということを覚悟されることです。自ら雁字搦めの関係に飛び込むことをしているということを自覚されることなのです。
 これは書き込みに関したことだけに限りません。人間関係にはこういうことが生じるものなのです。相手に対して中傷の書き込みをしたり、脅迫状を送りつけたりする時点で、相手に主導権を持たせてしまっているのです。相手を有利にしているのです。
 相手に脅迫状を送りつけて、「ざまあみろ」などと思っていても、相手がどう出るかによって、送り主は抜き差しならない状況に追い込まれることになりかねないのです。そういう機会をみすみす相手に差し出しているのです。だから後先のことを考えずに、書き込んだり、脅迫状を送りつけたりする人は、知恵のない生き方を送ってしまっているものです。
前にも書きましたが、書き込まれた側は「書き手」のことをよく覚えているものです。もし、書き込まれた側がたいへんな知能犯であれば、恐らく、「書き手」は一生それで苦しめられることになるかもしれません。
 だから、批判中傷の書き込みなど、初めからしない方がいいのです。それを一時の感情に任せて発散して、二進も三進もいかなくなるより、それを内に抱えることができることの方が、はるかに望ましいことなのです。

(125―5)「攻撃は最大の打撃である」
「攻撃は最大の防御である」というのは、ルールのある競技の中でのみ通用する話で、現実の世界、現実の人間関係では「攻撃は最大の打撃である」と私は捉えています。相手を攻撃すると、相手は攻撃者よりも有利な立場を得ることになるからです。
 四十年生きていると、その間にはいろんな人と出会いました。その中に、この人はケンカが上手だなと思える人が一人いました。彼のいろんな武勇伝を聴いていると、惚れ惚れするくらいです。そして、幸運なことに、私は一度だけ彼がケンカするところに居合わせたことがあるのです。
 若いチンピラ風情の男が彼にイチャモンをつけてきたのです。彼はその男の言い分を聞こうとしていました。しかし、彼がこの相手から引き下がるのでもなく、むしろ、相手を引きつけておこうとされているのが私には分かりました。この相手の男は、当然と言えば当然なのですが、感情を制御することが不得手な感じの人でした。彼が落ち着いた対応をしていると、業を煮やしたのか、だんだん相手の語調が荒くなってきます。そして、自ら墓穴を掘るのです。彼は相手の言葉尻を捕まえて反撃し始めたのです。彼は自分が被害者の立場であるということが確定されるまで待っていたようです。そして、彼が反撃すると、相手はもはや言う言葉がなくなってしまうのです。最初の勢いはどこへやらという感じで、相手はその場を取り繕って、そそくさと逃げて行ったのでした。
 私はその時に感じたのです。衝動的に行動する人、衝動を抑えられずに発散させてしまう人は、こういう目に遭うものだなと。
「雉も泣かずば撃たれまい」という諺がありますが、まさにその通りだと思います。このチンピラも彼にイチャモンをつけていなければ、そもそもの初めからそういうことをしていなければ、不利な立場に追いやられることもなかったでしょうに。
 それだけに私は思うのです。衝動をコントロールできない人は、常に敗北の憂き目を見ると。もし、そういう人で敗北を経験したことがない人がいるとすれば、それはケンカを吹っかけた相手が反撃しなかったからだろうと私は思います。反撃されなかったから助かっていただけの話で、実際はその都度、ケンカを吹っかけられた側が優位であったはずであると私は思うのです。

