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インターネットの世界

インターネットの世界―INDEX

<テーマ50> ネットの人間関係
<テーマ51> 掲示板の書き込みと「書き手」(1)
<テーマ52> 掲示板の書き込みと「書き手」(2)
<テーマ53> 臨床家への批判(1)~「相性が合わない」
<テーマ54> 臨床家への批判(2)~「臨床家はプライドが高い」






<テーマ50> ネットの人間関係 

(50―1)人はインターネットに関わらざるを得ない
 インターネットにだけは関わらないようにしようと私が心に決めていたのは、ほんの五年ほど前まででした。それが今では、こういうホームページをいくつも持ち、そのための原稿を書き、それを自分の手で公開していっているのです。いつの間にやら、インターネットにしっかりと関わらざるを得なくなってしまったのです。まあ、それも仕方がないことなのかもしれません。インターネットそのものが私たちの生活に欠かせなくなっていて、私がどれだけ拒もうと、どこかで縁ができてしまうものです。今では、すっかり開き直ってしまい、こういうホームページを通して、私もまたインターネットを活用しているのです。
 現代の生活において、私たちはインターネットと関わらざるを得ない宿命を負っているのだとすれば、インターネットがどういうものであるのかという知識を獲得することは必修となるでしょう。私なりに学んだことを綴ることにします。

(50―2)ネットの人間関係という矛盾
さて、そのインターネットですが、インターネットは世界中の人とつながることができる、それも瞬時にそれができるという点で素晴らしいと言われているようです。世界中の人とつながることができるということがそれほど素晴らしいとは私は思いませんが、一般的にはそのように考えられているという印象を私は受けております。
 インターネットを介して人とつながるということは、そこにネット上の人間関係が生まれるということになったようです。
ちなみに、ネット上の人間関係というのは、私には矛盾のある言葉のように思われるのです。と言うのは、人がインターネットを開いている時、その人は基本的には他者と関わっているわけではないからです。そこには常にその人とパソコンとの関係が存在しているだけのはずなのです。あるいは、他の人の書いた文面と閲覧者との関係があると言ってもいいかもしれません。
私の個人的な考えはひとまず脇に置いておいておくとしまして、インターネットを通じて誰かと交流することを、取りあえずは「ネット上の人間関係」であると捉えておきます。それに対して、インターネットを介さない通常の人間関係を、ここでは「現実の人間関係」という言葉で表すことにします。

(50-3)ネットでつながるという幻想
 さて、この「ネット上の人間関係」ということですが、ネットを通して常に誰かとつながることができるということでありますから、このこと自体はとても素晴らしいことのように響くでしょう。しかしながら、それは本当に素晴らしいことなのでしょうか。 
「ネットの人間関係」に熱中しているひきこもり傾向のある人たちを数人私は知っています。彼らはいかにも得意げにこの人間関係を誇示するのです。確かに彼らは数百人もの人とネット上で交流しているかもしれませんが、しかし蓋を開けてみると、ちょっと食事や買い物につき合ってくれるような友人が一人もいなかったりするのです。たくさんの人とネット上でつながっているとしても、一人の友人とさえ出会うことがないということは、実に不幸なことではないかと私は思うのです。
 もし、自分にはネット上で数百人の友人がいるにも関わらず、現実に交際できる友人が一人もいないとすれば、ネット上の友人というのは幻想のような存在ではないかとおもうのです。ちょうど、友達のいない淋しい子供が空想上の友達を作り上げるようなものではないでしょうか。
そのような人たちを見ているうちに、「ネットの人間関係」と「現実の人間関係」の違いという問題が私に生じてきたのでした。次にその相違を見ていくことにします。

(50―4)情報を介する関係
 まず、私の個人的な見解では次のようになるのです。「ネットの人間関係」は、仮にそれが人間関係の在り方の一形態であることを承認したとしても、それは「現実の人間関係」とはまったく別物であるということです。
インターネットは情報を発信したり、受け取ったり、検索したりするにはとても便利です。インターネットはそもそもそういうことを目的として開発されたものだと私は思っています。あくまで情報がメインであるという世界なのです。でも、「現実の人間関係」において、情報ということは関係の一部を占めるに過ぎないものです。情報以外のものが「現実の人間関係」ではもっと重要になってくるのです。
 つまり、「ネット上の人間関係」とは情報(文章)のやり取りが中心になってくるのですが、それは「現実の人間関係」においては一部分でしかないということです。この意味において、「ネットの人間関係」は「現実の人間関係」よりも狭い範疇しか有しないように思われるのです。

(50―5)両者の違いは何か
「ネットの人間関係」と「現実の人間関係」とが別物であるということは、簡単に証明できることです。もし両者が同じものであるなら、「ネット上の人間関係」が上手に築くことができる人は、「現実の人間関係」においても同じように上手に人間関係を築くことができるはずです。ところが、実際にはそうではない人たちもたくさんおられるのです。ネットの世界では数百人もの友人たちに囲まれていても、現実の彼の周りには一人の友人もいないというような人もおられます。そこには自ずと「ネットの人間関係」にはないものが「現実の人間関係」の方にはあるということを表していないでしょうか。あるいは、「ネットの人間関係」では通用していることが、「現実の人間関係」の方では通用しないということが起きているのではないでしょうか。
 それが何であるかということですが、その一つはインターネットではその人本人が現れなくても成り立つというところにあります。
「ネット上」で誰ともつながろうとしない私から見て、とてもびっくりしたことですが、ネット上においては、私が「私」でなくても通用するのです。ある男性はネット上では女性として生きていました。本当は成人しているのに、ネット上では未成年で通していたというような人もありました。容姿やプロフィールを偽ってネット上で存在している人もありました。ネットの世界においてはそれが通用するのです。私たちはネット上ではどんな人間として現れても構わないのです。そこでは「私」自身である必要などないのです。
 偽りの自分、存在しない人間としての「私」として生きられるということは、私にとってはとても恐ろしいことのように思われるのです。以前の私の知人男性で、女子高校生とネット上で「文通」しているという人がいました。彼はネット上ではよくモテるなどと自慢していましたが、そういう状況を目にすると、果たして相手が本当に女子高校生であるのかどうか怪しいものです。
一方、「現実の人間関係」においては、そうはいかないのです。それが「現実の人間関係」の方に困難を感じている人が悩むところなのです。「現実の人間関係」においては、私は「私自身」から逃れることができず、他者に対して、そのままの自分を顕現させなければならないのです。自分自身を受け入れることができない人にとって、これほど苦痛なことはないでしょう。どれだけ自分が嫌であっても、その「嫌な自分」のまま、相手の前に現れなければならないからです。
 簡潔に申し上げれば、「ネットの人間関係」においては現実の自分を引き受けなくてもそれが可能なのです。一方、「現実の人間関係」においては、その人は自分自身から逃れることができないのです。それどころか、「現実の人間関係」においては、その人は現実の自分を嫌というほど見せつけられてしまう事態を体験するのです。このことから言えることは、現実の自分を引き受けているということが、「現実の人間関係」の前提であるということです。

