ホーム > 親子関係と家族

親子関係と家族

親子関係と家族
(下線部をクリックするとページに入ります)


 
<テーマ159>良すぎる母親
(159―1)ぶつかりに行く母親 (159―2)戦闘態勢を解除できない息子 (159―3)すべてを投げさせること (159―4)母親を失わないために子供がしていること (159―5)何に向き合うのか (159―6)「悪い部分」を関係し続けることになる息子






<テーマ40> 親子関係の不条理
<テーマ48> 親離れ・子離れ

<テーマ102> 虐待の粘着性







<テーマ40> 親子関係の不条理 (約2800字)

 親子関係についても述べていこうと思います。カウンセリングに訪れるクライアントは多かれ少なかれ、自分の親との関係での苦悩をひきずっているものであります。親との関係は、クライアントに限らず、すべての人にとって重大なことではないでしょうか。親子関係において、あくまで傍観者に徹しられるという人は稀ではないでしょうか。親子関係には必ず感情をかき乱されるような体験が潜んでいるものだと私は思います。

 親子関係を考えていくに際して、前提とするところを二つ押さえておくことにします。
 まず、親子関係には二つの相があるということです。それは自分と親との関係という相と、自分が親になってからの子供との関係という相であります。両者はともに「親子関係」として同等に考えていく予定でおります。そして、この両者は意外と切り離せないものでもあります。
 次に、もう一つの前提は、それが実の親であっても義理の親であっても、それは問わないということであります。その人の養育者をここでは「親」とみなし、その養育者とその人との関係も等しく親子関係としてみなすということであります。これは子供が養子であるという場合でも同様であります。

 さて、本項のタイトルにもありますように、親子関係とは不条理なものであると私は捉えております。それはとても理不尽でさえあり、多くの矛盾を孕んでいるのであります。
 まず、私たちは自分の親を本当に知ることはないということが挙げられます。私が知っている親は、私が生まれてから後の親であります。私が生まれる以前にも親には親の人生があったということは理解できるのです。しかし、私が生まれる以前の親というのは、どこか神話のような趣がありまして、私には謎なのであります。

 そして親子とは、いずれ離ればなれになっていくことを自明の前提として長い関係を築いていくのであります。親離れ・子離れを双方がしていかなければならない関係なのであります。親が子供を手放したくないと思っても、子供はそれを達成し、親は子供の行為を受け入れなければならないのであります。これもまた、不条理なことだと私は思います。
 ここで、私はある母子を思い出します。カウンセリングを受けに来たのは、子供の方で、男性でした。彼は自分の人生を築こうとしていました。しかし、そこには常に母親の存在が入り込んできて、彼は挫折を繰り返し経験してきたのでした。ある時、彼の母親がカウンセリングについてきて、私は母親とも会うことになりました。彼女はいかにも弱々しげで、息子だけが唯一の頼りといった感じでした。クライアントが親離れしていくことは望ましいことではありましたが、この母親が一人残されていくような姿はとても痛々しかったのを覚えております。それでも私はクライアントがしようとしていることは、健康な男の子であれば誰もが成し遂げていくものであること、それに耐えることが親の義務でもあるということなどをこの母親に話しました。母親は涙ながらに私の言葉に耳を傾けていました。彼女は我が子が親離れしていくことを受け入れなければなりませんでした。そうしなければ子供の方がダメになってしまうからであります。

 子供が親を本当の意味では理解できないのと同じように、親が自分の子供を理解することも、不可能ではないにしても、相当困難であります。基本的に、大人は子供を理解できないと私は捉えております。
 そんなことはないと反論される方もおられるかと思います。「自分もかつては子供だったのだから、子供を理解することができるはずだ」と、そうお考えになられるかもしれません。それは確かにその通りです。私もかつては子供でした。だから子供を理解できる可能性はあるのです。しかし、今、私が子供でなくなっているからそれが難しいのであります。
 従って、子供を理解する必要が本当に生じたとき、既に私たちはそこから遥か遠く隔たった所に立ってしまっているのであります。これもまた不条理なことであります。