(125―6)考えること
 私たちは知恵を身に付けなければならないと、私は信じています。後先考えずに感情のままに行動する人は、かならず敗北するものです。損な生き方をしてしまうものです。
「書き手」は衝動に任せて書き込むことが多いだろうと私は推測しています。そして、そういう書き込みをする人は自分の衝動をコントロールすることに困難を感じているだろうと憶測します。実際、私が推測して特定した「書き手」には、そのような傾向が見られるのです。
 しかし、衝動に任せて中傷の書き込みをしたとしても、本項で述べてきたように、それは自縄自縛に身を委ねることになるのです。「書き手」は、もしかすれば、「書いてやった、ざまあみろ、清々した」などと感じているかもしれませんが、それこそ後のことを考えていないことの証明なのです。「書き手」が私のことを書き込んだ時点で、「書き手」は私の支配下に置かれてしまい、その関係から抜け出すことができなくなるのです。抜け出すためには、私に勝利を譲らなければならなくなるという、恐らく、「書き手」にとってもっとも屈辱的な結末を経なければならなくなるのです。
 私は自分が何も特別なことを述べているとは思いません。ああいう書き込みをしない人の中には、こういうことが分かっているという人もきっとたくさんおられるでしょう。自ら困難な結末を迎えるよりは、衝動を自分の中で処理することを学ばれた経験がある人もたくさんおられることでしょう。
 もし、これを読んでいるあなたが私に対して書き込もうかと考えるとします。それが中傷の書き込みであれ、賞賛の書き込みであれ、あなたが避けることができないことは、それをした時点で、私の支配下に置かれてしまうということです。いくらあなたが書き込みを重ねても、この関係を変えることはあなたには困難なのです。私に対する書き込みだけに限らず、他の人に対して書き込む場合ですら、そういう関係が成立してしまうこともあり得るのです。あなたがしなければならないことは、私や他の人に対して書き込むことではなく、書き込みをする前によく考えることなのです。
 もし、誰かを攻撃したくなったとしたら、攻撃する前によく考えてみることなのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ137>「書き手」の憎悪

(137―1)得体の知れないもの
 インターネットの掲示板なんかになされる書き込みについて、いろいろと述べてきました。
 前にも述べたように、私はそういうのをどうやって閲覧したらいいのか分かりませんでした。私のことが書き込まれているということもクライアントから教えてもらったのですが、それを見る術を知りませんでした。本当に偶然にそれを見つけたのです。
 そういう掲示板の世界があるということは話としては聞いて知っていたのでしたが、実際に見てみると、まあ、ひどい世界もあるものだなと思いました。
 それ以来、私に対しての書き込みであれ、その他の人に対する書き込みであれ、いろいろと見て回って、そこで感じたことや考えたことなんかを綴ってきているのです。それらはすべて私の個人的な見解であります。もっと違ったように考えることもできるでしょうし、もっと正しい見解というものがあるかもしれません。でも、私は私に述べることができることを綴るだけです。
 その手の書き込みを見ていく一方で、私は周囲の人にもいろいろ訊いて回りました。多くの人がそういう書き込みを、直接的にしろ間接的にしろ、体験されているのでした。このことは私にはとても衝撃的でした。
 さて、私がそうして尋ねてまわった知人たちは、みな揃って、ああいう書き込みは読んでいて不快だとおっしゃるのです。イヤな気分になると言うのです。それは私も同感なのです。自分の知らない所で自分のことが槍玉に上げられているというのは確かに不快な体験であります。でも、不快感はそれだけではないように思います。他の人に対しての書き込みなんかを見ていてもやはり不快感を覚えるからです。
 この不快感とか、読んでいてイヤな気分になるとかいうことは、一体どういう現象なのでしょうか。書き込みの何かに私たちの内面の何かが反応しているということは確かです。でも、何に対して反応しているのか、そこがはっきりしなくて、曖昧なのだと思います。だから、それを言葉にしようとすると、何となくイヤな気分になるとか、不快だとしか言いようがないのだと思います。
 私もまたはっきりしないものに心を掻き乱される思いを体験しました。どうにかしてこのはっきりしないものの正体を突き止めようとしたのですが、どうもはっきりしないものははっきりしないままなのです。
 だから不明瞭なまま述べざるを得ないのですが、書き込みを読んでいて、私が得体の知れないような不快感を体験する時、それはその書き込みに表現されている残酷性に反応しているのだと思います。それは生々しいほどの残酷性で、読んでいて、それに直面させられてしまうと言うのか、あたかもそれが私に突きつけられるかのように私は体験しています。
 その残酷性というのは、「書き手」に属するものです。「書き手」はそれを生のまま提示することもあれば、文章の節々にそれが見え隠れするというような場合もあります。時には、辛辣な皮肉や侮蔑の形で見せつけられることもあります。さらに、もっと微妙な仄めかしとして表されていることもあります。私はその残酷性を見せつけられて、非常に恐ろしいと体験するのです。
 しかも、それがパソコンの液晶画面から、無機質な液晶画面を通じて飛び込んでくるので、一層、非人間的なものとしてそれを感じるのです。私はそういう体験をしています。もちろんそのように体験するのは私だけかもしれませんし、他の人は違ったように体験している可能性もあるでしょう。
 書き込みの妥当性というものはここでは問わないのです。つまり、「書き手」の書き込んでいる事柄が正しいとか間違っているとかいう問題ではないのです。正しい場合だってあるでしょう。そういう書き込みの内容にではなく、そこで表現されている、あるいは暗に仄めかされている、残酷性に、剥き出しの憎悪に、私は恐ろしいと体験している自分を見出すのです。