(50―6)時間性の違い
「ネットの人間関係」と「現実の人間関係」との違いで、私が重要だと思う差異がもう一つあります。それは「時間」に関することです。
「ネットの人間関係」は常に時間差が生じ、また、それで普通なのです。ある人が相手に文章を送信する。相手は翌日にそれを見て、返事を送ってくる。こちらはさらにその翌日に相手からの返信に目を通す。こういうやり取りが可能なわけです。うまく書けない時には、返事を送るのを待って、何度も書き直すことも可能です。最終的に相手に送信するまで、決断を引き伸ばしても差し支えないのです。
一方の「現実の人間関係」は相手と自分とが同時進行でやり取りをすることになります。もちろん、そこでも即答しなければならないとは限りませんし、時間をかけて答えたとしても構わないことではあります。それでも、その時々で何を伝えるのか、どのように伝えるのかということを、その都度、選択し、判断し、決断していることに変わりはないのです。「現実の人間関係」で困難を感じている人から、「どうしていいか分からない」という訴えを耳にすることは珍しいことではありません。相手とのやり取りに於いて、その都度展開していく事柄に応じて、その人は自らの言動を選択していかなければならなかったのですが、それに困難を感じておられたのでした。つまり、その都度、選択肢、判断し、決断する自己が不十分だったのです。これはスキルの問題ではないのです。
 このことを音楽で喩えれば、「現実の人間関係」は常にライブ演奏、生演奏をしているわけです。「ネットの人間関係」は重ね録りの世界であるわけです。やり直しや準備期間が認められる世界なのです。

(50―7)現実の人間関係の方が条件が厳しい
こうした「ネットの人間関係」と「現実の人間関係」の違いを見ていくと、「現実の人間関係」が困難であると述べる人のことが見えてくるようです。「現実の人間関係」の方がはるかに厳しいのです。「現実の人間関係」においては、自分であるということを引き受けていなければなりませんし、その都度、選択・判断・決断できる自己が備わっていなければならないということです。そこではやり直しができなく、相手と同時進行するプロセスに自ら関わって行かなければならない世界なのです。「現実の人間関係」の方が条件が厳しいのです。
従って、「現実の人間関係」が築けず、「ネット上の人間関係」だけで生きているという人がいるとすれば、その人は自分自身に関しての問題を抱えているということになるわけです。これは必ずしも「人間関係」の問題やスキルの問題ではないということになるのです。

(50―8)あなたは私の何と関係しているか
 さて、この文章を読まれているあなたは、私とは面識がない方であるかもしれません。今、あなたはこれを読んでいて、一体私の何と関係を築いているのでしょう。
 あなたは何かを調べたくていろいろ検索されたのでしょう。あなたにとって書いた人間のことなどどうでもいいかもしれません。しかし、これを書いたのはどういう人だろうと、いろいろ推測を働かせている人も中にはおられるかもしれません。
 私は私の体験したことや考えていることをこのサイトに掲載しています。あなたはそれを受け取っています。でも、あなたが見ているのは、私ではないのです。私の書いた文章と対峙されているのです。そこには私にあるものが顕現しているとは言えますが、それは私の一部であるところのものです。私という人間全体があなたの前に現れているわけではありません。
 あなたは私の一部を受け取っています。私の考えであり、体験です。でも、あなたは私という一人の人間を体験しているとは言えないのです。もしかすると、あなたは私がどんな人間であるかをイメージしているかもしれません。そのイメージ化された私と関係を築いておられるかもしれません。そのイメージは私の一部から構成された私であり、現実の私とはまったく異なる私であるかもしれません。
 もし、百人がそういうイメージ化された私を有しているとすれば、そこに私であって私ではない私イメージが百人存在することになるでしょう。私の知らない所で、私でない私と内的関係が築かれているとすれば、ネットの人間関係というものは、私にはとても恐ろしいものに思われてくるのです。
 何が言いたいのかと言いますと、「ネットの人間関係」はイメージや空想が先行する関係だということです。私たちが誰かと会った時、相手から受け取る印象があります。いわゆる「第一印象」というものです。「現実の人間関係」ではこの第一印象から始まり、それに基づいて関係が築かれることが通常なのですが、「ネットの人間関係」では、この第一印象以前になんらかの印象が刻まれているということです。そして、この第一印象以前の印象と関係を築いてしまっていることになっているのではないかと思うのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ51> 掲示板の書き込みと「書き手」(1)

(51―1)掲示板の世界
 インターネットの世界には、前項に掲げたようなネット上での交流や人間関係の側面だけではなく、ただ自由に「書き込める」という掲示板のような世界もあるようです。
 私はあまり詳しくはないのですが、そこはただ書き込んで、銘々が発信するだけの世界であるようです。
 書き込んでおけば、誰かがそれに反応して、返信してくれることもあり、交流が始まることもあるようですが、それでも基本的には、交流を求めて書き込むのではないようです。書き込んだ側も、それをはっきり期待して書き込むのではないように、私には思われるのです。
 以後、そのような掲示板に書き込む人のことを「書き手」というように表現します。この「書き手」に関しての事柄を中心に述べていくことになります。

(51―2)個人が書き込まれる掲示板
 一年ほど前でしたが、あるクライアントが某掲示板に私のことが書き込まれているのを見たと、私に教えてくれました。
 当時、私はそれをどうやって閲覧したらいいのか知らなかったので、書き込まれているという事実は知っていながら、そのままになっていました。
 その後、偶然、それを見る機会に恵まれました。当然、そこにはいいことなど書いてあるはずはありませんでした。
 それから、他の掲示板なんかも見て回りました。やはり、何件か私に関する書き込みがあるのを見かけました。恐らく、私が把握している以上にもっと多くこの手の書き込みは存在しているのでしょう。