 親と子は、死別を経験するものであります。子供の方が先に亡くなってしまう例もよくありますが、大抵は親の死を経験する人が多いのではないでしょうか。
 もちろん、死別ということは避けられないことであります。しかし、それで親子関係が終わるわけではないのであります。仮に、親が亡くなったとしても、子供の中では親との関係が続くのであります。関係だけでなく、親との間で培った葛藤までもが、親の死以後も子供の中で残ることも多いのであります。これもまた不条理なことであります。
 父親を恨んで生きてきた女性の事例を以前掲げたことがあります。彼女はその例の一つであります。一方が亡くなって、それでその関係が終わりということにはならないのであります。親が亡くなっていても、子供の中では、内的な親との関わりが続いていくものであります。死別によって終わる関係ではないのであります。

 親子の関係が愛情で結ばれていれば、それは望ましいことでありますが、どれだけ愛情で結ばれていても、子供は親との関係で傷つきを経験するものであります。どの人も、人生最初の傷つきは親から与えられるものであると私は捉えております。子供を傷つけないようにということを強調される方もおられるのですが、その考え方に私はあまり賛成ではありません。もちろん虐待であるとか、あまりに強すぎる傷つきに対しては反対であります。しかし、ごく自然な親子関係であっても、その中で子供は傷つきを体験してしまうものであります。そして、時にはそれが必要な傷つきであるという場合さえあるのです。このことはいずれ述べていく予定でおります。
 しかし、次のことをも述べておかなければなりません。子供は親との関係において傷つくものでありますが、その傷の手当てもまた親との関係で体験されるものであります。私たちが大人になって、親との関係から「神経症」的な生き方を送ってしまっているという場合、親から受けた傷が苦しいのではなくて、受けた傷に対してケアがなされなかったことが苦しいのだという事実に向き合うことになるのです。もちろん、これはカウンセリングを通して得た私の個人的な見解に過ぎないかもしれませんが、クライアントの多くは、本人たちは意識していないかもないけれど、受けた傷で苦しんでいるのではないのであります。傷ついて、尚且つ、放置されてしまった自分に耐えられないというような人がやはり多いという印象を受けるのであります。このことは今後述べていく予定でおります。
 とにかく、親子関係というのは、たとえ愛情で強く結ばれていたとしても、お互いに傷つけ合ってしまうということが避けられない関係だと私は捉えております。これもまた不条理なことではないでしょうか。

(文責:寺戸順司)






<テーマ48> 親離れ・子離れ (約3200字)

 ある種のオオカミ(キツネだったかもしれません)の話です。その親オオカミは子オオカミが一定の段階に成長するまで、親子一緒に生活するそうであります。その時が来ると、親オオカミは、突然、子オオカミに噛みつくのだそうです。つまり、そうして子オオカミに親離れをさせるということなのです。
 面白いことに、親から噛みつかれて無理やり親離れさせられた子オオカミも、やがては親になり、自分の子供を持つようになります。子オオカミがある年齢に達すると、このオオカミは、かつて自分がされたのとまったく同じことを自分の子オオカミに対してするのであります。つまり、かつて我が身をもって体験したように、我が子に噛みつくのであります。私が面白いと感じたのは、自分が噛みつかれた時の年齢と、我が子に噛みついた時の子オオカミの年齢とがほぼ一致しているということでありました。親オオカミには子オオカミにその時が来たというのが分かるのかもしれません。なぜ、オオカミにこういうことができるのかということは、当時の説明では、遺伝的にそうプログラムされているのだろうということでした。そう説明する以外にないようでした。ずいぶん昔に聞いた話なので、今ではもっと解明が進んでいるのかもしれませんが、動物にはそのような遺伝的プログラムがやはり備わっているのだろうと私は思います。

 もう一つ、例を挙げたいと思います。これも私はテレビで見たのでしたが、それはある種のヤドカリでした。そのヤドカリは子供たちを母親の胎内で育てるのであります。子供たちは母親の胎内で、母親の体を食べて成長するのであります。子供たちが成長すると、母親の体を突き破って、外の世界へと出ていくのであります。そして、食べつくされた母親の抜け殻だけがそこに残るのでした。
 なぜ、このヤドカリはこのような子育てをするのか、なぜ子供たちには母親の体を食べるという行動がとれるのかということは、やはり遺伝的にプログラムされているとしか説明しようがないのだろうと私は思います。