(137―2)付き纏う憎悪
 確か、カントがこういうことを言っていたのを何かで読んだ記憶があります。悪とか残虐性とは、他人を傷つけ、虐げて、それで喜びを得ることだと言うのです。言い換えると、他人を傷つけて満悦する人、喜んで人を苦しめる人のことなのです。それが悪だということなのです。
 私はそれを読んでひどく納得したのを覚えているのですが、どこで読んだのか覚えていないので出典を示すことができないのを残念に思います。
 それはさておき、ここで一つの問題が浮かんでくるのです。「書き手」は書き込むことで満足を得ているのだろうかという問いであり、もし満足を得ているのだとすれば、それはどんな種類の満足だろうかという問いであります。
「書き手」はもっと軽い気持ちで書き込んだかもしれません。でも、それはほとんど重要なことではないのです。いじめの問題にしても、いじめる側はちょっとからかったとか、そういう理屈を展開するものです。でも、いじめられる側が追い込まれるのは、そういういじめる側の行為ではなく、いじめる側が露わにしている残虐性に追い込まれるのだと私は捉えております。いじめる奴にやり返せとか、いじめられたらいじめ返せなどと言う人がいるとすれば、その人は事態の半分も見えていないのだと私は考えています。いじめる人間が怖いのではなく、いじめる人間が剥き出しにして示しているものが怖いのだと私には思われるのです。いじめられる側はそれに反応して、追い込まれてしまうのではないだろうかと私は考えるのです。
 書き込みによる中傷で自殺してしまった人がいるそうです。書き込まれたくらいで死ぬなんてとか、書き込みなんか無視すればいいのにとか、そのように考える人もあるでしょうが、それも先ほどの話と同じで、事態の半分も見えていないのだと私は思います。人は中傷されたり、書き込まれたくらいで自殺することはないでしょう。その人が苦しんだのは、書き込みの内容そのものではなく、その書き込みにおいて、書き手の示しているものに追い込まれたからではないかと私には思われるのです。
 剥き出しの憎悪を執拗に投げつけられるということが、どのような体験であるかを本当に理解できている人は少ない。私はそう思うのです。生のままの残虐性に直面させられてしまうということがどのような体験であるか、実際に体験しなければ分からないことだと私は思うのです。そういう体験をしたことがない場合、想像してみることさえ難しいことだと思います。
 私はその体験をどうやって言葉にすればいいかでずっと悩んできました。上手く言えないのです。剥き出しの憎悪だとか生のままの残酷性だとか、そういう表現をしていますが、これらでさえも読んでくれている人には正確に伝わらないのではないかと危惧しております。
 私たちは生きていると、多少は人から嫌われたり恨まれたりすることもあるでしょう。でも、そういうものとはまた違ったものなのです。憎悪や残酷性が剥き出しというのは、その人の社会化が不十分なためなのだと私は捉えています。だからもっと生々しくて、非人間的な感情をぶつけられているような感覚を私は覚えるのです。
 それを私の目の前でなく、どこか遠方から、インターネットを通じて、私に投げかけられているわけです。そして、それは執拗に私(読み手)に付き纏い、私の中に君臨し続けることになるのです。それが私の中に君臨し続けるということは、言い換えると、それは私に同化できないということであります。つまり異質な何かが私の中に投げ込まれたかのような体験なのです。私はそれに対して拒絶反応を起こしているのです。それを追い払おうにも、それは一方的に私の心の中に入り込んできており、私の中を掻き乱しているのです。読み手が体験するのは、このような苦しみではないかと思うのです。「書き手」の憎悪や残虐性が読み手の内面で暴れまわるわけであります。書き込まれた内容が掻き乱しているのではないと私は捉えておりますし、実際、私の体験したことはそういうものでした。