(51―3)掲示板は「毒を吐く」場である
 私に対しての書き込みを見ていくついでに、他の書き込みを、私はいくつも読んでいきました。
 私がそこで知ったのは、そこは「書き手」が「毒を吐く」場であるということでした。
 その手の書き込みを読んでいけば、非難、誹謗、中傷、強迫、蔑み、罵り、呪詛の言葉など、ありとあらゆる攻撃の種類を目にすることができます。非常に醜悪な世界が展開されているような印象を私は受けたのです。
 そこにはさまざまな人が書き込んでいるとは思います。私の個人的見解では、社会化の達成が不十分な「書き手」ほど、辛辣で生々しく、悪意や憎悪に満ちた書き込みをしているのだろうということです。
 中には、こういう形での攻撃に長けている「書き手」もいるでしょう。相手の急所を適格に貫くことが上手な「書き手」もあるでしょう。これも私の個人的な見解ですが、そういう人がこの社会で生きていくのは難しいでしょう。そうしたことも後々述べていくことになるかと思います。
 一方、書き込まれた側というのも様々でした。私に対しての書き込みのような、個人に対してのものから、有名企業に至るまでさまざまでした。
 個人を対象にした書き込みでも、有名人に対しての書き込みもあれば、無名の人たち、例えばコンビニの一店員さんや、役所の窓口の一受付に至るまで、やはりさまざまでした。
 有名人や大手の企業などに関しては、熱心なファンを抱えているほど、そういう書き込みも多くなるという印象を私は受けました。
 そうして見ていく中で、私が辿り着いた一つの結論は、次の事です。誰が何をやっても、その人がどんな人であっても、その手の書き込みをされる可能性があるということです。すべての人はこういう書き込みの被害に遭う可能性があるということでした。

(51―4)相手を攻撃するための凶器
 このような書き込みを見ていくと、私は実感するのです。こうなると、インターネットは凶器であると。
 インターネットはここでは個人や企業を攻撃するための凶器を化するのです。そして、この凶器は、基本的に、弱者の凶器であります。私はそう捉えております。
「書き手」がそういう形で誰かを攻撃せざるを得ない時、「書き手」の方が先に敗北感を相手との関係で体験しているのだろうと思います。
 私は自分の経験からもそれは確かであると捉えています。誰かを誹謗、中傷したくなった時、あるいは現実にそれをしてしまったという時、それに先行して、相手との関係において、自分が劣位にあるということをあからさまに見せつけられ、あたかも敗北して無力な状態に陥っている自分を体験しているのです。
 もし、対等な立場で相手と交渉できるなら、人はそういうことをしないものです。相手と対等でなく、むしろ劣位にあり、敗北し、無力感に襲われているからこそ、「書き手」はそのような書き込みという手段を取るものです。正当な手段では相手と交渉できないことの現れであると私は見ています。

(51―5)「書き手」は相手を意識しているだろうか
 また別の疑問は私に湧き起こります。それは、「書き手」は書き込まれる相手のことを意識して書き込んでいるのだろうかという疑問です。
「書き手」の関しては、不明な点が多いので、これを考えるための確かな手掛かりが得られないのです。おそらく、当人たちは「ただ書きたいから書いた」とでも述べるでしょう。でも、相手に対しての何かがあるから、わざわざ個人名まで挙げて、書き込まざるを得ないのでしょう。
 従って、私の個人的な見解では、多くの「書き手」が相手を意識して、故意にそういうことを書き込んでいるということです。
 先述したように、私はいろいろな掲示板を見ていく中で、偶然、私に関する書き込みを発見してしまうのです。そこに思いがけず自分の名前を発見するのです。これはあたかも、うっかり地雷を踏んでしまったような感じを私は体験するのです。
「書き手」がそういう効果を狙って書き込んでいるのだとすれば、これはけっこう悪質な手段と言えます。

(51―6)それは誰の「毒」か
 ここで一つの注目点を挙げたいのです。
 先ほど、「書き手」が「毒を吐く」というように私は表現しました。では、この「毒」は誰に所属するものだろうかということです。そこに注意を促したいのです。
 この「毒」は私が有しているものでしょうか。書き込まれた側が有している「毒」なのでしょうか。恐らく、私の「毒」ではないでしょう。
 私という人間は、この関係においては、一つのきっかけであり、「毒」を吐かれる対象となっているに過ぎないわけです。書き込まれる側の存在は常にそのような立場になると私は捉えているのです。
 その「毒」そのものは、やはり「書き手」が抱えているものであると、見做すことができるのです。
 こういうことを説明する時に、私は「爆弾と火付け役」の喩えを使うことがあります。誰かが導火線に火を点けるのです。それでその人の抱える爆弾が爆発するのです。それでその人は火付け役を恨んだりするのです。その気持ちは分からないでもないのです。でも、それでも爆弾を抱えているのはその人自身であるという事実は変わらないのです。
 従って、「あいつが火をつけたのだから、あいつが悪いのだ」と非難してしまうことよりも、そういう爆弾を捨ててしまうことの方が先決なのです。でも、多くの「爆弾を自らの内に抱える人」はそういう発想をされないものなのです。機会があれば、なぜそうなるのかということも述べたいと思います。
「書き手」が「毒」を吐く時、その毒は「書き手」が有している「毒」なのです。書き込まれる人は、そのきっかけや対象となっているに過ぎないのです。私はそのように理解しています。

(51―7)「毒」は周囲を感染・汚染する
 上に述べたように、私の理解しているところでは、その「毒」は「書き手」が保持しているものです。
 そして、こういう「毒」は他人に感染し、他の人を汚染するという厄介な傾向があるようです。
 ある掲示板で私は次のようなやりとりを見ました。「書き手」Aがある事物について「毒」を吐きます。それに対して、「書き手」Bが返信し、Aを宥めようとします。
 すると、AはBに逆上して、Bに対して毒を吐くのです。それに対して、Bは怒り、その怒りに任せて、Aに対して自分の毒を吐き始めるのです。
 こうして掲示板上にAとBの毒吐き合戦が始まるのです。これを見かねたのか、「書き手」Cが仲裁に入ります。すると今度はAとBが揃ってCに対して毒を吐き始めるのです。
 巻き込まれたCは、Aに対しても、Bに対しても「毒」を吐き始めるのです。仲裁に入ったはずのCが、こうしてAとBに応戦し始めるのです。こうしてネット上で毒の吐き合いが展開されるのです。
 この光景は、見ていると、お互いに汚染しあっているという印象を私は受けるのです。いや、もっと正確に述べるなら、自分の毒を吐くということであれば、それがAに対してであろうと、Bであろうと、Cであろうと、相手がその他のだれであろうと、構わないということになるのではないかと思うのです。毒を吐く相手さえいれば、その相手は誰でも構わないという感じを私は受けるのです。

(51―8)人間は内に「毒蛇」を飼い慣らしている
「書き手」が毒を吐く時、その「毒」は「書き手」が保持しているものだ、「書き手」に所属している「毒」だということを、私は先ほど述べました。
 この点に関して、誤解のないように一言添えておかなければなりません。それは次のことです。
 こういう「毒」そのものは、私たちの一人一人が内に秘めているものである、ということです。誰もが抱えている類のものであると、私は理解しているのです。いわば、私たちは自己の中に、いつでも毒を吐いて攻撃する準備を整えている「毒蛇」を抱えているのかもしれません。
 従って、そういう書き込みをせざるを得ない人と、そういう書き込みを必要としない人との差異は、「毒」の種類や量にあるのではないと、私は捉えています。
 両者の違いは、どれだけ自己の内に抱える「毒蛇」を飼い慣らしているかの違いであると言ってよいと思います。
「書き手」がネットで書き込む時、「書き手」は「毒蛇」に支配されているようなものなのです。それは、この「毒蛇」を適切に飼い慣らすことに失敗していることの証拠なのです。
 そして、この「毒蛇」に身を委ねてしまうということもまた、「書き手」にとっては敗北感を強めてしまっているのではないかと、私は推測するのです。