 このような例を挙げましたのは、動物や昆虫の世界では、親離れ・子離れ、あるいは世代交代ということがとてもスムーズに行われるものだという印象が私にはあるからであります。動物たちになぜそういうことがスムーズにできるのかということを、私たちは本当には理解できていないのであります。ただ、動物にはそのようなことが遺伝的にプログラムされているという説明で納得しているに過ぎないのであります。
 親離れ・子離れのプロセス、ないしは世代交代のプロセスが遺伝的にプログラムされているということは、動物たちにはそれらに関して、何ら葛藤を経験しないということを意味しています。親オオカミは我が子に噛みつくことに罪悪感を持たないわけであります。「私は親からあの時噛みつかれて痛い思いをしたから、自分の子供にだけは同じことをしないでおこう」などと考えないということであります。母親の身体を食べつくす子ヤドカリは、母ヤドカリのことを哀れに思うこともないのであります。生きた母親と母子関係が築けないことを嘆いたりもしないのであります。ただ、そうすることが遺伝的に決定づけられているという理由だけで、そういう行為をしているだけということになるのであります。

 幸か不幸か、人間にはこのような遺伝的プログラムが備わっていないのであります。もしかすると多少の遺伝的な傾向は受け継いでいるかもしれませんし、遺伝的に規定されている部分もあるかもしれません。しかし、人間は、上記のオオカミやヤドカリのようにはできないことだけは確かであると思います。少なくとも彼らのようなプログラムを遺伝的に有していないわけであります。
 遺伝的要因の多少は一旦置いておくとしまして、ここで押さえておきたいことは、親離れ・子離れ、世代交代のプロセスを円滑に進めていくようなプログラムを私たちは遺伝的に受け継いでいないということであります。遺伝的にプログラムされていないからこそ、私たちはそのプロセスにおいて、並々ならない葛藤と苦悩を経験してしまうのであります。もし、遺伝的にプログラムされていれば、何の躊躇も葛藤もなく、ごく自然にそういうことができるわけでありますし、それが自明な事柄になるはずであります。
 一方、このプログラムが欠如しているおかげで、人類は親とは違った行為を試行錯誤できるのだと私は捉えております。そのおかげで、親世代とは違った文化・社会を築いていき、発展していったのだろうと私は思います。しかしながら、見ようによっては、このプログラムの欠如は人類にとって不幸なことだったかもしれないと私は思うこともあります。
 それが遺伝的にプログラムされていないということのために生じる不幸の一つの側面は、遺伝的にプログラムされていないがために、私たちは自然にそれを遂行することができないということであります。その時期が来れば自然にそれが成し遂げられるということにはならないということであります。従って、親離れ・子離れのプロセス、世代交代のプロセスを、私たちは意識的に、幾多の困難を乗り越え、時間をかけてでも成し遂げていかなければならない宿命を負ってしまっているのであります。私はそう考えるのであります。それがために、人類は制度でそれを補助しようとしてきた歴史があると私は見ております。つまり、親離れ・子離れ、世代交代を遂行するプログラムが欠如しているから、それを補うために、元服式や成人式、あるいは定年退職といった制度を設けなければならなかったのだろうと思います。こうした制度は、名称や形式は異なれど、どの国の文化においても確認できるものであります。親離れ・子離れは、国や文化、人種を超えて、人類に共通の課題だったのだと私は思います。
 しかし、こうした外側の制度がどこまで有効なのかということは私には分からないのでありますが、親離れ・子離れ、世代交代ということは、もっと内面的な、もっと心に関係する領域の事柄なのではないかと私は捉えているのであります。外側の制度を通じて親離れ・子離れを儀式的に遂行したとしても、親離れ・子離れは当事者の内面で達成されていかなければならないものであると私は考えるのであります。

 親子関係の問題のほとんどに、何らかの形であれ、親離れ・子離れの問題が関わっていると見ることは、私には何も極端な考え方ではないと思われるのであります。親子関係においては、いかに結びつくかよりも、いかに離れていくかということの方がはるかに問題が複雑で大きいものであります。今後、親離れ・子離れのテーマに関して、以下のようなことを取り上げたいと思います。
 まず、親離れ・子離れと言いますが、一体、どちらが先にそれを実行するのであるのかという問題があります。親の方が先に離れるのか、子供の方が先に離れるのかという問題であります。
 次に、親離れ・子離れができないという時、それをできなくさせているものは何なのかという問題があります。
 そして、親離れ・子離れがうまくできた場合、つまり成功した場合、その親子関係はどのようなものになっているのかという問題を論じたいと思います。
 最後に、「反抗期」の問題があります。通常は青年期頃に現れることが多いのですが、成人期初期に達成する人も少なくありません。年齢の高低に関わらず、親離れ・子離れにおいて必ず通過しなければならない関門として「反抗期」があるものでして、これは無視して通ることができないのであります。
 こうしたテーマを順次述べていく予定でおります。