(137―3)追い込まれる「読み手」
 読み手は書き込みの内容そのものに反応するのではなく、「書き手」が表現している残酷性に反応してしまい、それが読み手を追い込むのだということを述べてきました。
 社会化されていない憎悪、剥き出しの残虐性に晒された時、人が体験するのは恐怖であります。残酷ないじめの手口がニュースで報道されていたのを聞いて、それだけでひどく動揺してしまったという人も私は知っています。人間が心の底深くに抱えている残虐性を剥き出しに見せつけられるということは、たとえそれが自分に向けられたものではないとしても、恐ろしいものなのです。
 そして、それが他ならぬ自分自身に向けられた時、恐怖感はとても大きなものとなるのです。自分が憎悪を向けられている、それも人間から憎まれるのならまだましなのだけれど、非人間的なツールで非人間的な感情をぶつけられるような体験をしているわけなので、その恐怖感は計り知れないものとなるのです。
 おまけに「便乗屋」が出てくる。この「便乗屋」に関しては次節で説明することにしましょう。こうして、その人は多くの人から剥き出しの憎悪を向けられてしまうのです。
 こういう憎悪に晒されてしまう。読み手にとって、それは自分が人間であるという感覚を失わせるものだと私は捉えています。いきなり飛躍したように感じられるでしょうから、ここは少し説明しなくてはならないでしょう。
 多くの人が自分に対して中傷の書き込みをしているのを見てしまう。これはその読み手の存在の基盤を揺るがす体験をもたらすのです。多くの目に見えない相手から攻撃されるわけであります。この攻撃は、読み手をして人間としてのつながりを喪失させようというふうに働いてしまうのです。つまり、読み手は一方的に疎外されるような体験をするのです。私はそのように思うのです。
「書き手」は剥き出しの憎悪を突きつけることで、読み手、「書き込まれ手」を非人間化するのです。この憎悪は相手を徹底的に破壊しようとするものです。
 そういう書き込みに晒されてしまうと、読み手にどのようなことが起きるだろうか。私の場合、会う人会う人、すれ違う人に対して、いちいち、この人はそういう書き込みをする人かもしれないと疑い、警戒してしまうという時期がありました。つまり、他者に対してひどく不信感を抱き、警戒してしまっているのです。そして、これは私の人間としての連続性が脅かされているということなのです。自分も同じ人間なのだという確信が揺らぐのです。これが存在の基盤を揺るがすということなのです。読み手の中でそういう現象が起きてしまうのではないかと私は捉えております。
 読み手は書き込みやそこで持ち込まれてしまった残酷性を自分の中に同化することはできないのです。それは異質なままでなければならないのです。もし、それに同化してしまうということは、自分が恨まれる人間であるということをそのまま受け入れなければならなくなるからです。読み手も人間である以上、自分を守ろうという動きを示すものです。それを同化してしまうということは、自分が人間でなくなるということに等しいのです。自分が非人間化されることを引き受けてしまうということになるのです。読み手が抵抗するのはその部分なのだと思います。
 従って、読み手にとって、それは絶対に同化できないものなのです。同化してはいけないものなのです。それはずっと異質なままでなければならないのです。こうして、読み手は一方的に心の中に踏み込んできた異質なものを抱えて生活しなければならなくなります。読み手は異質なものを抱えたまま、安住しえない境地にて生きていかなければならなくなるのです。
 そのような状況で生きていて、最後は自殺してしまったとしても、私には何も不思議なことではないように思われてくるのです。この自殺は、「書き手」が持ち込んだものを同化したわけではなく、尚且つ、自分が一人の人間であるという感覚を維持するための最後の手段なのだと思います。読み手は自殺することによって、「書き手」の思惑に打ち勝つのだと私は考えるのです。
 これはあるクライアントから聞いた話ですが、昔いじめた相手をさんざん中傷して、自殺に追いやったという人があるそうです。いじめられていたその人は勝ち誇ったように書き込んでいたということなのですが、私から見ると、勝利したのは自殺したいじめっ子の方で、相手を自殺に追いやったその人の方が敗北しているのです。なぜなら、相手は自殺することによって、その人に屈服しなかったからであります。