(51―9)自己放棄
 専門家によっては、そのような「毒を吐く」場が有益であると考える人もあるでしょう。そういう場がないと人は生きていけないと考える人たちです。でも、私はそのようには考えません。
「毒」を吐く場を用意することよりも、人は自分の「毒」を吐くことなく、抱えることができる必要があると、私は考えるのです。
「毒蛇」を飼い慣らすことと、私は表現しました。それがどういうことであるかを述べます。それは、もし「毒を吐きたく」なっても、それを安全な形で、誰にも危害を加えない形で成し遂げることができるということです。「毒蛇」を飼い慣らすとはそういうことなのです。
 こういう言い方もできるでしょう。「書き手」が「毒蛇」に身を任せて。思うように「毒を吐く」とするなら、その時、その「書き手」という人間は存在しないのだということです。つまり、その人の内にある「毒蛇」に振り回されるということであり、その「毒蛇」はその人の一部分でしかないものですが、その一部分に支配を許し、その他の大部分を自ら放棄してしまっているということです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ52>掲示板の書き込みと「書き手」(2)

(52―1)多くの人が書き込まれる経験をしている
 私に対しての書き込みを読んでいくうちに、私の周りの人たちも私と同じような書き込みを経験されているだろうかと、ふと、思い至ったのです。
 なぜ、そう思ったかということを述べておきます。私は私に対する書き込みを読んでいて、なぜか周囲の人に申し訳ないような気分を味わいました。それはとても惨めな気分です。そう思うと、私の周囲の人たち、仲良くしてくれる友達や、好きになってくれている女性や、あるいは大切な身内の人たちが、こういう被害に遭っているとしたら、なんだかとても耐えられないような思いに駆られたのです。
 変な話に聞こえるかもしれませんが、こういう悲惨な思いをするのは私だけで十分だと思い、何というのか、自分がこういう体験をしたから、周りの人たちを守ろうという気持ちになったのです。
 そして、知り合いなどに会った時に、私はそれとなく確認してみたのです。
 すると、尋ねた人の多くがそういう書き込みを経験されていたのです。それは、私と同じように個人的に書き込まれていたという例もあれば、その人が経営しえいる店や所属してる企業や団体が書き込まれていたという例も含まれています。
 いずれにしろ、私が予想していた以上に、そういう経験をされている人がいたということです。私にとっては驚愕でした。
 私の知り合いには個人事業主が多くて、その人たちに尋ねたわけなのです。そのこともこういう結果に関係しているかもしれません。それでも、多くの人が書き込まれているという事実に変わりはありません。
 私の女性友達も、彼女が以前に勤めていた勤務先で、そういう経験をしていると話してくれました。もちろん、彼女個人が攻撃されたのではなく、その企業が書き込まれたということなので、少し安心しました。
 私の行きつけの飲食店のマスターも、彼の以前の店でそういう書き込みを体験したと言います。彼は、非常に立腹して、堂々と面と向かって言えばいいのにと、思い出すと今でも不快感に襲われるようでした。
 驚いたことに、レストランを経営していた私の兄までが、そういう書き込みを経験していたというのです。私は知らなかったのですが、母の話によると、兄が相当落ち込んだということです。

(52―2)書き込まれた人は何と述べているか
 書き込まれた人たちがどのような体験をして、どのようなことを述べているかを次にみてみましょう。
 私の女性友達は「わたしもそうやって書き込まれたけれど、根も葉もないことが書いてあった」と述べました。私に対しての、彼女なりの慰めや励ましだったかもしれません。
 他の人たちは、「ああいうのは無視するにかぎりますよ」とか「気にしない方がいいですよ」と言ってくれます。それが正しいのでしょう。でも、私はそこに人間の抱える憎悪が渦巻いているからこそ、無視する気にもなれないのです。
 忠告の中で、もっとも有益だったのは、「ああいうものは真剣に読んではダメだすよ」というものでした。私のアルバイト先の友人が言ってくれた言葉でした。気になったことには熱中してしまう私の傾向を知っているから、彼はそのように言ってくれたのかもしれません。
 この彼には申し訳ないのですが、私は彼の忠告を無視して、いろんな掲示板を真剣に読んだのです。幾分、私もそれで感染されたようです。
 いずれにしても、そのように言ってくれる友人たちの存在はありがたいものだと思いました。

(52―3)書き込まれた人は「書き手」が誰であるか分かっている
 書き込みを経験した人たちに対して、実はもう一つ、私は質問していることがあります。それは「それを書き込んだのが誰であるか、分かっているのではないですか」という質問です。
 私が質問した人の大半は、「分かっている」とか「心当たりがある」と答えたのです。
 誰が書き込んだのか特定できておりながら、確たる証拠に欠けているために、推測の域を出ないのであり、中にはそれがもどかしく感じられている人もありました。書いた相手は分かっているのに、こちらは手出しできないということで苦い思いをされた人もありました。
 私に対して書き込んだ「書き手」も、誰がそれを書いたのか、私はある程度特定できているのです。でも、確かな証拠がないために、いくら特定できていると言っても、推測の域に留まってしまうのです。
 一つ種を明かしましょう。私が「書き手」を特定するのに、五つほどの着眼点がありまして、それを順番にやっていけば、自ずと特定できるのです。
 例えば、その一つとして、書き込みの内容を読んで、その書き込みを分類するのです。それが私に対しての攻撃か、書き手の怒りの表現なのか、嘆きなのか、後悔なのか、私に対しての「価値下げ」であるのかといったように分類してみるのです。
 仮に、それが私に対しての「価値下げ」だったとします。そして、どういう人がそういう「価値下げ」を特にしやすいかというようなことは、臨床的なデータとして知られていますので、そういうデータを参照して、この書き手はそのような病理を抱えている人である可能性が高いというように限定できるのです。
 これだけでもずいぶん限定できるのです。そして、あと残りの四つの項目も順次当てはめてみれば、候補者がさらに消去されていき、該当する人物がかなり特定されていくのです。
 そんなことができるのかと疑問に思われる方のために、次の例を考えてみて下さい。ある「書き手」(書き手Aとしましょう)は、「あいつはサイテーだ、死ね」などと書き込みます。一方、書き手Bは「あいつは糞野郎だ、腐って死んでしまえ」と書き込んでいます。この書き込み内容から、AとBはまったく違ったタイプの人間像が浮かんでくるのです。あまりにも明白なので説明しなくてもいいくらいです。
 でも、必要な人のために説明しておきましょう。まず、Aはより幼児性を強く残している人物である可能性が高いと言えます。「サイテー」とか「死ね」とかいう罵り文句は、子供に一般的に見られるものです。子供はそういう風にしか表現できないからなのです。一方、Bの方は「糞」とか「腐って」とかいう言葉から、よりネクロフィラスな傾向が強い人物だという可能性が高くなるのです。このような人は「糞」とか「腐敗」に関する言葉を、そういう傾向を有しない人よりも頻繁に用いるものなのです。そういう言葉に親和性があると言ってもいいかもしれません。
 そういう所から、AとBはまるで違った傾向を有する人物像が浮かんでくるのです。
 それでも、先述しているように、厳然たる証拠がないがために、限りなく特定できたとしても、それは推測の域、可能性の域を出ないのです。