(文責:寺戸順司)






<テーマ102> 虐待の粘着性

(102―1)私がお会いする「被虐待者」
 親子関係について考えていく際に、子供への虐待という現象を無視するわけにはいきません。私は暴力が非常に怖いのです。ですから、できれば虐待やDVといった問題を避けたいと思ってしまうのです。でも、クライアントと会っていくためには、どうしてもこれらを避けるわけにはいかないのです(注1)。
 虐待の問題を論じるにあたって、私がお会いするのは過去において、つまりその人の子供時代において、親からの虐待を経験したという人です。今、現在において、虐待を受けているという人とお会いすることは、私の場合、少ないのです。それは虐待を受けている児童と会う機会がないためです。
今、現在において、虐待を受けているというクライアントというのは、私の場合、子供時代から大人になった現在までそれが続いているというような例です。こうした私の仕事上の背景のために、私の虐待に関する考え方には若干の偏りがあるかもしれません。その点はご了解ください。
 本項では、虐待を虐待たらしめている事柄について論じていく予定をしております。

(102―2)虐待の構図
 いじめというものが同族集団内で生じることに比べて、虐待においてははっきりとした上下関係の中で生じるものです。親と子、教師と生徒、上司と部下、先輩と後輩、あるいは施設の職員と施設の利用者といった関係において生じるものであります。
立場的に上位の者が立場的に下位の物を虐待するというのが、基本的な構図です。この中でも、私がよく直面するのは親子間における虐待です。それも大抵は虐待を受けた側の人とお会いすることになります。
 虐待する側の人ともお会いしたことはありますが、そのような人はまず子供を虐待してしまうということで相談に来られるのではありません。別の事柄を訴えて相談に来られるのですが、話が進むうちにその人の虐待が見えてくるという例を私はいくつか経験しております(注2)。虐待してしまう側の人のこともいずれ考察していくつもりでおります。

(102―3)誰が「それ」を「虐待」であると決めるのか
  冒頭に示したように、親子関係を見ていく際に、虐待の問題から目を逸らすわけにはいかないのです。たとえ当人が虐待のことを報告しなくとも、虐待の可能性を考慮にいれてお会いしなければならないというクライアントもおられます。
 この虐待ということですが、それを虐待と見做すかどうかということは、虐待を受ける側が決めることであります。まず、虐待をする側は、自分の行為を虐待とは言わないものです。多くの場合において、その行為は「躾」として報告されるのです。

(102―4)それは本当に「躾」か
「躾」と言えば聞こえがいいのですが、実際に虐待の場面に遭遇すると、それは「躾」などと形容できるものではありません。虐待する側は、一見して分かるのですが、尋常じゃない状態でそれをするのです。その姿を目の前で現実に見たことがある人なら、それを「躾」などという理性的な行為であるとは見做せないものです。
「躾」は、もしそれが本当に「躾」であるとするならば、子供がその行為をする度にそれを指摘して、子供に改めてもらうということだけで済むはずです。つまり、毎回、すぐ終わるものであるはずです。私はそう捉えております。子供がそれをした時に注意するだけで済むはずです。
ところが、虐待と言われるものは、もっと粘着的な性質を持つ行為であります。虐待が虐待である所以はこの粘着性にあると私は理解しております。

(102―5)粘着性
 粘着的というのは、その行為がしつこく続くということです。長時間に渡って、それが行われるということです。
 このしつこさは、虐待する側に起因するものです。虐待される側にとってみれば、その行為は終わりがなく、延々と続くように思われるものです。
 例えば、親子関係において、親が子供を虐待しているとしましょう。きっかけは何であっても構いません。子供が何かをしたとか、あるいは親の虫の居所が悪かったとか、どのような事柄であっても虐待を生じさせるきっかけになるのです。
子供が悪さをしたからとか、言うことを聞かなかったからとか、虐待する側は虐待の正当性を訴えるのですが、そのような理由というのはほとんど重要ではないのです。とにかく、何かをきっかけとして、虐待が始まるのです。
そして、一旦始まった虐待は一時間でも二時間でも、ひどい時には数日、数週間にも渡ってそれが続くのです。この執拗さ、粘着性、これが虐待の一つの特徴であると私は捉えております。
 