(137―4)「便乗屋」について
 話を先に進める前に、先述の「便乗屋」について説明しておこうと思います。「便乗屋」とは私が勝手にそう名付けているだけなのですが、要は、誰かが書き込みをすると、それに便乗して書き込みをする輩のことであります。
 私に対する書き込みにもそれがあります。「書き手」がそれを書くのは、まだ話が分かるのです。その「書き手」は実際に私と会った人だからです。でも、その「書き手」の書き込みに便乗して私に対しての書き込みをしている人たちが大勢いるのです。それが「便乗屋」です。
 この「便乗屋」は私とは面識のない人たちでしょう。誰かが毒を吐いていたら、それに便乗して自分の毒を吐いているというような人たちではないかと私は捉えております。
 では、なぜこういう「便乗屋」が出てくるのかということですが、私は次のように考えております。
 まず、前提として、人は自分の内面にある事柄を実現しようとする傾向があるという事実を述べておかなければなりません。もし、私が空腹であれば、私は何か食べたいという欲求を抱くでしょう。この飢餓感は私の内面において体験されている事柄であります。そして、私は現実に何かを食べるという行為に向かうでしょう。こうして、何か食べたいという欲求は実現されることになるのです。
 今のは単純な例ですが、自分の内側にある欲求や衝動、あるいは感情なんかは、実現しようと、あるいは表現しようとするものなのです。だから自己実現などという言葉が出てくるわけであります。
 私が空腹を体験していて、何か食べたいという欲求を抱えているとします。この欲求が激しければ激しいほど、私は何でもいいからその辺にあるものを手当たり次第に食べるでしょう。その場合、何よりも飢えの苦しみから解放されることが肝心だからであります。食べ物の嗜好なんかは二の次で、まずはこの飢えの苦しみを緩和しようとするでしょう。
 もし、ある人に憎悪の感情があるとすればどうでしょうか。恐らく、その人はその憎悪を何らかの形で実現してしまうでしょう。つまり、憎悪の対象を見出すでしょう。その憎悪が激しければ激しいほど、相手は誰でもいいということになるでしょう。それは空腹が激しくて、何でもいいから食べるというのと同じ現象だと私は思うのです。
 憎悪感情が激しくて、何よりもこの憎悪を緩和することが肝心だということであれば、その人はとにかく相手を探すでしょう。そこで誰かが槍玉に上げられてるのを発見すれば、それは空腹時に食物を見出したようなもので、そこに便乗するでしょう。「便乗屋」とはこういう人たちではないかと私は捉えています。
 憎悪の問題はとても複雑なものです。自分が誰に対して、何に対して本当に憎悪しているのかが意識できていないと、もっと性質が悪くなるのです。その人は常に憎悪する対象を求めてしまうからであります。だから恰好な相手を見つければ、だれかれ構わず噛みついていくだろうと思うのです。この時、その人は自分の憎悪を統制できていないのです。むしろ、その人はそれに対して無抵抗で、憎悪感情に指導権を譲ってしまっているのです。
そして、その憎悪はその後も引き続きその人の中に君臨し続けることになるのです。そして、その人は自分の憎悪をどうにも処理することができず、それに振り回されることになるのです。私はそのように考えております。
 読み手は、「書き手」が剥き出しにしているものに直面させられるだけでなく、こうした「便乗屋」が剥き出しにしているものにも直面しなければならなくなるのです。こうして、一人の書き込まれた人間は、複数の「書き手」からの集中攻撃に晒されてしまうのです。読み手がそれに追い込まれて、自殺してしまったとしても、前述したように、それは「書き手」の勝利を意味しないのです。むしろ、私にはそういう読み手に殉教者のようなイメージを覚えるのです。読み手は自分の信念を守るために死を選んだのだというように見えるのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ138>「書き手」の満足