(52―4)「書き手」は恨みを買う
 ここで大事なことは、書き込まれた側からすれば、誰がそれを書き込んだのかがよく分かっているという点です。
「書き手」はもちろん匿名で書いているのですが、それにも関わらず、書き込まれた側には誰が書いたのか、いわば筒抜けなのです。
「書き手」がそういうところまで気にしているかどうか私にはわかりません。匿名で書けば身を隠せると安易に思っているのかもしれません。それは、黙っていれば分からないという、けっこう幼児的な思考なのです。
 しかも、他の友人たちもそうだったのですが、書き込まれた側は「書き手」のことをよく覚えているものです。そして、「書き手」はしばしば「書き込まれ手」から恨まれるのです。
 実際、「書き手」はそういう形で恨みを買うものではないかという印象を私は受けるのです。ある飲食店のマスターの述べる「書き手」はまさにそういう人でした。その「書き手」は他に行くことのできる店がなかったのです。どの店でも嫌がられていたのです。恐らく、そういう書き込みをしていることがどの店の人たちにも分かっていたからだと、私は想像するのです。
 匿名で書けばバレないと信じているのか、あるいは、自分だけは何を言っても許されると思い込んでいるのか、私には分かりません。しかし、相手の恨みを一身に引き受ける覚悟で書き込んでいるという「書き手」は、まず存在しないのではないかという印象を私は受けます。
 それだけの覚悟をしているのなら、匿名で書くことはないでしょう。堂々と本名を公表することでしょう。

(52―5)恨み合う関係の始まり
 確かに、掲示板なるものは、誰が何を書いてもいいという、そういうようなルールがあるようです。
 もし、「書き手」が自分だけは恨まれないとか、人を攻撃しても構わないとか、攻撃しても自分だけは許されるとか、そういう観念を抱いているとすれば、私はその人たちはかなり「歪んだ自己愛」を有していると思うのです。
 一応、そういう内容の書き込みを禁止している掲示板もあるようですが、もともとルールを守ることができるような人が書いているわけでもないでしょうから、そういうルールは有って無いようなものです。
「書き手」が書き込むのを禁じる法律などもありません。だから、私は「書き手」に書いてはいけないと言う筋合いがないのです。
「書き手」には書き込む自由と権利がありますし、それは認められなければならないでしょう。ちょうど、私が自分のサイトで、自分の考えや体験を自由に制限なく表現することが許されているように、彼らにもそこは保証されなくてはならないでしょう。
 でも、私に対しての書き込みを私が発見した場合、やはり私は誰がそれを書いたのか特定してしまうでしょう。私は性格的にそういうことを調べずにはいられない人間なのです。
 もし、「書き手」が特定できた場合、私から恨みを買うことになるかもしれないということは覚えておいて欲しいのです。これは、私に対してだけでなく、他の人たちに対して書き込む時にも同じことが言えるのです。
 恨まれる覚悟で書き込まれるなら、それはそれでよろしいでしょう。私にはそれを制止する手段はありません。「書き手」自身で、書き込むか否か、書き込みたい気持ちを抑制するか否かをしなければならないことです。
 その後で、「書き手」が恨まれたとしても、もはや私には関係のないことです。場合によっては、一生恨まれることになるかもしれません。私が訪ねた人たち、書き込まれた側の人たちの話を聴いていると、その書き込みがすでに何年も前の出来事であったとしても、そのことをよく覚えているものだと言うことが分かるのです。
 書き込まれる側は「書き手」のことを覚えているものです。おそらく、「書き手」が書き込まれる側の何かを掻き乱すのでしょう。それで一層、「書き手」のことが書き込まれる側に印象づけられるのです。
 だから、推測の域を出ないとは言え、書き込まれた側の推測はかなり正しいものだと私は捉えています。
「書き手」が書き込まれた側との間で何を体験したかは、個々の「書き手」によって異なるでしょう。「書き手」もまた相手を恨んでいることが多いでしょう。そして書き込まれた側も「書き手」を恨みたい気持ちになる。そうして、ここに恨み合いの関係が開始されてしまうのです。不毛な関係が始まるのです。

(文責:寺戸順司)



 


<テーマ53> 臨床家への批判(1)~「相性が合わない」

(53―1)クライアントたちの掲示板
 掲示板にはさまざまなタイプのものがあり、特定のテーマが掲げられている掲示板もあります。
 中でも、私がある意味で感心したのは、精神科や心療内科、カウンセラーといった「心の専門家」と見做される人たちに特化した掲示板があるということです。
 正確に言うと、それは「心の専門家」に対して書き込むための掲示板で、専門家にかかるクライアントたちの掲示板ということです。
 それを読んでいて、私なりにいろいろ思うところがありまして、その中から私が気になった言葉や、繰り返しお目にかかった表現を取り上げて、考察してみることにします。

(53―2)「相性が合わない」はない
 中でも、臨床家と「相性が合わない」という表現はいくつも目にしました。
「相性が合わない」ということで、臨床家を批判している例もあれば、そういう形で諦めようとしているという印象を受ける書き込みもありました。
 しかしながら、「相性が合わない」というのは本当でしょうか? それは何か他の「問題」を言い換えているだけではないでしょうか。本項ではそういうことを考えてみます・
 私なりの結論を最初に述べますが、臨床家とクライアントとの間に、「相性の問題」が介在してくる余地はほとんどないということです。そこにあるのは、大部分が「適応」の問題であるか、「感情転移」の問題であるのです。