(102―6)虐待に接する
 この虐待の粘着性ということを考えることになったきっかけになる出来事がありました。私の実家の近所でこういうことがあったのです。
私は自分の部屋にいて、窓を開けていました。すると、ものすごく逆上した母親の怒鳴り声が聞こえてきたのです。相手が子供であるということは、母親の怒鳴り声の合間に子供の声や泣き声が聞こえることから分かりました。
 その時間に私が自分の部屋にいることは珍しかったので、私はその母親のことを初めて知ったのです。
私は翌日、私の母に尋ねてみました。母によると、それは同じ通りの家の人で、何度もそういう声が聞こえてくると言うのです。私は初めて耳にしたのですが、近所の人はそういう事実を知っているようです。
 さて、その夜のことですが、私はすぐに「これは虐待だな」と察したのです。こういう場合、すぐに警察に通報するべきなのですが、私はこの母子のやり取りをしばらく聴いてみることにしました。そして、どういうタイミングでこの虐待が終了するかを確認してみたくなったのです。
 母親の言葉から察すると、子供が何か危ないことをしてしまったようです。それを母親が叱責しているのです。時間としては30分くらい続いたでしょうか。
しかし、問題はこの時間ではないと思いました。子供が泣いても、謝っても、この母親が鎮まらないのです。
時折、終了したかと思われた瞬間が何度か訪れたのでしたが、蒸し返すのは母親の方でした。母親が蒸し返す度に、子供はこの場面に付き合わされるのです。その間、子供は決して解放されないのです。この辺りに、私は虐待に特有の粘着的な性質を感じたのでした。
 先述のように時間は30分間くらいでした。しかし、この時間をあまりに客観的に捉えすぎるのは間違いの元です。30分間と言っても、大人が体験する時間と子供が体験する時間は異なるものです。子供の方が現実の時間を長く体験するものです(注3)
母親はたったの30分という認識をしていたとしても、子供はそれを何時間もの時間として体験しているものです。ましてや、子供にとって苦しい状況だったわけですから、この子にとっては、この30分は永遠に続く時間のように体験されていたかもしれません(注4)
 この30分の間に、子供は何度も泣き、何度も謝ったのですが、母親は決して許そうとしなかったのです。何のために母親が叱っているのかさえ、母親本人にはもはや関係がなくなっていたのではないかと思われるのです。
ともかく、こういう事態においては、この母親が行き着くところまで行き着くしかないのです。母親が行き着くところまで行き着いてくれない限り、子供は解放されないのです。
この拘束は子供にとっては相当辛い体験だろうと察します。母親の粘着性に子供は付き従わざるしかないのです。だから虐待される側は逃げることもできないで、無力に佇むしかないのです。