(138―1)コンビニでのある体験
 必要なものがいくつかあったので、これを書いている今朝、出勤前に私はコンビニに寄りました。駅前にあるようなコンビニです。品物を持ってレジに行くと、店員さんがレジを打ってくれます。会計がおかしい、私の計算と合わないと思ったので、私は店員さんにその旨を伝えます。店員さんは調べてくれます。すると、店員さんがある商品をレジに二度打ちしていたことが分かったのです。店員さんはレジを打ち直し、正しい金額を私は支払いました。ここで時間を食ったお陰で、私は電車を一本乗り遅れてしまったのでした。
 その前夜から、私は人間の「悪意」について考えていました。その時、ふと、ネットの掲示板なんかに書き込む「書き手」はこういう体験を書きたがるのかもしれないなと思い当たったのです。あの店の店員はダメだとか、教育がなってないとか、サイテーだとか書いてしまうのかもしれないと思ったのです。
 ところで、私はこの店員さんに何一つ怒りを感じてはいないのです。電車を一本乗り遅れてしまったけれど、それは私が十分に時間を見込んでいなかったためでもあるということが分かっているからです。
 私が怒りを感じていないのは、被害がなかったというだけではなく、その店員さんの間違いが人間ならやってしまうというような類の失敗であると認識しているからでもあります。私も過去にはそれに類似した失敗をしたこともあるので、尚更、それが人間が犯してしまう誤りの一つだと見做してしまうのかもしれません。
 ところで、それが人間的な誤りであるか否かということは、恐らく決着のつかない議論になるだろうと思います。実は、それはどちらでもいいのです。私が怒りを感じなかったこととそれは直接的には関係がないからであります。私が怒りを感じなかった根本原因は、その店員さんに「悪意」を見なかったからなのです。
 もし店員さんが悪意を持っていたとしたら、きっと私は不愉快な気持ちを体験していたことでしょう。しかし、それでも私はその「悪意」が現実のものかどうかを検討してみたいと考えるでしょう。つまり、本当に「悪意」があったのか、単に「悪意」が私に感じられただけなのかということです。場合によっては、もともと「悪意」なんて存在していなかった所に、私が「悪意」を持ちこんでしまっている可能性だってあり得るのです。もし、そうだとすれば、その「悪意」は誰に属しているものなのかを確かめたいと私は思うでしょう。

(138―2)「書き手」は決して自分自身を書かない
「書き手」のことをあれこれ書いてきていますが、私には「書き手」のしていることが理解できないでいるのです。理解できないから知りたいと私は思うのです。
 現在において、私が主に知りたいのは以下の三点です。(一)「書き手」がある体験をして、それから「書き手」にどういうことが生じているのか。それから「書き手」が書き込むまでにどのようなプロセスを経るのか。(二)「書き手」はどのような状態においてそれを書き込んでいるのか。(三)「書き手」はそれを書くことでどのような種類の満足を得ているのか。この三点です。
 こういう疑問点を掲げても、私にはそれらを考察するための手掛かりがまるでないというのが実情です。それは、「書き手」は決して自分自身を書かないからであります。「書き手」に関して、手掛かりや情報がまるで得られないために、これらを考える際には、すべて推測で行わなければならないのです。従って、私がこのテーマで書く事柄は、すべて私の推測と解釈によるものであり、もしかすると現実とはまるで一致していないのかもしれません。
話を続けましょう。「書き手」は決して自分自身のことを書かないものです。たいていは誰か他の人のことを書くものです。その人との間でどういうことを体験したのかは決して書かないものだと私は捉えております。「書き手」は決して自分自身を見せないと述べてもいいかもしれません。
 なぜ「書き手」は自分自身を書かないかということはまったく不明であります。個々の「書き手」によって異なるでしょう。自分を隠しておきたいという欲求があるのかもしれないし、自分自身を語ることの困難な人かもしれません。いずれにしても、「書き手」というのは姿を見せないものなのです。それが「書き手」の存在を不気味なものにしている一因なのだと思います。
 決して姿を現さないし、自分自身のことを書かないし、読んでる側からすれば、相手が見えないわけであります。見えない相手からあれこれ中傷されるという体験を書き込まれる側はしていることになるのです。

(138―3)「書き手」はどんな満足を得ているのか
先述のように、私が「書き手」について書くのは、彼らのしていることが非常に気になっているからです。
 私たちには「言論の自由」というものが一応は保証されています。だから「書き手」がどういうことを書こうと、そこには「書き手」の自由も尊重されなければなりません。同じように私にも、私が何を書き、何を述べるかについての自由が保証されて当然のことであります。そこは押さえておきたいのです。
 その「言論の自由」ということを踏まえた上で、私は「書き手」が何を書いても構わないと考えているのです。そして私がここで「問題」としたいのは、「書き手」が何を書くかということではなく、「書き手」が何を得ているかということなのです。私が問題意識を感じているのはそこなのです。
 この「問題」は言い換えればこういうことです。「書き手」はそれを書くことで、どういう種類の「満足」を得ているのかということです。この「満足」の種類が問題であり、尚且つ、私が恐ろしいと感じているところのものなのです。
 前項で私は悪とか残酷性とかいうことを述べました。カントの意見に私は賛成なのです。悪とは、人を攻撃して、傷つけ、それに喜びや満足を得るということなのです。時々、「書き手」はまさにこの種の満足を得るために書き込んでいるのではないかと思うことがあります。それは私にはとても恐ろしいものとして映るのです。