(53―3)どこにこの「問題」の本質があるか
そこで、「書き手」の理屈をまず見てみましょう。
「書き手」は、一言で言うと、「相性が合わなかったから、その臨床家とは上手くいかなかったのだ」という理論を展開しているわけです。
ところで、これは問題の本質を捉えているでしょうか。私にはいささか疑問なのです。もっと「書き手」の内面の問題がそこには関わっているのではないでしょうか。
 私はこのように考えています。「相性の問題」と彼らが捉えているのは、もっと「書き手」の内面にある何かが表れているものだということです。そして、内面にある問題を、「相性」という外側の問題として処理しようとされているような印象を私は受けるのです。
 ここで、この問題の追及すべき点がどこにあるのかを考えてみましょう。「書き手」は自分とその臨床家とは「合わなかった」と述べています。一方で、その同じ臨床家とも上手くやっている人たちもたくさんおられることでしょう。
 こういう疑問が私に起きるのです。その臨床家とも上手くやっていけているクライアントたちもいる一方で、上手くいかなかった「書き手」のようなクライアントもいるということですから、両者は何が違うのかという疑問です。
「書き手」の視線でこのことを問い直せば、このようになります。「他の人たちはあの先生とうまくやっているのに、どうして他ならぬ自分はうまくいかなかったのか」という問いになるでしょう。私は、そこに「書き手」が注目するべき、問題の本質があると捉えております。
「書き手」が追及すべきなのはその点にあると、私は思うのですが、それを「書き手」が「相性が合わなかったから」ということで片付けてしまっているのです。そのために、「書き手」には自己に関するテーマがそこに現れていながら、それを追及していく可能性を自ら閉ざしてしまっているのです。
 しかし、これを追及していくことは、「書き手」にとってとても辛い作業になってしまうのでしょう。それがどのような辛さであるかということは、個々の「書き手」によっても異なるでしょうから、一概に「これ」と限定して言うこともできません。
 しかしながら、私が憶測する限りでは、それを追及していくと、自分の幻滅と向き合わされてしまうのだろうと思います。あるいは、それを追及していくと、ますます自分が見捨てられた人間であるかのように体験してしまうのかもしれません。
「書き手」たちにとっては、それを直視することを何としてでも避けたいと思うのでしょう。そして、「相性が合わなかったからだ」という、いわば不可抗力でこうなったという形で処理しなければならなくなるのでしょう。

(53―4)要約
 かなり抽象的な話になったと思いますので、上記の事柄の要約も兼ねて、より簡潔に述べましょう。
 私の見解は次のものです。
 まず、「書き手」はその臨床家との間で何か望ましくないことや、うまくいかないという体験をしているであろうという前提を私は立てました。
 そこには「書き手」の内面的な事柄、内的な「問題」や傾向がもっと関わっているはずではないのかという憶測を、私はそれに持ち込みました。
 もし、そういう事柄が関与しているのであれば、そこに「書き手」が目を向けるべき何かがあるのではないかと結論していたのです。
 しかし、「書き手」そこに目を向ける代わりに、「相性」という、いわば自分の外側に関する概念を持ち込んでしまっているということです。
「相性」という外概念を導入してしまうことで、「書き手」は目を向けるべき事柄に蓋をしてしまっているのではないかと考えられるということです。つまり、「外在化」しているということです。
「書き手」がこのような「外在化」をするということは、そこに、つまり「書き手」をしてそうさせている「書き手」の内面的な事柄こそ、「書き手」苦しめている事柄である可能性が高いということを示すのです。
 この「外在化」によって、「書き手」は取り組むべき事柄に対して、取り組む機会を失してしまっているというのが、私の見解なのです。

(53―5)「書き手」が目を背けるもの
 ある「書き手」は、私のことを「これまで会った中で最低のカウンセラー」と評してくださいました。その人にとって、私が「最低」であることは、一向に構わないことです。でも、その人の本当の「問題」は、その人がこれまで誰一人としてカウンセラーと上手くやってこれなかったという所にあるのです。
「書き手」は自ら情報を提出しています。「これまで会った」というのがそうです。その人はこれまでに何人ものカウンセラーに会ってきたのです。その中で私を最下位にランクインしてくれているだけなのです。でも、その人がどのカウンセラーとも関係を築くことに失敗しているということは、明瞭な事実なのです。
 この「書き手」はそこを等閑に付しているのです。そして「あのカウンセラーが最低だからこうなった」というような論を展開してしまっているのです。
 このように批判するのは構わないのですが、批判すればするほど、私はその人がどういう種類の問題を抱えているのかが理解できるのです。そして、何から目を背けようとしているのかということも、見えてくるように思うのです。
 しかし、私の側に何もないなどと言うつもりもありません。公平を期するために、私自身のことも書かなければなりません。
 ある種の人たちにとっては、とても厳しいカウンセラーのように私のことが見えるのです。あるいは、同じくある種の人たちからは私はかなり嫌悪されるということも自覚しています。一方で、それとは違ったタイプの人たちからは、私は信用され、頼って来られるのです。でも、私はこれを「相性」とは捉えていません。
 私を批判した、ある「書き手」は、恐らく、私がとても怖い人として映ったのだろうと思っています。あるいは、厳しい人間のように思われたかもしれません。恐らく、その人にとって、私が十分に機能するカウンセラーでなかったということは、自分でも認識しているのです、
 ところが、それは私の側の問題であって、私が取り組むべき所なのです。「書き手」が避難するところではないのです。なぜなら、私のその問題は「書き手」には何の関係もないからです。
 しかし、臨床家が何をしても、非難で返す人というものはおられるものです。クライアントに対して直面化を控えれば「役に立たない」などと書き込み、直面化を迫ると「最低だ」と書き込んだりするのです。
 だから、臨床家がどんなことをしても、何を伝えたとしても、やはり何らかの書き込みを「書き手」はしてしまうものだろうと私は思います。
「書き手」が目を背けようとする事柄は、うまくいかないということであり、挫折は苦悩であることが多いようだと、私は思うのです。
 彼らが書き込んでいる内容を読むと、周囲がピッタリと自分にフィットしないこと、自分の望んでいることと寸分違わないように他者が振舞ってくれないこと、そういうことに対して憤慨していることなどが見えてくるのです。
 言い換えると、自分の思い通りではないという事実に耐えられないのです。そして、思い通りに行かないということは、当人に無力感をもたらすものであり、多くの書き込みは、「書き手」の無力感の表明であり、その無力から目を背けるために攻撃したり「相性」を持ち出したりしていることも多いようであります。私はそのような印象を受けるのです。

(53―6)「相性が合わない」のもう一つの可能性
 さて、「書き手」が「相性が合わない」と書き込む時、一体、「書き手」は臨床家とどのような関係を築くことを期待しているのでしょうか。
 この点が不明瞭なために、単に「相性が合わない」とだけ書き込まれても、それ以上にどうにも考えることができないのです。
 つまり、その「書き手」にとって、どのような人が本当に「相性が合う」という体験をするのか、「書き手」にとって「相性が合う」とはどういうことを言うのか、私には分からないのです。
 もしかすると、「書き手」自身もそれらをそんなに明確にしていないかもしれません。
 むしろ、こうした言葉はその額面通りに受け取らない方がいいのかもしれません。「書き手」自身上手く言えない何かを言おうとするのだけれど、いざそれを言葉にしようと思うと、「相性が合わない」という表現しか出てこないという体験をしているのかもしれません。