(102―7)虐待を経験した一女性の例
 子供時代に虐待を受けたと告白した女性クライアントは、このような体験をはっきりと述べておられます。
虐待するのは彼女の母親でした。この虐待は秘密裡に行われていて、父親や周囲の人には知られずにいたのでした。
 彼女は母親のことを「人間が変わる」と表現されました。第三者がいる時と、彼女と二人だけの時とでは、母親がまったく別人のようになるのだということです。
ある程度年齢を重ねると、母親がそれをする時は、それとなく雰囲気で分かるのだと彼女は言いました。そして、何かのきっかけで、それが始まるのです。このきっかけというのは、先述のように、どんなことであっても構わないのです。
 それが始まると、母親は逆上して怒鳴りつけ、彼女は何も言えなくなるのです。何も言わなかったら言わなかったで叱られ、何か言うように強要されるのです。そして何か言ったら言ったで、母親の攻撃の的にされてしまうのです。そして、そのうち、母親の拳が飛んでくるのです。
彼女は、そうした母親の一貫性のない態度に対して、無力なままに留まるしかありませんでした。黙れと言われれば黙るし、答えろと言われたら答える。拳が飛んできたら、よけることや身を守ることは許されず、そのまま顔面で拳を受け止めるのです。それが一番安全なやり方であると、彼女は知っていたのです。
母親とのこの継続的な関係から彼女が学んだことは、自分は弁解したり身を守ったり、あるいは逃げたりしてはいけないのだということでした。そして、母親に最後まで付き合わなければならないということでした。
むしろ、母親の言いなりになっていた方が、早くそれから解放されるということを彼女は知っていたのです。その際の時間ということは、彼女には関係がありませんでした。毎回、長時間続いていたかもしれないし、5分で終わっていたのかもしれませんが、客観的な時間は彼女には関係がなかったのです。測定可能な時間概念でこの行為を評価しても、何の意味もないのです。
それが長短いずれであれ、その時間は彼女自身として存在してはならないということを彼女が体験しているということに変わりがないのです。
 彼女はその時間を、じっと耐えるのです。母親のこの行為はいつも必ず終わることを彼女は知っているはずですが、それでも終わりを期待して耐えているという感じではなかったと語ります。
つまり、希望もなく、毎回、永遠にそれが続くように体験されていたのではないかと私は察します。そうだとすれば、時間概念というものが、虐待を受けている時の彼女には失われていたということが言えるのかもしれません。
 時間ということに話が逸れましたが、彼女もやはり母親の粘着性のことを語っていました。もちろん、粘着的などという言葉を彼女が用いたわけではありませんが、やはり母親が一つのことをしつこく蒸し返すのです。終わりが見えたかと思うと、母親が再び振り出しに戻るのです。そうして、それがいつ終わるかということは、いつも母親の気分次第だったのです。

(102―8)本項のまとめ
 親子関係の問題の一環として、今後とも「虐待」の問題は取り上げていく予定でおります。それが虐待であるかどうかは、虐待を受ける側が評価することであり、また、虐待に特有と思われる特徴は、行為の種類や時間の長短にあるのではなく、虐待する側の粘着性にあるということを述べました。そして、この粘着的ということがどういう現象のことを指しているのかということを述べてきました。なぜ、虐待する側にそのような粘着性が見られるのかということも今後考えていきたいと思います。

(102―9)注と補足
(注1)目の前に虐待を経験した人がいて、自分が受けた虐待を話しているとします。私はそれを聴き入っています。その人が打撃を受けた箇所に、私も痛みを感じることがあります。もちろん、その痛みというのは現実のものではないということは自覚しているのですが、聴いていて、「痛い」という体験を私はすることがあります。私が避けようとしてしまうのは、私に感じられているこの「痛み」なのです。「虐待問題」そのもの、あるいは虐待に関係している人たちそのものを避けているという意味ではありません。

(注2)例えば夫婦関係のことで相談に来られた女性がいました。話題の大半は彼女の夫のことです。しかし、子供が関係するエピソードにおいて、虐待を思わせるような節が感じられるのです。ただ、彼女は子供のことをはっきりとは話しませんでした。恐らく虐待の問題を孕んでいたのだろうとは思うのですが、この例では確証がないのです。しかし、後になって、そういうエピソードが面接の中で現れてくるということもあります。虐待する側の人とお会いする時というのは、このような場合です。

(注3)子供の方が大人よりも時間を長いものとして経験するということに関して、私たちは加齢とともに時間の過ぎるのが速く感じられるということを経験的に知っています。小学校一年生の時の夏休みは、私には永遠に続くほど長いものでした。その後、学年が上がるにつれて、同じ日数の夏休みがだんだん短く感じられていったのを覚えております。この現象が生じるのは、子供の方が脳の活動が活発だからであると読んだことがあります。同じ五分間であっても、子供の方がよりたくさんの情報を吸収、処理しているために、時間を長く感じるということです。要は、大人の五分と子供の五分とでは、質的にも、その体験としても、まったく異なるということです。

(注4)大人であっても、愉しいことをしている時間と苦痛なことをしている時間とでは、その感じられる時間の長さが異なります。あなたもそういう体験をされたことがあるかと思います。母親から叱られるということは、子供にとっては楽しい体験ではないはずです。そういう点から見ても、子供がその場をいかに永遠的なものとして体験しているかということが予測できるのです。

(文責:寺戸順司)






以下、制作中