(138―4)相手を貶めるということ
 先ほどのコンビニの例に戻ります。店員が失敗をする。もし私がそこに悪意を認めれば、それは私の中にくすぶり続けるでしょう。その悪意は現実のものかもしれないし、幻想かもしれない。そういう区別を敢えて考察してみない限り、私にとって、その悪意は現実のものとして体験されていることでしょう。
 私の気分はまったく晴れず、内面にもやもやしたものが居座り続け、内面が騒ぎ始めるでしょう。誰かにこれをぶちまけたいと思うかもしれません。この時、私が反応しているのは、店員の失敗ではなく、私が内面的に体験している、現実か幻想かよく分からない、「悪意」に対してなのです。私はこの「悪意」に曝され、あたかも迫害されたかのように体験しているかもしれません。
 私はそこで掲示板にこのことをぶちまけるとしましょう。恐らく、私は悪意には悪意をもって返そうとしているのでしょう。これはいわば仕返しであり、復讐に近い感情であります。もし私がそれを書き込む時には、私は復讐の鬼となった自分を体験しているかもしれません。
 さて、コミュニケーションとは基本的に相手が存在して成り立つものです。私が言葉を発するのは、他者や自分自身という対象に対してであることがほとんどです。こういう書き込みは対象を何に置いているのでしょうか。特定の誰かに向けて発しているものではないはずです。不特定多数の「読み手」に発しているということになるのです。そこで問題は、どうして不特定多数の人たちに、このたった一度会っただけの店員さんのことを伝えなければならないのかということにあります。
 もし、親しい友人にこのエピソードを話すとすると、友人は「それはたいへんだったね」とか返答してくれるでしょう。不特定多数の対象に発するということは、少なくともこのような直接的な反応を求めて発しているのではないというように、私には思われるのです。もしかすると、「書き手」はそういうリアクションすら求めていないのかもしれません。
 つまり、私が見たところでは、掲示板なんかの書き込みというのは、特定の誰かとコミュニケートすることを目的としたものではないということです。もちろん個々の「書き手」が実際にはどうなのか私は知らないのです。しかし、私がいろいろと読んだ限りでは、そのような印象を受けるのです。
「書き手」は不特定多数の「読み手」に対して、特定の誰かについて書くわけです。小学校の頃、私が隠しておきたいと思う秘密を、わざわざクラスの面前で公表するような先生がいたものですが、その時、私が体験するのは恥辱であります。私は「書き手」の目的も本当はここにあるのではないかと捉えているのです。
 もし、私が先ほどの店員さんのことを掲示板にて悪しざまに書き綴るとします。その時、私がしているのは、この店員を貶め、辱めたいという欲求を実現化しているということになるのです。そして、そのようなことをしている時、私は人間という地平からはみ出してしまっている自分を発見するでしょう。

(138―5)人間の共存在の地平からの脱落
「書き手」が書き込む時、それは私に対してでも他の誰かに対してでも構わないのですが、書く前に少しでも躊躇していると私は信じたいのです。この躊躇は、「書き手」の「心の健康」な部分が現れているのだと思われるからです。もし、私が同じ人間として、他者との共存在の地平に生きているなら、同胞である他者を貶めることに対し、躊躇いを感じ、激しい罪悪感を抱くでしょう。場合によっては書くことを思いとどまるかもしれません。それでも私が書き込むとすれば、私はその店員を多くの人たちの面前で辱め、価値を下げようとしているのであります。それで何か目的を達成したとか、満足感のようなものが得られているのだとすれば、私はすでに人間としての共存在の地平から外れてしまった存在に陥っているのです。なぜなら、私が他者との関係に生きており、同じ人間であるという感覚を抱いている限り、同胞でもある他者に対して、そこまではとてもできないと感じるからです。
 つまり、これは私の個人的な体験であり、個人的感覚でしかないかもしれませんが、自分も相手も同じ人間の地平に立っているという感じを体験できている限り、相手を攻撃することに対して抑制が働くものなのです。腹が立つことがあっても、仮に相手に注意くらいはするとしても、それで相手を死に至らしめることはとてもできないと、私は体験するのです。同じ人間に対して、同胞に対して、とてもそこまではできないと私は体感するのです。
「書き手」が同じ人間である他者に対して中傷する時、自分もまたその相手と同じ人間であるという地平を自ら放棄してしまってまで、そういう書き込みをするものではないかと私は思います。従って、書き込みは自己毀損でもあると、私はそう捉えております。自己毀損という言葉が正しくないとすれば、自己疎外と言っても構わないものです。
 もちろん、「書き手」がそういうことを分かって書き込んでいるとは思いません。書き込んだことによって、自分が人間社会から脱落したという意識を抱く「書き手」は、おそらくいないだろうと私は憶測しています。むしろ、すでに脱落してしまっているが故に、ああいう書き込みを平気でできるのかもしれません。いろいろあの手の書き込みを見ていくうちに、私にはますますそのように感じられてくるのです。