(53―7)「適応」という観点から
 私はここである女性のクライアントを思い出します。このクライアントは精神医学的に言えば、上に述べた「書き手」よりもはるかに「重い病理」を抱えている人です。
彼女は「私を傷つけないで欲しい」とはっきり要求してきました。毎回、面接の初めに彼女はそのように述べるのです。
しかし、この方が素晴らしいのは、どういうことをされるのが自分は嫌なのかということを、きちんと自分の口でおっしゃられていることです。
相手が自分を傷つけるか傷つけないかということは、「相手と相性が合うか合わないか」ということよりも、はるかに具体的であり、理解しやすく、私も対応がしやすいのです。
私はその方に、「あなたはどういうことに傷つくの?」と尋ねれば、彼女は答えてくれるのです。そして、私はそれを共有できるのです。
お互いにそういうことが共有できるほど、共有されるものが増えていくほど、お互いの間の疎通性が増してくるのです。
実際、この女性は、「書き手」よりも「重い病理」を抱えていたかもしれませんが、「書き手」ほど孤立していないのです。
「私を傷つけないで欲しい」と彼女が求めた時、私は次のことを伝えるようにしました。「私の言ったことであなたが傷つくことがあったとしても、あなたを傷つける目的で言うのではないということをあなたも理解してほしい」と。そして、「傷ついたと感じた時には、その場で教えてほしい」と頼みました。
 彼女はその後の面接で何回か「傷ついた」と表明しました。その都度、私は私の言葉の何に傷ついたのか、私の言葉をどういう風に受け取ったのかということを話題にあげるようにしました。多くの場合において、そこでお互いの間に意味の取り違えや、すれ違いがあったりするのが見つかるのです。
そうしたことがお互いの間で修正されていって、私に悪意や敵意がないということが彼女にうまく伝わると、彼女はとても落ち着いてくるのでした。
 それでも、彼女は面接の場面でいくつかの傷つきを体験しましたが、彼女の偉いところは、そこでキレたり、書き込んだりしなかったということです。
むしろ彼女は自分が傷ついた時こそ、私に説明する時間を与えてくれ、私の言葉を理解しようとしていました。
このことを一言で言うなら、彼女は私に「適応」しようとしていたのです。彼女のこの姿勢のおかげで、私はかなり神経を使ったとは言え、この女性クライアントとうまく関係を築くことができたのです。
「相性」の問題ではなく、「適応」の問題でもあると述べたのはこういうことです。

(53―8)適応困難であることの表現
 クライアントはカウンセリングを受ける時、そのカウンセリングを実施する機関やカウンセラーに適応していく必要があります。私もまた一人一人のクライアントに「適応」していかなければならないものです。
「書き手」が臨床家と「相性が合わない」と書き込む時、その人は臨床家に適応することが上手くできなかったという可能性もかなりあるだろうと、私は捉えております。と言うのは、「書き手」にとっては、人や場面に適応することに困難を覚えられる人もおられるだろうからです。
 言い換えれば、そういうことに適応していくことが難しいという人が、「書き手」になると言っても、私はあながち間違っているとは思わないのです。
 もちろん、個々のケースを見ていけば、それ以外の可能性も当然あるはずです。ところが、「書き手」は「相性が合わない」と書くだけで、それ以上のことは何も述べていないというのが、私が頻繁に見かけたパターンです。私から見ると、それは「言わずして、察して欲しい」という気持ちの現れであるかのような印象を受けるのです。
 私のその見解が正しいものであるかどうかは、私には何とも言えません。ただ、「書き手」が「臨床家と相性が合わなかった」と書き込む時、もう一つの可能性として、「書き手」が臨床家に「適応」できなかった、もしくは「適応」していかなかったことを表現しているのではないかと、そう考えるのです。

(文責:寺戸順司)






<テーマ54.> 臨床家への批判(2)~「臨床家はプライドが高い」

(54―1)はじめに
 次に、掲示板でよく書き込まれていた文句は、「臨床家はプライドが高い」というものでした。
「臨床家」とここでは書いておりますが、実際の書き込みでは、どこかの病院の医師であるとか、特定のカウンセラーが名指しされていたりとかしています。
 いずれにしても、「書き手」は、そういう臨床家が「プライドが高い」と書いているのです。正確に述べるなら、「臨床家はプライドが高い」と言って、その臨床家を批判、または酷評しているのです。
 本項では、この「臨床家はプライドが高い」という表現について考察してみます・

(54―2)プライドの高さは批判の対象にはならない
「相手がプライドが高い」という非難の言葉に出会う度に、私は微笑まずにはいられないのです。と言うのは、ずっと昔のことですが、私自身、ある人を批判する時に同じような言葉を用いた経験があるからです。だから、このような言葉を使用してしまう時の気持ちとか、状況、状態といったものが、何となく分かるような気がするのです。
 でも、話をそちらに進める前に、まずこの非難の言葉を、そのまま言葉通りに受け取ってみようと思います。
 つまり、その臨床家が、「書き手」の言う通りに、実際にプライドが高い人だという状況を考えてみます。
 私の見解では、ある人のプライドが高いからと言って、そのことを非難の対象にすることはできないということです。多くは見当違いの避難であると私は理解しています。
 なぜ見当違いであるのかを述べましょう。非難する人は、相手のその「プライドの高さ」から何かを蒙ったはずなのです。その人が非難したいのは、相手に現れた行為にあるはずなのです。その行為によって、その人は傷ついたりとか、被害を被ったと体験されているはずなのです。それに対して、反応していることが多いからです。
 もしそのような事情があるのであれば、その人が相手の「プライドが高い」ということを攻撃するのは、的外れであるということになるのです。
 ところで、精神科医にしろ、カウンセラーにしろ、あるいは福祉職の人にしろ、人を援助する仕事に従事している人は、プライドが高いくらいでちょうどいいのです。もちろん、それが「健全な自己愛から発するプライド」であればという条件が付きますが。
 なぜ、プライドが高いくらいが望ましいと言うのかと言いますと、クライアントは、臨床家のそういう自尊感情から多くを学ぶことになるからです。

(54―3)相手の「高い」は自分の「低い」
「プライドが高い」と言って、相手を批判する時、そこには二つの可能性があると、私は考えています。
 その一つをまず述べます。
まず、述べなければならないことは、「あいつはプライドが高い」という批判の言葉は、精神的に未熟な人が、より成熟している人を批判する時の常套句であるということです。私は自分の体験からもそう言えるのです。
 私が誰かを「プライドが高い」と言って批判するとしましょう。その時、相手に「プライドの高い」何かを見ていると同時に、その一方で、私の方に「低い何か」が感じ取られているものです。
 つまり、相手の「高い」ものを見てしまうということは、自分の中にあるより「低い」ものを見せつけられてしまうような体験となるのです。
 ところが、人はこういうことをしてしまいがちなのですが、そういう時に、自分の方が「低い」と言って嘆いたりするのではなく、相手の方が「高い」と言って、相手を責めるということをしてしまうのです。
「高い」相手の方が悪いのだと考えることで、自分の「低い」ものは見なくても済むのです。それだけ、その人にとって、自分の中の「低い」ものは受け入れ難くなっているのでしょう。

(54―4)他人は自分と同じ水準で接しない
 私たちは、誰かと話し合ったりする場面において、相手は自分と同じ水準で物を見ているとは限らないという可能性を肝に銘じておくことは必要なことだと思います。その観点は、人間関係において、とても有益な観点であります。
 人間関係のズレとは、相手が自分と同じものを、同じ水準で、同じように見ているという誤解から生まれることが多いものです。自他の区別がつくほど、こういう誤解は減少していくものなのです。
 対峙している相手が自分と同じ水準ではないということは、相手の方が高い水準にいることもあれば、低い水準から物を言っていることもあり得るわけです。
 相手と融合的な関係を築いてしまう人は、このような差を見せつけられてしまうことは、とても苦しい体験となるのではないかと思います。でも、何らかの「高低差」は、人間関係には必ず付随してくるものです。私たちはそれを受け入れる必要もあるのです。
 後で私の体験例に基づいて、このことは再度取り上げることにします。

(54―5)適切な言葉で表現できないような体験
 話を進める前に、もう一つの可能性について書いておきましょう。
 もう一つの可能性は、先ほどの物よりはるかに漠然としたものです。それは次のような可能性です。
「臨床家はプライドが高い」と言って「書き手」が批判する時、そういう言葉でしか表現できないような何かを「書き手」が体験しているという可能性です。
 言い換えると、「書き手」は何かを体験したのだけれど、それを言葉にしようと思えば、「臨床家はプライドが高い」という表現になってしまうということです。
 その場合、「書き手」は自分の体験している事柄をうまく掴むことができていなかったのだと思います。自分の体験がどういうものであるかを把握できなくて、そのためにそれを言葉で表現しようと思うとうまくいかないし、敢えて言葉で表現しようと思えば、そのような言い回しになってしまうということです。
 従って、こちらの可能性について考察していくためには、「書き手」が「臨床家はプライドが高い」と感じた時、どういうことがその場で起きており、「書き手」がどんな種類の体験をしたのかということを知らなければならないのです。そうでなければ、私には何一つ言えないのです。
「書き手」がそういうこともきちんと書き込んでくれれば、もう少し、考察することもできたのですが、生憎、そういうことを「書き手」はしません。そこで、私は私自身の体験を手掛かりにして、これを考察していくことにします。

(54―6)例を通して考察してみる
 私が子供だった頃、当時の私から見て、とても「プライドの高い」大人がいました。その人との関係で、私は何度も悔しい思いを体験したものです。
 どういうことを私が体験したかと言いますと、一言で言えば、私の言うことがこの人には通じないということでした。私が何を言っても、すべて跳ね返されるような思いを私は繰り返し体験したものです。
 それも、何と言うのか、上から目線で跳ね返されるような感じを受けていたので、当時の私はその人のことを「プライドが高い」奴だと批判していたように思います。
 だから、私の場合はですが、「プライドが高い」と言って相手を批判することになった体験とは、相手に話が通じない、自分のことが分かって貰えない、何を言っても言い返されてしまうといった体験と結びついているのです。
 私は「この分からず屋め!」と思い、何度も悔しい思いをしたものでした。もしかすると、「書き手」の中にもこのような体験を臨床家との間でしてしまった人があるのかもしれません。
 大人になって分かってきたことは、単に彼は私と同じ精神水準で物を言っていたのではないということでした。このことが見えてくると、私は彼がむしろ大人として立派な態度をしていたのかもしれないと思うようになったのです。
 そのことが理解できるまでの、私は随分時間がかかったものです。当時、私はこの大人を私の延長上の存在として体験していたのでした。だから、彼が私と同じでないということが、私には耐えられなかったのです。
 このことをもっと単純な例で喩えてみましょう。もし、ある子供が大人にケンカをふっかけてきて、大人がその子供と同じレベルでケンカするとすれば、その大人はその子供と同じ水準で対応しているということになります。
 もしかすると、子供の側からすれば、そういう対応をしてくれる大人の方が自分に応えてくれていると体験するかもしれません。でも、現在の私の考えでは、それでは子供が成長できないだろうということです。
 大人はやはり大人の水準で応じるでしょう。そこにおいては常に子供の側との間に、溝が生み出されることになるでしょう。その溝を指して、子供は「相手はプライドが高い」という言葉で表現してしまうのかもしれません。
 こういう溝を体験することは、その子供には辛いことかもしれません。なぜなら、この溝は、相手が自分とは異なるということを、決定的にその子供に見せつけるからです。相手は自分と同じ水準や目線で応じているのではないということを、嫌と言うほど思い知らされるのです。言い換えれば、相手が自分とは違う他人であるということを、体験してしまうのです。
 こういう体験をしてしまう時、子供は相当な傷つきを体験するものです。相手が自分の思っていた人とは違っていたということを知ることになるからです。
 でも、そのような体験をすることは、その子供が自他の区別をつけていく上では欠かせないものであり、時に必要な傷つきともなるものです。
「書き手」は掲示板にそれ以上のことを書かないので、何も確かなことは言えないのですが、恐らく、臨床家との間でそのような体験をされた「書き手」もおられるのではないかと、私は推測します。もし、そうであるとすれば、「書き手」にとって苦しい体験をしたかもしれないけれど、一方では貴重な何かを体験していた可能性もあり得るのです。もちろん、それは貴重な体験を含んでいたということは、ずっと後になってから理解できるようになる場合もあり得ますが。

(54―7)「目線」と「精神水準」
 カウンセラーはクライアントの目線で物事を見ようとします。私もそうするように努めています。
しかしながら、それはクライアントと同じ精神水準になるということを意味するのではないのです。ですから、クライアントはどこかで、自分とは違うものを臨床家の中に見出してしまうかもしれません。
私はそれがまったく悪いことであるとは考えません。それを契機に、クライアントに自他の区別がついてくることが多いからです。
自他の区別がつくということは、そのクライアントが個を確立していくこと、つまり自分自身になっていくことに踏み出し始めることになるのです。
 つまり、「臨床家はプライドが高い」と言って批判することよりも、自分と臨床家とは違った人間であるということを知っていき、その事実を受け入れていくことの方が肝心であると私は考えるのです。


(文責:寺戸順司)






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