(138―6)呪術的思考
 このように考えていくと、書き込みは一つの呪術のようにも見えてくるのです。ある「書き手」は私の個人名を明記した上で誹謗、中傷しています。不特定多数の読者にとっては、私の個人名には何の意味も価値もありません。それでも個人名を挙げて書く必要がその「書き手」にはあったのでしょう。
 私も個人名を出したことがあります。過去にECMという業者に騙された時のことです。私が個人名を出したのは、彼らが名誉棄損で私を訴え出てくれればいいと思っていたからです。でも、「書き手」が私の個人名を明記するのは、そういう明確な意図、意識的な意図を有していないだろうと私は捉えています。
 それはちょうど相手の名前を口にすれば相手に呪いがかかると信じている未開民族の呪術と同じような感じなのではないかと、私は捉えています。そういう魔術的思考に彩られた年代に退行していた「書き手」だったのだと私は思います。
 そして、未開民族の中には、同胞に呪術をかけた場合、一時的に同胞社会から隔離されるという制度を有している民族もあるそうです。つまり、同胞社会から脱落するのです。同胞に呪いをかけた者は、同民族としての共人間的な基盤を奪われるのです。
「書き手」にも同じようなことが起きているのかもしれません。でも、そこには共人間的な基盤を取り戻し、人間社会の中で生きることではなく、脱落したまま書き込みを続ける方を選んでいる「書き手」も多くいることでしょう。
「書き手」が中傷や誹謗を書き込むことによって満足を得ているとすれば、その一つの満足は、このような呪術的な満足であろうと私は捉えています。その代り、「書き手」は人間とのつながりを自ら断つことになってしまっているのです。いや、むしろ人間とのつながりを既に失っているからこそ、ああいう書き込みができるのかもしれません。

(138―7)「それ」は誰もが持っている
 前項でも述べましたが、もっともひどい残酷性とは、他人を傷つけ、貶め、それに満足を覚えることであります。他人を傷つけて喜ぶという行為であり、喜んで人を傷つける人たちであります。そこには他者に対しての共感性もなければ、自己の行為を振り返るだけの自我も育っていないのではないかという気がしています。でも、そういう人は実際に存在するのです。
 しかし、そうした残酷性というものは、私たちの誰もが秘めているものだと私は捉えています。ただ、私たちがそれを剥き出しにしないのは、それを社会化して、昇華しているからに過ぎないのです。そういう感情や性向に別の違った水路をつけているのです。それが社会化の過程なのです。従って、人間はみな「書き手」が示しているものと同じものを内面に持っているものなのです。でも、「書き手」のようなことをしないのは、それを適切に処理できており、より望ましいものへとそれを置き換えてきたからだと言えるのです。
 事実、子供はとても残酷なことをするものです。大人はついつい子供を美化して見てしまうことがあるのですが、一方で子供は残酷でもあります。子供がその残酷性を示した場合、大人以上に残酷なのです。憎しみを隠さないし、破壊する時には徹底的に破壊してしまわないといられないのです。破壊をやめるのは、破壊してしまったら、もうその玩具で遊べなくなるということを学ぶからです。
ジャン・コクトーはそういう子供の破壊性や残酷性を作品の中で描いています。そういう子供の姿は、大人が見るととても怖いし、不快感すら覚えるかもしれませんが、それは同時に私たちもかつて有していたものに直面してしまうからだと私は思うのです。
 しばしば「書き手」は育ってきた環境が悪かったからこうなったのだとか、そういう類の合理化をしたりします。確かに望ましくない環境でその人は育ったかもしれません。でも、その理屈は不完全なのです。それがそのまま彼らの中にあるということが問題なのです。

(文責:寺戸順司)






以下、制作中